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【姉川の戦い】なぜ浅井長政は信長を裏切ったのか。【織田信長】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【姉川の戦い】なぜ浅井長政は信長を裏切ったのか。【織田信長】」というお話です。

 

激しい戦国争乱の中で、室町幕府の統治力は全く失われ、戦国大名の中には、京都にのぼって朝廷や幕府の権威をかりて全国にその名を轟かせようとするものが多く現れました。その中で、全国統一のさきがけとなったのは尾張織田信長でした。 

 

さぁ、今回も織田信長の統一事業についてご紹介していきたいと思います。1567年に美濃の斎藤氏を制圧した頃、信長は「天下布武」の印文を使い、天下統一の意志を示しました。そんな信長は室町幕府を再興してほしいと頼ってきた足利義昭を1568年に京に入れ、15代将軍に就任させました。義昭はその恩礼として信長に副将軍への誘いを受けました。しかし、信長はこれを断り、代わりに大阪を中心に経済を掌握する権限を義昭からもらいました。

信長は自分の名前で「関所の撤廃」や「楽市楽座」を命令することで、人々に信長って「偉いんだな。」と気付かせようとしたのです。信長のこれらの政策は経済を活性化させ、信長の財政は豊かになりました。これによって銭で雇う軍隊も急増しました。

このように義昭を将軍に祭り上げた信長は、その権限を利用して、自分の名前を全国に知らしめ、どんどん権威を徐々に高めていったのです。

1569年、信長は宿敵・朝倉氏討伐のために越前に攻め入りました。しかし、信長は同盟を結んでいたはずの北近江の名門・浅井氏の謀反を受けます。若大将・浅井長政は朝倉討伐を知らせなかった信長の無礼で軽率な行為と、足利義昭からの打倒信長計画を誘う手紙を受けて信長に宣戦布告したのです。こうして1970年、信長は姉川の戦いで浅井・朝倉同盟軍と激突するのでした・・・。

 

さらに信長は大胆な事をします。信長は全国の緒大名に京に集まるように「召集命令」を出しました。建前は室町幕府再興を祝する式典。しかし、本音のところは全国の諸大名に主人は信長であることを分からせるための大号令でした。

すなわち、「世の中を動かしているのは将軍ではなく、この信長だ。だから今後、諸大名はこの信長に従うように。」ということです。

 

しかし、義昭もバカではありません。義昭も信長の本心に気付き始めました。このままでは自分は利用されるだけ利用されて捨てられると危機感を覚えた義昭は室町将軍という身分を利用して信長排斥を画策します。

義昭は武田信玄などの地方の有力大名に手紙を出しました。そこには、

「わしは今、信長というやつに抑えられている。信長は兵力、権力、そして経済力などあらゆる支配しようとしている。今後、やつに従ったところで厳しい要求を突き付けられ、領地や人民を奪われるのは明白だ。ここは諸大名一致団結して信長に攻め入ってもらいたい。」

という内容が書かれていました。

古くからの秩序をぶち壊し、全く新しい時代を築こうとする信長の存在は、義昭含め全国の諸大名には脅威に映っていました。

 

そんな中、信長の出した「招集命令」を無視した大名がいました。それは越前の朝倉氏です。領主は朝倉義景という人物で、越前の名主です。

「我が家は古くから続く名門。信長など尾張の一大名に過ぎないだろう。そんな成り上がり者の命令をなぜきかなければいけないのか。」

 

しかし、これは信長が「将軍の命令」に背いたということで朝倉氏を討伐する口実を与える結果となりました。こうして信長は朝倉征伐を決めます。

そんな折、信長はある家臣から提案を受けます。

「同盟を結んでいる北近江の浅井氏にも援軍を要請したらいかがでしょう。」

浅井氏とは北近江(滋賀県北部)を治める戦国大名で領主は浅井長政でした。信長は自分の妹で絶世の美女と称されたお市を若大将の浅井長政に嫁がせるといういわゆる政略結婚によって浅井氏と同盟を結んでいました。

しかし、信長の返答はこうでした。

「余と浅井氏は親類同士だ。別に知らせる必要もないだろう。」

 

信長としては長政を信頼し切っていたのでしょう。政略結婚ではありましたが、お市と長政との夫婦生活は円満で、子供も次々に生まれていました。これほど深い絆をむげに切り離す必要もない。

それに安易に討伐情報を漏らすと、どこから朝倉氏に情報が届くか分からない。戦国時代のような下剋上の時代には野心を持つ物が多く、情報を相手方に知らせることで褒美を得ようとする連中がはびこっていたため、作戦は基本、隠密にすることが常なのです。

 

果たして翌1569年、信長は3万の軍隊を結集して朝倉討伐のために越前に向かいました。この時の信長軍には木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や明智光秀がおり、そして信長と同盟を結んでいた徳川家康の軍勢も加勢して戦いました。

 

そんな折、信長は信じられない知らせを受けます。

「殿、浅井勢の寝返りでござます。」

絶対の味方と信じていた妹婿(いもうとむこ)の浅井長政が、朝倉の同盟軍として信長討伐に加勢してきたのです。

「うそであろう。」

愕然とする信長。しかし、その後も部下から次々に浅井勢の謀反の知らせが届きます。

 

信長は絶対絶命のピンチに立たされました。

信長はしばらく考えてからこう言いました。

「全軍、撤退せよ。」

信長はそう言い残し、全軍を置き去りにし、ごく少数の部下だけに守られて一気に京まで逃げていきました。

「我が天下平定は始まったばかり。総大将であるワシがここで死ぬわけにはいかない。」

信長の軍隊は大半が「銭で雇う兵」という流れ者の寄せ集め集団なので、自分さえ生きていればすぐまた再建できます。そして態勢を立て直し、復讐を果たしてみせると考えたのです。

