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【田沼意次】織田信長の再来!?重商主義の革命児

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【田沼意次織田信長の再来!?重商主義の革命児。」というお話です。

米を幕府の収入とする従来の全農主義を崩し、貨幣を幕府の収入とする重商主義を目指した。それまでの常識を覆す革命を起こしている点は戦国時代の織田信長に似ていると考えます。

 

 

悪商人「田沼さん、いつもお世話になってます。今後ともごひいき下さい。」

田沼「ふっふっふっふ。お主も悪よのう。」

悪商人「いえいえいえ。御代官様ほどでは。」

悪商人が差し出したお饅頭の下には一面に小判が敷き詰められていたのでした・・・。

 

 「賄賂政治」といえば、こんな場面をイメージされる方が多いのではないでしょうか。

 田沼意次といえば、「賄賂をもらっていた」とか「幕府を私物化していた」と言われ、腹黒政治家というレッテルを貼られています。とんでもない。彼こそ、貨幣経済を活性化させ、幕府の財政を立て直し、かつ近代国家への推進を図った革命児と言って良いと思います。

これは田沼失脚後の80年後の明治時代、ぞれは実現しますが、田沼は従来の常識を根底から覆すような近代合理主義の政策をしていったのです。これと同じような革命を起こした人が戦国時代にもいました。そう。織田信長です。田沼と信長には以下のような共通点があります。

  1. 貨幣経済を活性化することで、現金をかき集めること。
  2. 中央集権国家を目指したこと。

 田沼は商業経済・貨幣経済を活性化することで、貨幣をかき集め、幕府財政の立て直しを図りました。それまでの幕府の基本財源は農民からの年貢です。幕府は年貢米をお金に換金することで、財政を立てていました。

 したがって、農村には米以外の商品が入ることを防ぎ、農民が功利に走らずに年貢米を確実に収めさせるようにするという全農主義をとっていました。これが従来の幕府の基本政策です。田沼はこれを180度転換し、商人からの貨幣(現金)を収めさせ、幕府の財源としたのです。

 信長も銭を集めるために経済を活性化する政策を行っています。それが「楽市・楽座」とよばれる自由な商業形態です。田沼も商業活性化のために「株仲間」という政策を打ち出します。商人達に「株仲間」を奨励したのです。しかし、この株仲間は自由ではなく、価格統制が目的で、商人達に適正価格で商売をするよう求めた政策です。

 例えば、ある商品を買うのに価格が高すぎると誰も買いません。なので、やたらと価格を吊り上げるなということです。逆に、価格が安すぎると商人達が儲かりません。なので、競合他社同士、競争は辞めて、ある程度儲かる一定の価格で売っていいよ。というルールを創ったのです。高すぎず、安すぎず、適性価格で売るようにしたのです。

 また、営業独占権を与えることで、競合他社の新規参入を禁止するようにしたのです。こんなおいしい政策なら商人達は喜んで税金を払ったことでしょう。要するに、「十分儲けさせてやるから、その代わり、幕府に儲けの一部を運上金・冥加金として収めなさい」という意味です。(運上金・冥加金とは現在でいう税金のことです。)

 

 面白いのは、信長は同業他社の新規参入を許可した開放的な政策なのに対し、田沼は新規参入を禁じた閉鎖的な政策である点です。例えば私達は、トイレットペーパーが多少高くなっても買いますよね。生活必需品だから。田沼の時代は200年前の信長と違い、多様な消費物資が生まれ、生活必需品が増えた結果、一社が営業を独占する販売形態でも商品は売れたのです。

 

 さらに、田沼は専売制という政策も行っています。専売制とは、幕府は儲かりそうな事業について座という団体を作り、幕府が直接、運営することで、その莫大な収益を吸い上げることが出来るようにしたのです。儲かりそうな事業にはをはじめ、真鍮朝鮮人などの人気商品が選ばれました。

 

 

