日本史はストーリーで覚える!

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【江戸時代】鎖国の完成!【徳川家光】

 こんにちは。本宮 貴大(もとみや たかひろ)です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【江戸時代】鎖国の完成!【徳川家光】」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 

 まず、過去ブログ「歴史は周期の法則で動いている」で日本史の各時代の特徴やイメージ、文化に着目すると「男時」「女時」に分類出来、両者は周期的に繰り返していることを述べました。

  歴史は覚えることが多くて、つまらないという人も多いでしょう。そこでこのような周期性や規則性で覚えると俄然面白くなると思います。

 (過去ブログ「歴史は周期の法則で動いている」は「歴史はストーリーで覚える!」のカテゴリーからどうぞ。)

 本題の前にまず男時と女時のイメージをつかんで欲しいと思います。(下表)

女時のイメージ 男時のイメージ
異文化を日本風へ昇華 異文化を取り入れる
華やか 質実剛健
安定の時代 変化の時代
統一 混乱
技術の成熟 技術革新
内部に閉ざしている 外部に開いている
平和、安全 戦い、リスク

 

 現在、「江戸時代編」を実施していますが、前回の「安土・桃山時代」「男時」のに対し、「江戸時代」「女時」になります。女時としての江戸時代の典型的な政策が今回のテーマである鎖国になるのです。日本は鎖国をすることで、戦いのない平和な時代と日本独自の文化を発展させていったのです。

それでは本題に入ります。

江戸時代は士農工商などの生まれながらの完全な身分制度が確立されます。江戸幕府にとって厄介なのは「自由と平等」を謳うキリスト教の存在。布教目的のヨーロッパ諸国とは国交を断絶します。これによって江戸時代の代表的な政策の1つ、鎖国が完成するのです。

 

 

 大航海時代、ヨーロッパから見て東側の大陸はポルトガル、西側の新大陸はスペインが植民地としていました。したがって、日本が貿易をした国はヨーロッパではポルトガルが最初になります。スペインも遅れて来航して来ました。一方で、アジアでは中国及び朝鮮との貿易をしていました。

 秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦い直後、豊後(大分)にオランダ船が漂着します。徳川家康は乗組員であったオランダ人のヤン=ヨーステンとイギリス人のウィリアム=アダムスの近代的な博識ぶりを大変気に入り、自分の側近にします。これをきっかけにオランダとイギリスも貿易に参入します。1609年にオランダ、1613年にイギリスがそれぞれ平戸商館を開きます。

 家康はキリスト教を警戒していても、黙認している状態でした。盤石な江戸幕府を創るためには海外との貿易で儲け、自分が日本の君主であることを世界に知らしめることが必要だったのです。したがって、民間商人達に朱印状を使った朱印船貿易を認め、東南アジアと積極的に貿易を始めます。海外にはフィリピンの呂宋(るそん)、ベトナムの安南(あんなん)、カンボジアなど日本人が住み着き、日本町が出来たほどです。当時の東南アジアはポルトガルとスペインの植民地として貿易の拠点となっていたのです。

 しかし、海外との貿易は良いことばかりではありません。幕府にとって厄介な存在だったのが、貿易船と共にやってくるイエズス会の宣教師によるキリスト教の布教活動です。

 この頃、西洋では宗教改革が起きている時代であり、プロテスタント(新教)としてルター派カルヴァン派が台頭していました。その結果、カトリック(旧教)からプロテスタントへと信者が次々に流入してしまい、カトリックの信者は激減してしまいました。

 

 カトリックは信者を求めて海外へと進出を決めます。そこで、海外での布教活動を専門に行うプロジェクトチームとしてイエズス会を設立します。イエズス会の宣教師で代表的な人は戦国時代ではフランシスコ=ザビエル織田信長豊臣秀吉が活躍した安土・桃山時代ではルイス=フロイスが挙げられます。

 

 そもそも、なぜ江戸幕府キリスト教の布教を嫌ったのでしょか。

 江戸時代の身分制度を見てみましょう。江戸時代は「士農工商」と呼ばれる身分制度が確立されており、その下にはえた・ひにんとよばれる言われなき身分を課せられた人もいました。そう、幕府は将軍をトップとした完全なピラミッド式の身分制度を作りたかったのです。

 江戸幕府は完全な支配体制を構築するために中国の儒学の一派、朱子学の奨励を開始します。朱子学には「上下定文の理」という考えがあります。

 「上下定分の理」とは、「人は生まれながらに不平等であり、職業選択において自由はない。上下関係を大事にし、自分の身分相応の行いをしなさい。武士として生まれたのであれば、一生涯、武士として、農民の子は農民として、工業技術者の子は工業技術者として、商人の子は商人として生きなさい。」という事です。

