【安政の大獄】日本史上最悪の大弾圧 伊井直弼は暴君か【伊井直弼】
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【安政の大獄】日本史上最悪の大弾圧 伊井直弼は暴君か【伊井直弼】」というお話です。
皆さん、伊井直弼といえば、どのようなイメージをお持ちでしょうか。
直弼といえば、やはり安政の大獄でしょう。安政の大獄とは、直弼が日米修好通商条約を天皇の許可を得ずに調印したことに反発した一橋派の公家、幕臣、志士達を100人以上処罰した弾圧行為です。これは日本史上稀にみる大弾圧と言われており、これが原因で直弼は一橋派の反発を招き、桜田門外で暗殺されます。
これだけみると、完全な暴君であり、暗殺は当然の結果だと言う歴史研究家もいます。よって、直弼は歴史上の悪役の一人にされています。
しかし、これには少し誤解があります。ということで、今回は伊井直弼についてストーリーを展開していきたいと思います。
伊井直弼は日米修好通商条約を天皇の許可を得ることなく、一方的に調印します。しかし、これはやむを得ない事でした。ここまでの直弼の政策自体は間違えていません。しかし、安政の大獄というやりすぎた大弾圧によって、反発を招き、直弼は桜田門の前で暗殺されました。そして、尊王攘夷派も外国勢力と勝てない戦争をするという失態を犯すのでした・・・。
まず、将軍継嗣問題で、徳川慶福を推した大名(保守派の譜代大名や旗本)を南紀派といい、一橋慶喜を推した大名(水戸藩や長州藩、薩摩藩などの雄藩)を一橋派と言いましたが、ここでは呼び名を変えることにしましょう。
南紀派は外国を迎え入れる開国路線を推進し、幕府を補佐する「佐幕開国派」とし、一橋派は外国を追い払う攘夷路線を推進し、天皇を尊ぶ「尊王攘夷派」と呼ぶことにします。
直弼は佐幕開国派の中心人物として活躍し、これが功を奏し、大老に就任しました。
直弼は就任早々の1858年に日米修好通商条約をアメリカとの間に結びます。続いてイギリス、フランス、ロシア、オランダとも同様の条約を締結します。アメリカとの通商条約を応諾した以上、他の諸外国からの申し出を拒否することは出来なかったのです。
しかし、これは天皇の許しを得ないまま調印した幕府の一方的な行為でした。
時の天皇・孝明天皇は開国には絶対反対でした。孝明天皇は大の外国嫌いで、外国人を獣のように扱っていました。したがって、自分の許可なく開国を進めた幕府の動きを孝明天皇は許しませんでした。天皇は退位したいとまで言いだすほどの憤りを見せました。
しかし、条約締結を直弼自身は決して独断で押し通したわけではありません。直弼は幕臣達の会議において「朝廷の許しがいるではないか?」とむしろ下手に出ているのです。しかし、ほとんどの幕臣は「勅許の必要はない。早く開国しなければ、外国は戦争を仕掛けてくる」と条約締結を急いでいました。
直弼は考えます。
「このまま天皇の許可なく条約を結べば、確実に尊王攘夷派の反発を招く。尊攘派の意見を取り入れるべきか。」
では、尊攘派の主張とはどのようなものでしょうか。
「日本刀を振りかざせばライフル銃や鉄鋼製の大砲に勝てる。だから通商条約など絶対反対だ。」
はい。聞いての通り尊王攘夷派は、ただのキチガイ集団です。とても現実が見えていません。
直弼は決断します。
「ここで通商条約を結ばなければ、本当に国が滅んでしまうかもしれない。通商条約はやむを得ない。」
このように、直弼の通商条約締結はやむを得ない行為でした。いや、むしろ現状を冷静に分析して判断した結果だと思います。
こんな至極当然の判断に「野党」の尊王攘夷派は猛反発します。
「天皇を軽んじている」
「直ちに軍事力をもって外国人をこの国から追い出せ!」
「結んだ条約を今すぐ破棄しろ!」
いつの時代も「野党」はヤジをとばします。
