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【日韓併合】なぜ伊藤博文は韓国を植民地ではなく、保護国としたのか【伊藤博文】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【日韓併合】なぜ伊藤博文は韓国を植民地ではなく、保護国としたのか【伊藤博文】」というお話です。

 日露戦争後の日本の外国との関係はどうなったのでしょうか。日韓、日露、日米における関係を見ていきたいと思います。今回は韓国を保護国としたことについて解説していきたいと思います。

日露戦争の勝利によって日本は韓国の支配権を正式に得ることが出来ました。元老・伊藤博文統監府を置き、初代韓国統監に就任しました。伊藤は韓国(朝鮮)人の潜在能力を見抜いており、ロシアや中国、列強諸国からの侵略にも対抗出来るよう韓国(朝鮮)を植民地ではなく、保護国として統治しました。伊藤は、韓国に資金を投資し、産業や教育水準を近代化させ文明国に成長させようとしました。 

「我が国軍の韓国内での自由な軍事行動を容認して頂くようお願い申す。」

 1904(明治37)年2月、日露戦争が始まると、間もなく元老・伊藤博文は、韓国に対し戦争協力を要求する日韓議定書を調印させました。なお、朝鮮は1897年、国号を大韓帝国に改定しています。 

 戦争中には第一次日韓協約を結ばせ、韓国(朝鮮)政府の財政顧問・外交顧問に日本人あるいは日本政府が推薦する顧問を登用することを認めさせました。 

 もちろん、韓国側は猛反発しましたが、国力が違いすぎるためどうにもなりません。

 翌1905(明治38)年、日露戦争に勝利した日本は講和条約であるポーツマス条約でロシアに韓国に対する日本の指導・監督権を認めさせました。ロシアはまもなく、韓国から手を引きました。

 日本は韓国の保護国化をより確実なものとするため、ロシアとの間だけでなく、イギリスやアメリカとも調整を図ります。イギリスとは日英同盟を改定し、同年、第二次日英同盟を締結。アメリカとは同年、桂・タフト協定で、日本の韓国指導権が認められました。

 このように日本は列強諸国の了解をとりつけたうえで韓国の支配権を獲得したのです。 

 その後、元老である伊藤博文特命全権大使として韓国に出向き、第二次韓国協約の締結を要求しました。その内容は韓国政府から外交権を奪い、首都・漢城(かんじょう)に統監府という日本の組織を置き、これに外交を委ねるというものでした。

漢城・・・現在のソウル)

 なお、この統監府には韓国に駐屯する日本軍の指揮権も持っていました。これに対し、陸軍大臣寺内正毅(てらうちまさたけ)は反対します。

「軍の指揮権は天皇にあり、それを委任されているのが我が陸海軍である。韓国の統監府が軍の指揮権を有しているのはおかしい。」

 1906年、明治天皇は寺内と、参謀総長大山巌(おおやまいわお)を呼び出し、こう伝えました。

「朕は、韓国の統監に対して指揮権を与えている。寺内殿、大山殿、どうかご理解いただきたい。」

 これによって寺内率いる陸軍反発は抑えられました。寺内は後に初代朝鮮総督に就任します。(後述) 

 さて、こうした日本の支配に対し、当然韓国皇帝や韓国政府は強く抵抗しました。これに対し、伊藤はこう述べます。

「これは日本政府の確定案であり、もし受け入れないのであれば韓国は極めて不利な状況に陥るだろう」

 韓国王宮は日本軍に包囲され、日本閣僚が一人一人意見を述べるなどの脅しをかけ、強引に協約に調印させたのである。

 さらに伊藤は自ら進んで初代韓国統監に就任し、韓国の外交を担うことになりました。

 これに対抗するように韓国政府の重臣達が抗議の自殺をしました。韓国民も大いに憤慨。各地で反日運動が活発化するようになりました。

 

 1907(明治40)年、日本では第一次桂太郎内閣が総辞職し、第一次西園寺公望内閣が誕生していた頃、韓国皇帝は密かに国内の抗日運動を支援し、ハーグの万国平和会議に密使を送り、日本の不当支配を訴えました。

 派遣された密使はアメリカやイギリスなどの列強諸国の代表を訪ねて懐疑への参加を依頼するも、既に日本が韓国を支配下におくことを条約等で容認していたので、密使の要求は却下されました。

 この密使事件を知った伊藤統監は大激怒。

「なんて無礼な奴らだ。自分達の立場というものがまるで分かっていない。」

 伊藤は現在の韓国皇帝を退位させ、その皇太子を皇帝に就任させました。さらに第三次日韓協約を押し付けました。これにより韓国は外交権だけでなく、内政権も奪われ、軍隊も解散させられることになりました。

 こうして韓国は事実上、日本の保護国となりました。

 韓国内の反日感情は頂点に達し、武装した国民が各地で反日闘争を繰り広げるようになりました。これに解散させられた韓国兵士が参加したことで義兵運動として発展しました。その数は十数万人に及び、運動は活発化していきました。日本は軍隊を出動させ、その鎮圧を図ります。韓国側は1万8000人ほどの戦死者を出したのに対し、日本側の戦死者は数百人と軽微なものでした。

 

 ところで伊藤博文はなぜ韓国を保護国にしようとしたのでしょうか。伊藤は4度の総理大臣を経験し、元老として天皇の厚い信頼を得ていました。さらに大久保利通の意志を継ぐリアリストであり、地に足ついた考えが出来る政治家です。

 そんな伊藤は、韓国を保護国におくべきとかんがえていたが、植民地にすることには反対していました。ここがポイントです。

 保護国というのは、条約に基づき、他国の主権によって保護を受ける国。内政および特に干渉、制限を受ける。国際法上の半主権国のことを言います。

 対して植民地とは、単なる宗主国の市場であり、資源の供給地であり、国として権利を持っていない完全なる従属国のことを言います。

 「日韓併合」とは、日本が韓国を自国の領土にしたということですが、現在の韓国では、これを「日本の植民地支配」と言われています。

 確かに文明未発達の朝鮮人に対する差別など欧米列強の植民地支配と共通する部分もありました。しかし、それはあくまで政治が悪く、教育も未整備で民度が低いためにこのような状態になっているのであり、教育や殖産興業に力を入れることで韓国を日本と同等の文明国家として成長させようとしていました。

 伊藤は韓国(朝鮮)人は潜在的に日本人に劣らないほど優秀であり、日本のように近代化を成し遂げることが出来ると考えており、それによって、韓国(朝鮮)に侵略を考える周辺諸国に対抗できるだけの国力をつけさせようとしたのです。

