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【リットン調査団】国際連盟は満州事変をどう見たのか【ビクター・ブルワー・リットン】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【リットン調査団国際連盟満州事変をどう見たのか【ビクター・ブルワー・リットン】」というお話です。

 

 日本史において、満州事変は非常に有名な出来事であり、知っている人も多いと思います。しかし、上海事変という出来事を知っている人はすごく少ないのではないでしょうか。

 しかし、この上海事変こそ、日本が国際連盟から非難を浴びるきっかけとなった事件でした。

 第二次世界大戦前、中国の上海は「東洋のパリ」と呼ばれていました。

 上海は19世紀にイギリスに租借され、日本や欧米各国の居留地である租界が形成されました。そして、昭和初期のこの時期、中国最大の港湾都市としてその繁栄を極めていました。

 そんな上海で、1932(昭和7)年1月、日本人僧侶が中国人と思しき人物に殺害されるという事件が発生しました。

 これをきっかけに日本軍と中国軍による軍事衝突が起こりました。これが第一次上海事変とよばれるものです。しかし、これにより、日本は国際連盟からの激しい非難を浴びることになり、結果的に国際連盟を脱退してしまうことになります。

 ということで、今回はそんな上海事変について解説していきながら、満州事変を含む日本の軍事行動を国際連盟はどう見たのかについてご紹介していきます。

国際連盟は、満州事変の事情を調べるためイギリス人のリットン率いる調査団を現地に派遣しました。アメリカや国際連盟は日本の満州事変を激しく非難しました。一方で、リットンは日本の満州における権益を許容していました。しかし、そんなリットンの配慮も「ある事件」によって潰えてしまうのでした・・・・・・。

 日本とアメリカ・イギリスの関係は、1928(昭和3)年の山東出兵あたりから、それまでの友好関係から、中国の権益をめぐって対立する相互不信の関係へと転じていきました。

 その傾向は、1931(昭和6)年に発生した満州事変でさらに深刻なものとなり、この対立構造が、やがて太平洋戦争の勃発へとつながることになります。
 満州事変から10年後の1941年の開戦まで、日本と英米の関係が真に友好的なものになることはありませんでした。

 米英両国が、満州事変で対日姿勢を硬化させたのは、日本が「抜け駆け」的に満州の支配権を奪ったことに加えて、張作霖の暗殺を含む関東軍の強引なやり方が、当時の国際的なルールを破っているとみなされたからでした。第一次世界大戦後、パリ講和会議やワシントン軍縮会議によって、平和秩序をつくるための様々な取り決めがされ、日本もそれに調印しています。

 日本は国際的な非難を避けられない状況まで追い詰められました。

 そこで政府は、早急に戦線の「不拡大」方針を決め、関東軍に対し、戦闘の停止を命じました。

「このたびの関東軍の暴走は、国際社会から激しい非難を受けることは必至だ。それ以前に、関東軍天皇の裁可を含む政府の承認を得ることなしに満州事変を起こしたことは、明らかな違反行為であり、大変遺憾だ。」

 

 しかし、関東軍はその後も、政府の許可を仰がずに軍事行動を続けました。
同1931(昭和6)年10月8日、満州事変に続いて関東軍は高級参謀・石原莞爾の独断で(つまり東京の許可を仰がず)奉天省南西の錦州(きんしゅう)を爆撃しましたが、この爆撃に巻き込まれて大勢の中国人市民が死傷しました。

 これに対し、またもアメリカや国際連盟加盟国は日本を激しく非難しました。

 また、この爆撃に続いて関東軍の地上部隊が錦秋に侵攻して地上戦が発生しましたが、それによってこの都市を通過するイギリス権益の鉄道(北寧鉄道)が使用不能となったため、イギリスは満州事変によって直接的な損害を破ってしまいました。

 こうした状況の中、満州における日本の支配構造が武力で作られつつあるのを見た国際連盟は、「ちょっと待った」とばかりに日本の動きにブレーキをかけました。

 五か国の常任理事国(日本、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア)と九か国の非常任理事国(中国を含む)から成る国際連盟理事会は、満州事変の勃発直後から事態の推移を見守っており、1931(昭和6)年9月30日には「日本軍部隊の満鉄附属地への撤退」を勧告する決議を採択していました。

 しかし、関東軍満州事変での戦いが終わらないうちに、新たな戦闘を中国の港湾都市・上海で起こりました。それは翌1932(昭和7)年1月、上海で日本人僧侶が中国人と思しき人物の襲撃で死亡したことがきっかけでした。

