【桶狭間の戦い】なぜ信長は天下統一を目指せたのか【織田信長】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【桶狭間の戦い】なぜ信長は天下統一を目指せたのか【織田信長】」というお話です。

 応仁の乱をきっかけに室町時代は戦国時代へと突入しました。

 実力で成り上がった大名達は戦国大名と呼ばれ、各地で互いに争いを始めました。しかし、室町幕府はそれを抑える力もなく、無名無実の状態となってしまいました。その結果、庶民は飢饉に苦しみ、各地では一揆が多発、盗難や火付けなどの治安も悪化しました。

 そんな時代情勢の中、庶民は願います。

 「豊かで平和な時代を創ってくれるリーダーが欲しい」と・・・・・。

 さぁ、今回から織田信長という人物を主人公に彼の統一事業についてご紹介していきたいと思います。皆さんは、織田信長といえばどういったイメージをお持ちでしょうか。

 「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」と比喩されているように、短気で残虐なイメージがあるのではないでしょうか。しかし、織田信長という人物は新たな国家や社会のビジョンを示し、人々の共感を集め、理想国家の実現にむけて万難を排して邁進するカリスマ的リーダーだったのです。

 尾張戦国大名織田信長は1560年、駿河遠江三河を支配していた今川義元の侵攻を桶狭間で奇襲攻撃によって破りました。しかし、信長はその後の戦いで奇襲攻撃をニ度とやりませんでした。信長が天下統一を目指せたのは、過去の栄光にしがみつかず、戦う相手によって新たな戦術や戦略を考え、戦いに勝利したからなのです。

 

 戦国時代という非常に不安定な時代に人々は安定した平和な時代を求めていました。そんな時、どうして必要になるのが、みんなを牽引していくリーダーの存在です。信長は時代が求めたカリスマ的リーダーだったのです。

  戦国時代の前半は一国の地主豪族が領地拡大のために各地で争いをするという小競り合いを各地で展開していた時代ですが、後半になると、ある程度の地域をまとめた大名同士の戦いになります。

 皆さんもよくご存じの有名な戦国武将が活躍するのは、戦国時代の後半になります。例えるならば、戦国時代前半は地区予選大会、後半は全国大会決勝トーナメント戦になります。

 そんな地区予選を勝ち抜き、決勝トーナメントに駒を進めた戦国大名ベスト15を発表します。西側から薩摩の島津、豊後の大友、中国の毛利、四国の長曾加部、阿波・畿内の三好、美濃の斎藤、近江の浅井、越前の朝倉、尾張の織田、三河の徳川、駿河の今川、甲斐の武田、越後の上杉、関東の北条、陸奥の伊達になります。

 さぁ、一体どんな熱戦が繰り広げられるのでしょうか。

 

 戦国時代の前半と後半はだいたい1550年代とみて良さそうです。室町時代以来の名門である細川氏大内氏は歴史の舞台から姿を消しています。いずれも家臣に実権を奪われたのです。そう、下剋上の影響です。

 そしてこの年代の最後の1560年、織田信長今川義元桶狭間の戦いが勃発します。信長がその名を全国に轟かせるきっかけとなったデビュー戦です。

 ということで、戦国合戦決勝トーナメント第1回戦は尾張の織田VS駿河の今川となります。いわゆる桶狭間の戦いです

 

 1559年に尾張の大半を統一し、一大勢力となった26歳の信長は、翌1560年、ピンチを迎えました。

 駿河遠江三河の3ケ国を支配した戦国大名今川義元はその勢力を西へと拡大させようと尾張の織田領に侵攻し始めたのです。

 信長は義元から戦うか降伏するかのいずれかを迫られました。当時の信長は尾張の大半を領有していたとはいえ、動員出来る兵力は5000人程度、対する今川軍は2万7000の大軍です。戦っても勝ち目がないことは誰の目にも明白でした。

 駿河を出発した今川義元の大軍は5月17日、織田領に侵攻。次々に織田領の砦を陥落させていきました。

 このとき、清州城にいた信長とその家臣団は迎撃か、籠城かを決められずに日を過ごしていました。

「殿、このまま今川軍に降伏するおつもりですか。早くご決断を。」

 しかし、信長はずっと黙ったままでした。

 5月18日の夜、偵察兵が戻ってきました。

「今川勢の状況を報告せよ。」

「ハッ、只今、今川勢は桶狭間近くで宴会を開いており、酒に酔いぶれている最中でございます。」

 これを聞いた家臣団は信長に言います。

「殿、これは千載一遇の時です。全兵力を投入して一気に攻め入ってしまいましょう。」

 しかし、信長は黙ったままです。そしてこう言いました。

「もう夜も更けた。お前達は帰って休め。御苦労だった。」

 結局、信長は軍議を凝らすことなく家臣達を解散させました。

 呆れた家臣達は囁きあいます。

「さすがの殿の知恵の泉も尽き果てたか・・・・。我が軍もこれで終わりか・・・。」

 

