日本史はストーリーで覚える!

勉強、教育、人材育成

【天皇機関説問題1】なぜ天皇は神格化されたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【天皇機関説問題1】なぜ天皇は神格化されたのか」というお話です。

 

 明治時代に発布された大日本帝国憲法では、「主権は天皇にあり」とされていました。つまり、天皇が国の主人であり、国民はその従者(臣民)に過ぎないということです。

 しかし、明治天皇大正天皇の時代では、それほど神格化されていたわけではなく、極端な神格化が始まるのは昭和に入ってからでした。

 そのきっかけとなったのが、1935(昭和10)年2月に起こった「天皇機関説問題」です。

 法学者で貴族院議員だった美濃部達吉が自身の学説「天皇機関説」をめぐって、国会で追及を受けた事件です。天皇機関説に対抗した思想は天皇主権説と呼ばれるもので、昭和初期の大日本帝国時代の日本には、憲法天皇の関係について「天皇機関説」と「天皇主権説」の2つの考えが存在するようになりました。

 そして、この争いは、天皇主権説が勝利し、思想面での弾圧がはじまりました。

 なぜ、天皇は神格化されたのでしょうか。そして、そのきっかけとなった天皇機関説問題はなぜ起きたのでしょうか。今回はそれを探っていきたいと思います。

大日本帝国憲法が発布された当初は、天皇主権説が主流でした。しかし、西欧列強の議会制度や立憲主義の研究が日本で進むにつれ、主権説では憲法との整合性に不一致が生じることが判明。そのため、大正時代から昭和初期までに、天皇機関説が誕生。以後、日本の政界や学術分野での主流となりました。


 近代日本における天皇の神格化は明治維新から始まります。

 戊辰戦争江戸幕府が倒れて、伊藤博文らを指導者とする明治政府が出来た時、彼らは自分たちが日本全体の統治者としての正当性を著しく欠いていることを自覚していました。

 つまり、明治新政府の最大の課題とは「どうやって国民をまとめるか」ということでした。

 しかも、徳川幕府は250年も続いた長期政権です。

 いくら戊辰戦争に勝利したとはいえ、「徳川の時代が終わり、明治になった。だから、我々に従いなさい」といっても、そう簡単に国民は納得しません。

 明治新政府の要職は、かつての長州(山口県)と薩摩藩(鹿児島県)の出身者によって独占されましたが、工夫のない支配体制を続けていれば、やがて他の藩の出身者から不満が噴出することが予想されました。

 実際、明治維新の直後には「江戸時代の体制に戻してくれ」という一揆も各地で起こっています。

 国民に明治新政権の権威を認めさせるには、徳川という「お上」の存在を完全に打ち消す必要がありました。

 そこで、明治新政府が着目したのが天皇という存在でした。

 全ての日本国民に「国の進路を正しい方向へと導く、絶対的に偉い存在」として天皇を尊敬するよう求め、自分達は、そんな崇高な天皇を脇で支える「しもべ」であるとの構図を創り出すことを決めました。

 伊藤らは、ヨーロッパの君主国を手本にしながら、明治天皇を日本の「民衆の心をとらえる全国レベルの指導者」として担ぎだすことで、近代国家としてスタートを切りました。

 そして伊藤の思惑とおり、明治天皇大正天皇の時代において、こうした形式での政治システムは、ヨーロッパの君主国と同様に機能しました。様々な分野で国の近代欧米列強の潮流であった「帝国主義」の価値判断に日本も同調しました。

 また、明治時代の1889年に制定された「大日本帝国憲法」は、西洋の立憲主義憲法という枠組みで国家指導者の権力行使の範囲を規定する考え方)に基づき、日本を当時の近代国家の仲間入りをさせる上で、重要な役割を担っていました。

 しかし、明治時代の日本人はここで、大きな問題に直面しました。

 自国の君主を「神の子孫」と見なす絶対王政のような政治システムは、西欧ではすでに「時代遅れの政治システム」として排除されており、日本は、天皇と「立憲主義」を論理的に整合させるための新たな工夫が必要になったのです。

 

 そこで、現れた思想が天皇機関説でした。

 「天皇機関説」とは簡単に言えば、国家を法人と捉えて、国会や裁判所、内閣、そして天皇はその法人を構成する機関に過ぎないのだとする考えです。

 つまり、天皇とは神のような絶対的な存在ではなく、あくまで憲法上の地位のひとつであり、天皇は独断で政治を行うことは出来ず、その憲法に拘束されるとしました。
この思想は当時としては非常に画期的な考えで、大正末までには、ごくまっとうな学説とされ、昭和初期までの知識人の理論的支柱となっていました。

 ところが、1935(昭和10)年になって突然「天皇を一機関とするのは、不敬である、謀叛である」などと痛烈に批判されるようになりました。

 なぜでしょうか。

 昭和初期、世界恐慌などの影響で大不況に陥りました。

 それにも関わらず、政党内閣は具体的な政策を行わず、汚職を繰り返す政治腐敗が露わになりました。

 その結果、政党政治や政党内閣制に対する不信感が高まり、たがて、政党政治の理論的支柱であった民本主義天皇機関説が軍部や右翼団体を中心に否定されるようになったのです。

 すると、国内では「昭和維新」を掲げて改革運動が起こるようになりました。

 この運動は「かつての明治維新の精神に立ち返り、天皇中心の国家をつくろう」というもので、その過程で「天皇は絶対的な存在で、だれの輔弼(ほひつ)を受けなくても統治権を行使できる」と見なされるようになりました。

(輔弼・・・・天子・君主などが政治を行うのを、たすけること。また、その任にあたる人。)

 そこで出てきた思想が「天皇主権説」です。

 天皇主権説は、美濃部が提唱した「天皇機関説」の逆を行く思想でした。

 天皇主権説では、天皇は神の子孫であり、現人神(あらひとがみ)である天皇は、憲法のような「人工的な枠組み」に囚われることなく、超越的に統治を持つのだという考えです。

