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【田沼意次】フロンティア精神溢れる熱い男。

 

 

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【田沼意次】フロンティア精神溢れる熱い男。」というお話です。

 

田沼意次は経済通なだけでなく、外国アレルギーのない江戸時代には珍しい役人でした。日本が貿易立国になるのは田沼失脚と共に白紙になります。こうして江戸幕府は近代化のチャンスを逃す結果を招くのです。

 

 1734年、8代将軍・徳川吉宗享保の改革を実施しているとき、14歳の田沼意次は、次期将軍である徳川家重の雑務役として江戸城内でその政策を見守っていました。

 吉宗の改革が抜本的な改革にならなかったのは、お米=お金の米本位体制という経済のしくみに限界が来ていたからです。お米は農産物である以上、豊凶があります。獲れたり獲れなかったりします。そうなると、幕府としても年貢米が増収したり、減収したりと安定しません。

 かといって、農民が必死の思いでお米を増やしても、武士も農民もお米をお金に換金して生活しているので、米価が暴落し、みんなの給料が目減りするというジレンマに陥ってしまいます。こんな不便な制度は時代と共に崩れていくのが基本原則です。したがって、時代は「農業至上主義」から「貨幣至上主義」へと転換していったのです。

 

 田沼は吉宗の改革から以下のことを学びます。

貨幣経済は今後ますます普及していく。したがって、金・銀の獲得は必須になるだろう」

 商業活動がさかんになるにつれ、貨幣そのものの需要も高まってきていることに気付いたのです。

 吉宗が引退した1745年、家重が9代将軍に就任します。同時に家重に気に入られていた田沼は家重の側用人として政治運営に携わります。吉宗と大岡の活躍によって、幕府の財政は一時的に好転したにも関わらず、徳川家の相変わらずの浪費生活で再び幕府の財政は火の車と化していたのです。

 いよいよ田沼自身が財政再建の前線で活躍するときがやってきたのです。

 

 当時、「士農工商」の底辺であり、卑しい身分だった商人が力をつけていました。

田沼は商人から貨幣を収めさせることで幕府の収入増を図ったのです。まず、運上金・冥加金(税金)を収めさせる株仲間の奨励と、などの「儲かる資材」を幕府直営の座という団体を設立し販売する専売制を行いました。

 

 当時の貨幣の原料は金・銀です。しかし、国内ではすでに金・銀が不足状態になっています。というのも、長崎貿易では海外の商品を購入するカタチをとっていたため、国外へ金・銀が大量に流出していたのです。

 国内にないなら、海外から輸入するしかありません。そこで田沼は清との貿易を積極的に行うようになります。

清といえば現在の中国ですが、ナマコ、アワビ、フカヒレといった中華料理の高級食材の需要がもの凄い高く、それら3品を詰めて俵物として清に輸出し、金・銀を輸入したのです。

 

 また田沼は、工藤平助という医者が著した「赤蝦夷風説考」を読んで、当時未開の地であった蝦夷への憧れを抱きます。蝦夷地とは現在の北海道のことですが、現地の人はロシアとひそかに貿易していたのです。田沼はそれに目を付けました。ロシアってどんな国なのだろう。お金持ちの国なのかな。と期待に胸ふくらませていたのです。

 また、北海道は現在でもメロンやジャガイモなどのおいしい食材の名産地ですよね。蝦夷地の豊かな大地で美味しい作物が栽培出来れば、新たな市場開拓が出来るのではないか。そう考えた田沼はロシアとの貿易成立と、蝦夷地の探索のために、最上徳内蝦夷地に派遣します。

 

 このように田沼は国内に不足しつつあった金・銀を輸入し、南は長崎で、北は北海道でで貿易を拡大するという本格的な貨幣経済に備えていたのです。

 

 田沼は経済通なだけでなく、外国アレルギーがないという点でも江戸時代には珍しい役人だったのです。

 

 結局、ロシアとの交易は実現しませんでしたが、田沼は貿易に関して他にも様々な政策を計画していました。巨船を造って外国へ調査団を派遣したり、海外から知識人を招聘して技術や文化を取り入れたりすることも考えていたようです。その証拠に田沼の屋敷には南蛮(西洋)の珍奇な品物で溢れていました。

 あれ?戦国時代の織田信長もヨーロッパの文化を積極的に取り入れ、自分のコレクションにしていましたよね。田沼も信長同様、進取の気質に富む熱い男だったのですね。

 

 

 

 1772年、家重が死去し、息子の徳川家治が10代将軍に就任します。家治は父・家重の遺言通り、田沼を老中に任命します。田沼は遂に国の政権を握る最高責任者になったのです。