ところが、その夜、突然起き出した信長は「敦盛」の幸若舞(こうわかまい)を舞うとただちに出撃を指示しました。

「殿、御出陣ですね。全兵士を招集致します。」

信長は熱田神宮を参拝し、兵士達の集合を待った。

やがて5000人の兵士が集まりました。

しかし、信長は言いました。

「軍を分散させる。3000は善照寺砦に進め。2000はワシと一緒に来い。」

 

この情報はすぐに今川氏の耳にも届きました。

「織田勢の近況を報告せよ」

「ハッ、只今、織田勢は善照寺の砦に向かっております。」

「織田のやつ、遂に動きだしたか。ここ桶狭間で帰り討ちにしてくれるわ。」

 

そう、信長が3000の兵を善照寺に進めたのは、ただのおとり。正面攻撃と見せかけて、迂回した信長率いる2000の兵が、反対側から義元の本陣に奇襲攻撃を加えるという作戦です。

出陣の際、信長は2000の兵士達にこう伝えていました。

「いいか、他の連中など相手にするな。狙うのは義元の首だけだ。」

信長の作戦は兵士達にしっかりと伝わりました。そして勝利を確信しました。

「ハハッ!!」

信長軍の士気は最高潮にまで高まりました。

 

19日午前、桶狭間は大雨で視界が悪く、足音も雨音でかき消されてしまう状況でした。信長はこれを最大限に利用したのです。

そして午後2時、田楽狭間で休憩していた今川義元の本陣を奇襲攻撃。あっという間に義元の首を討ち取ってしまいました。

大将を失った今川軍は大混乱に陥り、戦意を喪失、そのまま撤退していきました。

信長は危機を脱したばかりか、10倍以上の兵力差のある今川軍を討ち取ったのです。

ということで、戦国合戦決勝トーナメント第1回戦の勝利は尾張の織田になります。

 

この戦いの勝因は、信長率いる2000の兵が迂回している情報が今川側にまったく知られていなかったことです。

しかし、信長が19日の深夜に清州城を出発してから桶狭間に到着するまでに14時間以上費やしています。今川側がその動きを知る時間的余裕がなかったわけではありません。さらに2000人の兵も決して少ない人数ではありません。

まだ武士も農民も区別があいまいだった当時、一方の行動を他方に伝え、褒美をもらおうとする野心家が多かったのが実情。2000人もの兵を連れて14時間もうろついていれば、信長軍を発見した庶民も多かったはずなのに、である。

おそらく、尾張の住民達は知っていたのでしょう。信長の天才的なカリスマ性に。そして信長がこの不安定な戦国時代から天下泰平の世を築いてくれることを。当時から信長は領民達からの絶大な人気を誇っていたのです

1561年、信長は強敵である美濃の斎藤氏に挑戦しました。信長は斎藤氏との戦いに6年の歳月を費やしています。そんな斎藤氏との戦いを勝利に導いたのは、流れ者の寄せ集めである「銭で雇う兵」でした。これは一般的に兵農分離と呼ばれており、信長の代表的な政策の1つです。1567年に美濃の斎藤氏を討ちとった信長は岐阜に城を構えます。そして「天下布武」という印文を使い、天下統一の意志をはっきりと示すようになりました・・。

 

  今川氏を打ち破った信長は、今川氏に人質としてとらえられていた三河徳川家康を解放。以後、信長は家康と同盟を結び、当面の東側の憂いをなくすことに成功しました。

 次に信長は西側への勢力拡大に乗り出します。信長は美濃の斎藤氏に挑戦するようになりました。

 ということで、戦国合戦決勝トーナメント2回戦目は尾張の織田VS美濃の斎藤になります。

 信長はこの戦いに6年の歳月を要します。

 信長は何度も木曾川を超え、斎藤氏の砦に大軍で攻めました。

 しかし、斎藤氏は強い。砦を守る番兵でさえ熟練の腕前を持つ兵士集団であり、櫓(やぐら)から数千人の信長軍に対し弓を放ちました。信長軍は斎藤軍の何十倍もの人数を持ちながら大敗し、ときには信長自身も負傷するようなことさえありました。ほとんどの場合、斎藤氏が勝ち、信長軍は負けて逃げる。こんな状況がずっと続きました。

 

 意外なことに当時の信長軍は非常に弱かったのです。それもそのはず、彼の軍隊はいわゆる流れ者の寄せ集め集団であり、ほとんどが農民や町人出身者ですが、わけあって落ちぶれ、流れ者となった兵士達です。そんな社会不適格者の寄せ集め集団に団結力や仲間意識があるはずもなく、情けないほど弱かった。

