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【江戸時代】徳川将軍家に仕える国家公務員の皆さん【徳川家光】

 こんにちは。本宮 貴大(もとみや たかひろ)です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【江戸時代】徳川将軍家に仕える国家公務員の皆さん【徳川家光】」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

江戸幕府が目指したのは全国の諸大名や江戸府内などの徹底した管理体制。今回はそんな徳川将軍家に仕える‘国家公務員‘の皆さんの仕事内容についてご紹介したいと思います。

 歴史は基本的に「破壊」→「創造」→「維持」→「衰退」のサイクルが繰り返されています。「破壊」があれば、新たな「創造」が必ず起こります。

  1603年に開かれた江戸幕府は初代将軍・家康から2代将軍・秀忠を経て、3代将軍・徳川家光の時に政治体制や組織体制は完全に整いました。家康の行った豊臣家の滅亡を「破壊の時代」とするなら、家光の江戸幕府完成は「創造の時代」と言えるでしょう。

 そこで、今回は江戸幕府の政治体制と組織体制について見ていきたいと思います。当時の幕府内にはどのような職業があったのでしょうか。

 この人達の役割は様々ですが、一番の目的は幕府に逆らう者が出ないように全国を徹底的に監視することです。

 

 江戸幕府は2代将軍・徳川秀忠の時代までは、まだまだ軍事的要素の強い組織体制で将軍の意志がストレートに現場に届くくらいの中小組織でした。

 しかし、家光の時、江戸幕府の政治体制は完全にシステム化され、将軍様の仕事は極論すると上がってきた稟議書にハンコを押すだけで良いような巨大組織にまで成長します。

 幕府はまず、全国の諸大名には1万石以上の領地を与えられました。その大名は3つに区分されます。徳川一門を親藩、戦国時代から長く家康に仕えた大名を譜代大名関ヶ原の戦いによって徳川氏に屈服した大名を外様大名としました。この区別により、

 そして将軍直属の武力として旗本と御家人が設置されます。将軍にもしものことがあった場合、命をかけて将軍を御守りするボディガードとしての役割を果たします。いずれも1万石未満の領地が与えられ、旗本は将軍に直接会うことが出来る役職であり、御家人は将軍に会う権限がない役職でした。

 

  そんな幕府組織内には将軍以下、老中、若年寄り、京都所司代大阪城代遠国奉行町奉行勘定奉行寺社奉行大目付、目付などがあります。順番に見ていきましょう。

 「老中」とは将軍のすぐ下の役職であり、政治実務の最高権力者であり、将軍に直属して幕府の政治を行うナンバーワンの名実ともに文句なしの役職です。現代で喩えると「総理大臣」に該当します。歴代の老中で有名な人だと、田沼意次松平定信水野忠邦などが挙げられます。皆さんも一度は聞いたことのある人物だと思います。

 「老中」になれるのは、譜代大名のみで外様大名は不可。他にも領地も3万石以上有していること、格式のある家柄であることなど様々な条件が付けられていたようです。

 老中の他に「大老」と呼ばれる職がありますが、これは臨時的なもので 時には将軍なみの権威を振るうこともあります。歴代の大老といえば、伊井直弼が挙げられます。

 

 次に老中の補佐役となる若年寄り」の紹介です。江戸城内では老中に次いでナンバー2。現代で喩えると「政務次官」に該当します。そんな‘ポスト老中‘であるはずの「若年寄り」ですが、ストレートに老中になれるわけではありません。一度、「大阪城代」や「京都所司代」を経験し、さらに老中格という役職を経て、なおかつ上から優秀と判断された者だけが晴れて老中となることができるのです。民間企業で喩えるなら、本社の営業部長が地方の支店長を経験してから晴れて取締役に就任するような感じです。

  江戸時代を通じて総勢161名いた若年寄り。しかし、この中で晴れて老中に昇格出来たのは、5分の1程度で、90名以上は若年寄り止まりだったそうです。いや~老中への道は険しいですね。

 

 次に先程、チラッと出てきた京都所司代大阪城代について紹介します。江戸という東国からは監視出来ず、有力大名がゴロゴロいる西国は、この両職が監視するようになります。言ってみれば、地方の行政大臣。就任し、務めを果たせば、老中への昇進は約束されたようなものだったそうです。