 老中になった田沼は貨幣の統一事業を行います。当時、経済圏は全国に拡大していたにも関わらず、江戸や大坂、地方で貨幣が異なるという現象が起きていました。これを全国共通の貨幣にすることで手間が解消され、経済が活性化しました。

これらの政策によって遂に幕府の財政は黒字に転じました。この頃、文化は江戸を中心に栄えます。元禄文化が上方(大阪)中心であったのに対し、この頃になって「江戸前」という言葉に代表される江戸中心の趣味の世界が開けたのです。これが後の化政文化へと発展していくのです。

 

「出る杭は打たれる。」田沼の功績を面白く感じない人達が現れます。その代表格が松平定信。定信は反田沼組織を結成。定信は田沼に自然災害や治安悪化の責任を追及し、老中を辞任に追いやったのです。

 

「経済通」という江戸時代には珍しい天才児であるはずの田沼がなぜ、失脚させられたのか。ここからはその理由も述べていきたいと思います。

 いつの時代も目立つ奴は潰そうとする輩がいるものです。出る杭は打たれるのです。田沼は一旗本の家に生まれたいわば中流階級の子。それが老中にまで成り上がったのですから。大出世と言えます。しかし、親藩譜代大名のような古くから徳川家に尽くしてきた人達からすれば面白くありません。

 新卒で入社し、何十年も会社に尽くしてきたのに中途採用として入った社員の方が、役職が上になったのですから、新卒入社組とすれば当然面白くはないでしょう。

その代表各こそ、吉宗の孫であり、白河藩主の松平定信です。

 

 株仲間という同業組合を結成したことで商人達は競争を辞めます。すなわち、企業努力をやらず、ラクして金儲けをすることを覚えてしまったことで、世間には「努力したくない」という風潮が出てきてしまいました。この風潮を招いたのは田沼だと定信は批判します。

 その後、田沼には不運が付きまといます。

 自然災害が人々を襲ったのです。

 1783年、浅間山が噴火します。噴火した火山灰は東北地方の稲を直撃。さらに噴煙が日光を遮りました。これに加え、冷害などの天候不順が続いたことも相まって、深刻な飢饉が発生します。それが東北を中心に起こった天明飢饉です。この飢饉は1781年から89年の6年間も続き、これは餓死者30万人という史上最悪の飢饉となりました。

 一方で商人達は米を買い占め、高く売りつけるという功利に走るという最悪な状況となってしまいした。

 

 田沼は飢饉が起きた被災地に対して何の手も打てず、野放しにしていました。そんな中、東北の白河藩福島県白河市)の藩主・松平定信は田沼のずさんさを次のように批判しています。

「虫ケラでさえ、冬のために食料を備蓄するのに国のリーダーたる者が緊急時や飢饉の時のための蓄えをしていないのか。」と。

 

 江戸では東北地方の飢饉に不安を覚えた町人が大規模な打ちこわしを起こします。

「俺達は米不足に悩んでいるのに、商人はなぜ米を買い占めるのか。これは商人を優遇してきた田沼のせいだ。」と。

 

 現代の私達も東北の被災地ということで連想されるのは、東北太平洋地震東日本大震災)です。あの時の政府のずさんな対応を見て、私も不安と不信感を覚えました。

「政府はいざとなったら、私達を見捨てる。」と。

 

 ある知事が「天罰が下った」などと発言していましたが、日本人は祟りなどの目に見えない力を信じる傾向もあります。

 

 それは当時の人々も同じだったのでしょう。民衆のやり場のない怒りや不安は、悪の為政者の反映だと考えるようになります。「田沼の悪政によって天罰がくだった」のだと。「天変地異が起きているのは田沼の仕業だ。」「為政者の悪の反映だ」などと批判の声が殺到します。

 

 そうなると、田沼の悪いところばかりが目につくようになります。

 

 そんな中、民衆の間でいつしか田沼に対するこんな噂が流れます。

「田沼は悪商人から大量の賄賂を受け取っていた。」と。

 

 こうして1786年、松平定信は災害や暴動の責任を田沼に追求。田沼は遂に老中を辞任に追い込まれました。

 

 田沼は最後までひたむきに公務を全うしていました。本当に彼は時代の変化やニーズを把握し、近代国家の樹立を目指していたのです。

 

 「賄賂」を当時の感覚でどこまで絶対悪とみなすかは注意が必要です。当然ですが、江戸時代は今よりずっと汚職や悪行が横行していました。賄賂でもなければ生計が成り立たない職業もあったくらいです。もちろん褒められるようなことではありませんが、そこまで非難されるほどのことでもなかったでしょう。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。