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【江戸時代】厳しい3代将軍から、優しい4代将軍へ 【徳川家綱】

 こんにちは。本宮 貴大(もとみや たかひろ)です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【江戸時代】厳しい3代将軍から優しい4代将軍へ【徳川家綱】」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

厳しい政策を行った徳川家光までの武断政治の甲斐あって大名達は反乱を慎むようになります。やがて平和な時代が訪れます。これに伴って、武力だけの政治運営ではなく、話し合いや規制を緩めるような文治政治に転換します。

 徳川家康は一代で栄華を終えた秀吉と、その朝鮮出兵の失敗によって「成長体質」は「悪」であり、今後何代にもわたって維持される「安定体質」が必要だと学びました。そこで、向上心のある大名に対し、

「成長したいと思わないこと。」

「向上心を持たないこと。」

「武士は成功して一旗上げようなんて考えないこと。」

 

 ということを全国に示す必要があります。そのための徳川家は非常に残酷な政策に乗り出します。

 家康は大御所に就いた後、2代将軍・秀忠に‘なんと‘関ヶ原の戦いで家康側に付いた大名家を領土没収(改易)によって、すべて取り壊すよう命じます。

 当時、取り壊された家で有名な人では福島正則が挙げられます。彼は関ヶ原の合戦において、東軍側に大きな戦果をもたらしたにも関わらず、領土を没収され(改易)、家を根絶されてしまいます。まさに出世欲や向上心の完全否定です。

 

 さらに家光の時には武家諸法度に反した大名崩しが頻繁にとり行われます。強権政治によって全国の諸大名を徹底統制したのです。

 家光までのこのような徹底した教えの甲斐あり、全国の諸大名は行動や発言を慎むようになりました。つまり、反乱がなくなり、世の中に平和が訪れたということです。

 

 しかし、改易の対象となったのは、違反者だけでなく、後継ぎがいなくなった場合も適用されていました。(末子養子の禁止)これが全国的に幕府に対する不満を呼ぶことになるのです。

 法律違反で改易(没収)されるのは大名の自業自得ですから仕方ないにしても、問題は領主が後継ぎを残さないまま事故や急病で亡くなり、後継ぎがいなくなった場合です。その場合も、幕府は「後継ぎがいないから」という理由でその領土を改易(没収)し、その家は崩されてしまったのです。

 当時は事故や病死、暗殺などによって、突然領主が亡くなるということは珍しくありません。その場合、早急に養子縁組を行い、家の存続を図る必要があります。これを末子養子と言いますが、幕府はそれを認めていなかったのです。

 

 末子養子が禁止されていたがために、取り崩された大名は江戸幕府が開かれた1603年から、家光死後の1651年の約50年間の間で58家に上ります。

これは処罰によって没収した石高の48%にも及びました。つまり、違反者だけでなく、突然の不幸を味わった家も次々に取り壊されていったのです。

 

 領主を失ったその地域の家臣以下、武士達は仕事を失い、浪人かぶき者となってしまいました。現代で言う失業者のことです。理不尽な理由で職を奪われた武士達が幕府に対して不満を持ち始めます。これが家光の時代までに全国的に溢れ、幕府に対する反感はどんどん強まっていきます。

 

 1651年の家光の死後、チャンスとばかりに幕府に不満を抱いていた浪人達が立ちあがります。これが由比正雪の乱です。

 しかし、この反乱は密告者によって未然に発覚し、正雪は駿府の宿で町奉行に取り囲まれ、自害します。

 

 これがきっかけとなり、幕府内では「とにかく権力を振りかざして諸大名を抑えつけるような政治が必ずしも正しいわけではない」と学びます。

 

 こうして幕府の政治体制は、これまでの独裁的で大名を震え上がらせるような武断政治を捨て、大老や老中達が話し合いによって物事を決める文治政治へと転換していきます。つまり、「大名達にあまり無茶な要求や無理難題を押し付けないように。もう少し規制を緩めても良いのではないか」という声が幕府内に出てきたのです。

 

