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【満州事変】関東軍はなぜ満州事変を起こしたのか(前編)

 こんにちは。本宮 貴大です。

 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【満州事変】関東軍はなぜ満州事変を起こしたのか(前編)」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 

「に、日本とアメリカで最終戦争が起きるですって?」

「そうです。これからの戦争はトーナメントのように行われるでしょう。そしてその勝者が世界をリードするようになるでしょう。」

関東軍作戦参謀の石原莞爾(いしはらかんじ)は、壮大なビジョンを持っていました。

それが日本とアメリカの最終戦争論です。彼は陸軍大学校を次席で卒業後、3年間のドイツ留学でクラウゼヴィッツの『戦争論』について学ぶなど、陸軍の中でも選りすぐりのエリートでした。

「最終戦争の決勝戦では、東洋の覇者と西洋の覇者が戦うことになります。」

「それが日本とアメリカだというのですか。」

「私はそう考えております。この最終戦争は、かつてないほどの持久戦、耐久戦になるでしょう。」

「しかし、現在の日本とアメリカでは国力の差がありすぎる。」

「そう、現在の日本の国力では限界があります。だからこそ、満州国が必要なのです。」

アメリカに対抗するには、日本の3倍の面積を持つこの満州を育成して、来るべき全面戦争に備えるしか道はありません。」

「石原さん、だったら、いっそのこと中国全部を手に入れてしまうのはどうでしょう。」

「う~ん・・・・しかし中国大陸は広すぎます。島国が大陸国に挑むのは、地政学的にもかなり不利です。戦線の拡大は危険です。」

 石原は1929(昭和4)年に『世界最終戦争論』という論文を記しており、それによると、やがて日本が東洋文明の中心となり、アメリカが西洋文明の中心になり、最終的に両者が大戦争を行うことで東西文明は統一され、世界平和が訪れるとしています。

 こんな壮大で誇大妄想的な理論が、今後、軍部にとっての理論的支柱となっていきます。

 つまり、来るべき最終戦争に備え、日本がアジアの中心になる必要がある。その第一歩として満州を支配しておかなければならない、ということです。

 

 日本陸軍の中には、ヨーロッパへの留学や駐在などで第一次世界大戦の凄惨な実相を目の当たりにした人が多く、これからの戦争は総力戦になることを知りました。

 総力戦とは軍事力だけでなく、資源や工業生産力の、人口、国土の広さなどの総合的な国力で勝敗が決まる戦争のことですが、もし、日本が総力戦に参戦することになったら勝ち目がないとの危機感を抱く人間が多く存在していました。

 石原は、日本がアメリカやソ連などの大国を相手に「総力戦」を戦うとしたら。本土と朝鮮、台湾だけでは不十分で、広大な満州を自国の支配下に収めなければ総合的な国力で対抗できないと考え、なんとかして満州を手中におさめようと、軍事的手段で満州を征服する計画を研究しました。

「満蒙は日本の生命線」

これは当時、よく使われていた言葉のようです。

 

 当時の満州における日本の利権は、先に触れた南満州鉄道(以下、満鉄)の事業が中心で、それらの利権を守っていたのが関東軍でした。

 満鉄は、日露戦争終結翌年の1906年6月の勅令で設立準備がスタートし、同年11月26日に設立総会が開かれました、日本が満州に持つ利権の確保と拡大を主な業務とする巨大な国策会社でした。

 鉄道と物流を基幹事業としつつ、建設業や倉庫業、鉄道附属地の経営など幅広い業種で事業展開を行い、満州での経済的影響力を強めていました。

 一方、関東軍はもともと、日露戦争後に日本が租借権を手にいれた遼東半島の関東州と満州内の満鉄附属地(全長430キロにわたる鉄道線路とそれに隣接する幅約62メートルの帯状の土地など)を守ることを主任務として創設された、陸軍の地方守備隊でした。

 第一次世界大戦終結後の1919年までは「関東都督府陸部」という名称でしたが、同年4月に関東都督府が関東庁へと改組されると、この都督府陸軍部は統治機構(関東庁)から組織を分離されて「関東軍」として独立しました。

 それが、昭和に入り、日本の満州における権益が危うくなってきました。当時、中国では北方軍閥打倒を目指す北伐を進めていた蒋介石率いる国民革命軍が北京を目指していました。

 関東軍は危機感を強めました。

 これ以上北伐が進めば、満鉄などの権益を奴らに奪われるかもしれないと思ったからです。

 当時に北京を拠点にしていた軍閥は、張作霖でした。彼は日本からの支援を受けているにも関わらず、やがて日本の言うことを聞かなくなりました。
これに不満を持った関東軍は、張作霖を政治工作で退陣させようとしますが失敗に終わります。

 そこで、1928年6月4日に、張作霖を暗殺という暴力的な手段で満州の支配権を手に入れようとしました。

 張作霖の後継者となったのは、彼の息子である張学良ですが、父が日本の軍隊に暗殺されたことを知り、国民革命軍の蒋介石と手を組み、日本に対抗するようになりました。その結果、日本の権益はますます脅かされることになりました。

 そこで、関東軍は圧倒的な武力で満州を制圧し、国民党勢力を追い出し、完全領土化させる計画を立てました。それが満州国の建国なのです。

 1929年6月3日、日本政府は蒋介石の国民政府を正式な中国政府と承認しました。

 しかし、関東軍では、武力で満州を制圧する研究を熱心に進めていました。その中心人物となったのが、河本大作の後任として関東軍高級参謀となった板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐です。

 彼ら関東軍の将校たちは、同1929年7月3日から15日にかけて、満州の主な都市を旅行しました。

 表向きの名目は「ソ連との戦争に備えた現地視察」という形式でしたが、実は「どのようにして満州の主要都市を日本部隊が攻略すべきか」という作戦の検討が真の目的であり、旅行の後には野戦部隊を用いた実践さながらの演習も行われました。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献
仕組まれた昭和史  副島隆彦=著 日本文芸社
5つの戦争から読みとく日本近現代史 山崎雅弘=著 ダイヤモンド社