【明治から大正へ】大正政変をわかりやすく (前編) 【西園寺公望】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【明治から大正へ】大正政変をわかりやすく(前編)【西園寺公望】」というお話です。

明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位。年号は明治から大正になりました。日露戦争によって借金を抱えた西園寺内閣は陸軍の師団増設提案を拒否。これに陸軍は抗議します。陸軍の協力を得られなくなった西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。西園寺の後を引き継いだのは、三度目の総理大臣となる桂太郎。これが大正政変の前半部分になります。

 

明治天皇日露戦争が始まる前ぐらいから糖尿病の傾向がありました。糖尿病とは尿の中に糖分が出てくる病気で、自覚症状のない非常に恐ろしい病気です。当時、糖尿病の原因はよくわかっていませんでした。侍医が「お米を食べすぎないように」とか「砂糖をなめてはいけない」などいろいろ申していましたが、明治天皇は、一向にお聞きになりません。

 

明治天皇は非常にお酒に強い人だったようです。ディナーの時は話をしながらぐいぐい召しあがっておられた。しかも、テーブルの上のお酒が空になってしまうまでは絶対に引っ込まないというような大酒家だったようです。

おそらくこれが原因でしょう。

明治天皇の糖尿は、だんだん酷くなっていきました。

しかし、勤勉実直な明治天皇は毎日の政務を怠りませんでした。

1912(明治45)年は明治天皇がなくなる年で、明治最後の年となります。

明治天皇は毎年行われる陸軍の大演習をご覧になります。陸軍の大演習とは2つほどの師団を動員し、両方が模擬戦闘を行うというものです。明治天皇は不自由を忍んで出席してくださったのです。

同年7月19日、明治天皇は夕食の後、床にたおられ、そのまま昏睡状態に入ってしまいました。東大医学部の教授が御視察をして、 尿毒症であることが判明。しかしその症状はかなり進行しており、とうとう目を覚ますことはありませんでした。

そして7月30日、明治天皇は閣僚に見守られながら、最後、心臓麻痺で亡くなられました。

こうして45年間に及んだ明治時代が終わりを告げました。

そして大正天皇が新たに即位。年号も大正となり、大正時代が始まります。

 

さぁ、これから大正時代を取り扱っていきますが、早速政府内では揉め事が起きていました。

日露戦争後、東アジアの強国となった日本は、1907(明治40)年に帝国国防の方針を固め、陸軍は現有の17個師団を25個師団に増師し、海軍は戦艦・巡洋艦を各8隻づつ建造する八・八艦隊(はちはちかんたい)を実現するという軍備拡張の長期目標を設定していました。

しかし、日露戦争において、日本はアメリカやイギリスの富豪から外債を購入してもらったため、莫大な借金を抱えてしまいました。しかも、ロシアから戦後の賠償金を獲得することが出来ず、返済の充てがない状態になるという最悪な事態になりました。

これによって、政府は緊縮財政を余儀なくされ、軍備拡張計画は中々進みませんでした。これが明治終盤から大正に入るまでの政府の軍事政策です。

 

当時、政権を運営していたのは、2回目の総理大臣となる西園寺公望内閣でした。

そんな中、陸軍大臣の上原勇作は陸軍2個師団の増設を西園寺内閣に提案してきました。

「清国(中国)では現在、辛亥革命が起きています。警戒は怠れません。朝鮮に軍隊を送りたいので、どうか予算を増やして頂きたい。」

今の上原の言葉通り、この当時、清では辛亥革命が起き、清王朝が倒されます。そして中華民国が新たに発足され、中国の近代化を目指す孫文三民主義を掲げて臨時大総統になりました。しかし、旧勢力である袁世凱が欧米列強と手を組み、孫文を追い落とし、孫文は台湾に亡命します。しかし、袁世凱には中国全体を統治する能力がなく、中国は事実上、分裂状態となってしまいました。

こうした国際情勢に対し、陸軍は師団増設を要求してきたのです。

 

当時の1個師団は1万2千人規模です。人件費だけでもかなりの出費になります。さらに火器などの装備品も含めれば膨大な出費になることは容易に想像出来ます。

西園寺首相は当然これを拒否します。

「現状の財政状況で陸軍は、朝鮮への2個師団増設を求めてきた。正気とは思えない。このまま破滅の道をたどるのか?とても乗れない相談だ。」

公家出身で、冷静沈着な西園寺は、日本が軍事力増強にばかり傾倒している状況に危機感を持っていました。

西園寺の却下を受けて上原は2日後、西園寺に抗議するように陸軍大臣を辞任しました。

 

困った西園寺は元老で陸軍閥のボスである山県有朋に後任の陸軍大臣を推薦してもらうよう要請しました。当時は、現役の軍人以外は陸海軍大臣になれません。山県のような元老が適任となる人物を推薦することで、大臣が決まるのです。

元老とは、明治維新の功労者で年をとった政治家達で天皇を別にすれば、当時の政治体制の最高権力者の集まりで、天皇に代わって国の重大な決断を行う人達です。

 

しかし、元老・山県も上原の意見を支持しました。師団増設における妥協案を提示しました。

「西園寺殿、1年間の期限付きでも良い。せめて1師団だけでも増設してくれるか。」

西園寺はため息をつきました。

「陸軍のボスである山県殿までそんなことを・・・。呆れた。話にならない。」

これを機に陸軍と西園寺内閣の対立を深まりました。

 