 と言う事で、ようやく今回の主人公を紹介します

こわ~い将軍である家光の後を継いだのは、やさし~い将軍である家綱です。

 

「だれだそれ?」なんて言ってはいけません。

彼もまた徳川歴代将軍の一人、江戸幕府4代将軍の徳川家綱です。

 家光の長男である家綱は1651年、わずか11歳で将軍職に就きました。しかし、さすがに11歳では政治運営は難しいです。

 これまで秀忠が就任したての頃は家康が大御所として、家光が就任したての頃は秀忠が大御所として新将軍を補佐するカタチで政治運営をしてきましたが、家光が48歳の若さで亡くなってしまったために家綱には大御所として頼れる人がいなかったのです。この幼い家綱を補佐したのは家光の側近であり、老中として仕えていた保科正之です。したがって、将軍よりも側近の方が有名だったりします。

 家綱はまず、末子養子の禁止令を緩和します。これによって、後継ぎのいない領主の死によって本来改易されるはずだった家は養子縁組によって存続出来、家臣達は浪人にならずに済んだのです。

 また殉死の禁止令も出しています。

  戦国時代から武士は君主が亡くなった後、それに後追いするかのように死んでいく殉死という風習があり、武士としての伝統で名誉ある行為でした。現に家光が死んだ後も5人もの殉死者が出ています。

家が多数崩されたことで、仕える領主を失い、生きがいや今後の人生に絶望を感じ、殉死する人が多くなりました。現代でいう自分の勤めている会社がある日突然倒産し、明日から生活が出来ないと感じ、自殺するような感覚に近いと思います。

 

家綱は子供ながらそのシーンを目の当たりにし、「こんな伝統は間違えている。」、「死に急ぐ必要はない。」と殉死をやめるようにする制度を設けます。

 

 1655年には名証人制度も廃止されます。大名証人制度とは、幕府が大名や重臣達の妻子などを人質として江戸に住まわせるようにした制度ですが、幕府に対する反逆や、各地での大名同士の争いも無くなり、人質を獲る必要がなくなったため、廃止されました。そのくらい戦いのない平和な時代になったのです。

 また、当時、年金制度はなく、庶民は高齢になると頼れるのは子供だけでした。しかし、この時の幕府は高齢者に生活費を配るというシステムを導入しています。

 さらに、1657年に明暦の大火が起きていますが、幕府は被災者に対し救済金も出しています。 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 これらの政策には「多くの人達を救いたい。」、「みんなで幸せになろうよ」というメッセージが込められているのではないでしょうか。。権力ばかり強めるのではなく、大名や民衆をもっと大事にしようとする政治だったのでしょう。このような印象があることこそ、文治政治と呼ばれている要因だと推測します。

 

 1680年、家綱は40歳で死没しますが、子供は1人もいませんでした。このとき、後継者をめぐって、幕府内では驚くべき意見が出ています。

 なんと、皇族を将軍に迎えてはどうかという意見です。この意見が出てきた背景には、官僚組織としての江戸幕府の体制が完全に整い、将軍は幕府の象徴のような存在となり、何も徳川宗家の人間である必要性がなくなったことが挙げられます。

 幼い頃に将軍になり、病弱でまともな政治運営が出来なかった家綱を奉じて30年近くものあいだ、保科正之をはじめ有能な幕臣達による政治運営を成し得た自信がこのような意見を生んだのでしょう。

 

 しかし、結局、5代将軍には家綱の弟である綱吉が就任することになるのでした。彼は家綱のような幕臣に政治を任せるようなことはせず、独裁的な政治体制を強いたのでした・・・・・・。

以上。

最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮 貴大でした。それではまた。

 

参考資料 

教科書よりやさしい日本史 旺文社 石川昌康 著

日本史 100人の履歴書 宝島社 矢部健太郎 監修

面白いほどよくわかる 江戸時代 日本文芸社 山本博文 監修

組織の盛衰 組織の盛衰 堺屋太一 著

http://www.受験日本史.com/category3/entry35.html