 日本としても韓国が中国やロシアの「干渉国」となってくれるのは、非常に好都合です。伊藤は保護国である韓国に道路網や鉄道、発電所、学校など社会インフラの整備を積極的に行いました。

 また、伊藤は韓国を植民地にするという欧米の真似ごとにうしろめたさも感じており、韓国を植民地ではなく、保護国という位置づけにしたのです。

 

 そのことが当時の韓国の人々にも伝わったのでしょう。韓国国内でも一部の知識人の中から「日本と韓国を合併させよう」という運動が起こってきました。

「弱小国である韓国は、どのみち他国の植民地支配を受けるだろう。ならば日本と韓国を合併させるべきだ。先に近代化に成功した先輩国家である日本から学び、積極的に国力を上げていくべきだ。」

 

 そして1909(明治42)年、親日団体である一進会の李容九(りようきゅう)は伊藤統監に対し、「日韓併合」を提案しました。

 しかし、伊藤はこの提案を拒否します。

「現在、我が国は韓国の財政権や外交権、内政権などあらゆる権限を有している。その上で韓国の独立を推し進めているのだ。今の韓国に自国を守る国力はない。日本と韓国は対等な立場であるはずがない。」

 これに不満を持った韓国国民の中から伊藤の暗殺を企てる者が現れ始めまたのでした・・・・。

 

 同じ頃、第二次桂太郎内閣でも日韓併合が叫ばれ始めました。小村寿太郎外務大臣は1909(明治42)年3月、桂と面会し、「対韓大方針」を差し出して提案しました。

「韓国を併合することを閣議で決定してほしい」

「わかった。しかし、それには統監である伊藤殿の許可が必要だ。」

 同年4月、伊藤は日本に帰国。桂と小村は伊藤の説得に当たった。

 意外にも伊藤はこの提案を受け入れます。韓国で高まる一方の反日運動を受け、韓国支配がうまくいかなかった状況に嫌気がさし、あっさりと韓国併合に同意したのです。

 こうして同年7月、日本政府は韓国を併合することを正式に閣議決定されました。

 

 すっかり韓国人の恨みを買っていた伊藤はその後、韓国人青年に射殺されてしまいます。

 翌1910(明治43)年、日本と韓国の間で韓国併合条約が締結され、韓国皇帝は明治天皇に永久に統治権を譲ります。こうして韓国は日本の領土となったのでした。

 

 以後、韓国では日本主導の土地調査事業などが行われ、韓国の多くの土地が日本人資本のもとに没収されていきました。この時に大韓帝国の韓国という国号を否定し、地域名として再び朝鮮という名前が強要され、韓国統監府に代わって朝鮮総督府がおかれました。そして、統監には寺内正毅(てらうちまさたけ)がそのまま初代朝鮮総督に就任しました。

 

 以上、今回は日本の韓国支配を見てきましたが、その支配は列強諸国のそれとは違っていました。イギリスやフランスなどの植民地支配は一方的な収奪という徹底的な搾取でしかありませんが、それとは違います。

 その証拠に第二次世界大戦後、日本が朝鮮(韓国)の支配権を失ったあとの日本の決算は大幅な赤字となってしまいました。これは朝鮮から資源を調達したり、企業活動をして設けた利益よりも韓国の社会整備のために費やした費用の方が多かったからです。

 そのくらい日本は韓国に一生懸命投資したのです。

 無論、他民族を支配することは良いことではありません。日本も決して良いことばかりしたというわけではありません。

 しかし、韓国がもしロシアの支配を受けていたら、どうなっていたでしょうか。歴史に「もし、○○だったら~」はタブーですが、もしロシアの支配を受けていたら、徹底的に搾取される植民地となっていたかもしれません。

 また、韓国(朝鮮)はそれまで中国の従属国でしたが、中国の支配を受けていた結果、韓国は近代化が遅れてしまいました。

 日本に支配されたからこそ、韓国には近代化の下地が出来たのだと考えられるのではないでしょうか。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

魂の昭和史                   福田和也=著 小学館文庫

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版

斎藤孝の一気読み!日本近現代史         斎藤孝=著  東京堂出版

風刺漫画で日本近代史がわかる本         湯本豪一=著 草思社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社

【日露戦争】勝利した日本が得たもの、そして失ったもの

 

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【日露戦争】勝利した日本が得たもの、そして失ったもの」というお話です。

日露戦争で老大国・ロシアに勝利した日本は全世界にその名声を轟かせることが出来ました。しかし、一方で国内の治安が悪化し混乱状態になりました。日本は日露戦争膨大な借金や人的損害を受けて大きく疲弊してしまったのです。

 

 満州朝鮮半島の利権をめぐって日本とロシアは戦争を始めました。1904(明治37)年に勃発した日露戦争です。奉天会戦(ほうてんかいせん)日本海海戦という大きな戦いで両国は大激突。激戦の結果、ロシアは後退を始めました。日本は圧倒的な国力の差を跳ね返し、1年8カ月におよんだ戦争で日本は奇跡的な勝利を収めたのです。

 日本が老大国ロシアに勝ったことは全世界に広がりました。特に欧米列強の植民地支配を受けているアジア諸国には大きな影響を与えました。

 強大な白人国家に黄色人種新興国が勝利したことは、アジア諸国の人々に大いなる希望と勇気を与えたのです。清国の孫文毛沢東、インドのネルーやガンディー、ベトナムホーチミンなど、後に独立運動の指導者として活躍していく人々に日本の勝利は大きな感動と影響を与えました。

 イギリスの植民地であったインドは近代化が進むと同時にインド人の国民意識が高まり、日露戦争終結の翌年に国民会議派カルカッタ大会が開かれ、独立運動の指針となる4綱領が採択されました。

 また、フランスの植民地であったベトナムでもファン=ボイ=チャウによって日本への留学を推進する東遊(ドンズー)運動が始まりました。

「我が同志よ。日本という国を知っているか。彼らはあの老大国ロシアとの戦争に勝ったのだ。我々も、いつまでも白人の支配にビクビクしていてはダメだ。日本のように列強諸国と戦うのだ。今こそ立ち上がらなくてはいけない。」

 さらに、ロシアの圧迫を受けていたトルコも日本の勝利に沸き立ち、イスタンブールには連合艦隊司令長官東郷平八郎の名を冠した「トーゴー通り」が誕生するほどでした。その後トルコでは青年トルコ革命が起き、日本と同じ立憲君主制の樹立が目指されました。