では、尊攘派の言う通りにしていたら、どうなっていたでしょうか。日本は本当に滅んでいたかもしれません。たとえばアヘン戦争で徹底的にやられた清国のように列強の支配に存分に苦しめられていたかもしれません。外国艦隊の砲撃で江戸や横浜が破壊され、幕府は今以上に屈辱的な条約を結ばざるを得なかったでしょう。
直弼には大老という立場上、国を守るという責任があります。国の最高責任者として開国路線を認めるのは真っ当な判断です。
しかし、「野党」は諦めません。なぜなら攘夷は、実行可能か不可能かという問題ではないからです。問題なのは、直弼の行動が、この国の至高の存在である天皇の意思に反しているということです。野党はこの国の絶対ルールである「天皇の思し召しに従うこと」に直弼は反していると主張しており、つまり憲法違反であるというのです。
一方、佐幕開国派の直弼にしてみれば、憲法違反だろうが、国が滅んでしまっては元も子もありません。「憲法守って国滅ぶ」では本末転倒である。したがって、責任ある政府担当者として、開国路線という信念を持って推し進めたというわけである。
直弼の政策は「ここまでは」間違えていません。そう、「ここまでは」です。
直弼の問題点はこの後にありました。そう、安政の大獄です。
直弼は真面目な性格なのか少し融通が利かない。自分の判断は絶対的に正しく、尊攘派は逮捕して処罰し、徹底的に弾圧する路線をとってしまった。
この安政の大獄では、阿部正弘のもとで発言力を得て、幕政に参加していた前水戸藩主の徳川斉昭や福井藩主の松平慶永は政界から退けられます。そして慶永の弟子・橋本佐内と松下村塾で高杉晋作や伊藤博文らを育て、長州藩に大きな影響を与えた吉田松陰は死刑になりました。
大獄に連座して処分を受けたのは、100以上に上るという日本史上稀にみる大弾圧でした。これによって幕府の権威は強化されたように見えましたが、行き過ぎた処罰による反発の方が大きく、幕府は結果的に自分で自分の首を絞めることになってしまいました。
これによって、直弼は暗殺されます。1860年、直弼は攘夷派の浪士達に桜田門の前で暗殺されました。(桜田門外の変)
一方の尊王攘夷派も自分達が求めている政策が絶対的に正しいと思い込んでいました。だからこそ、今後、外国勢力と戦うという無謀な行為をしでかします。
それが、馬関戦争と薩英戦争です。
馬関戦争とは19世紀に雄藩として勢力をのばしてきた長州藩が1863年に攘夷を決行し、関門海峡を通る外国船を砲撃したことがきっかけで勃発しました。外国側は、イギリス公使オールコックの主導のもと、アメリカ、オランダ、イギリス、フランスの4カ国が連合艦隊を組み、下関を砲撃します。(四国艦隊下関砲撃事件)苦境に陥った長州藩は結局、4カ国に屈服しました。
一方、同じく雄藩として台頭した薩摩藩も、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件がきっかけでイギリスと薩英戦争をはじめます。イギリス艦隊は鹿児島湾に侵入、薩摩藩と砲撃船をした末、薩摩藩は屈服しました。
長州藩と薩摩藩は実際に戦って、攘夷は不可能とはっきり悟りました。もはや開国路線は否定できない。そこで、開国、そして倒幕に向かっていくのでした。
長州藩や薩摩藩などの尊攘派は、「現実が見えていなかった」というより、「現実を見ようとしなかった」。日本刀や旧式の青銅製の大砲では、欧米列強に勝てるはずがないことは誰の目にも明確だったはず。それはペリーの黒船が来航した時に、多くの日本人が感じたことです。
長州と薩摩はしなくて良い戦争をしてしまい、多くの犠牲を出してしまいました。この2つの戦争は幕末史の中でも特に重要な戦争であると同時に、大変愚かな戦争だったと言えるでしょう。
以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。