陸軍は西園寺内閣に対し、嫌がらせをします。

なんと、陸軍は上原の後任としての陸軍大臣を推薦しないという抵抗をしたのです。

このまま陸軍大臣が現れなければ、西園寺内閣は総辞職しなければなりません。

結局、陸軍の協力を得られなかった第二次西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。

いや、むしろ西園寺が自ら政権を投げ出したといっても良いでしょう。

「私はもう総理を引き受けない。まったく陸軍には失望したよ。」

 

西園寺が辞めたことで、次の総理大臣は誰にするかという話になりました。

当時の首相は、今のように国会議員により選ばれるのではありません。元老が推挙した者に天皇から直々に大命が下されるカタチで組閣が始まる仕組みです。山県有朋松方正義大山巌井上馨などの元老は会議を開き、総理大臣を選ぶことになりました。

最初、松方にやってくれないかという話になりました。

「私はもう70歳の老いぼれだ。さすがに引き受けることは出来ない。」

次に、海軍大臣山本権兵衛に話がいきました。

「う~ん・・・私はまだ総理を引き受けられる器ではありません。」

(山本は後に総理大臣になります。)

 

結局、総理になる者が現れない。

しびれをきらした山県はこう言いました。

「こうなっては仕方がない。私なぞはもう年寄りで、時代遅れの部分があるが、私でよければやりますぞ。そうでなければ、我が長州直系の部下である桂太郎をもう一度引っ張りだします。」

同郷で大先輩である山県の提案に対し、桂は言います。

「先輩にご迷惑をかけるわけにはいきません。次の総理は私が引き受けます。」

桂は3度目となる総理大臣を引き受けました。こうして第二次西園寺内閣が潰れ、第三次桂内閣が誕生したのでした。

これが大正政変の前半部分となります。

 

今回内閣を投げ出した西園寺ですが、国民の間での人気は高いものでした。陸軍の要求を突っぱね、師団を増やすことを抑えたからです。

時代は確実に変わりつつありました。

日露戦争開戦時では、あれほど「強力な軍事国家」を支持していた国民は、日露戦争後の生活苦や治安悪化など社会問題を受け、今後はむしろ柔和なで平和な国家を求めるようになっていたのです。

大正時代とは、むやみに軍備ばかり増強してはいけない。もっと人々の生活環境の改善や平和な世の中をつくりたいと思う気運が高まった時代でもありました。こうした国際協調路線の気運が、後に総理大臣となる原敬の政策にも反映されていきます。

さぁ、第三次桂太郎内閣はどのように政権運営をしていくのでしょうか。後編に続きます。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版会

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著 産経新聞出版

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む 山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

【条約改正2】なぜイギリスは突然、法権回復に同意したのか【陸奥宗光】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【条約改正2】なぜイギリスは突然、法権回復に同意したのか【陸奥宗光】」というお話です。

今回も前回に引き続き、日本の条約改正奮闘記についてストーリーを展開していきたいと思います。

1892(明治25)年に外務大臣に就任した陸奥宗光は、絶妙な外交手腕で列強諸国の特にイギリスとの条約改正(法権回復)に奮闘します。そんな中、突如イギリスは条約改正に同意しました。実はロシア帝国がシベリア鉄道を建設するなど中国北東部や朝鮮方面に勢力を拡大してきたのです。イギリスはこれに対抗するために日本と親密な関係を築きたかったのです。これはやがて1902(明治35)年の日英同盟の締結につながるのでした・・・。

 

陸奥宗光といえば、皆さんはどんなイメージをお持ちですか?

学校では不平等条約改正を達成した人物として教えられると思います。

陸奥は幕末、勝海舟が主宰する神戸海軍操練所に入塾し、海軍士官教育を受けていました。この塾頭が坂本龍馬で、陸奥は龍馬から見込まれた数少ない逸材でした。

一人で本ばかり読む内気な陸奥に対し、龍馬はいつも語りかけました。

「我が国は今後、独立国家として外国人と手を取り合い、貿易立国として発展していくべきだ。そんな壮大な夢を描けているのは、俺と陸奥だけだ。」

この言葉は陸奥の胸に強く残り、後述する彼の外交手腕に生かされることとなります。sつまり、陸奥宗光という人物は、いわば坂本龍馬の意志を継いだ人物と言えるでしょう。

 

明治政府は発足以来、条約改正を最大の外交課題としていました。

政府が改正を目指す不平等条約は大きく以下の2つです。

1.日本国内での外国人犯罪を日本の法律で裁けない領事裁判権の撤廃(法権回復)

2.輸入の際に、その輸入品にかける税金を決めることが出来ない関税自主権の回復(税権回復)

岩倉具視使節団が条約改正交渉のために渡航したのをきっかけに、寺島宗則外務卿が税権回復のための交渉をするも、いずれも失敗。

後を継いだ井上馨は、極端な欧化政策をするなどし、白人の取り入り、条約改正をあと一歩のところまでこぎつけることに成功しました。

しかし、井上は条約改正の条件として呑んだ「外国人の犯罪には外国人裁判官を任用すること」に対し、政府内部や世論が猛反発。結局、1887(明治20)年に井上は条約改正交渉の無期延期を発表。外務大臣を辞任し、条約改正は頓挫してしまいました。

詳しくは前回までの記事をご覧ください。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 「日本で起きた外国人犯罪を日本人が裁くことが出来ない」