 中東のイランでもイラン立憲革命という日本に倣って近代的な立憲運動を目指す運動が高揚しました。

 その他にアフリカのエジプトにまで日本の勝利は大きな影響を及ぼしました。

 日本は日露戦争の勝利で、その名声を全世界に轟かかせることに成功したのです。

 

 一方、日露戦争によって日本は何を失ったのでしょうか。

 日本国内の治安は悪化しました。

 日露戦争はロシアが余力を残した状態で後退したため、賠償金支払いには断固反対しました。ロシアには戦争を継続する体力が余っているのですから当然です。しかし、多大な犠牲を払ったのに賠償金が取れなかったことを知った国民は激怒したのです。

 

 最も有名なのは、日比谷焼き打ち事件でしょう。これは1905(明治38)年9月に起きた事件ですが、ポーツマス条約で日本が賠償金を得られないまま講和条約を結んだことに対して大きな不満を持った日本国民が日比谷公園で国民大会を開催しました。その参加者の一部が暴徒化し、内務省官邸や警察署、交番などを次々に焼き打ちした事件です。

「これだけ多くの国民が命を落としたのに、一銭も賠償金が取れないなんて。政府は一体何をやっているんだ。」

「私達は銃後も一生懸命働いたのですよ。なのに国は小さな勲章を渡しただけ。夫や兄を返して。」

 暴徒は手がつけられない状況になり、とうとう桂首相官邸にも及ぶようになるなど一時無政府状態が続きました。このため、桂太郎内閣は軍隊や警察に権限を委ねる戒厳令を出し、派遣された軍隊と警察は暴徒を鎮圧しました。

 暴徒には右翼の連中やかつて自由民権運動で活躍した河野広中がいました。

 

 損害は戦費だけでなく、戦死者も膨大なものとなりました。日露戦争の戦死者は5万人に及びました。

 さらに前線で病に罹ったり、負傷したりして後に亡くなった人を含めると8万人にもなります。そのほとんどは職業軍人ではなく、町や村から召集された若い兵士達でした。夫や兄、弟、そして息子を失った遺族は大変苦しい生活を強いられました。その他にも増税国債の購入、寄付、軍馬などの財産提供で生活苦に陥った国民もたくさんいました。

 

 また、戦地から帰ってきた兵士達の素行も問題視されました。徴兵を余儀なくされ、人を殺さざるを得なかった彼らは自暴自棄になり、生業を放り投げ、酒や奢侈にふける毎日を送るようになってしまった。また、ロシアに勝利するという目的を果たしてしまったことで目標を失った多くの国民には呆けた状態が目につくようになりました。

 さらに、戦争によって腕や足を失った重傷兵の社会復帰は困難を極めました。彼らは十分に労働にありつけず、政府は廃兵院という負傷兵の生活施設を設立するも大した効果は上げられませんでした。その結果、負傷兵の中には生活苦のあまり犯罪に走るものが続出しました。

 また、政府や国家に対する不信感からそれまでの資本主義に対抗する新しい思想である社会主義に飛びつく知識人や思想家も現れました。(次回以降紹介していきます。)

 新聞や雑誌などのマスメディアが日本の勝利を大大的に発表したことで、世論は熱狂したのです。しかし、ポーツマス条約はその期待に反した内容だったため、反感は非常に強いものとなりました。

 まもなく桂太郎内閣の支持率は急落します。そして1905(明治38)年末、桂太郎内閣は総辞職に追い込まれました。総理大臣を継いだのは以前から政友会が明治天皇に推薦していた西園寺公望でした。

 

 日露戦争では強国ロシアに勝利したことで、日本の国際的な地位は大きく向上しました。当時、八大強国と呼ばれる国々が存在しており、日本はその中の八番目の国としてランクインすることが出来ました。イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、オーストリアハンガリー、そして日本です。アジアに独立運動の気運を促した日本は皮肉にもヨーロッパ列強と同じくアジアを支配する側にまわるようになります。

 

 明治維新以来、日本は富国強兵を推し進めてきました。しかし、その軍備増強には多額の費用がいります。その費用は言うまでもなく国民から徴収された税金によって賄われます。

 それを軍備という非生産的で利益を生まない行為に向けられたことで、今後国民の生活はどんどん苦しいものになっていきます。戦争は勝っても負けても地獄が待っているということを当時の日本人は思い知らされたのではないでしょうか。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

子供達に伝えたい 日本の戦争          皿木善久=著 産経新聞

教科書よりやさしい世界史                   旺文社

風刺漫画で日本近代史がわかる本         湯本豪一=著 草思社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社

【ポーツマス条約】なぜ日本はロシアから賠償金を獲得出来なかったのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【ポーツマス条約】なぜ日本はロシアから賠償金を獲得出来なかったのか」というお話です。

  今回もストーリーを展開しながら「なぜロシアは賠償金請求に応じなかったのか」を見ていきたいと思います。

 今回の登場人物は、日本の総理大臣は桂太郎外務大臣小村寿太郎、元老の伊藤博文、ロシアの皇帝はニコライ、全権大使はヴィッテ、そしてアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領です。

日露戦争講和条約であるポーツマス約では、日本はロシアに樺太の割譲と賠償金の支払いを要求します。しかし、ロシアのニコライ皇帝は賠償金の支払いには断固反対。ルーズベルト大統領の説得により、日本は賠償金の支払い要求を放棄する代わりに樺太の南半分をロシアから譲りうけることで妥結しました。

 

 1904(明治37)年2月に勃発した日露戦争は3月に満州にある奉天での会戦を迎えました。60万人の日露の大軍が激突しました。日本軍は奉天を陣取るロシア軍を包囲して殲滅しようと動いたところから本戦に突入。10月になると、ロシア軍は余力を残しながら撤退をはじめ、戦いは日本軍の勝利に終わりました。

 しかし、日本軍にはロシアを追撃する体力は残っていませんでした。陸軍は武器も兵士も底をつき、完全に疲弊してしまいました。

 日本政府としては、この勝利を機に何とか停戦協定に持ち込みたかった。というのも、日本は兵力の欠乏だけでなく、イギリスやアメリカの富豪から多額の借金を重ねているため、これ以上戦いを続けると国が荒廃してしまいます。

 

 しかし、ロシア皇帝のニコライは、停戦協定の講和にまったく応じようとしなかった。というのも、ロシアにはヨーロッパ方面に100万人の兵士がスタンバイしており、なおかつロシア海軍バルチック艦隊が極東へ刻々と向かっていたからである。

 

 翌1905(明治38)年5月、対馬湾に入ったバルチック艦隊東郷平八郎率いる連合艦隊と激突。東郷の指導力により、バルチック艦隊を全滅させることに成功しました。これを日本海海戦と言います。