一方、残された信長軍は全力で戦います。

信長の死後、天下をめぐって争うことになるこの木下藤吉郎明智光秀徳川家康の3人もこの時ばかりは一致団結して軍隊を指揮。何とか浅井・朝倉同盟軍から逃げ切ることに成功したのでした。

 

なぜ、長政は信長を裏切ったのでしょうか。信長の朝倉攻めは、浅井家には一切知らされていませんでした。信長は浅井を信頼しきっていたのです。というより、

「信長はなぜ、朝倉討伐のことを我々に知らせなかったのだ。我らと朝倉氏は古くから隣国のよしみで同盟関係を結んでいる。これは単なる礼儀知らずでは済まされないぞ。」

信長は長政を信頼しきっていたというよりも、見くびっていたのです。

 

長政が信長を裏切った理由はこれだけではありません。実は長政も義昭からの「信長打倒を依頼する」内容の手紙を受け取っていたのです。

「このまま信長に従っても良いことはない。やつは一体、この世をどう変革するつもりなのだ。」

そして長政は決起しました。

「信長は危険人物だ。朝倉氏とともに討伐する。」

長政の裏切りは、信長の浅井氏に対する手抜かりと過激な思想によって起きてしまったのです。

 

一方、京に戻った信長はすぐに本拠である岐阜城に戻り、すぐに浅井・朝倉同盟軍打倒のために軍事会議を開きました。

果たして翌1570年、信長は3万の軍を揃えて近江に布陣。応援の徳川軍5000とともに浅井・朝倉同盟軍と対峙ました。この当時の徳川軍の最大動員は8000です。そのうちの5000を動員させているので、家康にとってはもはや大博打のようなものです。家康もわかっていたのでしょう。今回の戦いが信長の天下統一において非常に重要な戦争であることを。

 

ここに織田・徳川連合軍と浅井・朝倉同盟軍による姉川の戦いが勃発しました。

しかし、信長軍の「銭で雇う兵」は弱かった。3万人の兵を擁しながら、8000人にみたない浅井勢に押しまくられ、織田十三段構えの九段目まで破られてしました。

それでも、最後に勝てたのは、数の多さ、そして5000人で1万あまりの朝倉勢を破り去った徳川軍のおかげでした。

 

桶狭間の戦いでは少数の奇襲攻撃で、美濃の斎藤氏との戦いでは「銭で雇う兵」を活用した戦術で、そして今回の姉川の戦いでは「数の戦い」をしました。

信長は、一度の成功に溺れることなく対戦相手や戦況によって違った戦術で戦いに臨んだのです。これこそ、信長が天下統一を目指せた最大の要因と言えるでしょう。

 

辛くも戦いから逃れた浅井長政朝倉義景比叡山延暦寺にかくまわれました。中立の立場でなくてはならない宗教権威である比叡山延暦寺が浅井・朝倉に味方したのです。

比叡山も信長の存在を脅威と感じていたのです。

これに怒り狂った信長は翌1571年、比叡山延暦寺を焼き討ちしてしまいました。

 

そして1574年、小谷城に立て籠もった長政は信長軍に包囲されました。この軍の総大将は信長の重臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)でした。

追いつめられた長政は自害を決意します。

「私も一緒に逝きます。」

すがるお市を夫・長政は諭します。

お市、そなたは生きて、ワシの菩薩を弔ってくれ。子供達を頼む。」

お市とその子供達は夫と別れを告げ、城から出て行きました。

そして長政は燃え行く小谷城の中で自害しました。

 

小谷城から出て来たお市とその子供達は、秀吉軍に保護されました。

お市は秀吉に冷たい視線を送りました。

お市の方から恨みを買ってしまった。」

秀吉は心を痛めました。

「信長様もさぞ、複雑な心境なことでしょう。」

 

しかし、その信長は違いました。

「今日はなぁ、珍しい肴があるぞ。」

と言いながらとりだしたのは、朝倉義景浅井長政・長政親子の3人の髑髏(どくろ)で、しかもそれらは漆で塗り固められた上に金箔がはられている異様なゲテ物でした。

信長は妹婿(いもうとむこ)であるはずの長政の死を心痛むどころか悪魔の工芸品として見せしめに使ったのです。

「ワシに逆らう者は、皆こうなるのだ。」

といわんばかりに並べれた髑髏(どくろ)・・・。これを肴に酒を呑めという信長の異常性をその場にいた家臣達はどう感じたのでしょうか。

思わず、襟元に冷気を感じた武将達も多かったことでしょう。

 

こうして信長は宿敵・朝倉氏と忌々しい裏切り者の浅井氏を滅ぼしたのでした。

 

しかし、信長の危機は去ったわけではありません。新体制を敷こうとすると必ず、旧体制でその恩恵を享受している者達から反発に遭います。今後、信長はこうした旧体制との死闘に明け暮れるのでした。

信長の活躍はまだまだ続きます。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

戦国時代の組織戦略             堺屋太一=著     集英社

学校では教えてくれない戦国史の授業     井沢元彦=著     PHP

教科書よりやさしい日本史          石川晶康=著     旺文社

「秀吉」をたっぷり楽しむ法         高野冬彦=著     五月書房

もういちど読む 山川日本史         五味文彦・鳴海靖=著 山川出版社