これは主権国家・独立国家を目指す日本にとって、大きな障害でした。

井上の後を継ぎ、外務大臣に就任した大隈重信は井上のような列国を集めて集団で交渉する方式(集団方式)ではなく、列国と個別に交渉を進める方式(個別方式)を取りました。

「井上殿のような集団交渉会議では、交渉は長期化してしまう。なぜなら、帝国主義の西洋諸国は互いに領土の奪い合いで対立している。これでは列強各国は互いに様子を見合い、最初に条約改正に応じる国がいつまで経っても出てこないではないか。」

として、個別に各国と交渉する方式を取ったのです。

 

大隈は外国人裁判官の任用は大審院(最上級の裁判所)に限るという妥協案を提示。その上で列強各国と交渉した結果、1888(明治21)年にアメリカ、ドイツ、ロシアとは妥結に成功。井上同様、世論に秘密で行われた条約改正は成功するかに思われました。

大審院・・・現在でいう最高裁判所のこと)

 

しかし、翌1889(明治22)年、大隈の条約改正案がイギリスの「ロンドン=タイムズ」紙上に掲載されると、またも日本国内の民権論者(左翼派)や国権論者(右翼派)が猛反発。各地で反対運動が勃発しました。

そして同年10月、大隈は九州の国権論者(右翼派)に爆弾を投じられて、右足を失う重傷を負いました。この事件にすっかり委縮してしまった時の首相・黒田清隆は内閣を総辞職。条約改正は頓挫してしまいました。

 

大隈の後を継いだのは、外交経験豊富な大ベテランの青木周蔵です。彼も法権及び税権の回復のために列強各国と交渉を開始しました。

しかし、列強諸国は中々首を縦に振りません。

特に断固反対の姿勢をみせたのはイギリスでした。先程の大隈の件もそうですが、イギリスは日本から獲得した既得権益をそうそう手放そうとはしなかったのです。

当時、イギリスは「海の覇者」として世界のトップに君臨する軍事大国であり、植民地争奪戦がおきている国際情勢の中、その強大な軍事力を背景に、冷徹で現実的な外交により、いかに有利な条件で自分達の利権拡大とその維持を実現するかに注力していたのです。

イギリス側の主張はこうです。

「日本は昨年、大日本帝国憲法も発布されるなど立憲国家樹立への努力がうかがえる。しかし、現状の日本の法典整備はまだまだ十分なものとはいえない。したがって、誤審や冤罪を招く危険性もあり、日本にイギリス人の裁判権を任せるわけにはいかない」

 

こうした進まぬ条約改正交渉の中、突如、事件が起きました。

モスクワからウラジオストクまで続くシベリア鉄道建設の起工式に出席したロシア皇太子(後のニコライ2世)が日本にも立ち寄り、会談や祝賀典が開かれました。そんな中、1891(明治24)年5月、滋賀県大津市で警備にあたっていた巡査の津田三蔵が、ロシア皇太子を襲撃したのです。(大津事件

ロシアの報復を恐れた日本は、負傷したロシア皇太子を、明治天皇自らが見舞いに行く事態にまでなりました。

あわや戦争にまで発展するかに思われたこの事件は外務大臣である青木が引責辞任することで和解。しかし、条約改正交渉はまたしても頓挫してしまいました。

 

青木の後を継いだのは、期待の新星、陸奥宗光です。

陸奥宗光が政府に入閣したのは1888年のことです。政府の中心人物である伊藤博文からそのスキルを見込まれ、外務省に入りました。

1890年、第一回帝国議会が開催されました。第一回選挙の結果、自由党立憲改進党

が合わせて過半数議席を獲得し、予算案をめぐって政府と激しく対立しました。

 

1892(明治23)年、第2次伊藤博文内閣が誕生。陸奥外務大臣に就任しました。

伊藤と陸奥衆議院の最大勢力である自由党と協働し、政治を運営していく必要があるとしました。

(民党・・自由党立憲改進党などの政党の総称。かれらは国民寄りの政党として政府と対立しました。)

「民党を味方につけるには、どうしても外国人裁判官の任用は避けなければならない。」

陸奥は自らの条約改正の方針をまとめた改正案を政府に提出しました。そこにはしっかりと、「外国人を裁判官にすることは断固反対する。そのうえで法権回復を実現する」と書かれていました。

「白人から裁判権を獲得する・・・いや、取り戻すのだ。それが達成されて初めて日本は独立国家として世界にデビューしていくことが出来るのだ。」

 

この陸奥の熱いメッセージは自由党の幹部に響きました。こうした陸奥の活躍によって伊藤内閣は自由党の条約改正への理解を得ることに成功。伊藤内閣と手を組んだ自由党は今後、これに反対する立憲改進党と対立を深めていきます・・・・。

 

さぁ、陸奥宗光外務大臣はどのような外交手腕を見せてくれるのでしょうか。

陸奥は強硬姿勢を貫くイギリスと集中的に交渉をすることを決めます。

「イギリスさえ条約改正に応じれば、その他の国との条約改正は容易になる。」

1893(明治26)年、陸奥は、前任者の青木周蔵をイギリス公使に任命。ロンドンで条約改正交渉をするよう命じました。

「青木殿、現地に着いたら電報を。外交の指示は随時、私がいたします。どうかお気をつけて。」

間もなく、青木はロンドンへ赴任。条約改正交渉をするも、イギリスは依然として日本の法典未整備を理由に法権回復に同意しません。

 