 つまり、大日本帝国憲法のような立憲体制を否定し、天皇による絶対王政のような政治システムを支持する考え方なのです。

 天皇主権説を支持する国粋主義者は、天皇を絶対的な権威や神聖性にこだわっており、彼らとって、現人神(あらひとがみ)とされる天皇の存在を機関という無機質かつ通俗的な言葉で言い表す天皇主権説に対し、強い不快感を感じていました。

 これによって起きたのが天皇機関説問題です。

 ことの発端は、1935(昭和10)年2月18日の貴族院本会議で、菊池武夫(きくちたけお)議員が、東京帝国大学法学部名誉教授も務める美濃部達吉議員に対し、「天皇機関説」について質問したことから始まりました。

 会議では、美濃部は自身の天皇機関説に基づいて以下のように主張しました。

「国家とは1つの法人であります。その中で、天皇統治権を行使する1つの機関であります。」

 つまり、天皇とは神のような絶対的な存在ではなく、あくまで憲法上の地位のひとつであり、天皇は独断で政治を行うことは出来ず、その憲法に拘束されるとしました。

 これに対して菊池は反論します。

「日本は天皇あっての国家であります。国土・国民を治める権利は国家ではなく、天皇にあります。天皇機関説など存在しません。」
その後も、貴族院では美濃部への批判は繰り返されるようになりました。

これに飛びついたのが、立憲政友会や軍部、右翼の諸団体でした。
当時の議会には、天皇機関説を支持する議員も多くいました。
そこで、政友会や軍部は、彼らを不敬であると攻撃することで、失職に追い込むことが出来れば、政治の実権を握ることが出来ると考えていました。つまり、貴族院で発生きた問題が衆議院にも飛び火し、天皇の権威を政争に利用するようになったのです。

右翼団体在郷軍人会も、美濃部の自宅に抗議の手紙を山ほど送りつけました。
「美濃部は国賊だ!死刑に処する!」
他にも各地で署名活動や宣伝活動を行うことで、たくみに国民感情をあおりました。
こうした政友会や軍部の圧力に、貴族院議員は屈し、遂に満場一致で天皇機関説を否定することを正式に決めました。
「政府は崇高無比なる我が国体と相容れざる言説に対し、直ちに断固たる措置をとるべし」
争いは天皇主権説の勝利に終わったのです。
同年、政府は、「国体明徴声明」を出し、天皇機関説を正式に否定することを発表。天皇は機関ではなく、国の中心であることを宣言した。

実は、昭和天皇は、自身の神格化を快く思っていませんでした。天皇機関説が問題となった頃、昭和天皇は鈴木侍従長に次のように語っています。
「美濃部の考えは少し行き過ぎたところがあるかもしれない。しかし、決して悪いこととは思わない。」
当ブログでも紹介したことがありますが、昭和天皇の願いとは天皇制を原則とした立憲体制の維持でした。美濃部の主張はそんな立憲体制の維持において重要な理論的支柱だったのです。
侍従武官長を務めた陸軍大将の本庄繁の日記には、政府が「国体明徴声明」を出した際、天皇は「安心できない」として軍部に強い不快感を露わにしたという記述がありました。
また、昭和天皇は、昭和維新の典型的な事件ともいえる二・二六事件に対して強い不快感を示していました。
二・二六事件の首謀者である陸軍の若手士官らは自らを「尊王の志士」だと思っていました。
しかし、昭和天皇は彼らをあくまで反乱軍としかみなしませんでした。さらに、陸軍の幹部が彼らの鎮圧を躊躇するとこう言いました。
「君たちが鎮圧しないならば、自分が近衛兵を率いて鎮圧に向かう」
そこまで昭和天皇の不快感を強いものだったのです。

 

つづく。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著 ダイヤモンド社
昭和史を読む50のポイント   保阪正康=著   PHP
朝日おとなの学びなおし! 昭和時代  保阪正康=著  朝日新聞出版

【満州国建国】なぜ日本は国際連盟を脱退したのか【松岡洋右】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【満州国建国】なぜ日本は国際連盟を脱退したのか【松岡洋右】」というお話です。

 歴史に「もし○○だったら・・・・」というのは禁句ですが、もし、大日本帝国満州事変で留まっていれば、日本の歴史は180度変わっていたことでしょう。

 日本は、中国大陸に満州国を建国し、「王道楽土・五族協和」をスローガンとした新たなフロンティアとしました。

 この時点で関東軍がとどまっていれば、現代においても中国大陸に満州国というもうひとつの日本国が存在し、漢民族やモンゴル人と共存し、自由な経済活動が行われていたことでしょう。

 しかし、関東軍(陸軍)が暴走したことで、満州国は承認されず、日本は国際的な孤立をしていまいました。

リットン調査団は、意外にも満州国建国には寛容でした。しかし、日本が中国での軍事行動を続けたため、国際連盟が大激怒。その結果、せっかくリットンらが容認した満州国の建国が承認されず、日本は国際連盟を脱退することを決意したのでした。
戦争とは究極の経済対策です。

 なので、昭和恐慌に苦しむ当時の日本国民は、戦争を歓迎していました。

 昭和初期の戦争は、軍部の暴走によって引き起こされたことは周知の事実ですが、こうした軍部の暴走を国民は熱狂的に支持していました。

 昭和の泥沼の戦争は、一体誰が招いたのでしょうか。

 そんな戦争責任を追及する際、どうしても忘れてはならないことは、当時の国民は戦争を熱烈に支持していたことです。

 私達が小中学校の歴史で学んできた印象から見れば、昭和初期は軍部が暴走したことで、日本は泥沼の戦争に引きづられていった、国民は言論統制により、言いたいことも言えず、軍部の暴走に振りまれた結果、大量の国民が犠牲になったとされています。

 これは、大きな間違いです。

 むしろ、戦争とは、国民が引き起こしたものであると見なす方が正しいと思われます。

「戦争が起きれば、景気が回復する。」

「肥沃な満州という地に移り住めば、豊かな生活ができる。」

 国民は皆、戦争や満州国に希望を抱いていたのです。

 こうした経緯から日本は満州事変を起こしました。

 

 1931年9月の満州事変は列強を中心に世界各国に衝撃を与えました。しかし、国際社会においては、イギリスやアメリカ、そして満州隣国のソ連でさえも、日本を批判こそしたものの、経済制裁や軍隊の派遣といった対抗措置がとれずにいました。