 ニコライ皇帝の期待はことごとく粉砕されました。これによって、ニコライ皇帝もさすがに講和に傾くようになります。

 

 日本政府は今度こそ停戦協定に持ち込もうと、日本海海戦後のわずか4日後、ワシントンの日本公使が当時のセオドア・ルーズベルト大統領に講和の話合いの斡旋(仲介)を申し入れました。これは元老・伊藤博文からの命令でした。

ルーズベルト大統領に日本の立場を説明して講和の斡旋を依頼してくれ」

 

 一方、日本国内では「戦争を継続せよ。遼東半島を奪った憎きロシアを完膚なきまでに叩き潰すのだ。」という声が高まっていました。

 

 同年6月、依頼を受けたルーズベルトは、日露両政府に講和会議を開くよう勧めました。会議の場所を決めようとしても、すっかり犬猿の仲になっていた日本とロシアで意見が合わず、仲介役のアメリカが自国のポーツマスで開くよう提案しました。日露両政府は同意したことで、日露戦争の講和会議が開かれました。

 

 同年7月、外務大臣小村寿太郎は、アメリカのニューハンプシャー州に到着。日本の勝利が決定的となった日露戦争の講和について、ロシアと交渉するのでした。

 

 同年8月9日、小村はロシア全権大使のヴィッテと交渉を開始。日本は様々な権利を獲得しました。

1.ロシアは日本の韓国に対する指導、保護、監理する権利を認める。

2.日露両軍は満州から撤退する。

3.ロシアが中国から租借した旅順・大連(遼東半島)を日本に譲る

4.ロシアが満州に敷設したシベリア鉄道の支線である東清鉄道の南部支線(長春~旅    順口間)の経営権を日本に譲る

5.ロシアは日本の沿海州・カムチャツカの漁業権を認める

 

 この他にも日本は様々な権利を獲得します。以上の条件は、曲折はあったものの妥結しました。

 最後まで残ったのは樺太と賠償金の支払いでした。しかし、ヴィッテは両条件とも拒否。交渉は暗礁に乗り上げていました。

 ヴィッテの言い分はこうだ。

「ロシアは戦いに負けはしたが、屈服はしていない。」

 実はヴィッテは本国を出港する際、ニコライ皇帝から「一銭の賞金も譲渡してはならぬ」と釘を刺されていたのです。

 ヴィッテは宿泊中のポーツマスのホテルを勘定を済ませ、9月5日発の汽船を予約。帰国する姿勢をみせるなど挑発行為に出ました。

 

 これに対し、小村も強硬な姿勢で臨みます。小村は日本の首相・桂太郎

「講和決別の可能性。戦争継続やむなし。よってポーツマスを引き揚げる」

 という電報を打ちました。

 しかし、桂は小村に何とか講和を継続するよう命じました。

 

 小村はヴィッテに譲歩案を提示しました。

樺太の割譲と戦費賠償は何とか考慮して頂きたい。そうしてくれれば、他の要求は撤回しても良い。」

 先述通り、日本はイギリスやアメリカの富豪から多額の借金を抱えています。ロシアに何とか戦費を賠償させ、借金返済に充てなければ、日本は債務国になってしまいます。

それだけではありません。

 このまま戦争を続けると、冬が来てしまいます。冬のロシアは極寒の地であり、兵士が大量に凍死してしまう危険性があります。雪国専門部隊であるイヌイットの援軍が加勢してきます。かつてナポレオン軍も、ロシアの冬によって壊滅しています。

 地政学的に言っても、大陸で戦う場合、長期戦では大陸国に勝機があり、島国の日本は必ず負けます。つまり、日本はこのままロシアを深追い出来ないのです。

 小村は何とかこの講和会議で、停戦に持ち込なくてはなりません。小村はロシアの強硬姿勢に焦り始めます。

 

 実はロシアのヴィッテ自身も今回の交渉を収束させ、戦争を終わらせたいと考えていました。というのも、この当時、ロシア国内ではロシア革命が起き始めており、各地で反乱や暴動が頻発していたのです。このまま交渉が決別してしまえば、国内情勢だけでなく、対外危機にも対応しなければなりません。ヴィッテは実に冷静なものの見方が出来ていたのでした。

 

 しかし、小村もヴィッテも「国家の名誉」を背負っている以上、安易に妥協案に甘んじるわけにはいきません。

 交渉が平行線のまま続く日露の交渉に見兼ねたアメリカのルーズベルト大統領は日露両元首に親書を送り、説得に入ります。

 ロシアのニコライ皇帝にはドイツのウェルヘルム2世、フランスのルーヴィエ首相などが動員され、説得に当たった。

 日本の明治天皇にも、

「ロシアから巨額の賠償金を取るために戦争を続けるのは誤りである」

と勧告し、譲歩を迫ります。

 

 日本政府は御前会議を開き、樺太の割譲と賠償金を放棄してでも講和成立は急務だと結論に至ります。そしてアメリカの小村に

「何としても講和を成立させよ。」

 と最終電報が打たれました。

 こうして最後の講和会議である8月29日、最後に残された樺太の割譲と賠償金問題は、日本が賠償金支払い要求を放棄し、ロシアが樺太の南半分を日本に割譲することで妥協が成立。

 そして9月5日、日露戦争開戦から1年7カ月後、ポーツマス条約が正式に調印されたのでした。

 

 これに対し、日本国内では「戦争に勝ったのに、一銭も取れないとは何事だ。」と講和破棄を求めた民衆の暴動が起きました。強気の小村でも妥協しなければならないほど、日本は戦争で疲弊しきっていたのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

斎藤孝の一気読み!日本近現代史         斎藤孝=著  東京堂出版

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

坂の上の雲』の時代                     世界文化社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社

【日露戦争】なぜ日本はロシアに勝つことが出来たのか【高橋是清】

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【日露戦争】なぜ日本はロシアに勝つことが出来たのか【高橋是清】」というお話です。

 1904(明治37)年、日本の連合艦隊遼東半島(りゃおとうはんとう)にある旅順港のロシア太平洋艦隊に攻撃をしかけるカタチで日露戦争が勃発しました。

 日露戦争は、日清戦争と違い、速射砲や連発式銃といった新型強力兵器が大量に投入され、日本は100万人の兵士を大陸におくるなど前代未聞の総力戦になりました。本格的な近代戦です。

日本に比べて圧倒的な軍事力をもつロシアに日本はなぜ勝つことができたのでしょうか。広大なロシアの陸海軍は、ほとんどヨーロッパ方面に集中しており、極東方面には分散された状態だったのです。

 