1892(明治25)年、日本の軍艦千島が瀬戸内海でイギリス船と衝突して沈没する事故が起きました。千島の乗組員が90名中74名が殉職するという大惨事となりました。これはイギリス側に過失があるとして参謀本部(軍部)は伊藤内閣とともにイギリス側に損害賠償を請求しました。しかし、イギリス領事はイギリス側には責任はないという判決を下しました。この裁判は最終的に和解するも、日本国内は猛反発しました。

「これは事故ではない。事件だ。一体いつになったら領事裁判権が撤廃されるのだ。政府は何をやっているのだ。」

翌1893(明治24)年に開かれた第五回会議では多数派を占めた立憲改進党や国民協会が手を組み対外硬派連合を組織。政府の一向に進まない条約改正を批判しました。

「日本は条約上、まだ内地雑居は認めていない。なのに、平然と居留地外を行き来している。現行条約が徹底されていない。」

などと、対外硬派連合は「内地雑居反対」、「現行条約励行」を掲げ、政府を攻撃しました。

この運動は民衆にも波及しました。

「白人は居留地外で商売をやるな。おら達の商売を邪魔するな。」

人々は、居留地外を行き来する白人達に石を投げ、罵声を浴びせるなどの暴動を働きました。

 

こうした日本の圧力に機嫌を損ねたイギリスは、代理公使を派遣し、陸奥との面会を求めて外務省を訪れてきました。

「日本国内で精力的に活動するイギリス人が、日本人から何やら陰湿な嫌がらせを受けていると聞いた。これはどういうことだ。今すぐ暴動をやめさせよ。さもないと、条約改正は全て白紙に戻す。」

「本当に申し訳なく存じ、心からお詫び申し上げます。」

陸奥が答えると、イギリス代理公使は間髪いれずにこう言います。

「これは日本が法典未整備であるがゆえに起きた事件だ。国内を全く統制出来ていないではないか。日本は真剣に条約改正をする気があるのか。全く誠意が感じられない。」

このように一方的に意見するイギリスに対し、さすがに反感を覚えた陸奥ですが、冷静に対応します。

「イギリス人への暴動は申し訳なく思っています。これに関しては早急に対応させて頂きます。どうか我が国の法権回復には同意して頂きたい。しかし、その新条約の施行は5年後とします。その5年間に我が国は憲法・司法・条例あらゆる法典を完全に整備致します。」

陸奥は日本の主権国家としての立場を守りつつ、イギリスの要求もしっかりと受け入れるという絶妙な外交手腕を発揮しました。

イギリス代理公使はしばらく黙り、こう言いました。

「検討をしておきます。」

 

「諸君、条約改正は政府発足以来、外交における最重要課題です。国内では条約励行運動と称して白人に対する暴動が起きています。しかし、交渉とは本来、対等に行われるべきで、条約締結とはお互いが納得したうえで行われるべきです。私はここに条約励行運動の一切を排除することを宣言します。これからは外国人と手を取り合って経済活動をしていかなくてはいけません。さもないと、日本国民の損失は計り知れないものとなるでしょう。日本は今後、貿易立国として発展していくのです。」

野党は猛反発。結局政府は議会を解散することにしました。

1894に開かれた第5回議会では立憲改進党や国民協会などの民党が過半数議席を獲得。これに自信をつけた民党は、「内地雑居反対」と「現行条約励行」を主張しました。

陸奥は焦ります。

「このままではイギリスとの交渉も頓挫してしまう。」

そんな時です。イギリスは突如、法権回復に同意する旨を青木に申し出てきたのです。

「日本は函館港をイギリスが独占的に使用することを認めよ。それを条件に法権回復に同意する。」

なぜ、イギリスは突然、法権回復に同意したのでしょうか。

実は、先程の大津事件で、ロシア帝国がシベリア鉄道の建設に着手していると述べました。ロシア帝国はシベリア鉄道を敷くことで中国北東部や朝鮮方面へ領土を拡大しようとしたのです。しかも、イギリスの最大のライバルであるフランスとも手を組み、東アジアにおける利権を互いに認め合うことまでしています。

イギリスは東アジアにおける自国の利権を守るために対抗します。しかし、極東はイギリス本国から遠く離れています。そこで日本と親密な関係をつくり、極東の貿易拠点や燃料補給の中継地点として利用しようと考えたのです。

 

法権回復に同意しながらも、「函館港を独占させろ」という新たな要求を突き付けてきたイギリスに陸奥は頭を抱えながらも、ロンドンの青木に電報します。

「あのイギリスが条約改正に同意してきたのだ。このチャンスを逃すわけにいかない。函館港におけるイギリスの独占を認めよ。」

 

「副島殿、寺島殿、井上殿、大隈殿、そして青木殿、彼らの無念を今こそ果たす時がきたのだ。」

陸奥からの電報を受けた青木はその旨をイギリスに報告。

そして1894年7月、日本はイギリスと不平等条約に代わる新たな条約、日英通商航海条約を締結しました。これによって日本は遂にイギリスとの間の法権回復を実現したのです。その後、アメリカとも同等の条約を結んだのをきっかけに列強諸国各国とも同等の条約を結びました。長きにわたり、不平等条約に苦しんできた日本がその領事裁判権は完全に撤廃。主権国家・独立国家として日本は世界のスタートラインに立つことが出来たのです。

