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【大戦景気と戦後恐慌】日本経済はどのような影響を受けたのか

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【大戦景気と戦後恐慌】日本経済はどのような影響を受けたのか」というお話です。

 

本題に入る前に経済用語の解説をしておきます。経済学には景気、投資(投機)、利潤、賃金、恐慌、物価などのワードがあります。今回は特に「景気」と「恐慌」が重要なキーワードとなります。

「景気」とはお金の回り具合のことを言います。したがって「好景気」とはお金の回り具合が活発な経済情勢のことで、「不景気」とはお金の回りが停滞している経済情勢のことを言います。例えば、クリスマスになると、人々はクリスマスケーキやクリスマスプレゼントを買おうとお金をたくさん使います。すると、ケーキやプレゼントの製造会社(メーカー)が儲かり、そこで働く従業員の賃金(給料)も増えます。すると、その従業員達も給料が増えたことでお金を使うようになります。このようなお金の好循環こそが好景気と言えます。逆に不景気とは、人々が財布の紐を閉じ、消費を控えるようになることで、企業の従業員達の給料も上がらず、消費がさらに滞る状態のことを言います。

「景気」とは循環しており、好景気と不景気を周期的に繰り返しているわけですが、好景気がいきなり不景気にズドーンと急降下してしまうことが起こります。それを「恐慌」と言います。平成時代ではリーマンショックがその代表例といえるでしょう。

こうした恐慌を実は日本は何度も経験しています。

ということで、今回は大戦景気と戦後恐慌についてストーリーを展開していきながら、日本の経済はどのような影響を受けたのかについてご紹介していきたいと思います。

1915(大正4)年~1919(大正8)年、日本は第一次世界大戦の影響で好景気になり、品不足に陥った欧米諸国への輸出が増え、アジア市場から撤退した欧州製品の穴埋めとして日本製品の需要は高まりました。日本は史上初めて工業生産額が農業生産額を上回るようになったのです。しかし、大戦終結とともにヨーロッパ諸国から工業製品の輸出が回復し、戦時中に拡大した日本の生産活動は大きな打撃を受け、1920(大正9)年には戦後恐慌に陥りました。

 

明治後半に勃発した日露戦争以降、日本はイギリスから借りた戦費の支払いが続き、日本の財政は慢性的に悪化、貿易も輸入が輸出を上回っていました。日本は外国に借金を背負う債務国になってしまいました。

 

しかし、そんな日本は大正初期に「天の恵み」とも呼べる好景気を経験します。

1914(大正3)年7月、に勃発した第一次世界大戦です。

第二次大隈重信内閣の時にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発しました。この大戦によって日本は未曾有の好景気を味わうことが出来ました。

1915(大正4)年から輸出総額が輸入総額を上回るようになったのです。

ヨーロッパからの東アジアへの輸出が途絶え、さらに東アジアに拠点を置いていたヨーロッパ系の企業も次々に本国に戻ったことで、欧米製品の穴埋めとして日本製品の需要が高まりました。中国や東南アジアという広大な市場を独占した日本は繊維製品や雑貨などの軽工業を中心に生産を行い、輸出は大幅に増大しました。さらに造船や鉄鋼などの重化学工業も発達しました。日本企業は大変な大儲けをすることが出来たのです。

さらに、大戦での物資輸送に伴う船舶不足から船の価格(船価)や海上運賃も高騰したことで海運業が発達。イギリス、アメリカに次ぐ世界第3位にまでなりました。国内には「船成金」と呼ばれるケタ外れの大富豪が現れるようになります。神戸に本社を置く貿易商社の鈴木商店もその1つでした。このように大戦景気で一攫千金を得た人々は「成金」と呼ばれ、当時の流行語にもなりました。

「旦那様、暗くてよく見えません。」

「どうだ。これで見えるだろう。」

成金となった旦那様は、学校教員の初任給20円の時代に100円札を燃やした灯りで召使いに靴を探させるという風刺画が描かれたほどでした。

 

 

こうした空前の大戦景気によって、資本家階級の人達は潤ったわけですが、一方の労働者階級や一般庶民の生活は苦しいものでした。

その原因も結構バカげています。

「ヨーロッパに大量にモノを輸出し過ぎて、国内が品薄状態になったこと。」

最低賃金などの賃金上昇の対応が遅れていたこと。」

つまり、「給料は増えないのに、物価ばかり上がる・・・」という状態です。この2重の要因が相まって都市に住む工場労働者や低所得者を中心に人々の生計は圧迫されました。

その典型例が米騒動と呼ばれるものです。

米騒動の原因は、米が不作だったことや、お米を食べたいと思う人達が増えてきたことなどの様々な原因があるのですが、直接的な原因は1918(大正7)年8月のシベリア出兵です。シベリア出兵に伴う需要増を見込んで米商人達が一般庶民に米を売り渋るという事態になってしまいました。そりゃ、米商人としても、庶民よりもお金をたくさんもっている国をお客さんにしたいと思うでしょう。

しかし、これがまずかったのです。この年の7月、富山の漁村の主婦達が米価の高騰を阻止しようと運動を始めたのをきっかけに同年8月から9月にかけて全国的に米騒動が発生しました。