 確かに九か国条約の中で、中国への侵略をしないと取り決めてはいたが、列強各国はアジア・アフリカを侵略し、その資源や市場に頼っている事情から、日本を表立って批判出来なかったのです。

 さらに、関東軍に対抗する中国軍も大きな抵抗を見せなかったことも相まって、関東軍は意外なほどあっけなく満州を制圧してしまいました。

 これによって、当初、不拡大方針を決めていた日本政府も陸軍(関東軍)の暴走を追認してしました。

 勢いにのった陸軍は、ますます独断で動くようになってしまいました。

 これがまずかった。

 この陸軍の暴走こそが、日本の国際社会における立場を危ぶませ、国際連盟の脱退へと導く大きなきっかけとなりました。

 一方、海軍も中国沿岸部で新たな戦闘を開始しました。

 1931(昭和7)年1月18日、上海で日本人僧侶が中国人と思しき人物を襲撃したことをきっかけに、海軍は水兵による陸戦隊を上陸させ、日中の衝突が起こりました。

 こうした日本陸海軍の動きに対し、中国側は九か国条約違反であるとして国際連盟に提訴しました。

 国際連盟とは、スイスのジュネーブに本拠地を設ける平和機構

 国際連盟満州事変を、国際ルールを破った軍事行動であるとし、武力によって支配構造を作った日本を激しく非難しました。

 しかし、日本政府はこれに対し、「満州および上海での一連の軍事行動は、自国の権益を守る自衛の行為である。」と反論しました。

 こうした日中両国の主張を受けて、国際連盟は1931(昭和6)年末、満州事変の事情調査のためにイギリスのリットン伯爵を団長としたリットン調査団を極東へと派遣しました。

 公平で中立な立場で調査するため、調査団は欧米各国の代表で組織されました。

 調査団は、満州のみならず日中両国を訪問し、要人との会見や諸都市の視察を実施しました。公平や立場を要する詳細な調査は、半年以上に及びました。

 リットンの調査が続いている間、日本は満州国建国の準備を進め、1932(昭和7)年3月1日には清王朝最後の皇帝だった青年・愛新覚羅溥儀(あいしんかくぐらふぎ)が執政として就任し、満州国の建国宣言が発せられました。そして9日には満州国の首都として長春改め新京で、溥儀の就任式が挙行されました。

 日本は上海での日中両軍の軍事衝突がおさまる前に、満州国建国に踏み切ったのです。その背景にあったのは、やはり日本国民の熱烈な支持でした。

 また新聞メディアも、そんな国民感情を煽りました。当時の新聞各社は満州における権益は、日露戦争での大勢の戦死者と引き換えに得たものであり、満州が中国と縁を切って日本と良好な関係を持つ独立国になるのは、当然の成り行きであるとしました。

 リットン調査団は視察完了から約2か月後に、作成した報告書を国際連盟に提出しました。
 報告書には、満州事変や上海事変などの日本軍の行動は、国際ルールに合致する「自衛の行動」だとは認めませんでした。しかし、日本が満州に持つ権益は尊重し、満州国は独立国とは異なる形で「自治政府」を創設し、日本人を含む外国人顧問をその自治政府に付随させることを提言していました。
つまり、リットンらは満州国国際連盟の管理下に置くとしながらも、実質的には日本人の居住や行政・商業などにおける日本の権利を認めたのでした。
当時、国際連盟の日本政府代表だった松岡洋右(まつおかようすけ)は、1932年12月14日、リットン調査団の妥協案を受け入れて、中国に多少譲歩することで、問題の幕引きを図るべきだと東京の政府に進言しました。
松岡自身は、満州事変勃発から8カ月前の1931年1月23日、帝国議会(国会)で「満蒙(満州内蒙古)は我が国民の生命線である」と演説したことがありましたが、満州国の独立という問題の解決法に固執していたわけではありません。むしろ国際社会に従い、平和的な方法で満州国の建国を目指していました。

もっとも、近現代の外交ルールでは、単に当事者が「独立」を宣言するだけではダメで、他の国が正式にその国の政府を「承認」して外交関係を築かないと、独立国とは見なされませんでした。

松岡代表が国際連盟との妥協案を受け入れ、平和的な解決がされようとしていたまさにその時、事件がおきました。
1933(昭和8)年3月、関東軍が新たな軍事行動として「熱河作戦」を開始し、同地から国民革命軍を追い出す行動に出たのです。熱河省とは、満州国西部に位置しますが、熱河は(日本側が考える)満州国の一部だから、占領するのは問題ないだろうと思っていました。
また、関東軍の暴走かと思いきや、これは同1933(昭和8)年1月13日の閣議において、日本政府は関東軍に「長城(満州国の国境とされる線)を超えないならば」という条件で、作戦を許可していたのです。
しかし、こんなことを松岡代表は一言も聞かされていませんでした。

日本側は「熱河は(日本側が考える)満州国の一部だから、国際問題にならないだろう」と、状況を甘く見ていました。しかし、国際連盟の加盟国は、まだ満州事変や満州国の問題をどう処理するかの話もついていないのに、関東軍が「占領地」で新たな軍事行動をはじめたことは、国際連盟に対する侮辱と挑戦であると理解しました。
同1933(昭和8)年2月初頭、国際連盟は日本に対する新たな勧告案を作成し始めましたが、その内容を察知した日本は慌てました。
もし、勧告案が満州国の正当性を否定し、日本がそれを受け入れない場合、連盟規約に従って日本に対する諸外国からの「経済制裁」が課される可能性が出てきたからです。
そして実際、同1933(昭和8)年2月24日、ジュネーブで開かれた国際連盟総会で勧告案が採決にかけられることになりました。
日本は全権大使として、松岡洋右ジュネーブに派遣しました。
勧告案の内容は、満州国の成立を認めず、満州事変以降の日本の責任を問うという、日本にとって大変厳しいものでした。
採決の結果は、賛成が42ヵ国、反対が1か国(日本)、棄権が1ヵ国(シャム、後のタイ)で、日本の完敗と呼べる結果となしました。
「くそ・・・これで満州国の存在は絶望的なものになってしまった。この原因はあきらかに熱河省での一件だ・・・・。」
松岡代表は即座に「日本は、このような勧告案は受け入れられない。」と演説して、会場を後にしました。松岡代表らは、国際連盟の脱退を表明しました。
しかし、松岡には懸念がありました。このまま国際連盟を脱退してしまえば、列強各国からの経済制裁は免れない。そうなったら、日本の生命線ともいえる石油の供給が絶たれ、軍事面において大変不利な状況に立たされる。
松岡は国民は起こっているだろうと思い込み、直接帰国せず、アメリカに立ち寄っていました。しかし、当時の日本国民は松岡の行動を絶賛しており、それは報道を通じて松岡の耳にも聞こえてきました。