陸奥は天を見上げてこう言いました。

「龍馬さん、見ていますか。我が国は着々と近代国家としての体裁を整えています。日本は今後、貿易立国・経済大国として必ず成長していくでしょう。」

条約改正を達成した日本は間もなく、日清戦争に突入します。陸奥は、清国との外交、そして戦後処理である下関条約締結のために奮闘します。

陸奥の意志はやがて大正時代に19代総理大臣となる原敬に引き継がれていき、原は海外と国際協調をとりながら、海外との貿易を充実させる積極政策に出るのでした・・・。

 

ところで、一方の税権回復に関しては、今回締結された新条約の更新の時に達成されます。しかし、その時の日本は既に産業革命が起きており、本格的な資本主義経済の国として成長段階にありました。これに脅威を感じた列強諸国は日本との交渉をトラブルもなく進めていきます。そして1911年、小村寿太郎外務大臣のもとで税権が完全に回復します。この3年後、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発します。日本は大戦景気を享受し、経済大国・債権国として国際社会において、その地位を確立します。もし、日本が自由に関税をかける権利を認められていなければ、これほどの経済的利益享受は得られなかったでしょう。税権回復は、まさに滑りこみセーフの条約改正だったのです。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

早わかり幕末維新                外川淳=著  日本実業出版社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著  祥伝社

人物で読む近代日本外交史            佐道明弘=著 吉川弘文館

参考映像

その時歴史は動いた 不平等条約を改正せよ!陸奥宗光  NHK放送

【条約改正1】なぜ日本は外国人を裁判官にすることに反対したのか【井上馨】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は、記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【条約改正1】なぜ日本は外国人を裁判官にすることに反対したのか【井上馨】」というお話です。

 今回は日本の明治時代の条約改正についてストーリーを展開していきながら、なぜ外国人裁判官の任用に反対したのかを見ていきたいと思います。

外務大臣井上馨外国人を裁判官に任用することを条件に列強諸国と条約改正を達成させようとしました。しかし、領事裁判権を撤廃し、日本国内での外国人犯罪者も日本の裁判を受けるとしても、裁判そのものを外国人裁判官に委ねるのは国の名誉を大きく傷つけるとして政府内部や国民から猛反発を受けました。井上は条約改正ばかりに注目してしまい、本来の目的である日本の独立を見失ってしまったのです。

 

 幕末に締結された日米修好通商条約をはじめ各国と締結した不平等条約の改正は、明治政府にとって最重要な外交問題でした。

その不平等は大きく2つあります。

  1. 外国人が日本で犯した犯罪は、日本の法律ではなく、その国の法律で裁くという領事裁判権を認めること。
  2. 日本が輸入の際にかける関税を自主的に決める権限がないこと。(関税自主権がない。)

 

 特に領事裁判権を認めたことに対しては、非常に国内の反発を招きました。

 江戸時代は、天下泰平の世でした。しかし、日本が開国したことで横浜や神戸が港町として開発され、多くの白人とその家族がたくさん住む町となりました。そこは治外法権区域とよばれ、日本に滞在していながら、日本の法律が及ばない区域であることを意味します。

 しかし、白人達は治外法権区域内であることを良いことに好き勝手な行動に出たのです・・・。

 

こうして、天下泰平の世は白人達によってめちゃくちゃにされました。

 

「このままではいけない。幕府は一体何をやっているのだ。我が国は今後、日本という独立国家・主権国家として西洋列強と肩を並べなくてはいけない。」

こうして立ち上がった薩摩藩長州藩を中心とした志士達によって、幕府軍と戦う戊辰戦争へと発展していきました。

 

こうした幕末の革命によって徳川将軍家に代わって政権を勝ち取った明治新政府が誕生。条約改正に向けて政府の奮闘が始まりました。

明治初期の1871(明治4)年、岩倉具視率いる岩倉使節団がアメリカとの条約改正交渉に失敗しました。

その後、政府は外務卿に就任した寺島宗則に交渉させ、1878(明治11)年、関税自主権の回復についてアメリカの同意を得て、新しい条約に調印しました。

ただし、これには条件があって、他の国がこれに倣ってくれれば批准して、正式に新条約を発効させる、というものでした。

寺島はこの条約を結んだことをイギリス、フランス、ドイツなどの列強諸国に話して、アメリカに倣って条約改正を認めてくれないかと申し入れます。しかし、各国の答えはノーでした。特に強い反対姿勢を示したのはイギリスでした。当時の日本にとって最大の輸入相手国だったイギリスに対し、粘り強く交渉するのは賢明ではないと判断。

結局、アメリカとの間だけ話がまとまったけれども、結ばれた条約が流れてしまったこともあって、条約改正は頓挫してしまいました。

 

また、当時の日本は、まだ国会や憲法を持たず、国内の諸制度・諸法律なども整っていなかったうえ、国際的な地位も低かったことも欧米諸国が条約改正に同意しなかった理由の一つだと考えられています。

 

寺島が失脚し、新たに外務卿に就任した井上馨は、1882(明治15)年からその職にあり、条約改正の任にあたりました。

江戸時代のような法律もなく、簡単に斬首刑を下すような原始的な時代ではなく、法律制度や民法や刑法、商法などの近代国家らしい法整備を着々と進めていきました。

「日本はもはや、文明未発達の野蛮な国ではない。」

それには、日本は独立国家としてその存在を世界にどんどんアピールしていく必要がありあました。

 

そうした主権国家・独立国家を目指す日本にとって、条約改正は外交における最重要課題でした。井上は、イギリスからの提案で日本に駐在する各国公使を集めて予備会議を開きました。

