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【桶狭間の戦い】なぜ織田信長は天下統一を目指せたのか【織田信長】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【桶狭間の戦い】なぜ織田信長は天下統一を目指せたのか【織田信長】」というお話です。

 

 皆さんは、織田信長といえばどういったイメージをお持ちでしょうか。

 「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」と比喩されているように、短気で残虐なイメージがあるのではないでしょうか。

 しかし、織田信長という人物は新たな国家や社会のビジョンを示し、人々の共感を集め、理想国家の実現にむけて万難を排して邁進するカリスマ的リーダーだったのです。

 

 応仁の乱をきっかけに時代は「戦国の世」へと突入しました。各地では実力で成り上がった戦国大名が群雄割拠し、領土拡大のために互いに争いを始めました。

 しかし、室町幕府はそれを抑える力もなく、無名無実の状態となっていました。その結果、庶民は飢饉に苦しみ、各地では一揆が多発、盗難や火付けなどの治安も悪化していました。

 そんな時代情勢の中、庶民は願います。

「豊かで平和な時代を創ってくれる新しいリーダーが欲しい」と・・・・・。
 

 戦国時代という非常に不安定な時代に人々は安定した平和な時代を求めていたのです。そんな時、どうして必要になるのが、みんなを牽引していくリーダーの存在です。信長はそんな時代が求めたカリスマ的リーダーだったのです。

 尾張戦国大名織田信長は1560年、駿河遠江三河を支配していた今川義元の侵攻を桶狭間で奇襲攻撃によって破りました。しかし、信長はその後の戦いで奇襲攻撃をニ度とやりませんでした。信長が天下統一を目指せたのは、過去の栄光にしがみつかず、戦う相手によって新たな戦術や戦略を考え、戦いに勝利したからなのです。

 

 1560年、27歳の織田信長は生涯最大ともいえる窮地に立たされました。

 信長は尾張領国にさえ、まだ敵対勢力が残っているというのに、東の最大勢力である今川義元の侵攻を受けたのです。今川氏は、駿河遠江三河の3ケ国を支配下におく大大名で、義元はその勢力を西へと拡大させようと尾張の織田領に侵攻し始めたのです。

 

 今川義元は1519年の生まれ。室町幕府から駿河守護大名に任命されており、遠江の守護も任されていました。その上、三河支配下に置き、統治領域の総石高は100万石にもおよび、名門意識も強い大大名でした。

 そんな義元は、下剋上の世を憂い、自らの力で足利将軍家を助けるという大義名分のもと、京に今川の旗を立てようと野望を抱いてしました。

 義元は信長の父・信秀とも戦っており、尾張東部も支配下に収めていましたが、これまで尾張中央部への侵攻は出来ませんでした。それは、国境を接する東の北条氏、北の武田氏と敵対関係にあったからです。しかし、武田、北条と友好関係を築き、1560年、満を持して尾張侵攻に乗り出したのです。

 そんな信長の尾張の国は、江戸時代では60万石でした。しかし、当時、信長はまだ尾張全域を支配しきれていないため、石高は30万石程度でした。

 

 5月17日、駿河を出発した今川義元率いる2万5千の大軍勢は三河の国境を越えて、信長領に侵攻してきました。

 迎え撃つ信長は尾張の大半を領有していたとはいえ、動員出来る兵力は5000人程度。直接やり合っても、勝ち目がないことは誰の目にも明白でした。

 

 こうした状況下で、信長方の家来達は次々に今川方に寝返りました。

 その結果、尾張領内の大高(おおだか)城、鳴海城、沓掛(くつかけ)城などが、あっさり義元の手中に入ってしまいました。信長は義元にクサビを打ち込まれてしまったのです。

 5月18日、義元は沓掛城に入り、そこで軍議を開き、尾張攻略の方法を考えました。

 まず、2千3百の兵で織田方の丸根砦、鷲津砦を攻め、陥落させる。19日には、善照寺砦を落として、鳴海城に入る。鳴海城に入れば、信長の居城清州城までは4キロメートル程しかない。

 そうなれば、今川勢の勝利は確定します。

 戦国時代は江戸時代とは違い、1国の中に幾つもの城がありました。大名(当主)の住む城、家老を守る城、そしてその家老の家来が守る城があり、それを「砦(とりで)」と呼んでいました。
(江戸時代になると‘一国一城令‘という法令が出来、城の数は減らされます。)

 

 今川勢の軍議では信長を見下す発言が飛び交いました。

「それにしても信長のやつ、なぜ砦に兵を分散させるのだ?これでは無駄に兵を消耗するだけだぞ。」

 戦のときに一番やってはいけないのは、「逐次(ちくじ)投入」といわれるものです。これは戦争用語ですが、例えば味方が5000の軍勢、敵が5000の軍勢なのに、500人ずつ小出しにして敵に当たらせることを「逐次(ちくじ)投入」言います。これをやると必ず負けで、やってはいけないこととされています。