松岡がようやく決心して帰国すると、凱旋将軍のように迎えられました。
国民の多くは、松岡の態度を、日本の名誉を貫いた堂々たる行動と歓迎しました。しかし、国際連盟の脱退で日本は、国際協調から外れ、また自国の権利や立場を主張できる場所を失うことになりました。


参考文献
仕組まれた昭和史    副島隆彦=著 日本文芸社
大日本帝国の真実   武田知弘=著  彩図社
5つの戦争から読みとく日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史   中村達彦=著  アルファポリス

『影響力の科学』の要約を書いていこうと思います。

こんにちは。本宮貴大です。

遂に『影響力の科学』の本が届きました。

Amazonで3万円もした社会心理学の教科書です。

これは世界的な名著である『影響力の武器』の著者・ロバート・チャルディー二らが書いている本です。

「人はなぜ動いてしまうのか。」

「人はなぜ買ってしまうのか。」

人間の心理を知ることで、顧客の反応率を10倍、20倍と跳ね上げてしまう本です。

いずれ独立起業をする私にとって、この本の知識は必須です。

こうした「売る勉強」を学校では1秒も勉強しませんでした。

なので、当ブログをアウトプットの場として利用させてもらい。同本の要約を書いていこうと思います。

日本史はストーリーで覚えるも並行してやっていきますが、少しペースダウンします。

申し訳ございません。

本宮貴大でした。

それでは。次回をお楽しみに。

【リットン調査団】国際連盟は満州事変をどう見たのか【ビクター・ブルワー・リットン】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【リットン調査団国際連盟満州事変をどう見たのか【ビクター・ブルワー・リットン】」というお話です。

 

 日本史において、満州事変は非常に有名な出来事であり、知っている人も多いと思います。しかし、上海事変という出来事を知っている人はすごく少ないのではないでしょうか。

 しかし、この上海事変こそ、日本が国際連盟から非難を浴びるきっかけとなった事件でした。

 第二次世界大戦前、中国の上海は「東洋のパリ」と呼ばれていました。

 上海は19世紀にイギリスに租借され、日本や欧米各国の居留地である租界が形成されました。そして、昭和初期のこの時期、中国最大の港湾都市としてその繁栄を極めていました。

 そんな上海で、1932(昭和7)年1月、日本人僧侶が中国人と思しき人物に殺害されるという事件が発生しました。

 これをきっかけに日本軍と中国軍による軍事衝突が起こりました。これが第一次上海事変とよばれるものです。しかし、これにより、日本は国際連盟からの激しい非難を浴びることになり、結果的に国際連盟を脱退してしまうことになります。

 ということで、今回はそんな上海事変について解説していきながら、満州事変を含む日本の軍事行動を国際連盟はどう見たのかについてご紹介していきます。

国際連盟は、満州事変の事情を調べるためイギリス人のリットン率いる調査団を現地に派遣しました。アメリカや国際連盟は日本の満州事変を激しく非難しました。一方で、リットンは日本の満州における権益を許容していました。しかし、そんなリットンの配慮も「ある事件」によって潰えてしまうのでした・・・・・・。

 日本とアメリカ・イギリスの関係は、1928(昭和3)年の山東出兵あたりから、それまでの友好関係から、中国の権益をめぐって対立する相互不信の関係へと転じていきました。

 その傾向は、1931(昭和6)年に発生した満州事変でさらに深刻なものとなり、この対立構造が、やがて太平洋戦争の勃発へとつながることになります。
 満州事変から10年後の1941年の開戦まで、日本と英米の関係が真に友好的なものになることはありませんでした。

 米英両国が、満州事変で対日姿勢を硬化させたのは、日本が「抜け駆け」的に満州の支配権を奪ったことに加えて、張作霖の暗殺を含む関東軍の強引なやり方が、当時の国際的なルールを破っているとみなされたからでした。第一次世界大戦後、パリ講和会議やワシントン軍縮会議によって、平和秩序をつくるための様々な取り決めがされ、日本もそれに調印しています。

 日本は国際的な非難を避けられない状況まで追い詰められました。

 そこで政府は、早急に戦線の「不拡大」方針を決め、関東軍に対し、戦闘の停止を命じました。

「このたびの関東軍の暴走は、国際社会から激しい非難を受けることは必至だ。それ以前に、関東軍天皇の裁可を含む政府の承認を得ることなしに満州事変を起こしたことは、明らかな違反行為であり、大変遺憾だ。」

 

 しかし、関東軍はその後も、政府の許可を仰がずに軍事行動を続けました。
同1931(昭和6)年10月8日、満州事変に続いて関東軍は高級参謀・石原莞爾の独断で(つまり東京の許可を仰がず)奉天省南西の錦州(きんしゅう)を爆撃しましたが、この爆撃に巻き込まれて大勢の中国人市民が死傷しました。

 これに対し、またもアメリカや国際連盟加盟国は日本を激しく非難しました。

 また、この爆撃に続いて関東軍の地上部隊が錦秋に侵攻して地上戦が発生しましたが、それによってこの都市を通過するイギリス権益の鉄道(北寧鉄道)が使用不能となったため、イギリスは満州事変によって直接的な損害を破ってしまいました。

 こうした状況の中、満州における日本の支配構造が武力で作られつつあるのを見た国際連盟は、「ちょっと待った」とばかりに日本の動きにブレーキをかけました。

 五か国の常任理事国(日本、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア)と九か国の非常任理事国(中国を含む)から成る国際連盟理事会は、満州事変の勃発直後から事態の推移を見守っており、1931(昭和6)年9月30日には「日本軍部隊の満鉄附属地への撤退」を勧告する決議を採択していました。