「寺島殿の条約改正交渉は、各国公使と個別の対応をしたから失敗したのだ。各国公使を一同に集めて満場一致したうえで、条約交渉は達成されるのだ。」

そう言って、井上は1882(明治15)年に東京で列強諸国を一同に招き、条約改正予備会議を開きました。会議では、今年から翌年にかけて法権回復と、関税の一部回復を目指し、正式な交渉をはじめていくという計画で決まりました。

これに伴い、井上は条約改正案を作成。井上は、各国公使と交渉して何とか条約改正に持ち込みたいと考えていました。列国にそれなりの好条件を示し、条約改正を達成しようとしたのです。

「列強諸国は、一度手にした権益をそう簡単には手放しはしないだろう。故に我が国は、かなりの譲歩案を示さなければ、なるまい。」

その改正交渉案は以下の通りです。

  1. 外国人に内地を解放し、国内での営業活動や旅行・住居の自由を認める。(内地雑居)
  2. 日本は西洋風の近代的な憲法や諸法律を2年以内に整備する。

これらと引き換えに、井上は、領事裁判権の撤廃と、関税自主権の回復を実現させようとしました。

 

さらに、井上は条約改正交渉を成立させるにあたり、欧化政策に取り組みます。

「我々は、条約改正において、相当不利な立場にある。もはや西洋人に媚びへつらうのは基本中の基本だ。」

と、盛んに欧米の制度や風俗・習慣・生活様式などを取り入れるという極端な欧化政策をとり、欧米諸国の高官に贅沢なおもてなしをしました。

その代表的なものが、1883(明治16)年に東京・日比谷に落成した鹿鳴館で、連日のように政府の高官が内外の紳士・淑女を招待して西洋式の大舞踏会を開いたり、バザーを行ったりした。

鹿鳴館とは、イギリス人お雇い外国人のコンドルの設計した西洋風の建物です。総工費は当時のお金で18万円、レンガ造り2階建で、政府高官と来賓の社交の場として用いられました。

西洋の文明をそっくりそのまま真似することが近代国家への最速の道であると考えていました。

 

1884(明治17年)に、井上外務卿は、内地雑居と領事裁判権の撤廃を行うという意向を示した覚書を各国公使に送付しました。

これをきっかけに井上の条約改正案に対し、政府内部では批判の声が高まりました。

「西洋人の内地雑居を認めると、以前から我が国が恐れていたキリスト教の布教が急速に高まるのではないか。

これに対し、井上は反論します。

「確かにキリスト教布教によって、人々が自由と平等を振りかざした反対運動が起こることは予想される。今現在も、我々政府と民権論者の対立は深まる一方だ。()」

一方で井上は、内地雑居のメリットは計り知れないと言います。

「ヨーロッパのような文明国の人種が我が国内で新規事業を立ち上げれば、工業の育成において大いに役立つであろう。西洋人主導の産業発展は、富国強兵には必要不可欠である。」

このように井上の条約改正は、日本の産業発展や資本主義の発展を視野に入れたものだったのです。

 

1885(明治18)年、内閣制度が発足され、伊藤博文を総理大臣とした第一次伊藤内閣が誕生。井上は外務卿から外務大臣になりました。

井上の条約改正交渉は続きます。

井上の作成した改正交渉案に対し、列強各国は好意的な態度を示しました。特に内地雑居は大変受けが良く、条約改正の達成はあと一歩のところまでこぎつけました。

 

しかし、ここで列強各国は、領事裁判権の撤廃において思わぬ提案をしてきました。

外国人犯罪者も日本の裁判を受けるのはかまわない。しかし、日本はまだ憲法整備が整っていない。したがって、外国人に関係する裁判においては、その裁判官の半数以上を外国人裁判官とするべきだ。」

 

列強諸国の提案に対し、当初井上は困惑しました。

主権国家樹立を目指す我が国において、領事裁判権の撤廃は早急な課題。外国人裁判官の任用は、我が国の憲法整備が西洋のそれに遠く及ばない現状では止むをない譲歩だ。」

として、列強の提案を呑むことにしました。

 

しかし、外国人裁判官の任用を認めた井上の条約改正案に対して、政府内部からは厳しい反対の声が起こりました。

まず政府法律顧問でフランス人のボアソナードは改正交渉案が日本にとって不利であることを説いた意見書を政府に提出した

「我々が目指しているのは、日本の独立と主権確立だ。外国人を裁判官にするのは、却って日本の独立精神を失わせる結果になるのではないか。」

また、農商務大臣の谷干城も反発しました。

「井上殿は条約改正という自身の手柄にばかり目がくらみ、本来の目的を見失っている。我々が目指すべきは、主権国家としての日本の独立であり、条約改正そのものではない。井上殿は、カタチだけの条約改正をやろうとしている。」

すなわち、結局のところ外国人に都合の良い法律をつくっているという点では以前と本質的には何も変わっていないということです。

しかし、こうした反対意見に対し、井上外務大臣だけでなく、ドイツから帰国した伊藤博文首相も反発しました。

「我が国の憲法は、西洋のものを範としなければならないほど未発達なものだ。条約の改正にはそれ相応の代償が必要なことは明確ではいか。」

伊藤首相はボアソナードや谷を「裏切り者」というレッテルまで貼りました。

こうした井上と伊藤との対立を受け、谷が農商務大臣を辞任する事態にまで発展してしまいました。

 

 