 つまり、相手が5000なら、こちらも5000で出さなくていけないのです。向こうは全力できているのですから、小出しに兵を出しては負けるに決まっています。

 当時の信長もこの程度だったのです。

「信長のやつ、うつけ者とは聞いていたが、本当にただのうつけ者ではないか。」

「フハハハッ」

 

 このとき、清州城にいた信長とその家臣団は迎撃か、籠城かを決められずに日を過ごしていました。

「殿、清州にて籠城策をとりましょう。」

 家臣達が籠城策を進言するのは当然でした。大軍を迎える戦法としては一般的だし、3千人ほどで籠れば、たやすく落城することはありません。

 それに、今川勢は大軍といえど、農民兵を動員したもので、5月に出てきたのは田植えを終えたからです。獲り入れ時期の秋になれば今川勢も引き上げざるを得ないため、籠城もそこまで持てば良い。

 どう考えても、寡兵(少ない兵数のこと)で大軍に挑むなど無謀過ぎる。重臣達は籠城策を声高に進言しました。

 

 しかし、信長としては、籠城策はあり得なかった。

 織田家累代の家臣の多くは信長から離反したし、残った家臣達もいつ寝返るかわかりません。

 重臣達は今川勢と戦うのを嫌っています。

 彼らは籠城した後でも、勝ち目がないと読めばいつでも今川軍に降伏できます。
主君・信長は殺されるか、切腹することになるが、家臣達は降伏するタイミングさえ間違わなければ命を失うことはないし、今川勢に寝返ればとりえあずは安泰です。

 今後は、三河松平氏徳川家康)のように常に先陣としてこき使われることになるが、今川が天下に号令するようになれば、1国1城の主となることも夢ではありません。

 それに信長に尾張全土を治める器量があるとも思えません。

 こうした家臣団の考えを信長は読んでいました。

 このピンチの状況をどう切り開くか。信長は頭をフル回転させて考えました。

 