第二次大隈重信内閣に代わって、新たに誕生した寺内正毅内閣は軍隊を派遣してこの騒動を鎮圧にかかりました。騒動は1カ月あまりで収まりましたが、武力によって民衆の声を抑えつける寺内内閣は世論から激しい非難を受け、同年9月に退陣しました。

 

 

翌1919(大正8)年、寺内に代わって原敬が総理大臣に就任します。この原内閣が誕生した直後の同年11月、第一次世界大戦終結しました。

それに伴い、全国の投資家達は以下のような予想をしました。

「大戦が終了したことでヨーロッパからの武器や弾薬などの軍需品が途絶えるだろう。」

「ヨーロッパ系企業が再び東アジアの市場に参入してくるだろう。」

この投資家達の予想は見事的中、製糸業をはじめとする日本の輸出産業はたちまち価格の低落に悩むようになりました。当時の日本の製品は、ヨーロッパの製品に比べて粗悪なもので国際的な競争力がなかったのです。

こうした経済界の停滞は同年年11月から翌1919年春までのおよそ半年間に及びました。

しかし、1919(大正8)年の春頃から日本経済は再び好況になりました。ヨーロッパの復興需要が増大したのです。世界貿易は再び活気つき、

そして1919年も後半になってくると、大戦中の大幅な輸出超過からにわかに輸入超過の傾向が強くなり始めます。その原因も、先述の通り、ヨーロッパの戦後復興が完了したことによる需要減。そして日本が大戦中に輸入不可能であったヨーロッパ製の金属や機械類、化学製品その他の製品がようやく流入してくるようになったからです。

戦後恐慌の足跡が忍び寄ります。

そして翌1920(大正9)年になると、生糸や綿糸の物価が徐々に下がり始めます。それでも日本の資本家達はかなり強気な姿勢で株式市場への投機を続けました。物価がすぐに戻るだろうと考えたのでしょう。

しかし、そんな見通しの甘さが大損を招く時が来てしまいました。

1920(大正9)年3月15日、突然、株式市場が大暴落してしまいました。綿糸や生糸をはじめ株価が一斉に暴落しました。戦後恐慌の始まりです。

例えば綿糸相場は3月の628円から10月には250円に、生糸は1月の3958円から8月には1195円に、米は3月の52円から12月の23円にまで急落しました。

大戦景気は一気に消滅し、それまで投機に走っていた企業は大損を出してしまいました。

日本は大戦ブームから一転して戦後恐慌へと急転換していったのです。

 

この大恐慌の結果、経済界の様相は一変しました。大戦中に大胆な取引を行い、巨利をおさめた企業は、戦後も強気な投機を持続したものだから恐慌によって損害をもらったのです。

この結果、比較的堅実な経営方針をとっていた企業と強気一点張りだった企業との間の格差が拡大しました。四大財閥(三井、三菱、住友、安田)が経済界に覇を唱えるようになったのは、大戦中においても投機を戒め、比較的健全な経営を持続していたのです。経営の困難を生じないですんだからである。

反対に、先程の久原房之助の主宰する久原鉱業、久原商事等は、投機の失敗によってほとんど立ち直れないほど打撃を受けました。

鈴木商店も大量の在庫品の価格暴落のために大きな損失を受けました。しかし、同社はなお砂糖の輸出などによって、このときは損失をある程度に食い止めることが出来ました。

輸出産業が大打撃を受けたことで、海軍業に手を出していた多くの企業はいずれも大きな打撃を受けることとなったのです。

 

しかし、この恐慌の影響は、あくまで海外と取引をしている大手企業が被ったことです。恐慌と聞けば、国内の経済は完全に不景気一色のイメージがありますが、この当時の日本経済を不況一色としてとらえるのは少し違和感があります。

というのも、原内閣は積極政策と呼ばれる鉄道敷設などの公共投資によって不況の底を支える効果を上げたからです。

また、原内閣は立ち遅れていた賃金、給料の引き上げも行われました。その結果、1918年まではかろうじて物価に見合う程度のものだった賃金が1919年以降は賃金は物価を上回るようになりました。こうして品不足に伴うインフレーションをカバーすることが出来ました。

つまり、戦後恐慌の影響を受けたのは、海外に輸出などを行う企業であり、国内には必ずしも不況一色だけだったというわけではないのです。

 

そんな原内閣は1921(大正10)年に首相の原敬が暗殺されたことで終わります。原の死後は、政友会総裁を引き受けた高橋是清が組閣します。しかし、政党内で派閥争いなどがあり、まとめるのに不安を覚えたのか、高橋は自ら総辞職しました。高橋の次は海軍の中心人物である加藤友三郎が総理となります。

日本はこの大戦景気のあと、およそ10年以上ものあいだ、長期的な不況を経験することになります。恐慌が繰り返し訪れたのです。

この3年後の1923(大正12)年、戦後恐慌に輪をかけるように災害が起きてしまいました。9月1日に発生した関東大震災です。これによって東京市横浜市の大半が被災し、同地域の工業地帯は大きな損害を受けることになりました。これは日本を戦後恐慌からの回復を遅らせることになりました。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

昭和史 上                 中村隆英=著    登用経済新報社

明治大正史 下               中村隆英=著    東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史          石川晶康=著    旺文社

もういちど読む山川日本近代史        鳴海靖=著     山川出版社

日本史 論述問題集             宇津木大平 他=著  産経新聞