それに伴い、ボアソナードと谷の条約改正反対の意見書は極秘で民間に流されることとなりました。

すると、当時民間人の2大勢力であった民権論者と国権論者の両方から条約改正反対運動が巻き起こりました。

(民権論者・・人間の自由と平等を唱える個人主義者達。自由民権派とも呼ぶ。)

(国権論者・・富国強兵や国の利益を重視する全体主義者達。国家主義者とも呼ぶ。)

 

「政府は世間に内緒で、こんなとんでもない条約改正交渉を進めていたのか。許せない。」

内地雑居に関する反対運動は、主に民権論者を中心に起こりました。

居留地内だけでも相当な外国人の犯罪が多発している中で、さらに、その外国人を居留地外でも自由に行き来できるようにするだと?正気の沙汰とは思えない。」

「彼らにとって、我が国は文明未発達で非キリスト教国の野蛮な国。つまり、植民地同然の国。平等ではないのだ。だから彼らは何をしても許されると思い込んでいる。」

 

さらに、外国人裁判官の任用に関しては、主に国権論者を中心に起こりました。

「外国人裁判官に任用は、結局のところ、白人犯罪者の罪が軽減されることに変わりないではないか。裁判権とは、国の名誉に関わる大事なものだ。再考を願う。」

憲法も司法も、その国の風土や伝統によって創られているのだ。もう西洋人のような部外者に干渉させてはいけない。」

こうした意見を述べたうえで、国権論者達は政府の弱腰外交を批判しました。

「我が国は単に、外国人に気に入られようとしているだけではないか。情けない。」

 

こうした反対運動を受けてもなお、井上外相と伊藤首相は条約改正交渉に強硬姿勢を示しました。1886(明治19)年には条約改正の本会議が開かれ、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復の実現を、あと一歩のところまでこぎつけました。

そんな時、事件が起き、民衆の反対運動をさらに高めてしまいました。

 

1886(明治19)年10月24日夜、暴風雨のなかを横浜から神戸に向かっていたイギリス汽の貨物船ノルマントン号が紀伊半島沖で沈没したのです。イギリス人船長以下ヨーロッパ人は救命ボートで脱出して救助されたが、25人の日本人は全員見殺しにされました。世に言うノルマントン号事件です。

日本国内では、この事件を激しく非難する声が上がりました。罪を問われたイギリス人船長以下乗組員は領事裁判権制度のため、神戸のイギリス領事(イギリス人裁判官)による裁判にかけられました。

「日本人乗組員にも救命ボートに乗り移るよう言ったが、彼らは英語が分からなかったようだ。」

「我々も、日本語が分かる者がいなかったのだ」

このような、取ってつけたような供述に対し、イギリス領事はなんと、被告(船長ら)に過失責任はないという判決を下しました。

これに激怒した日本政府は船長らを告発。イギリスにある横浜領事裁判所に移され、職責怠慢で船長を禁固3カ月の判決が下りました。

この事件は、領事裁判の不当性を明白にし、世論は沸騰。領事裁判権の撤廃を求める声はさらに高まりました。

 

こうした政府内部と民衆の反対運動を受けて、1887(明治20)年7月、井上はやむなく条約改正交渉の無期延期を宣言しました。

「私は少し急ぎ過ぎたのかも知れない。どうか我が国が軍事的・経済的に発展していくのを願うだけだ。」

そう言い残し、井上はまもなく外務大臣を辞任しました。

この条約改正問題は、政府の秘密専制政治を批判する世論を急速に高めてしまいました。

同年、それまで退潮傾向にあった民権論者による自由民権運動が再過熱。外交失策の挽回・地租軽減・言論集会の自由を要求する三大事件建白運動が起こるにいたりました。

さて、条約改正は実現するのでしょうか。

今回の主人公であった井上馨ですが、条約改正という偉業を成し遂げることは出来ませんでしたが、外交能力は確かなもので、以後、元老として経済外交において大きな偉業を成し遂げます。1901(明治37)年の日露戦争勃発の際には、時の首相である桂太郎の下で、外国人からの外債募集交渉に協力しました。

つづく。

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最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

人物で読む近代日本外交史           佐道明広他=著  吉川弘文館

国民主義の時代 明治日本を支えた人々     小林和幸=著   角川選書

教科書よりやさしい日本史           石川晶康=著   旺文社

もういちど読む山川日本近代史         鳴海靖=著    山川出版社

明治大正史   下              中村隆英=著   東京大学出版社

【どう違う?】19世紀までの戦争と20世紀からの戦争

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は、記事を閲覧して頂き、本当にありがとうございます。

 今回のテーマ「【どう違う?】19世紀までの戦争と20世紀からの戦争」というお話です。

 

 20世紀、人類は史上初の世界大戦を2度も経験しました。1914年に勃発した第一次世界大戦と1939年に勃発した第二次世界大戦です。これらの戦争の犠牲者は19世紀までの戦争とは違い、ケタ違いの犠牲者を出すなど人類史上類をみない勘大な被害を出してしまいました。20世紀の戦争は、それまでの戦争とどう違うのでしょうか。19世紀までの戦争と比較して以下のような表にまとめてみました。第一次世界大戦第二次世界大戦のような20世紀の戦争にはそれまでにない特徴がありました。

19世紀までの戦争

20世紀からの戦争

短期決戦

長期戦

農繁期が近づくと終戦

国力尽きるまで戦う

国王のための戦争

国民のための戦争

専制国家に有利

民主国家に有利

戦略・戦術が勝敗を決める

技術力・経済力が勝敗を決める

 