 しかし、関東軍満州事変での戦いが終わらないうちに、新たな戦闘を中国の港湾都市・上海で起こりました。それは翌1932(昭和7)年1月、上海で日本人僧侶が中国人と思しき人物の襲撃で死亡したことがきっかけでした。

 関東軍は租界の日本人を保護することを名目に、兵を派遣しました。一方、中国軍もこれに対抗して上海に出動しました(第一次上海事変)。
にらみあう両軍は満州事変の余波もあり、有無を言わず交戦に入りました。
日本側は合計2200人。対する中国軍は内陸から3万3000人が出動してきました。市街各地では銃撃戦や手榴弾の投げ合いが始まりましたが、数で劣る日本軍は中国軍に押される状況となってしまいました。
それを聞いた帝国海軍は、関東軍への援軍として上海近海に常駐していた日本艦隊から、水兵による陸戦隊の上陸作戦を企てました。
このとき、司令官を担当していたのは、後に総理大臣にもなる米内光政でした。
「上海で陸軍が苦戦中か・・・・・。」
「はい。長官、どうしますか?」
「よし、日本人居留民の安全を守るのは、陸海軍の共通の目標だ。支那(中国)に大日本帝国海軍の恐ろしさを思い知らせるいい機会だ。」
「はい。では、そのためにはどうすればよいですか?」
「軍令部に出兵要請だ。水兵の陸戦隊を上陸させるのだ。」
米内は急いで徴兵し、海軍陸戦隊をつくりあげました。
こうして満州事変によって始まった日本と中国の戦争は、上海事変によってその戦線は拡大し、戦火は満州から中国全土へと一気に拡大していきました。
同年1932(昭和7)年2月には、満州ではハルピンの占領も完了させました。
こうした一連の軍事行動を仕掛けてきた日本に対し、中国は国際連盟に提訴しました。
さらに中国は連盟の非加盟国であるアメリカ政府にも働きかけ、前記の九か国条約に基づく形で、日本に経済制裁を行う方針も視野に入れ、日本に対抗しました。

そして、満州事変がどのような状況下で発生したのかを調査するため、国際連盟はイギリス人のヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする「リットン調査団」を日本と満州、中国へと派遣し、各国の要人と面会して聴き取り調査を行いました。
リットン調査団が日本に到着したのは、1932(昭和7)年2月29日でした。
第一次上海事変から約1カ月後のことで、その目的は満州事変における日本の主張が正しいのかどうかを調べ、国際連盟に報告することでした。

満州国の建国が宣言されたのは、その翌日のことでした。
日本、中国、満州と関係各国を精力的に回ったリットン調査団は6カ月におよぶ調査の結果を、報告書として完成させ、同1931(昭和7)年9月4連盟本部に提出するためスイスのジュネーブへと向かいます。

この動きを見た日本政府は「連盟から横槍を入れられる前に、満州国独立の既成事実を作ってしまおう」と考え、9月15日に満州国政府との間で日満議定書と呼ばれる文書に調印して、満州国政府を正式に承認すると発表しました。
近現代の外交ルールでは、単に当事者が「独立」を宣言するだけではダメで、他の国が正式にその国の政府を「承認」して外交関係を築かないと、独立国とは見なされなかったからです。
1932年10月1日、リットン調査団による報告書「リットン報告書」が国際連盟で日本と中国を含む各国代表に公表されましたが、その内容は、意外にも日本の立場に一定の配慮を示したものでした。
「リットン卿、それは本当かね?」
「はい。日本に中国進出の意図はありません。彼らの満州国建国までは容認するべきです。我々も世界にたくさんの植民地も持っています。そこまで強い反対は出来ないのでは・・・。」
リットン調査団の構成メンバーは、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカの五か国から選出されましたが、ドイツ以外は全て海外に植民地を持つ大国でした。これらの国から見れば、満州問題であまり日本を厳しく批判すると、自国の植民地支配の正当性が危ぶまれるという危惧がありました。リットンは別に日本の味方をしたわけではありませんが、大英帝国が世界中に持つ植民地の獲得経緯や支配構造と比較した場合、あまり満州問題で日本に対して偉そうなことを言える立場ではない、という事情がありました。

したがって、リットン調査団の総意としては、この問題は日本と中国の2か国で解決するべきだとし、中国に「連盟に頼らずに自分で日本と交渉するべきだ」と勧めました。

こうしたリットンの満州権益の容認に対し、国際連盟は反論しました。
「それでは上海での一件はどうなんだね?リットン卿。」
「そうですぞ。日本陸海軍と中国正規軍が戦っているではないか。」
「日本は上海・・・いや中国全土を狙っているに違いない。」
リットンは言葉を詰まらせました。
「まったく、日本は上海でよけいなことをしてくれた。これでは日本を擁護できないではないか・・・・。」
連盟各国は厳しい口調で日本を非難するようになりました。

参考文献
仕組まれた昭和史    副島隆彦=著 日本文芸社

美人は3日で飽きるは本当か

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回は心理学のお話です。
今回のテーマは「美人は3日で飽きるは本当か」というお話です。

「美人は3日で飽きる」という言葉がありますが、本当なのでしょうか。
心理学的にいうと、これは本当です。
心理学には「ハロー効果」というものがあります。
これは相手の印象形成の際に起きてしまう偏見や勘違いのことを言います。
つまり、「外見が美しい人は、内面も美しいだろう」という勘違いのことです。
当然ですが、世の中には、完璧な人なんていません。
その人の内面を知れば、美人でも不美人でも性格や能力に対する評価が平均化されてしまうのです。

「いや、俺は毎日、職場で美人を見ているけど、全然飽きない。多分美人は万年経っても飽きないと思う。」
とおっしゃる方もいると思います。
確かに、遠くから見ている分には全然飽きないと思います。顔が美しいというのは、第一印象において、大きなアドバンテージを持っています。華やかな雰囲気は男女問わず、多くの異性を魅了します。