 当時、ロシアは世界の超大国であった。ロシアの面積は日本の約50倍、人口も2倍以上、国家財政は8倍の規模です。軍事力を比較しても陸軍の総兵力では日本が20万人に対し、ロシアは200万人、海軍の総トン数も日本が26万トンに対してロシアは80万トン。

 これほどの国力差で、日本はなぜロシアに勝つことが出来たのでしょうか。

 日本にとって有利だったのは、ロシアはあまりに広大な国土のため、陸軍の主にヨーロッパ方面を拠点としており、海軍の艦隊も北欧のバルト海黒海ウラジオストック、そして中国から租借した旅順に分散されていた点です。

 するとロシアの在極東軍に限っては、総兵力の10分の1以下の10万人で、海軍の総トン数も19万トンにまで落ちてしまうのでした。

 

 

 

 この弱点を補うために当時ロシアは、ヨーロッパ方面のモスクワから極東のウラジオストックまで繋がるシベリア鉄道の建設を急ピッチで行っていました。これによって、ヨーロッパ方面の陸軍を極東にまで輸送するのです。しかし、開通は日露戦争末期でした。艦隊もヨーロッパ方面から極東まで来るのに時間もお金もかかってしまいました。 

日露戦争は戦費のあてもなく始めた無謀な戦争でした。イギリスやアメリカの富豪から外債を買ってもらうことで何とか戦費を調達することができました。しかし、これによって日本は債務国になってしまいます。

 

 

 

 さらに戦費の面でも日露の格差は歴然としていました。日本の年間歳入が約2.5億円に対しロシアの年間歳入は20億円です。しかし、日露戦争で消費した戦費となるとロシアはほぼ年間歳入に匹敵する22億円に対し、日本は年間歳入の7倍である17億円に膨れあがっています。

 

 にわかには信じ難いことですが、日露戦争は戦費確保のめどがたたないまま始めてしまった無謀な戦争だったのです。

 日本は実に13億円もの戦費をどのように調達したのでしょうか。

 

 1904年早々、日本は同盟を結んでいるイギリスに財政援助を求めるも、イギリスは財政難を理由に支援を拒絶しました。2月に入って、日露戦争は始まると、政府は戦費調達のために増税を行いました。しかし、増税だけではとても賄えそうにありません。

所得税、営業税、酒税・・・・そして新しく織物消費税、通行税とあらゆるところで増税を行いました。しかし、これだけではとても賄えそうにない・・・。」

「長期戦に持ち込まれたら、資金面では絶対に勝ち目はありません。」

 

 頼みの綱はただ1つ。イギリスやアメリカなどの同盟国や友好国の人々から外債を買ってもらうことでした。そこで政府は高橋是清(たかはしこれきよ)渡航させ、外国で国債を発行させる、外債の募集となりました。こうして我が国の興廃をになった日本銀行副総裁の高橋是清はアメリカとイギリスに向かいました。

 日露戦争開始直後、まず、アメリカに渡った高橋でしたが、アメリカの資産家達を片っ端からあたってみるも、当時のアメリカは(今もそうかな?)黄色人種に対す偏見が強く、その黄色人種の小国が白人の老大国・ロシアに勝てるとは夢にも思っていませんでした。したがって、外債の引き受けに応じる人はほとんどいませんでした。

 

 焦る高橋は次にロンドンに飛び、ロスチャイルド家をはじめイギリスの金持ちたちに積極的に接触をはかり、好条件を示すものの、予定していた半分(500万ポンド)しか外債をさばくことが出来ませんでした。

 

 途方に暮れる高橋・・・・。一体どうしたら良いのだ。

 

 ある日、知人から晩餐会に招かれたときです。高橋の隣に座ったのは、アメリカの富豪ヤコブ・シフでした。シフは高橋の話を聞いて外債の残り500万ポンドを「自分が引き受け、アメリカで発行する」と約束してくれました。

 シフはロシア系アメリカ人でユダヤ人です。ロシアがユダヤ人を迫害していることに我慢ならず、ロシア帝国の滅亡に期待し、日本に協力することにしたのです。

「我らユダヤの仇(かたき)をとってくれと言ってるんじゃない。信じたいんだ。ロシアを倒してくれる国があることを。」

 シフはたまたまイギリスを旅行中で、これまた高橋是清の隣に座ったのです。まさに高橋の強運が日本を救うことになったのです。

 こうして13億円の3分の2にあたる約8億円あまりを外債によって賄うことが出来ました。すなわち、日露戦争の費用の約半分は外国の資本で賄われたのです。

 このように日露戦争とは、外国の資本で戦った戦争だったのです。

 

 当然ですが、戦争のあとには膨大な借金が国家に残るのでした・・・。この借金を解消するべく日本は、この後の第一次世界大戦に参戦していくのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

坂の上の雲』歴史紀行                     JTBのMOOK

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社

【日露戦争】なぜ日本はロシアに宣戦布告したのか【小村寿太郎】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【日露戦争】なぜ日本はロシアに宣戦布告したのか【小村寿太郎】」というお話です。

 本題に入る前に、そもそもロシアはなぜ南下してくるのかについて考えたいと思います。

 答えは簡単です。

 寒いからです。ロシアって国土の大半は極寒の地で、とても人は住めない地域なのです。中にはマイナス60°といった人が数時間で凍死してしまうような気温の地域もあります。人間は本来、暖かい、若しくは暑い地域で住む生物なので、寒さに対してはめっきり弱い生物なのです。

 さらにロシアのような極寒の地域は農業にも適しません。特に畜産業に関しては、ほとんど発達させることが出来ず、安定的な収穫を得ることが出来ずにいました。

 また、軍事面でも不利な条件下です。ロシアの主要港は全て冬季になると海面が凍ってしまい、艦隊の停泊や出動を著しく阻害します。砕氷船と呼ばれる氷を割りながら進む船を必要とするなど時間や労力をかけなくてはいけません。

 このようにロシアの南下政策は、国力増強において非常に重要な政策なのです。

 それでは本題に入ります。

 なぜ日本は超大国であるロシアへ宣戦布告したのでしょうか。結論を最初に言うと、日本とロシアは互いに交渉し、押したり引いたりの関係が続いていたのですが、とうとう我慢できなくなった日本側が開戦に踏み切ったということになります。ロシア側も日本をイライラさせ、戦争に踏み切るよう仕向けたのでしょう。