 そんな中、5月18日の夜、偵察兵の梁田政綱(やなだまさつね)が戻ってきました。
「今川勢の状況を報告せよ。」

「ハッ、只今、今川勢は桶狭間近くで宴会を開いており、酒に酔いぶれている最中でございます。」

 今川勢は完全に油断していました。

 今川勢は軍議通り、丸根砦も鷲津砦もあっさり陥落させていました。残るは善照寺砦を落とし、鳴海城に入る。そうなれば、今川勢の大勝利です。

 これを聞いた家臣団は信長に言います。

「殿、これは千載一遇の時です。全兵力を投入して一気に攻め入ってしまいましょう。」

 しかし、信長は黙ったままです。

「殿、どうするおつもりですか。敵は目の前まで来ています。早くご決断を。」
 
 しかし、信長はずっと黙ったままでした。そしてこう言いました。

「もう夜も更けた。お前達は帰って休め。御苦労だった。」

 結局、信長は軍議を凝らすことなく家臣達を解散させました。
 呆れた家臣達は囁きあいます。

「さすがの殿の知恵の泉も尽き果てたか・・・・。我が軍もこれで終わりか・・・。」

 ところが、その夜、突然起き出した信長は「敦盛」の幸若舞(こうわかまい)を舞うとただちに出撃していきました。

「兵士を募る。心ある者は熱田神宮に集まれ。」

 信長はわずか200の供廻りとともに熱田神宮を参拝し、兵士達の集合を待った。

 やがて3000人の兵士が熱田神宮に集まりました。

 しかし、信長は言いました。

「軍を分散させる。1000は善照寺砦に進め。2000はワシと一緒に来い。」

 この情報はすぐに今川氏の耳にも届きました。

「織田勢の近況を報告せよ」

「ハッ、只今、織田本隊が善照寺の砦に向かっております。」

「織田のやつ、遂に動きだしたか。ここ桶狭間で帰り討ちにしてくれるわ。」

 そう、信長が3000の兵を善照寺に進めたのは、ただのおとり。

 正面攻撃と見せかけて、迂回した信長率いる2000の兵が、義元の本陣の側面から攻撃を仕掛けるという奇襲作戦です。

 信長は2000の兵士達にこう伝えました。

「いいか、他の連中など相手にするな。狙うのは義元の首だけだ。」

信長の作戦は兵士達にしっかりと伝わりました。そしてその勝利を確信しました。

「ハハッ!!」

信長軍の士気は最高潮にまで高まりました。

 19日午前、桶狭間は大雨で視界が悪く、足音も雨音でかき消されてしまう状況でした。しかし、奇襲作戦を実行する信長にとって、これは願ってもない幸運でした。

 午後2時、信長率いる2000の兵は、田楽狭間で休憩していた今川義元の本陣に奇襲攻撃を仕掛けました。

 本陣は5000ほどの兵で守られていたが、今川勢は奇襲に驚き、適切な対応が出来ない。同士討ちさえする始末で、そんな混乱状況では応戦が出来ない。

 義元は300人ほどの護衛とともに退却しようとしたが、信長の馬廻りに発見され、服部小平太が一番槍を、そして毛利新介が、義元の首を討ち取りました。

あっという間の決戦でした。

 信長勢はこの戦いで今川方3000人を討ちとりました。

 大将を失った今川軍は大混乱に陥り、戦意を喪失、そのまま尾張から撤退していきました。

 信長は危機を脱したばかりか、敵将の今川義元を討ち取り、10倍以上の兵力差のある今川軍を迎え撃つことに成功したのです。追い返したのです。

 今川義元を打ち破った信長は歓喜しました。

「戦(いくさ)は数で圧倒しなくても、勝つことが出来る。」

 信長はそれを学びました。

 しかし、信長はその後の戦いで奇襲攻撃をニ度とやりませんでした。

 そう、奇襲作戦という成功体験に溺れることがなかったのです。

 大きな仕事で成功すると、その瞬間誰もが心の中で狂喜することでしょう。

 しかし、その成功体験に固執してしまうと、その後も成功し続けることは不可能です。

 信長が本当に学んだのは別のことにありました。それは、

「あきらめずに考えに考え抜けば、必ず突破口が見えてくる。」

 ということです。

 信長が天下統一を目指せたのは、過去の栄光にしがみつくことなく、戦う相手によって新たな戦術や戦略を考え抜き、実行に移して戦いに勝利したからなのです。

 以上が、信長が日本史の舞台に登場し、その名を轟かすきっかけとなった桶狭間の戦いです。

桶狭間の戦いは、奇跡的な大勝利でした。信長を勝利に導いたのは、優れた洞察力でも決断力でもない。領民からの圧倒的な支持でした。信長が天下統一を目指せたのは、庶民からの高い支持も大きな要因といえるでしょう。

 

 桶狭間の戦いは情報戦だったといわれています。

 信長はすでにこの時代にあって、情報活用の重要性を知っていた。離反の可能性のある家臣達に作戦を話せば、今川方に情報を漏らされる危険性がある。だから信長は家臣達に作戦を話さず、解散したのだ。敵を欺くには、まず味方から」という心理戦は、天才児の信長だから出来たのである。

 以上が多くの歴史研究家の考えることです。

 しかし、それは少し違うと思います。

 信長のような殿様(リーダー)に必要なスキルは決断力です。

 その際、周囲の意見など聞いていたら決断など出来ません。作戦を家臣達に話したところで、猛反対されることは目に見えていたのでしょう。

 というより、そもそも信長は家臣の意見など聞く気はなく、完全な独裁志向であったのです。

しかし、信長が天下統一を目指せたのは、優れた決断力だけではありません。

 

 この桶狭間の戦いを考えるうえで不思議なのは、信長率いる2000の兵が迂回しているという情報が今川方にまったく知られていなかったことです。

 信長は19日の早暁(そうぎょう)に清州城を出発してから桶狭間に到着するまでに14時間以上費やしています。今川側がその動きを知る時間的余裕がなかったわけではありません。さらに2000人の兵も決して少ない人数ではありません。

 まだ武士も農民も区別があいまいだった当時、一方の行動を他方に伝え、褒美をもらおうとする野心家が多かったのが実情です。そんな中で2000人もの兵を連れて14時間もうろついていれば、信長軍を発見した領民も多かったはずです。

 

 おそらく、尾張の領民達は気づいていたのでしょう。信長の天才的なカリスマ性に。
信長は家臣団からはともかく、領民達からの絶大な人気を誇っていたのです

 信長は最終的に家臣であるはずの明智光秀に殺されていまします。

 おそらく信長の独裁志向は家臣達からは、すこぶる評判が悪かったのでしょう。

 一方で、領民からの圧倒的な支持がありました。

 こうした信長人気が、彼を天下統一へと導いていったのだと思わされます。

 

 信長の統一事業は続きます・・・・・。

以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
信長は本当に天才だったのか     工藤健策=著  草思社
戦国時代の組織戦略                 堺屋太一=著 集英社
組織の盛衰                     堺屋太一=著 PHP文庫
20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう。 千田琢哉=著 Gakken
教科書よりやさしい日本史              石川晶康=著 旺文社
学校では教えてくれない戦国史の授業         井沢元彦=著 山川出版社
マンガでわかる日本史                河合敦=著  池田書店