 朱子学とは、家康が重視した学問であり、江戸時代の全盛期の民衆は、この朱子学を学ぶようになります。この名残は現在の日本人にもしっかりと受け継がれています。それが朱子学などで重視されている「年上が偉く、年下は偉くない」という年功序列です。日本人は無宗教ではなく、多くは儒教徒になるのです。

 

 ところが、キリスト教はこれと全く逆の思想で、「人間は神の前では皆、自由で平等である」という教えが基本理念です。

 幕府にとってこのキリスト教は何としても排除しなければならないかなり厄介な思想になります。したがって、幕府最大の目的はキリスト教の自由と平等を愛する精神を排除し、朱子学の「上下定分の理」を全国に植え付ける。ことです

 

 その上でイギリス、オランダ、スペイン、ポルトガルのヨーロッパ諸国の中でどの国が一番危険でしょうか。

 イギリスやオランダはプロテスタントなので、来航は専ら商業目的です。信者獲得をそれほど重視していませんし、彼らも国の発展のために必死です。イギリスとオランダはキリスト教を広めないことを条件に貿易の継続を要請し、日本もそれを許可します。

 一方でスペインやポルトガルではカトリックが根強く、信者獲得に必死です。

したがって、排除すべきは、カトリックで布教活動に躍起になっているポルトガルとスペインであること。さぁ幕府はいかにしてこのポルトガル船とスペイン船を追放するのでしょうか。

 

 1616年にヨーロッパ船の来航は全て長崎と平戸に限定されます。

 

 1623年にイギリスは平戸商館を閉鎖し、撤退していきます。理由はイギリス製品が日本国内で不人気だったことです。つまりイギリスは鎖国が理由で撤退したのではなく、オランダとの市場競争に敗れたために撤退したのです。

 同年、徳川家光江戸幕府3代将軍として就任後、幕府はいよいよ段階的に鎖国政策に乗り出します。

 

 1624年、日本はスペインとの国交を断絶。スペイン船の来航は完全禁止となり、国内のスペイン人も撤退します。

 

 1631年から奉書船制度が開始されます。海外渡航には朱印状の他に、老中が発行する奉書を持つ船だけが海外渡航を許されます。日本の貿易船の海外渡航が徐々に制限されていきます。

 1633年、第一次鎖国令が発令されます。日本から海外へ渡航する船は全て奉書船のみに限られました。こうして日本から海外へ渡航する船はごく少数になります。日本から出ていくことは幕府から許可されたごく一部の人達だけとなります。また、在外日本人の帰国制限も限られます。5年以上海外に滞在していいた日本人は帰国を禁止されたのです。

 1634年、第2次鎖国令が出されます。第1次鎖国令の再通達が起こります。ここであの「長崎の出島」が建設されます。

 1635年、第3次鎖国令が出されます。全ての日本船は海外渡航を禁止されます。さらに外国にいた全ての日本人の渡航が禁止されます。中国・オランダ・ポルトガルの海外からの入港は長崎の出島だけに限定されます。

 1636年、第4次鎖国令が出されます。国内にいた宣教師を含めた貿易に関係のないポルトガル人全てを国外へ追放。貿易関連のポルトガル人を含めたその他の外国人は全て出島に移住するよう命じられます。

 

これだけの政策をやれば、キリスト教対策は十分だと幕府は思ったことでしょう。そんな中、大きな一揆が起こります。

 それが、1637年に天草(熊本県)のキリシタンによる島原・天草一揆が起こります。 この一揆は一般的にキリシタンの弾圧に反発してキリシタンである農民が立ちあがった一揆だと認識されています。しかし、実際は島原長崎県島原市)の農民が領主の重税と相次ぐ凶作が重なって、餓えに苦しんでおり、それに耐えかねた農民や浪人が立ちあがった一揆だったのです。

 島原が放置された原因はキリシタンが多い地域だったために、「どうせキリシタンだから」が免罪符になってしまい、「キリシタンは非国民だから」と放置が勝手に正当化されてしまったのです。

 指導者である天草史郎率いる一揆軍は原城という古城に立て籠もります。

 激しい攻防の末、幕府軍勝利によって一揆は鎮圧されました。この一揆を鎮圧するのに4~5カ月くらいを要し、人的被害も多大なものでした。この出来事に幕府は衝撃を受け、キリスト教の根絶は必須だと認めます。

 1638年、幕府は第5次鎖国令を出します。ポルトガル船の来航を完全に禁止し、日本はポルトガルとの国交を断絶しました。こうして江戸時代の最も代表的な政策である鎖国が完成しました。

 

 結果的に日本は中国とオランダとのみ貿易をすることにしました。

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮 貴大でした。それではまた。