 それでは今回も、ストーリーを展開しながら、なぜ日本はロシアに宣戦布告したのかをご紹介していきます。

義和団事件はロシアという「招かれざる客」を呼び寄せました。ロシアは満州に居座り、朝鮮との国境に軍事施設を建設します。ロシアに朝鮮の権益を奪われることを警戒した日本はロシアと交渉します。しかし、ロシアは断固とした反対意見を述べるだけでなく、朝鮮の利権まで主張しました。日本とロシアの関係は悪化していくのでした・・・。

 1900(明治33)年、清国では列強諸国の植民地支配に反対した義和団という宗教団体が、各地で反乱を起こしました。(義和団事件

 義和団事件は列強各国が派遣した軍隊によってすぐに鎮圧されましたが、別の重大な事件も招いてしまいました。実は、義和団の攻撃は満州にも広がり、ロシアが建設中であった東清鉄道も狙われました。ロシアは鉄道保護という名目でシベリアから大量軍隊を送り込み、

 義和団と手を組んだ清国軍はロシア軍の弾薬集積所を爆破しました。これに対してロシアは3000~4000人もの中国居住民を大量虐殺。ロシアさらに1万の兵を満州に送り込み、一気に満州全体を占領下に置いてしまった。そしてロシアは清国と密約を交わし、満州を事実上ロシアの領土としてしまいました。

 

 欧米各国の鎮圧軍が引き揚げたあとも、ロシア軍はいぜんとして満州に居座り続けました。さらに、清国から租借した遼東半島(りょうとうはんとう)にロシアは軍事基地を建設。沿岸部には旅順港(りょじゅん港)を建設しました。そこに北方の満州を加えることで、シベリアを通って直接太平洋に通ずる念願の不凍港を手中に収めたのでした。

 

 そしてロシアは日本の占領下である朝鮮をも手中に収めようと画策を始めます・・。

 

 このような露骨な南下政策に対し、日本の政府や軍部のロシアへの警戒心は最高潮になります。海軍大臣で後に総理大臣にも就任する山本権兵衛(やまもとごんべい)も、「いずれはロシアと戦うことになるだろう」と腹をくくったのもこの頃です。

「しかし、日本の軍備拡張はまだ途上にあり、世界の大国ロシアと真っ向から戦う力はとてもない。ロシアとの戦争は何とかして回避したいものだ。」

 

 日本の軍備拡張はあくまで牽制行為であり、政府内ではロシアと戦争を始める意志はありませんでした。伊藤博文首相率いる当時の政府は戦争を回避するため、あるいは有利に導くための様々な外交政策が議論された。

 そんな中1902(明治35)年に桂太郎内閣が誕生しました。桂は新たに小村寿太郎外務大臣に任命。以後、桂と小村のコンビによる外交政策が始まりました。

 

 政府内で提案された外交政策日英同盟論と日露協商論のふたつでした。

イギリスと同盟を結ぶことでロシアを牽制するべきだ

という日英同盟論を唱えたのは、桂や小村などの現役陣。

ロシアとの平和的協調を軸に東アジアの勢力範囲の画定を行うべきだ。

という日露協商論を唱えたのは大御所政治家である伊藤博文井上馨などの元老達でした。

 明治天皇を含めた御御所会議の結果、締結するのは日英同盟に決まりました。そして1902年(明治35年)、日英同盟が締結されました。世界最強の海軍力を誇るイギリスと手を組んだ日本は、大きな自信が湧きあがり、ロシアを牽制することが出来ました。

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 日本とイギリスが手を組んだことに驚愕したロシアは、間もなく、清国と満州を還付する条約を締結し、満州から3回にわけてロシア兵を撤退させることを約束しました。日英同盟の効果は抜群だったようです。

 しかし、1回目の撤兵は実行されたものの、2回目の撤兵は約束の期日になっても実行されることはありませんでした。そればかりか、ロシアは1903(明治36)年に清国と韓国(朝鮮)の国境に軍事基地の建設を行うようになりました。遂にロシアが韓国への進出意図を示し始めたのです。

 

 その結果、日本国内の反ロシア感情は、最高潮に高まり、「ロシア許すまじ」の気運が高まりを見せました。

 この国民感情を煽ったのは、当時の新聞や雑誌などのマスメディアでした。明治時代は、ジャーナリズムが発達した時代です。各新聞はロシアとの開戦派、非戦派に分かれ、さかんに議論が行われました。しかし、開戦派が圧倒的多数を占め、唯一、非戦論を唱えたのは『万朝報』という新聞であり、内村鑑三与謝野晶子幸徳秋水などの人々が非戦論を唱えました。

 

 一方、政府内部では非戦論派が優勢でした。

「今の我が国の軍事力と経済力では超大国・ロシアに勝ち目はない。」

「しかし、だからといって、このまま朝鮮半島の利権をロシアに譲り渡すわけにはいかない。」

「何とか話し合いで解決出来ないものか」

 

 1903(明治36)年7月、小村はロシアと交渉を始めました。8月には小村は第一提案を示します。

「日本の朝鮮における権益、そしてロシアの満州における権益を互いに認め合いましょう。」

 いわゆる「満韓交換論」です。

 ロシア側はすぐに回答をしました。しかし、それは日本には受け入れ難いものでした。

満州及び、その周辺はそもそも中立地帯であり、日本の利権範囲外である。その中立地帯をなぜ交換の条件とするのか」

 さらにロシアは続けます。

「日本による朝鮮の軍事的支配も認めない。北緯39度以北を中立地帯とせよ。」

 一見、建設的な妥協案に見えますが、要するに「朝鮮半島の北側をよこせ!」ということです。ロシアは強硬姿勢に出たのです。

 

 それでも小村はロシアと交渉を続けます。

 交渉は7カ月に渡って行われましたが、とうとうロシアはその態度を変えることはありませんでした。日本も妥協点を見つけることが出来ず、いよいよロシアとの国交断絶は不可避なものとなった。

 

 この間にも各新聞は開戦論を書きたて、国民感情を煽ります。そして最後まで非戦論を唱えていた『万朝報』も10月には主戦論に転じ、政府の弱腰外交を非難するようになりました。やがて国民のロシアに対する敵がい心は頂点に達しました。

 

 こうしたロシアの強硬姿勢と世論の高まりを受け、翌1904年1月、ロシアとの戦争反対であった伊藤博文井上馨も遂に「戦争やむなし」と明言するようになりました。

 しかし、事ここにおよんでも明治天皇だけは開戦をためらっていました。

 そんな中、ロシアが旅順港に停泊させていた太平洋艦隊の行方がわからなくなるという知らせが政府首脳に届きました。

「さては、ロシアが軍事行動に移ったか。遂に開戦の時だ!!」

 焦りを覚えた軍と政府の首脳部は臨時会議を開催。この会議において明治天皇は遂に開戦を決定。翌日、ロシアに宣戦布告の知らせである最後通牒を発するのでした。

 会議を終えた明治天皇は涙を流されていました。

「今回の戦争は私の意志ではない。しかし、ここに至ってしまっては、これはどうすることも出来ないのだ。もし、戦争に敗れることがあれば、私は何と祖先にお詫びし、国民に対することが出来ようか」と述べたのでした。

