【幕末】列強のアジア進出!異国船打払令!
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【幕末】列強のアジア進出!異国船打払令!」というお話です。
19世紀に入ると植民地支配を広げていた欧米列強が東アジアにも侵略の手を伸ばします。17世紀以来、全く発達していない日本の軍事力で列強に対抗出来ないのは明白。一体どうなってしまうのでしょう。
青い太平洋の端に浮かぶ小さな島国。4つの大きな島と4千を超える小さな島々からなり、冬には数メートルの深さまで雪が積もる北の国から、サンゴ礁の浜辺に揺れる南国まで存在し、アジア大陸の東側に孤を描くように連なっている。
春には桜が咲き、秋には紅葉が深まる。自然の景観は四季折々にその表情を変え、人々に感動を与えます。
北からの寒流と、南からの暖流とが沿岸で合流するため、魚介類が集まり、沢山の海の幸をもたらします。国民はそんな自国を日出る(いづる)国、「日本」と呼んでいます。
13世紀にマルコ・ポーロによって書かれた『東方見聞録』の中で「黄金の国ジパング」として登場して以来、欧米人は夢をかき立てられ、16世紀以降、コロンブスを初め多くの探検家に太平洋航路における強い動機を与えました。
そんな日本を羨望の眼差しで見ている欧米列強が侵略の機を伺い、着々とその準備を初めていました。
さて、17世紀に江戸時代を迎えた日本は対外政策を厳しく管理するいわゆる「鎖国政策」をしていました。その間、世界の情勢は大きく変わっていました。
17世紀中頃からは、スペイン・ポルトガルに代わって海の覇者となったオランダが。18世紀にはイギリス、フランス、そしてロシアが海外進出に力を入れていました。そして19世紀になると、新たに誕生した国・アメリカも西部開拓と同時に海外進出に力を入れ始めていきます。
これらの欧米列強は産業革命によって自国で大量に生産した工業製品を売りつける市場開拓と、新たな原料や資源を求めて、侵略の手を世界へと伸ばしていったのです。
その勢力は東アジアにも向けられたのです。
このような世界の動きに巻き込まれるように日本もいよいよ列強の脅威にさらされることになるのでした。
北から南に伸びる細長い国土を持つ日本はアジア貿易の中継地点としては絶好の位置にあります。この国を手中に収めれば、燃料や食料補給の拠点としてアジア進出の大きなアドバンテージとなるため、列強諸国は日本の侵略を企てます。
こうして日本近海では、漂流ではない明らかに開国や通商目的の外国船が次々に目撃されることになりました。その動きは不審で、測量でも行っていたのか沿岸から遠ざかったり、近寄ったりと実に不気味な動きで時の老中・松平定信は、全国の諸大名に沿岸部警備の強化を命じます。
さらに下記のような寛政3年令も発令します。
「異国船が漂流船である場合は、従来通り保護するが、漂流船でないと判断した場合は武器や火器を取り上げ、隔離し、その処分を幕府に問い合わせるように。」
寛政3年とは1791年のことで、ちょうど寛政の改革の真っただ中。定信は国を守るために、寛政の改革を行う一方、海防にも力をいれなくてはならなかったのです
この法令からもわかる通り、この時点では、外国船に対し、かなり強気な姿勢でした。
しかし、17世紀以降、軍事レベルが上がっていない日本は、列強の軍事力には到底及ばないことは明白でした。それを説いた著書が林子平の『開国兵談』です。これには現在の日本の軍事力では海外からの侵略への備えにはあまりに不十分だと説いたものです。しかし、定信はいたずらに国内の不安を煽ったと批判し、この著書を発禁処分とします。
異国船襲来の第一波は意外にも北の国・ロシアでした。ロシアとの接触です。それは、1792年、ロシアのラックスマンが根室(北海道根室市)に来航します。ラックスマンは、ロシアに漂着した大黒屋光太夫を送り届けるカタチで、国交を開き、港を使わせてほしいと申し出たのです。しかし、列強の存在を脅威と感じていた松前藩(北海道松前郡松前町)は回答を保留。我が国の貿易拠点である長崎に改めて来てくれとラックスマンに信牌(しんぱい)を渡し、一応帰って貰いました。
これによって、ロシアに「日本はわが国と通商しても良いという建設的な方針をもっている。」と悪い気分にさせないように帰らせることに成功したのです。これは、その場しのぎではあっても、当時の日本の外交能力にしては、かなり柔軟な対応だったと言えます。
(信牌・・本来は中国船に渡されていた貿易許証。)
遂に、初めての開国要求を受けた定信は、いよいよ蝦夷地の海防も視野にいれなくてはいけなくなりました。同時に、寛政3年令も改めなくてはいけないと思い始めました。
しかし、その矢先、1793年、定信は尊号事件による天皇の圧力と11代将軍・徳川家斉との対立。そして民衆の反感により、老中を解任させられます。それと同時に定信の海防戦略は中止となってしまいました。
そして、1804年、ロシアのレザノフが長崎に来航しました。レザノフはかつて日本がラックスマンに与えた信牌を差し出し、日本に通商を申し出ました。長崎奉行は、この要求を拒絶します。そればかりか、ロシア船の武器を全て取り上げ、船員を隔離してしまったのです。
これは定信の法令通りのやり方なのですが、根室のラックスマンへの対応とは正反対の強硬な姿勢での対応になってしまいました。
実は、定信が発足した寛政3年令が改正されていなかったのです。
そう。この頃から、幕府のガサツな対応がどんどん目につくようになってきます。