しかし、大事なのは、付き合ったり、結婚した後も、その感情を保っていられるかどうかということです。
一緒に生活するようになると、その人の短所が目につくようになります。
「この人、顔は美人だけど、こういうダメな部分もあるんだ・・・・。」
そうなると、美人であることなど、どうでもよくなります。
3日は大げさかもしれませんが、数週間もすれば本当にどうでもよくなります。
「外見が美しい人は、内面も美しいだろう」というのは、あなたの願望であり、現実ではありません。
現実的は、相手の長所と短所を知り、どこまで妥協出来るかどうかを考えることの方がずっと重要なことになってきます。
「美人は得する」の有効期限は意外にも短いものなのです。


美男美女はうつ病になりやすいといわれています。美男美女は普通以上に努力しなければ正当な評価を得ることが出来ません。結局、普通くらいの外見の方が幸せに生きれそうです。
うつ病とは、心の風邪と呼ばれるくらい現代では当たり前の病気となり、誰でもかかりうる病気となりました。
それでもうつ病になりやすい人には傾向があります。
その1つが美男美女であることです。
外見が良いというのは、モテるがゆえ悩みなどないとと想像しがちですが、実は損をすることも多いのです。
美男美女は普通以上に努力しないと他人からその行動を評価されない場合がよくあります。
これは先述とおり、「外見が美しい人は、内面も美しいだろう」から来るもので、期待が大きい分、並みの行動では評価されないのです。
もっと気の毒なことに、美男美女が失敗したときには、普通以上にガッカリされてしまう点です。
最初に「美して知的で性格も良い。」とハロー効果でやたら高い評価を受けてしまった場合、彼女(彼)には、今後のいかなる失敗も許されないのです。
これを「ロス効果」といいますが、最初の期待が大きいと、必要以上に幻滅されてしまうのです。
その反対のケース、つまり「不美人だし性格も・・・・・」と最初に思われてしまった人は、その後のちょっとした気の使い方や振る舞いによって、評価が急上昇する可能性があります。
これはロス効果の反対で、「ゲイン効果」と言います。


参考文献
フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる心理学 植木理恵=著 日本実業出版
植木理恵の人間関係がすっきりする行動心理学 植木理恵=監修 宝島社

【五・一五事件】その時、犬養毅は何を言おうとしたのか【犬養毅】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【五・一五事件】その時、犬養毅は何を言おうとしたのか【犬養毅】」というお話です。

 是非、最後まで読んでいただきますようよろしくお願いします。

 

 満州国の建国宣言がされて2ヵ月半後の1932(昭和7)年5月15日、東京・永田町の首相官邸でとんでもない事件が起きました。

 それは日曜日の夕方、午後5時半頃起きました。

 時の首相・犬養毅は日ごろの政争の疲れを癒すべくのんびりとすごしていました。

 犬養が夕食のテーブルにつこうとしたとき、警官がもの凄い形相で走り込んできました。

「暴漢が侵入しました。総理、早急にお逃げください!!!」

 なんとテロリストの一団が警護の警官を数人銃殺し、首相官邸になだれこんできたのです。

 ピストルを持った海軍の士官候補生(青年将校)は集団で犬養のいる食堂に入ってきました。

 彼らは血走っており、犬養にピストルを向けました。

 78歳になっていた犬養には、まだ20代の候補生達は孫のように見えたのでしょう。全く動じませんでした。そしてこう言いました。

「まぁ待て。あちらで話を聞こうじゃないか。話せばわかる。」

 犬養はテロリスト一団を連れて客間に移りました。

 テロリスト一団も抵抗することなく、犬養の後をついていきました。

 客間に移った犬養は、ソファに腰をかけて言いました。

「まぁ、ゆっくり話そうではないか。」

 しかし、それまでの沈黙を破ったかのように海軍士官の一人が叫びました。

「えぇぇい。問答無用!撃て、撃て!!!」

 それと同時にピストルが乱射され、犬養は右手で制するようにしていたが、腹部や顔に弾丸を受けて倒れました。

 それを見てテロリスト達は、官邸から飛び出しました。

 家人や警官が駆けつけてきました。

「そ、総理!しっかりしてください。今、医者を呼びます。」

 しかし、犬養は血を流しながら言い続けました。

「あの乱暴者たちをもう一度連れてこい。よく話を聞かせてやる。」

 重傷を負った犬養は、その日の6時間後に亡くなりました。

 この事件は官邸だけではありませんでした。

 東京都内の牧野伸顕内大臣邸、警視庁、政友会本部などに手榴弾が投げ込まれるという同時多発的なクーデターが起きました。

 しかし、大きな被害はなく、犯人グループも順次憲兵隊などに自首しました。

 以上が「五・一五事件」の内容です。

 

 この事件の背景としてあったのは、政党内閣への不満がありました。

 海軍は政党内閣がロンドン海軍軍縮条約に締結したことに不満を持っていました。この軍縮条約で、対米7割の総トン数を飲まされたことで、これでは日本の国防は果たせないといわれていました。

 海軍は条約派と艦隊派に分かれていましたが、条約派は軍縮条約による国際協調に賛成でしたが、海軍の要職から遠ざけられており、軍縮条約に反対する艦隊派が海軍軍令部を牛耳っていました。

 そんな艦隊派は軍縮条約が結ばれたことによる予算の削減に不満を持っていました。
また、満州事変に対する政府の対応を「弱腰外交」として批判もしていました。テロリスト一団はこうした現状を打開するべく、事件を起こしたのです。

 そんな海軍の青年将校達に犬養が、「話せばわかる」といった意味はどこにあるのでしょうか。

 犬養は彼らを諭そうとしたのでしょう。

 要求や問題解決には、暴力よりも、言論をつかった方がはるかに実現しやすいということを。

 しかし、彼らは、理性を失った20歳代の世間知らずの若い士官達です。

 彼らを説得するのは、至難の業でしょう。犬養はそれもわかったうえで、何とか理解を得ようとしたのだと思います。

 おそらく、犬養はこう言おうとしたのでしょう。

「君達は、一部の連中の考えだけを真に受けすぎている。それは、君たちが若いからに他ならない。しかし、政治や外交の世界とはどういうものかを知っているか。もっと本を読め、もっと勉強をしろ。もっと世の情勢を見よ。」