 田沼は全国統一の貨幣制度を創りました。江戸時代の地方分権国家から中央集権国家へ大きく舵をとったのです。しかし、田沼失脚と同時に白紙に戻ります。中央集権国家の実現は明治時代まで待たなくてはいけません。田沼の政策は時代を少し先取りした政策だったのです。

 

 

 

 地方分権国家であった室町幕府を滅ぼし、信長は中央集権国家を目指していました。既存のあらゆる組織をぶち壊し、自らが国王になって全国を支配する国を創ろうとしたのです。

 しかし、江戸幕府成立と共に地方分権化に戻ってしまいます。秀吉は信長の意志を継ぎ、統一国家を達成したものの、傘下においた全国の諸大名を養うことが出来ず、失敗に終わりました。

 家康は秀吉の失敗から学び、地方分権国家を創りました。したがって、年貢を幕府に収めさせるようなことはせず、基本的に各藩がそれぞれの政治を行うようにさせていました。信長や秀吉は改革派でも、家康は保守派です。だからこそ家康は江戸に「幕府」を開き、自らは「征夷大将軍」となって鎌倉幕府室町幕府のような従来の武士社会への原点回帰を図ったのです。

 

 徳川歴代の政権担当者達は家康の統治を模倣することが最善策と決めつけ、旧来通りの米本位の農業主義の政策を取り続けます。いかにもイシアタマの軍人さんらしい考えですが、旧来のやり方が正しいわけではありません。

 時代が変われば社会経済も変わります。

 いつまでも「士農工商」にふんぞり返り、「商人なんてかまっていられない・・・」と言っている場合ではなかったのです。それくらい新たなモノやサービスが生まれ、貨幣経済が普及し、商業活動がさかんになってきたのです。

 例えば、町には傘売り、古着屋、酒屋、豆腐売り、納豆売りなど 消費物資が売られるようになり、料理屋や菓子屋も生まれ、旗本や御家人の宴会などには利用されましたし、歌舞伎や小説などのエンターテイメントも出てきました。

 

 田沼は信長とは違い、支配者はあくまで徳川将軍。自分はその将軍に雇われたサラリーマンです。したがって、将軍の権威を強くすることは、自分を強くすることになります。田沼は武士のあるべき姿は、将軍を強くすることだと教え込むのです。

 

したがって、あらゆる組織をぶち壊した信長とは違い、田沼は江戸幕府という既存の組織を維持いたまま、日本を近代国家へと成長させようとしていたのです。

 

 

では、田沼は具体的にどのようにして中央集権国家を目指したのでしょうか。それは、統一貨幣の確立です。田沼は幕府公認の全国共通貨幣を創ったのです。当時、江戸では金貨が使われ、大阪では銀貨が使われ、各藩では藩札とよばれるものが使われていました。例えば、江戸の人が大阪に旅行に行く時は、金貨を銀貨に交換(両替)しなくてはならなかったのです。それがかなりの手間で、現在の外国為替並みに厄介でした。しかも、枚数ではなく、秤にかけて重さで計算されるので、余計に手間です。これは間違いなく経済活性化を阻害する要因になります。

 

下記の言葉は田沼の残した名言です。

「金だろうが、銀だろうが、幕府が認めれば価値は同じだ。」

田沼は、江戸時代の役人クラスには珍しいお金の本質をばっちり見抜いている「経済通」だったのです。

 

 私達が持っているお金は、金でもなければ銀でもありません。お金そのものには価値はないのです。しかし、私達はそのお金で日々の買い物をしています。なぜでしょうか。それは日本銀行という信頼のある組織が作っており、国民は日本銀行が認めたそのお金を信用しているから取引が成立するのです。そう、お金とは信用で成り立っているのです。田沼は今でいう銀行のような機能を幕府に持たせようとしたのです。

 ところで、今現在はお金のしくみが中央集権から地方分権に進んでいますよね。仮想通貨というカタチでこれから普及していくことでしょう。現在は日本銀行という中央集権化が極端に行き過ぎています。その結果、地方分権化が進んでいるのです。極端から極端に移り変わっていく。これが時代の流れだと私は気付きました。

田沼の政策は続きます。

 

 

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮でした。