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【士族反乱】西南戦争をしかけたのは大久保利通だった!?

 

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【士族反乱西南戦争をしかけたのは大久保利通だった!?」というお話です。

 西南戦争といえば、西郷隆盛が不平士族達を率いて出兵した政府に対する反乱ですが、実はこれ、大久保が仕向けた罠だったのです。今回もストーリーを展開しながらその経緯について解説していきます。

武士階級の解体政策を推し進める大久保利通は、1873年、内務卿に就任することで独裁体制を築きあげます。一方の西郷隆盛は郷土・鹿児島で士族達を中心とした独自の政治を行います。中央集権国家を目指す大久保は、地方分権政治を行う西郷を強く警戒します。

 

  幕末の革命によって徳川将軍家から新たに明治政府が誕生しました。しかし、明治政府は目標である近代国家樹立のために多くの課題を抱えていました。武士階級の解体もその1つです。

  1869(明治2)年、明治政府は版籍奉還を行います。それに伴い、「武士」という身分がなくなり、新たに「士族」という身分が与えられました。江戸時代の武士達は先祖代々、各藩の藩主(殿様)から「家禄」と呼ばれる給料をもらって生活をしており、明治維新後に新たに士族となった彼らは、明治政府から家禄を貰うようになりました。

  1870(明治3)年には、江戸時代の身分制度が撤廃され、四民平等が基本方針になります。江戸時代は士農工商という4つの階級があり、武士はそのトップに君臨する尊い存在でした。しかし、身分制度が撤廃されたことで平民(農民、職人、商人)も名字を名乗って良いとされ、士族と平民による尊卑は完全になくなりました。

 

 さらに1873年、徴兵制度が布告されます。これによって士族に限らず、全ての日本人を兵士として徴収することが出来るようになりました。こうして武士達は本業であるはずの戦いまでも奪われ、そのプライドを大きく傷つけられることとなります。

 

 同年、明治政府内でも対立が起こります。開国を拒否する朝鮮を、武力をもって強引に開国させようとする征韓論が湧きおこります。これを主張したのは西郷隆盛を始め板垣退助後藤象二郎江藤新平などです。彼らは征韓論派として、大久保を中心とした内治優先派と対立します。大久保は右大臣・岩倉具視と画策し、西郷の朝鮮出兵を中止させます。

 これに不満をもった西郷ら征韓論派は一斉に政府を辞職してしまいます。(明治6年の政変)

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 征韓論に勝利した大久保利通は、1873年、内務卿に就任します。内務卿とは新しく新設された内務省の最高責任者のことです。この内務省は様々な部局を擁しており、現代でいう総務省国土交通省環境省の権限を総括する巨大組織であり、「官庁の中の官庁」とよばれるほどでした。

 さらに、内務省は警察機構も直轄しており、反政府運動に対して事前に弾圧することも出来ます。

 つまり、大久保は西郷との関係を犠牲にすることで、明治政府の独裁的権限を持つ地位に就いたのです。

 

 一方、征韓論に敗北した西郷は、鹿児島に帰郷しました。鹿児島に戻った西郷は愛犬を連れ、豚やイノシシ狩りをしたり、温泉に入ったりとのんびりした生活をするようになります。

 ところが、政府に従事していた鹿児島の士族達も一斉に政府や軍を辞職。西郷を慕って、鹿児島に詰めかけました。

  西郷は、「私学校」という教育機関を設立し、彼らに西洋の砲術や漢学の素読など文武両道の教育を行いました。鹿児島県令の大山綱良(おおやま つなよし)は西郷の熱心ぶりに感銘。私学校の運営費に県日を投じ、生徒の多くを県の職人に任命した。

 建前は、鹿児島という地を列強の支配から守るためです。鹿児島は日本最南端の県であり、外国が最初に襲撃するのは鹿児島だと考えられていました。しかし、本音は武士階級の解体で職を失った士族達への再就職先でした。その証拠に私学校に入塾出来るのは士族のみでした。

  次第に、鹿児島国は政府のいうことを聞かない独立国となり、中央集権化を推し進める大久保は彼らを強く警戒しました。

政府の武士解体政策に不満を強めた士族達は各地で反乱を起こします。大久保は時代に取り残された士族は近代国家樹立の妨げになると判断。鹿児島の士族達を挑発することで、西南戦争勃発を仕向けたのです。

 

  そんな中、政府の武士解体政策に不満を持った士族達が隆起します。1874年に勃発した佐賀の乱です。首謀者は西郷とともに政府を辞職した江藤新平でした。この戦いは政府軍の勝利に終わり、首謀者の江藤は死刑となりました。ちなみに、この政府軍は徴兵制によって集められた農民兵であり、たくさんの兵士を投下することで、戦いを専門とする士族達を圧倒したのです。

 

 一方、大久保はさらに武士階級の解体を始めます。

 1875(明治8)年、政府は秩禄処分を布告。それまで士族階級に支給していた「家禄」を廃止しました。殖産興業を国策として推し進める政府にとって40万戸にもおよぶ士族に生活費を与え続けることは重荷であり、毎年の歳出の4割をしめていたのです。政府は財政安定を図ろうとしたのです。

 

 さらに1876年、刀を差して外を歩くのは文明国にふさわしくないとして、廃刀令が出されます。以降、刀を差しての外出が禁止され、違反者は刀を没収されることが通達されました。武士の誇りであり、庶民との違いを表す象徴であった刀も失ってしまったのです。

 

 これに不満を募らせた士族は不平士族として西日本各地で反乱を起こします。

 1876年に神風連の乱萩の乱秋月の乱が相次いで勃発しました。いずれも政府軍によって鎮圧されます。近代化政策に異議申し立てをする奴は全て消し去る。大久保の非情な決断です。

  こうして武力では政府に勝てないことが分かった士族達に残された選択は2つです。政府に服従するか、それとも名誉の死を遂げるか・・・・。

 

 各地の士族達の反乱を鎮圧したことで自信をつけた大久保はこの勢いのまま鹿児島の西郷とその一派を制圧することを画策します。

「時代に取り残された愚かなサムライどもめ。お前達の悪あがきにこれ以上付き合うわけにかない。もう終わりにしてやる。蹴りをつけるときだ。」

 武士出身であるはずの大久保自身が、その士族たちを卑劣なやり方で倒すという皮肉な事態を招いてしまったのです。 

 大久保は鹿児島内に20名ほどの密偵を放ちます。密偵はたちまち私学校の幹部に捕縛されます。密偵には激しい拷問を加えられ、潜入目的が西郷の暗殺であったことを自白させました。

 後日、怒った幹部達は、政府が鹿児島に貯蔵していた武器や弾薬を大阪に運ぼうとしていたところを襲撃。彼らから武器や弾薬を奪い取ってしまいました。

 これは明らかな政府に対する反逆行為です。 

 これを知った西郷は思わず叫びます。

「しまった!!!」

そして幹部達を叱責します。

「なぜ弾薬など奪ったのだ。弾薬に何の用があったのだ。密偵など政府の挑発に過ぎない。何てことをしてくれた。」

 私学校の幹部達は大久保の挑発にまんまとハマってしまったのです。

 

まもなく、政府は鹿児島征討のため軍隊を派遣します。

 

「降伏するか、戦うか・・・。」

 私学校の幹部達は満場一致で、戦うことを決意します。もう一度、薩摩の力で明治維新を起こそうではないかということです。

 そして西郷に戦いの旗頭となってもらうよう願いでます。

西郷は決断し、こう言いました。

おいの身体は諸君に預ける。存分にするがよい

と挙兵の決意を固めます。同時にこう言います。

「戦いの指揮は諸君に任せた。おらはただ見守ることしか出来ない。」

 こうして西郷は不平士族の棟梁(とうりょう)として決起せざるを得ない状況になってしまいました。

 西郷軍は「東京の政府に尋問の筋あり」という大義名分のもと、1万3000名の士卒とともに鹿児島を出陣。1877年の西南戦争の始まりです。

 兵士の一人がこう叫びました。

「薩摩の名君・島津斉彬公の悲願であった出兵上洛が遂に実現した!」と。

しかし、西郷はこれを懐疑的な目で見ます。

「勝算はない。我々はこのまま消される。」

島津斉彬・・・幕末に活躍した薩摩藩(鹿児島)の元藩主。西郷や大久保などの優れた人材を登用し、薩摩藩の藩政改革に尽力した。名君中の名君とよばれている。)

 

 鹿児島軍と政府軍は熊本城北方の田原坂(たばるざか)で激突します。

 半月近くに渡って壮絶な陣地戦が繰り広げられました。政府軍は次々に兵隊を投下してきます。田原坂の戦いに敗れた西郷軍の敗北は確定的となりました。

「もう、ここらで良かろう。」

  そう言って西郷は自刃しました。

 日本史上最後の内戦と呼ばれる西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じました。

 

 以降、士族の反乱はなくなり、日本は今後、政府主導のもと、近代国家への道を歩んでいきます。西郷と大久保。2人は同じ鹿児島出身の盟友として命をかけて徳川幕府と戦いました。

 しかし、明治維新後、よりよい近代国家を創るために理想を追い求めた西郷。一方、現実的で地に足のついた政策を行う大久保。

 政府を辞任し、時代にとり残された士族達の誇りを守ろうと鹿児島で独自の政治を行った西郷。一方、中央集権国家を創るために武士であることを捨て、あらゆる制度改革を断行した大久保。

 理想主義者と現実主義者。地方分権と中央集権。両者の意見や方向性は全く異なるものだったのです。

 

 西南戦争西郷隆盛が敗れたことで政府には武力で倒すのは不可能だと悟ります。したがって国民は言論活動によって政府を打倒することに徹します。自由民権運動の復活です。自由民権運動は全国的に広がりを見せ、日本中がその熱気に湧くのでした・・・。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

早わかり幕末維新                外川淳=著  日本実業出版社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著  祥伝社