 若い士官が怒りくるってピストルを振りかざすのは、そういった社会情勢を何ひとつ理解せず、自分達だけが正しいと思っているという偏ったモノの見方を改めさせようとしたのだと思います。

「今回の満州国の建国によって、日本は国際社会からの非難を浴びている。これが何を意味するか。君たちにはわかるか。」

 犬養は、満州事変には批判的で、満州建国を承認する気は全くありませんでした。

 もし、承認すれば、日本は国際社会に宣戦布告したと見なされ、非常に不利な状況に立たされてしまいます。

 犬養は旧知のジャーナリストをつかって中国の要人たちと交渉し、事態の収拾を図っていました。

 犬養は、関東軍が後先を考えずに実行した満州事変の後始末に手を焼いていたのです。

 しかし、今回の事件で、犬養の交渉も潰えました。日本は今後、国際的社会からの非難をモロに受けることになります。

 犬養の胸中には「話したいことは山のようにあった」ことでしょう。

 あなたはどう思いますか。

五一五事件の首謀者は裁判で「疲弊した農村を救うため・・・・」と陳述しました。それが多くの民衆の支持を得、彼らの刑は軽いものとなりました。「テロ行為」が「正統な行為」とされてしまったのです。しかし、それが原因で4年後の二・二六事件を引き越すのでした。

 五・一五事件後、元老の西園寺は、引き続き政友会から首相を推薦しようとしました。しかし、海軍軍令部の強い反発によってそれを断念。西園寺は最終的に海軍穏健派の長老である斎藤実(さいとうまこと)を後継首相に推薦し、同1932(昭和7)6月21日、斎藤実内閣が誕生しました。

 斎藤は、海軍の条約派に属し、国際協調に理解を示す人物であり、慎重で粘り強い性格とされていました。

 さて、五・一五事件の全容が、報道解禁によって新聞に詳しく報道されたのは、事件から1年経った1933(昭和8)5月17日でした。

 当然ですが、五・一五事件は世に大きな衝撃を与えました。政党政治が始まってから現職の首相が襲われたのは、原敬浜口雄幸以来、3人目ですが、原と浜口の場合は、民間人による単独犯行として処理されました。しかし、今回の事件は現役軍人が首相を暗殺するという政治テロでした。

 報道直後、世論は「軍の横暴」として強い批判を示しました。

 それもそのはず、正式な軍人たる者が、時の首相を暗殺するなどとんでもない話です。

 当然、逮捕された犯人達は、裁判にかけられました。彼らは厳重に処罰する必要があります。つまり、極刑(死刑)に処せられるのです。

 しかし、事態は思わぬ方向へ向かってしまいました。

 それは裁判にかけられた青年将校の一人が陳述した内容がきっかけでした。

「疲弊の極みにあった農村を救うために・・・・・」

 事件を起こした理由として、政党政治満州事変への政府の対応に対する批判のほかに、「農村の疲弊」が挙げられたからです。

 現にこの事件とほぼ同時期に、事件に農民7人による「農民決起隊」が加わり、変電所襲撃を行っていたことです。

 彼らは五一五事件を計画している海軍青年将校達に触発されて、事件を計画したのでした。

 彼らは昭和恐慌によって疲弊した農村に対し、政党内閣が具体的な対策を行わないことに対し、強い不満を持っていました。

「都市や資本主義の発展が農業を破壊している」

 これが彼らの主張であり、変電所を襲撃したのは、電力を奪うことで「都市を破壊」しようとしたのです。

 確かに昭和初期は恐慌や浜口政権の緊縮財政によって農村は貧困に苦しんでいました。
「農村の学校では4人に1人は弁当を持ってこられない」

 そんな報告は全国的に挙がっていました。

 このため、今回の五・一五事件は単なる「暴挙」ではなく、「農村のための義挙」とみられるようになり、全国から減刑嘆願書が寄せられました。

 それによって、同1933(昭和8)年11月に開かれた裁判では被告らに、禁固15年という刑が申し渡されました。

 当初の予想よりも、かなり軽い罪になりました。

 この裁判の影響は大きいものでした。

「農業や民衆を救うため・・・・」という大義を掲げれば、民衆の支持を得ることが出来、どんなテロ行為も、「義挙」に昇格され、許され認められるのだと信じる輩(やから)が出てきてしまったのです。

 その結果、1400人におよぶ陸軍の青年将校が引き起こした‘健軍以来最大の不祥事‘と言われる二・二六事件を招いてしまうのでした・・・・。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

本宮貴大でした。

それでは。 

参考文献
マンガでわかる 日本史     河合敦=著  池田書店
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著 産経新聞出版
昭和史を読む50のポイント   保阪正康=著 PHP

【満州事変】なぜ石原莞爾は満州国を植民地ではなく、独立国としたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【満州事変】なぜ石原莞爾満州国を植民地ではなく、独立国としたのか」というお話です。

 当初、関東軍満州を日本の植民地とする予定でした。しかし、それは国際世論から非難されることは必至でした。政府も必死に説得したため、関東軍高級参謀の石原莞爾満州国を植民地ではなく、独立国としました。