 関東軍は租界の日本人を保護することを名目に、兵を派遣しました。一方、中国軍もこれに対抗して上海に出動しました(第一次上海事変)。
にらみあう両軍は満州事変の余波もあり、有無を言わず交戦に入りました。
日本側は合計2200人。対する中国軍は内陸から3万3000人が出動してきました。市街各地では銃撃戦や手榴弾の投げ合いが始まりましたが、数で劣る日本軍は中国軍に押される状況となってしまいました。
それを聞いた帝国海軍は、関東軍への援軍として上海近海に常駐していた日本艦隊から、水兵による陸戦隊の上陸作戦を企てました。
このとき、司令官を担当していたのは、後に総理大臣にもなる米内光政でした。
「上海で陸軍が苦戦中か・・・・・。」
「はい。長官、どうしますか?」
「よし、日本人居留民の安全を守るのは、陸海軍の共通の目標だ。支那(中国)に大日本帝国海軍の恐ろしさを思い知らせるいい機会だ。」
「はい。では、そのためにはどうすればよいですか?」
「軍令部に出兵要請だ。水兵の陸戦隊を上陸させるのだ。」
米内は急いで徴兵し、海軍陸戦隊をつくりあげました。
こうして満州事変によって始まった日本と中国の戦争は、上海事変によってその戦線は拡大し、戦火は満州から中国全土へと一気に拡大していきました。
同年1932(昭和7)年2月には、満州ではハルピンの占領も完了させました。
こうした一連の軍事行動を仕掛けてきた日本に対し、中国は国際連盟に提訴しました。
さらに中国は連盟の非加盟国であるアメリカ政府にも働きかけ、前記の九か国条約に基づく形で、日本に経済制裁を行う方針も視野に入れ、日本に対抗しました。

そして、満州事変がどのような状況下で発生したのかを調査するため、国際連盟はイギリス人のヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする「リットン調査団」を日本と満州、中国へと派遣し、各国の要人と面会して聴き取り調査を行いました。
リットン調査団が日本に到着したのは、1932(昭和7)年2月29日でした。
第一次上海事変から約1カ月後のことで、その目的は満州事変における日本の主張が正しいのかどうかを調べ、国際連盟に報告することでした。

満州国の建国が宣言されたのは、その翌日のことでした。
日本、中国、満州と関係各国を精力的に回ったリットン調査団は6カ月におよぶ調査の結果を、報告書として完成させ、同1931(昭和7)年9月4連盟本部に提出するためスイスのジュネーブへと向かいます。

この動きを見た日本政府は「連盟から横槍を入れられる前に、満州国独立の既成事実を作ってしまおう」と考え、9月15日に満州国政府との間で日満議定書と呼ばれる文書に調印して、満州国政府を正式に承認すると発表しました。
近現代の外交ルールでは、単に当事者が「独立」を宣言するだけではダメで、他の国が正式にその国の政府を「承認」して外交関係を築かないと、独立国とは見なされなかったからです。
1932年10月1日、リットン調査団による報告書「リットン報告書」が国際連盟で日本と中国を含む各国代表に公表されましたが、その内容は、意外にも日本の立場に一定の配慮を示したものでした。
「リットン卿、それは本当かね?」
「はい。日本に中国進出の意図はありません。彼らの満州国建国までは容認するべきです。我々も世界にたくさんの植民地も持っています。そこまで強い反対は出来ないのでは・・・。」
リットン調査団の構成メンバーは、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカの五か国から選出されましたが、ドイツ以外は全て海外に植民地を持つ大国でした。これらの国から見れば、満州問題であまり日本を厳しく批判すると、自国の植民地支配の正当性が危ぶまれるという危惧がありました。リットンは別に日本の味方をしたわけではありませんが、大英帝国が世界中に持つ植民地の獲得経緯や支配構造と比較した場合、あまり満州問題で日本に対して偉そうなことを言える立場ではない、という事情がありました。

したがって、リットン調査団の総意としては、この問題は日本と中国の2か国で解決するべきだとし、中国に「連盟に頼らずに自分で日本と交渉するべきだ」と勧めました。

こうしたリットンの満州権益の容認に対し、国際連盟は反論しました。
「それでは上海での一件はどうなんだね?リットン卿。」
「そうですぞ。日本陸海軍と中国正規軍が戦っているではないか。」
「日本は上海・・・いや中国全土を狙っているに違いない。」
リットンは言葉を詰まらせました。
「まったく、日本は上海でよけいなことをしてくれた。これでは日本を擁護できないではないか・・・・。」
連盟各国は厳しい口調で日本を非難するようになりました。

参考文献
仕組まれた昭和史    副島隆彦=著 日本文芸社