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【宗教改革】なぜイギリス国教会が成立したのか

  こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【宗教改革】なぜイギリス国教会が成立したのか」というお話です。

 

 ヨーロッパで起きた宗教改革によってカトリック(旧教)から独立し、プロテスタント(新教)が誕生しました。

 ドイツではルター派が、スイスやフランスではカルヴァン派プロテスタントとして誕生。そしてイギリスでもカトリックから独立し、イギリス国教会プロテスタントとして成立しました。

 ということで、今回の舞台はイギリスです。なぜイギリス国教会が誕生したのかをご紹介しながら時代のストーリーを展開していきたいと思います。

 

 よく勘違いされていることですが、現在のイギリスはイングランドウェールズスコットランド北アイルランドの連合国です。日本の「世界史」ではほぼイングランドについて語られているため、以下イングランド国教会と呼ぶことにします。

 

イングランド国王のヘンリ8世は自らの離婚を理由にカトリックと絶縁します。カトリックは離婚を禁止していたのです。国王は代わりに自らを頂点としてイングランド国教会を創立。しかし、これがやがて血なまぐさい王位継承と宗教弾圧を引き起こすのでした。

 

  キリスト教イングランドに渡来したのは、6世紀末にローマ教皇・グレゴリウス一世が、アウグスティヌスと約40人の修道士を宣教師としてイングランドに派遣した時です。

 その後、キリスト教の布教活動は広がり、13世紀にはイングランド全域にカトリックが定着します。

  日本でも6世紀に中国から仏教が伝来しきます。13世紀はちょうど鎌倉時代ですが、浄土宗や浄土真宗日蓮宗など鎌倉新仏教が誕生した時代です。

 

 同じ時代に、西の島国と東の島国が大陸から思想を受け入れているのです。偶然といえばそれまでですが、非常に興味深い事実だと思いませんか。しかし、相違点としてはイングランドローマ教皇を頂点とするカトリックの支配を何世紀にも渡って受け続けたのに対し、日本は受け入れた仏教を日本風に昇華しているのです。日本人は今も昔もアレンジが得意な民族なのです。

 

 さぁ、そんなカトリックの支配を受けてきたイングランドカトリックと絶縁する時がやってきました。

 

 時代はバラ戦争終結後、王位に就いたヘンリ7世の息子であるヘンリ8世の時代。新たにイングランド国王となったヘンリ8世(以下、国王)はもともと熱心なカトリックでした。しかし、カトリックと距離を置くようになります。一体何があったのでしょうか。

 

 国王は最初に結婚したアラゴン王女カトリーヌとの間にメアリを生ませます。

 世襲制が主流の当時、男児を産まなければ後継ぎにはなりえないので、ヘンリ8世は離婚し、新たな女性と結婚し、男児を産ませようとします。しかし、カトリックでは離婚は禁止されています。

 国王は離婚を禁じられているという理由でカトリックと絶縁し、ローマとのキリスト教上の縁を断ちます。そして1534年、カトリックの代わりにイングランド国教会を設立しました。

  西洋では一夫多妻制は認められていないため、別の女性に子を産ませるには一旦離婚しなければならないのです。国王が王位を確実に伝承するためには男児の出産は立派な公務になるのです。

 カトリーヌと離婚した国王は別の女性と結婚し、エリザベスを産ませます。さらに別の女性と結婚し、ようやくエドワード王子を産ませました。国王は在位中、結局6回結婚しています。

 

 カトリックと絶縁した目的には離婚問題だけでなく、カトリック修道院が所有していた多くの土地・建造物・財産の没収もありました。

 国王は800を超える修道院とその関連施設を破壊・没収・売却したことで莫大な富を得ることに成功しました。

 しかし、このカトリックとの断絶が後の血ぬられた王位継承と宗教弾圧を招く結果となるのでした・・・

 

 国王の死後、王位を継承したエドワードは若死にしてしまいます。エドワードの側近にはプロテスタントが多く、その後継ぎはエドワードとは無関係のプロテスタントのジェーン・グレイを女王に据えました。ジェーンを女王に据えることでイングランドを一気にプロテスタントの勢力に固めてしまおうという魂胆です。

 

 これを許さなかったのが、ヘンリ8世の最初の娘であるメアリです。彼女はカトリックの後押しを受け、軍隊を編成し、ジェーンから女王の地位を奪ってしまいます。そしてメアリ1世として即位しました。

 メアリはジェーンにカトリックに改宗すれば死罪にしないと伝えるも、ジェーンはこれを拒否し、斬首刑に甘受するのでした。ジェーンの女王在位期間はわずか9日間で、イギリスでは現在でも「9日間の女王」と呼ばれています。

 ジェーンは王位継承争いとカトリックプロテスタントの対立が絡む歴史の犠牲者となってしまったのです。

 

 「ブラディー・メアリー」という真っ赤なカクテルをご存じでしょうか。トマトジュースと蒸留酒ウォッカをベースにハーブや香辛料を加えた冷たい飲み物です。

 このカクテルの名前を日本語訳すると「血ぬられたメアリー」になります。これはカクテルの色が血を連想させるためですが、メアリは多くの新教徒を虐殺したため、このようなあだ名がついてしまいました。カクテル名前はそこからきています。

 

 熱心なカトリック教徒であったメアリはプロテスタントを徹底的に弾圧します。女王は5年間の在位期間で300人前後のプロテスタントを火刑ししました。

宗教弾圧はプロテスタント側からも起こります。数百人規模のカトリック信者が処刑されています。

 メアリは父親が創設したイギリス国教会をすべてカトリックに戻しました。さらに当時「太陽の沈まぬ帝国」として黄金時代を迎えていたカトリック教国であるスペインの国王とも結婚しました。

 

 火刑による残虐な弾圧とカトリック教国との縁組により、国民からの支持率は最低ランクに落ちたばかりでなく、「ブラディー・メアリー」というあだ名までつけられてしまいました。メアリーは子供を産まなかったため、ヘンリー8世の遺言にしたがい、メアリーの異母妹のエリザベスが王位を継承します。

 

  こうして1558年、女王に即位したエリザベスは再度、イングランド国教会を確立させ、イングランドの黄金時代を築くのでした。

 

新教が台頭したことで信者が激減したカトリックは対抗宗教改革で直しをに乗り出します。

カトリック教国のスペインとポルトガルは「信者増強組織」としてイエズス会を創立。イエズス会は創設者のイグナティウス=ロヨラを中心に信者獲得を目的に海外に出向いていくのでした。1549年に鹿児島にやってきたカニおじさん・・・じゃなくてフランシスコ=ザビエルもイエズス会のお偉いさんで、信長の時代に布教活動をしたルイス=フロイスもその一人です。日本では彼らを南蛮人と呼び、その貿易も南蛮貿易と呼んでいます。

 

ポルトガルとスペインに遅れるカタチでプロテスタントイングランドとオランダが日本にやってきます。しかし、彼らには布教目的はなく、専ら商業目的でした。

のちに秀吉から家康の時代になった時、キリスト教は禁止とされますが、イングランドとオランダは商業目的ということで残され、スペインとポルトガルは追放されます。イングランドはその後も貿易を続けるも、オランダとの販売競争に負け、利益が見込めなくなったため日本から撤退。最終的にオランダが西洋唯一の窓口として日本と貿易をするようになったのでした。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。