「番組の途中ですが、ここで臨時ニュースです。」

 1931(昭和6)年9月19日午前6時半、ラジオ放送が始まって数年しか経っていないラジオが、ラジオ体操の番組を中断し、臨時ニュースを伝えました。

 それは、満州中国東北部)の奉天瀋陽)郊外の柳条湖と呼ばれる場所で、日本と中国の軍隊が衝突したという一報でした(柳条湖事件)。

 事件が起きたのは、前日の9月18日午後10時20分頃です。

 柳条湖とは、奉天駅から東北に8キロほど離れた場所にあり、南満州鉄道(以下、満鉄)の路線が何者かに爆破されたのでした。

 満鉄の被害そのものは小さいものでしたが、この付近で満鉄の警備にあたっていた日本の関東軍独立守備隊が張学良軍の仕業だとして攻撃を開始したのです。

 両者の衝突の事実は直ちに、旅順にあった関東軍の司令部に打電されました。

 関東軍司令官の本庄繁(ほんじょうしげる)は、深夜にも関わらず参謀ら幹部に非常呼集をかけます。

「諸君、夜分にすまんな。しかし、詳しい状況が全くわからん。これは一体、どういうことだ?」

 これに対し、高級参謀の石原莞爾は言いました。

「本庄殿、もはや一刻の猶予も残されておりません。満州の地を我が国の植民地とするのです。」

 石原に説得された本庄は、中国への宣戦布告の許可を出しました。

「そうか。良いだろう。本職の責任にてやろうではないか。」

 石原は本庄の許可を得た後、メモひとつ見ず、電報や電話で満鉄沿線に控える連隊や独立守備隊に出撃命令を出しました。

 その手際の良さは、まるでこの状況をあらかじめ想定していたかのようでした。

 そんな石原を見て、本庄は尋ねました。

「石原、この事件、まさかお前が仕組んだものなのか?」

「いいえ。日々の訓練の成果ですよ。私は、司令官の部下です。」

 

 石原率いる関東軍は、電光石火のごとく出撃を開始、満州の主要都市を次々に陥落していくのでした。

 柳条湖での事件は、早急に日本本土にも打電されました。

 浜口雄幸に代わって、再び首相の座についた第二次若槻礼次郎内閣は、19日午前の閣議で、これまた電光石火に「不拡大」の方針を決めました。

 しかし、この政府の意向を石原は突っぱねました。

「ここで足を止めれば、日本が国際的に非難を浴びるだけだ。」

 一方の若槻内閣も必死で説得します。

「このまま戦線を拡大すれば、アメリカをはじめ国際社会から非難を浴びるぞ。」

 このように関東軍と政府は互いに正反対の主張を展開しました。

 しかし、関東軍が戦線を拡大することは、国際社会からの非難を浴びることは明確でした。

 というのも、1928(昭和3)年、日本は田中義一内閣のもと、世界15か国とパリ不戦条約を締結しており、戦争放棄を誓っているからです。
 したがって、日本は、この一連の軍事衝突を「満州戦争」ではなく、満州事変と呼ぶようになりました。

 

 さて、政府はこんなこともあろうかと、関東軍の暴走を阻止するために陸軍参謀本部の作戦部長である建川美次(たてかわよしつぐ)を満州に派遣していました。

 建川は、石原に関東軍の撤兵を強く要請し、満州の植民地化には強く反対しました。

「石原殿、どうか満州の領有は断念していただきたいと存じます。」

 政府の意向を押し切れると踏んでいた石原らにとって、これは計算外でした。

 政府や軍中央の意向を無視すれば、満州全土の制圧は強行できても、予算を割いてもらえず、軍費や兵員、兵器の補充が不可能となります。

 そうなれば、予想される中国国民軍や張学良軍の反撃には耐えられません。

 

 こうした政府の強い反対を受け、石原は方針転換を迫られました。

 つまり、石原は、当初の目的だった満州の植民地化を断念せざるを得なくなったのです。

 

 しかし、石原にとって満州の植民地は日本の権益維持だけでなく、持論である「日本とアメリカの最終戦争」を戦うためにも必要なものでした。

 そこで、石原は満州を植民地ではなく、独立国とすることにました。

 建川は、そんな石原に尋ねました。

「石原殿、何をお考えですか。」

 石原は答えました。

「この満州の地に、多彩な民族が共栄する民主共和制の国を建国したいと思っています。」

 石原は建国におけるスローガンを掲げました。

 それは、「王道楽土(おうどうらくど)・五族協和(ごぞくらくど)」でした。
「王道楽土」とは、王による徳に基づき、統治される安楽な土地という意味です。

 また、「五族協和」の五族とは、日本人・朝鮮人・中国人(満州人)・モンゴル人・ロシア人を指し、彼らが平等に権利を持ち、エスニシティ(民族)に縛られず、共存共栄するアメリカのような経済圏のことを意味します。

 かつてアメリカはイギリスの植民地でした。それが、18世紀末のアメリカ独立戦争によって、アメリカはイギリスから独立を果たしました。

 そして20世紀初頭には、当時最先端の政治体制である民主主義の政体を布き、多民族国家で、自由な経済活動が行われている国へと成長しました。
つまり、石原は東アジアにアメリカと同じような独立国を作ることを計画したのです。
関東軍は、「王道楽土」と「五族協和」を理念として掲げたことで、昭和恐慌の不況から抜け出せない日本国民からの絶大な支持を受け、建国宣言に踏み切りました。
満州に移住すれば、豊かな生活ができる。」
満州国は当時の日本国民の「希望の地」として映りました。
満州での戦線は、日本側が優勢でした。それは日本の方がより近代的な兵器を持っていることも原因でしたが、中国側があまり大きな抵抗をしなかったことも大きな原因でした。
中国側は、関東軍の一連の軍師行動を国際連盟に提訴するつもりだったのです。
それを予想していた若槻内閣も再三の「不拡大」方針を発表。にも関わらず、関東軍はそれを黙殺し、戦線を拡大させ、次々に諸都市を占領していきました。
そして、同1931(昭和6)年11月、チチハルを占拠しました。

関東軍の暴走は政府にも責任があるのではないですか。」
野党である立憲政友会民政党の若槻内閣を批判しました。
若槻内閣は、もはや事態の収拾はつかないと判断し、同1931年12月、総辞職しました。
そして新国家の柱とすべく清朝の最後の皇帝で、天津に幽閉されている愛新覚羅溥儀(あいしんかぐらふぎ)を脱出させ、満州に迎えいれました。

翌1932(昭和7)年3月1日、満州国の建国が宣言されました。

これと同様に、石原は日本と満州の関係とは、20世紀初頭のイギリスとアメリカの関係と同じであることを国際社会にアピールしようとしたのです。
「これなら国際社会も建国を認めてくれるでしょう。」
石原はそう読んでいました。
しかし、こうした日本の強引ともいえる建国に、中国をはじめ国際社会の反発は強いものでした。

参考文献
子供たちに伝えたい 日本の戦争  皿木喜久=著 産経新聞出版
マンガでわかる  日本史    河合敦=著   池田書店