 

 こうして1904(明治37)年2月、日本が最初に攻撃をしかけるカタチで日露戦争が勃発。日本は坂の上を昇り始めたのでした。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

写真で読む 坂の上の雲の時代                 世界文化社

風刺漫画で日本近代史がわかる本         湯本豪一=著 草思社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著  祥伝社

【松方財政】お金を焼き捨てた!?松方正義のデフレ政策とは【松方正義】

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【松方財政】お金を焼き捨てた!?松方正義のデフレ政策とは【松方正義】」というお話です。

 お金には、金(ゴールド)と交換出来る価値のあるお金と、金と交換出来ない価値のないお金があります。前者と兌換紙幣と呼び、後者を不換紙幣と呼びます。当時は、交換のことを兌換と呼んだため、兌換紙幣と呼ばれるようになりました。

 江戸時代には小判という金(ゴールド)を含んだお金が流通しており、小判そのものに価値がありました。また紙幣も、各藩が発行しており、いつでも必要に応じて金(ゴールド)と交換出来る兌換紙幣が流通していました。

 これに対して明治以降になると、政府紙幣国立銀行紙幣は金(ゴールド)と交換出来ない不換紙幣ばかりになるのでした・・・。

 

 1868(明治1)年に、太政官札という日本で初めての全国共通の紙幣が発行されました。1871(明治4)年の新貨条例によって円(えん)、銭(せん)、厘(りん)という単位に統一され、十新法も採用されました。

 1872(明治5)年には渋沢栄一を中心に国立銀行条例が発令され、百何十を超える国立銀行が設立されました。国立銀行国立銀行紙幣を大量に発行し、太政官札と同様に明治を通して流通しました。

 

 1870年代、日本の財政は大蔵卿・大隈重信によって行われてきました。大隈は積極財政を展開し、殖産興業のために膨大な量の不換紙幣を乱発しました。

 

 そして1877(明治10)の西南戦争では、実際のモノやサービスに対する需要が高まり、政府は膨大な戦費を捻出するために膨大な紙幣を発行しました。

 しかし、これらはすべて金銀と交換することの出来ない価値のない不換紙幣で、そのようなお札が溢れたことで、物価が上がるインフレーションが起きてしまいました。

 

 このインフレは政府の財政を圧迫しました。当時、政府財源の大半は地租でした。地租とは現金ですから、紙幣価値が下落したことで、政府の実収入は激しく目減りしてしまったのです。

 政府はこの状況を打開する必要性がありました。1881(明治14)年に大隈重信を追放したいわゆる明治14年の政変後、大蔵卿に就任した松方正義

 歳入を増やすにはどうしたら良いでしょうか。

 歳入を増やすには、収入を増やし、支出を抑えることです。

 松方は当初、地租を上げようと考えます。

「しかし、地租に手をつけると、農民達の一揆が起きる。」

 実は数年前に地租税率引き下げを求めて農民一揆が起こし、地租税率が3%から2.5%に引き下げたばかりでした。

 松方はタバコや酒などの嗜好品に税金をかけました。

 同時に、軍事費以外の政府費用を徹底的にカットし、大幅に支出を抑えたのです。

 実はこの頃の東アジア情勢は、朝鮮半島において日本が強引に不平等条約(日朝修好条規)を結んだことに対する反日運動が起きており、中国が朝鮮の内乱と日朝関係の悪化を警戒している状態であり、東アジアが緊張状態にありました。このような国際情勢で、軍事費を削減するのはあまりにリスクが大きいことだったのです。

 

 まもなく歳入は増えました。

 しかし、松方はこの後、驚くべき行動にでます。

「政府の役割は、物価を安定させること。物価安定なくして経済成長はありえない」

松方は、インフレーションを抑えるためにデフレーション政策に乗り出しました。しかし、そのやり方はかなり強引なやり方でした。

 

 松方は税金によって集めた不換紙幣をどんどん焼却していきました。市場に出回っていた太政官札や国立銀行紙幣は再び市場に出回らないようにし、市場に流通している不換紙幣を急速に減らしていきました。

 

 さて、市場のお金の数量が減ったので、お金の価値はどうなりますか。

 そうですね。お金の価値は上がります。松方の不換紙幣整理によって、紙幣の価値は大きく上昇しました。

 また、外国貿易においては輸出を奨励し、当時の日本の主力製品は生糸であり、世界でも人気商品で爆発的に売れました。この結果、日本には大量の金銀が支払われ、正貨として蓄積することが出来ました。現在の経済政策は、なかなかうまくいきませんが、当時の日本では成功したようです。

 

「古いお札はあらかた処分した。正貨も集まった。これからは、日本銀行だけが紙幣を発行する。」

 1882(明治15)年、中央機関として日本銀行が設立されました。松方は当初、ヨーロッパ諸国にならって金と交換出来る金本位制を理想としていました。しかし、実際に多く蓄積していたのは銀貨だっため、日本銀行は銀と交換することが出来る銀兌換紙幣を発行。その結果、紙幣の価値は急速に回復していきました。

 こうして松方は政府の財政を立ち直らせるだけでなく、日本における銀本位制をみごとに確立させたのでした。同時に日本は先進国と肩を並べる近代国家になることが出来ととも言えるでしょう。

 

 松方の政策は、副作用として深刻なデフレーションを招いてしまいました。出回っていた古い紙幣を焼却してしまったのですから当然ですよね。新しい日本銀行券も、銀の保有数以上に発行することは出来ません。

 

 経済は不況となり、火が消えたように冷え込んでしまいました。これを松方デフレと言います。農作物の値段が下落したため、それを売って生活していた農民達の収入は激減。その日の生活にも困る有様となった。

 政府の財政再建は、国民の犠牲の上に成り立っていたのです。

「これじゃぁ、地租も払えねぇよ。借金でもするしかねぇよな。」

 農民達は持っている土地を担保に高利貸しからお金を借りますが、そのバカ高い利子が雪だるま式に膨らみ、最終的に担保に入れていた土地を手放さなくてはなりませんでした。それまで自作農だった農民は、次々に小作農に転落。やがて口減らしのために娘を身売り同然で工場に働きに出さざるを得なくなったのである。この娘達の安価な労働力は日本の産業革命を支え、資本主義が徐々に確立していくのでした・・・。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 このように明治政府と日本の産業革命は、国民の犠牲の上に発展していったのです。しかし、これは、130年前の昔話ではありません。現代の日本はまさに明治時代への逆戻りが始まっていると言えるでしょう。

 消費税や住民税は上がる一方。

 増え続ける国債発行。

 年金の減額。

 企業は正社員ではなく、たくさんのアルバイトや派遣労働者を雇用。

 十数時間におよぶ長時間労働を強いるブラック企業の増加。

 

 時計の針が逆戻しされる非常事態が起こっています。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

日本のお金の歴史                草野正裕=著 ゆまに書房

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社

【新貨条例】金本位制をわかりやすく

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【新貨条例】金本位制をわかりやすく」というお話です。

 明治時代になってお金はどのように変わったのでしょうか。明治政府の最重要課題は、欧米列強のような近代国家を樹立することでした。そのために政府は「文明開化」、「富国強兵」をスローガンに次々に近代化政策に取り組みました。

 今回は政府が取り組んだ近代化政策のうちの貨幣・金融制度の改革について見ていきましょう。江戸時代から明治時代に変わって「お金」はどのように変わったのでしょうか。そして、金本位制についてわかりやすく説明したいと思います。

明治政府は新貨条例を公布し、全国統一の通貨制度を確立しました。新貨条例では100円札は150グラムの金貨と交換出来るとしました。当時のお札は、必要に応じて、いつでも金貨と交換出来る価値のある「お金」だったのです。このように金貨と交換出来る紙幣のことを兌換紙幣とよび、金貨を紙幣発行の担保とする制度のことを金本位制と言います。

 

 明治時代の前代である江戸時代は完全な地方分権制度でした。地方分権とは、例えば、薩摩藩は「薩摩国」という1つの国であり、長州藩は「長州国」という1つの国のような自治権を持っていました。明治維新とは一言でいうと、これらの国を全て統括し、日本という1つの国を創ったということになります。

 これは通貨においても同じでした。江戸時代までは、薩摩藩には藩独自の「藩札」とよばれるものがあり、長州藩には藩独自の藩札がありました。したがって、 鹿児島県から山口県に旅行に行く場合は、現在の海外旅行と同じように薩摩藩札を長州藩札に替える必要があります。その際も、現在の円をドルに交換するときと同じように為替相場にあたる金相場というものがあり、それに則って、紙幣を交換していました。

 つまり、中央政権である江戸幕府は、全国の「お金」をコントロールする権限を持っていなかったのです。貨幣改鋳などの命令することはあっても、紙幣発行をするのは、あくまでそれぞれの藩であり、お金や経済をコントロールする権限は、すべて諸藩が持っていたのです。

 

 ところが、明治維新によって大きな転換点を迎えます。各藩ごとに紙幣が違っては日本国内の経済だけでなく、外国との貿易の支払いも著しく阻害されます。

 中央集権国家の確立し、経済の活性化を目指す明治政府は、1868(明治1)年、太政官とよばれる日本で最初の全国で通用する紙幣を発行しました。

 さらに、1871年、新貨条例が発令され、通貨は円(えん)、銭(ぜん)、厘(りん)という単位に統一され、江戸時代の1両を1円、1円は100銭、1銭は10厘というふうに10新法が採用されました。

 新貨条例によって発行された100円札は、金貨150グラムと交換出来るとしました。このように紙幣をいつでも必要に応じて、金貨と交換することが出来る制度のことを金本位制と言います。

「え?お金って金(ゴールド)と交換できるの?」

 現在は出来ません。現在の紙幣は金(ゴールド)を担保に発行していないのです。

  しかし、昔は違いました。

 「お金」という文字に注目して頂きたいのですが、お金とは、もともとは金(きん)、ゴールドだったのです。ところが、金塊(きんかい)は重いし、持ち運びには不便なので、金匠に預け、代わりに紙で出来た「預かり証」というものを発行してもらいました。この「預かり証」がお札の原型です。そして「預かり証」をお金としてモノやサービスと交換(取引)していたのです。

 なので、その「預かり証」を金匠のもとへ持って行き、「金に換えてください」と言えば、いつでも金に換えてもらうことが出来たのです。

したがって、明治政府が保有する金量によって発行出来る「お札」の量は制限されていました。

 

 このように金貨と交換出来る紙幣のことを兌換(だかん)紙幣と言います。当時は交換を「兌換」と呼んだので、交換紙幣ではなく、兌換紙幣と呼ばれています。また、交換される金貨のことを「正貨」と呼んでいました。

 もっとも、中国をはじめアジアの国々は銀貨を貨幣の中心とする銀本位制でしたから、アジア諸国との貿易において支払いには銀が使われました。したがって、実際には金本位制というよりは金銀複本位制でした。

 このように紙幣とは金貨と交換出来る「価値をもったお金」だったのです。

 

 一方で、金を担保としていないお金も存在します。これを不換紙幣と言います。不換紙幣とは文字通り、金と交換することが出来ない紙幣のことで、価値のないお金のことです。

 

 なぜ、このような不換紙幣が出回るようになったのでしょうか。

 実は先程の金塊を預ける金匠が、あることに気付いてしまったのです。

「あれ?預けてある金塊を取りに来る人が少ないぞ。これ、預かり証をもっと発行すれば、大儲け出来るんじゃないか?」

 と悪知恵が働いてしまったのです。金匠は預かっている金塊以上の預かり証を発行し、自分達でモノやサービスを買ったり、人を雇ったりしました。つまり、ボロ儲けしたということです。

 明治政府はこれに目をつけ、紙幣発行の権限を独占したのです。

 徳川将軍家から政権を引き継いだ明治新政府は、発足当初から財政難で、近代国家樹立どころの話ではなかったのです。とにかく財政資金を調達しなければなりません。そこで、膨大な量の太政官札を発行し、一時的に財政支出に充てることにしたのです。

 しかし、これらは全て不換紙幣であり、金塊を担保としない価値のないお金だったのです。

 単なる昔話だと思ったら大間違いです。近年の経済政策であるアベノミクスや黒田バズーカと本質的には全く同じことです。

 

 しかし、まもなく困ったことが起きました。物の生産はそんなに急には増えないのにお金ばかりどんどん出回るので、深刻なインフレーションを招いてしまいました。政府はその対応に迫られるのでした・・・。

つづく

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

日本のお金の歴史【明治時代~現代】       斎藤孝=著  東京堂出版

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

教科書よりやさしい日本史            石川昌康=著 旺文社