 今川氏を討ち取れたのは、時期や状況が奇襲攻撃に合致していたからであり、今回戦況も相手の武力も全く違います。二番煎じは通用しません。

 信長はこの流れ者集団を「銭で雇う兵」として最大限に活用しました。「銭で雇う兵」とは一言でいうと、武士のサラリーマン化です。

  家柄や身分、血統が重視される当時の社会で信長はそれらにこだわらず、能力ある者をどんどん活用していく完全能力人事制度の新しいタイプの大名であり、流れ者の中から能力ある者を選出し、役職を与え、成果を上げた者には相応の報酬を与えていました。

 

 しかし、武術に差がある以上、斎藤氏を倒すことが出来ません。

 銭で雇う兵は当時としては画期的でしたが、戦いに勝てなければ意味がありません。

 しかし、信長は銭で雇う兵の長所を最大限に活用しました。

「侵攻の時期を農繁期に集中させるのだ。」

 室町時代以前は、いわゆる「一所懸命」の精神が基本スタンスであり、住民は自分の生まれ育った地域のために汗を流し、時には血を流すことが美徳とされてきました。そのため、普段は農業に従事し、戦いとなれば、弓や槍をもって出動していました。

一方、信長の「銭で雇う兵」流れ者の兵士なので、郷土というしがらみがなく、常に武術に専念出来ます。繁閑期を問わず、いつでも戦いに臨める戦闘集団であったことなのです。

信長の頭には大きな政策が浮かんでいました。それは彼の代表的な政策である「兵農分離」です。兵士と農民の身分と仕事をはっきり区別するこれも常識にとらわれない信長ならではの発想でした。因みに、信長はこの「銭で雇う兵」の導入によって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や明智光秀などの有能な武将の獲得に成功しています。

 

 斎藤方の農民達は慌てて農具を捨て、弓や槍を持って出動します。しかし、主力戦になると、斎藤氏が勝ち、信長軍は負けて逃げ戻る。

 しかし、斎藤方の兵士が農作業に戻ると、再び信長軍が大軍を持って攻めてくる。斎藤型が農民を動員してくるまでの何日間のあいだに2つ3つの砦を落とす。そしていざ合戦になると、信長軍は負けて逃げ戻る。

 そして斎藤方の兵士が農作業のために地元に戻ると、すぐまた信長軍が攻めてくる。

 この戦術で、信長はじわじわと斎藤氏の戦力を削り取っていきました。

 

 信長軍の「銭で雇う兵」は、流れ者集団なので兵員の補充は簡単だし、戦死者を出しても嘆く者さえいない。何度負けても大したダメージはないのです。

 一方の斎藤方とすればたまったものではありません。兵士達は自分の生活のために農繁期に農業を放置するわけにいきません。また、領主達も年貢徴収のために農業をやらせないわけにいきません。しかし、信長の兵隊にはそんなの関係ありません。これが勝利のカギとなりました。

 

農繁期に動員命令を出されてしまい、農業に専念出来ない。」

 斎藤氏は、住民から大きな反感を買うようになります。

 やがて斎藤方の人々には、厭戦気分が湧きあがり、大名の動員命令にも従わない者が出てきました。そうなると、残った忠実な者だけで戦わなくてはなりません。斎藤氏は徐々に戦闘能力を失っていきます・・・・。

 そして遂に住民達が一揆を起こし、領主同士の争いが起きるなど内部分裂が起きてしまいました。

 挙句の果てには信長軍に寝返る侍達も現れました。

 そして1567年、遂に斎藤氏は信長によって滅ぼされてしまいました。

 

 美濃を制圧した信長は本拠を岐阜に置き、岐阜城を構えました。

 やがて信長は「天下人になる」と公言し始めました

 信長はある目標・ビジョンを掲げました。それが「天下布武」です。

天下布武」とは、天下に武を布くことによって戦国時代を終わらせるということ。つまり、天下を武士が一元的に支配する統一国家を作るということです。

 この頃、天下という言葉を使っていたのは、信長だけでした。信長とその他の戦国大名との違い、それは勢力拡大が自らの私利私欲を満たすためのものか、それとも天下泰平の世を築くためのものだったかの違いだったのです。当然、信長のような人物は庶民から絶大な人気を集めました。

 信長の統一事業は続きます・・・・・。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

戦国時代の組織戦略                 堺屋太一=著 集英社

組織の盛衰                     堺屋太一=著 PHP文庫

20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう。 千田琢哉=著 Gakken

教科書よりやさしい日本史              石川晶康=著 旺文社

学校では教えてくれない戦国史の授業         井沢元彦=著 山川出版社

マンガでわかる日本史                河合敦=著  池田書店