 「京都所司代」の主な仕事とは京都の政治と治安維持です。つまり市長と警察署長を足したような役割。その他に畿内8カ国の司法裁判と朝廷や公家の監視などを行います。

大阪城代」は大阪城の警備と西国大名の監視が仕事です。因みに、この大阪城代、1837年に起きた「大塩平八郎の乱」を鎮圧するという功績を残しています。

 

 次に紹介するのが、「遠国奉行」。幕府には天領とよばれる幕府が直接管理する領土が全国の主要都市に点在していました。遠国奉行とは、これらを管理するため全国の主要都市に配置された役職です。幕府は江戸時代を通じておおよそ400万石前後をキープしており、幕府の財政源となっていました。

 老中の支配下三奉行と呼ばれる町奉行勘定奉行寺社奉行とは出世コースの入り口であり、言わばキャリア組。いずれも老中の傘下です。

 町奉行勘定奉行は旗本から。寺社奉行は大名から任命されました。

 町奉行の仕事は江戸府内の行政、司法、警察、消防などの役割を果たす。いわば都知事と裁判所と消防署長を一度に担当しているような役職です。勘定奉行とは幕府の経理や財務を担当する財務省の役割を果たします。寺社奉行の仕事は全国の寺社・寺社領の管理。と宗教の統制。いずれも働きぶりが評価されれば、若年寄りへと昇進出来、さらに上の出世コースに乗ることが出来たようです。

 大目付目付とは、大名や旗本・御家人の監視を担当する役割を果たします。大目付は老中の傘下で全国の諸大名の監視が仕事です。目付とは若年寄りの傘下で全国の旗本及び御家人の監視が仕事です。いずれも働きぶりが評価されれば、遠国奉行などに任命され、さらに上へと昇進する出世コースに乗ることが出来たようです。

 

 

 江戸幕府の組織体制は3代将軍・徳川家光の時にほぼ整います。家康から家光までに行われた圧倒的な武力によって抑えつける政治体制のことを武断政治と呼びます。

 

  1623年、徳川家光江戸幕府3代将軍に就任します。2代将軍・秀忠の子で、「生まれながらの将軍」とよばれ、強力なリーダーシップを発揮し、幕府の組織作りに励みます。

 まず、それまで幕府直属の武力であった旗本・御家人を再編。次に老中、若年寄り、遠国奉行、三奉行を新たに設置します。そして諸大名の監視役を担う大目付と旗本・御家人の監視役を担う目付を新設するなどその実力を発揮します。

 そんな家光の精神的なバックボーンとなったのは祖父・家康である。家光は戦国時代を制し、武力によって天下統一を果たした家康を心から景仰しており、家康の墓所である日光東照宮を幾度も参拝しています。

 

 家康を範とした家光も、大名統制に関して非常に厳しい態度で臨みます。その典型例が1635年に家光が武家諸法度の中に新たに組み込んだ「参勤交代」です。これは大名の妻子を江戸に人質として差し出し、1年おきに江戸まで往復させるもので、道中の費用や宿泊費を大名自身に負担させ、幕府に逆らう力をつけさせないようにするものでした。

 

 家光が警戒心を強めたのは、何も外様大名だけではありません。なんと家光の弟である忠長を自害に追い込んでいるのです。これは家光が重病を患ったとき、諸大名が忠長を奉じて謀反を起こそうとしているという噂があったからだと言われています。このように少しでも謀反の疑いのある者は全て処罰されました。

 また、武家諸法度に違反した大名には領地を没収したり(改易)、あるいは領地を削ったり(減封)、または変更したり(転封)するなど厳しい制度を設けます。

 さらに農民に対しても厳しい姿勢で臨みます。それが1649年の「慶安の御触書」です。農民への日常生活における規制を課し、年貢の確保を確実なものとしました。

 このような家康から家光までに行われた圧倒的な武力によって支配する政治体制を武断政治と呼びます。その後、4代将軍・徳川家綱から初まる武士や庶民に学問や文化に励むよう促す文治政治が行われるのです。

 

 こうして徳川家光は、没する1651年までに今後260年続く江戸幕府の組織体制を見事に完成させました。

 次回は江戸時代の鎖国体制の完成について解説していきたいと思います。

以上。

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮 貴大でした。それでは。