長崎奉行は、レザノフ一行から信牌を取り上げたうえ、下記のようなロシア国王宛ての手紙まで渡したうえで、帰ってもらいました。
「わが国の貿易国は、清国、朝鮮、琉球、オランダのみです。それ以外は、通商する気はありません。同盟を結ぶこともありません。どうかお引き取り下さい。」
わが国の正式な信牌を持って、正式な貿易拠点である長崎に来航するという‘ちゃんとした‘手続きを踏んでいるロシアに対し、強引なやり方で追放してしまったので、ロシアからの報復を恐れた幕府は1807年に「ロシア船打ち払い令」を出します。「打ち払い」とありますが、ロシア船に対し、一方的に暴力を働くのではなく、水や食料を与えて早急に帰ってもらうという穏便なやり方です。
しかし、幕府のそんな危惧は現実のものとなりました。
なんと、レザノフの部下が、樺太島と択捉島に上陸し、各地で建物を焼き払い、番人を連行する事件が発生したのです。
その後、ロシア側は、連行された番人を解放し、日本の最北端にある宗谷(北海道)に返還しました。
その際、ある手紙も持たせていました。その手紙には以下のように書かれていました。
「日本とロシアは近隣同士なので、今回は部下を派遣して、お手並みを見せたのだ。お前らの信牌はただの仄めかし作戦だったのか。こんな対応に、わが国の国王は大変ご立腹だ。今後、わが国の要求を受け入れるなら、日本は永遠に安住した国になるだろう」
非常にリアリティのある手紙の内容ですが、実はこれ、全てレザノフの部下の単独犯による暴走であり、手紙もレザノフの部下の書いたものでした。
しかし、日本はそんな事実は知らないので、ロシアからの戦線布告だと決めつけてしまいます。
これが原因で1811年にゴローニン事件を招いてしまいます。これはロシアの軍人・ゴローニンを国後島で日本が捕まえ、捕虜にしてしまいます。日本のこうした対応にロシアも黙っていません。ロシアも日本の商人・高田屋嘉平衛を捕虜とします。まさに一触即発の事態になりますが、日本がロシアと戦争しても勝てないどころか、国全体が壊滅する恐れもあったので、日本はゴローニンの解放と同時に和睦を申し出ます。ロシアもこの和睦交渉を受け入れ、何とか解決されました。
その後、ロシア船は当面の間、日本近海には姿を現さなくなります。
イギリス船がオランダ船を追跡するカタチで長崎に強制入港。これに怒りと感じた幕府は異国船打ち払い令を発令します。しかし、これがモリソン号事件という新たな事件を引き起こしてしまうのでした・・・
一方、1808年、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に強制入港してきます。これは長崎に駐在するオランダ商館員を人質に、わが国の大量の食料や飲料水を奪い去っていくというもので、フェートン号事件と呼びます。
この事件はなぜ起きたのでしょうか。
実は日本を目指すオランダ船をこっそりイギリス軍艦フェートン号が追跡していたのです。そんなフェートン号はオランダ船に続くカタチで長崎港に強制入港したのです。
ちょうどこの頃、ヨーロッパはナポレオン戦争の真っ最中。オランダはフランスの支配下になり、最終的にイギリスとフランスの2大勢力が対立するカタチになっていました。
しかし、オランダはその事実をひた隠し、フランスの占領下になった後も、オランダの国旗を掲げながら日本と貿易をし続けていたのです。
しかし、イギリスからすれば、オランダは既になくなった国で、敵国・フランスの属国でしかありません。オランダ船を追跡するという行為は敵国・フランス船を追跡して撃退するという戦争の延長線上の行為になるのです。
ナポレオン戦争の余波が日本にまで波及してきたのです。
こんな白昼堂々とした海賊行為に日本は怒りが抑えられません。そして、そんな海賊行為をわが国は鎮圧する力もないことを世の中に知らしめる結果となってしまいました。
その後もイギリスは鯨油を取る目的で、イギリスの捕鯨船が日本近海に頻繁に現れるようになります。これ以上イギリス船を日本近海で好き放題させるわけにいかない。
そのため、時の老中・水野忠邦は1825年に異国船打ち払い令を発令します。これは、西洋の国を邪教の国と決めつけ、外国船を見たら、問答無用で追い払えという非常に強い排外政策です。
これによって、日本沿岸に接近する外国船を威嚇し、渡来しないようにしたのです。
しかし、この法令が仇になる事件が発生してしまいます。1837年に起きたモリソン号事件です。これはアメリカの商船・モリソン号が、日本人漂流民の返還などを理由に国交を開始しようと浦賀に近づいた際、幕府は異国船打ち払い令を理由に一方的に砲撃し、追い払ってしまいという事件です。
今回見てきたように、この時代の日本は海防政策においては非常に場当たり的で、国際情勢はおろか、外交手段すらも把握していない極めて原始的な国だったのです。
こんな日本の粗末な対応に、高野長英は、『戊戌夢物語』(ぼじゅつゆめものがたり)で渡辺崋山は『慎機論』(しんきろん)で痛烈に批判します。幕府はそんな長英と崋山を弾圧します。これが蛮社の獄です。
motomiyatakahiro.hatenablog.com
威嚇するだけで対外的な危機を押しとどめることなど当然出来るはずもありません。そんな中、列強の東アジア進出は着実にしかも急速に迫りつつありました。
それを象徴する戦争が1838年に勃発するイギリスと清によるアヘン戦争だったのです。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。
本宮でした。それでは。