 19世紀までの戦争と20世紀からの戦争、その最大の違いは、短期決戦であるか、長期戦であるかという違いです。

 確かに19世紀には、百年戦争や、三十年戦争といった非常に長い期間戦い続けた戦争もあります。しかし、それらの戦争は、断続的で、戦っては休み、戦っては休みという繰り返しをしているに過ぎません。20世紀からの戦争は本当に長期間、ずっと戦い続けているのです。

 

 19世紀までの戦争は、戦場に駆り出されるのは、王族や貴族出身の職業軍人だけです。他国に宣戦布告するのは国王や王族、貴族達で、戦うのも王族や貴族達です。そして戦争によって勝ち得た利益も、やはり王族達のものです。

 一方、国民(農民)は何をしているのでしょうか。まぁ、畑仕事です。

「おい、聞いたか?おら達の国が戦争をはじめたらしいぞ。」

「え?そうなの?ま~た物騒な世の中になりましたね~。まぁ、勝てばいいですね。」

「好きなだけ戦わせておけばいいのよ。奴ら(王族達)は懲りない連中なんだから。さぁ、仕事に戻りましょう。今日はやることが多いわよ。」

 この通り、大半の国民にとっては戦争など、他人事でしかありません。それもそのはず、彼らはその日その日を生きるだけで精いっぱいなのです。

 一方、20世紀からの戦争は、農民や商人などの国民によって構成された国民軍が戦場にいきます。これに関しては後述します。

 

19世紀までの戦争は、王族貴族がそれまで蓄えていた備蓄が尽きれば終戦です。

また、必要に応じて農民を徴兵しても、戦えるのは農閑期だけです。農業には繁忙期があります。繁忙期が来ればすぐに終戦させないと、王族達は年貢を徴収することができません。このように19世紀までの戦争は終戦の理由はいくらでもありました。

 

一方、20世紀からの戦争は、国力が尽きるまで戦争をします。国家総動員なのです。になぜでしょうか。第一次世界大戦も、第二次世界大戦も当事国をよく見ると、イギリス、フランス、ロシア、ドイツ、イタリア、アメリカ、日本などの世界を代表する主要国家同士の戦いで、それらの国々が互いに利権をめぐっての対立が発展したものです。したがって、敗戦すれば、利権獲得に失敗するだけでなく、相手国からの恐ろしい経済制裁がまってます。

しかも、世界の強大な国々同士の対立なので、仲裁として入れる国がありません。したがって、どちらかが降伏するまで完膚なきまでに戦い続けるのです。被害が拡大するはずです。

 

19世紀までの戦争は、国王のための戦争です。総司令官は国王であり、戦いの指揮は国王とその参謀達によって行われます。したがって、戦争の勝敗は、国王の手腕によって左右されます。

そんな絶対的な権限を持つ国王や君主に対し、軍人は忠誠を誓い、死を覚悟して戦いに臨むのです。まさに「国王のための名誉ある死」です。

日本でもこうした精神を武士道精神と言ったりします。

そんな日本でも有能な国王がいましたよね。そうです。16世紀の織田信長です。彼の決断は迅速かつ明確なので、家臣以下兵士達は俊敏に行動出来る。現に信長軍の機動力は他国の軍よりも抜きんでていました。惜しくも自らの家臣による謀反により、横死した信長ですが、日本に「信長王朝」が誕生していたことは間違いないでしょう。

このように19世紀までの戦争は専制国家ほど有利なのです。

 

一方、20世紀からの戦争は、国民のための戦争でした。19世紀までにヨーロッパを中心にナショナリズム国民意識)という思想が誕生したのです。ナショナリズムとは、国民一人一人が国の人民としての自覚を持ち、自国の独立と、発展を目指して国のために尽くす精神のことで、民族主義国家主義とも言われています。

例えば、日本人ならば、日本の発展のために一生懸命働こうと努力する精神のことです。

 

ナショナリズムはなぜ誕生したのでしょうか。

17世紀~18世紀、世界の国々は絶対的な権限を持つ国王が独裁的に政治を行う「絶対王政」が主流でした。やがて、不満を持った民衆が立ちあがります。

「国王や貴族の権力の濫用は目に余るものがある。」

「彼らは贅沢な暮しをしているのに、我々は貧しい生活をしている。」

絶対王政を倒すべく国民達は立ちあがり、革命を起こしました。

その代表的な革命は、17世紀のイギリスのピューリタン清教徒)革命や名誉革命、18世紀のアメリカのアメリカ独立戦争、そしてフランスのフランス革命です。これらは王族貴族を倒して土地に縛られた農奴を解放し、市民の政府をつくった市民革命(ブルジョア革命)です。

1789年、革命の知らせを聞いた当時のフランスの国王ルイ16世は言いました。

「なに!レヴォルト(暴動)が?」

「いえ、陛下、レボリューション(革命)が起きました。」

「なに、所詮は、農業しかやっていない農民軍だ。早急に鎮圧せよ。」

しかし、結局、フランス革命は成功し、国王ルイ16世は王妃マリー=アント・ワネットとともに処刑されてしまします。

これらの教訓から新たな支配者階級はあることを学びます。

「国民軍は職業軍人よりもはるかに強い。国民感情とは、執念深く、恐ろしいものだ。これを利用することが出来る。」

国民軍が職業軍人より強かった例は日本にもあります。明治初頭に起きた西南戦争では、西郷隆盛率いる武士達(職業軍人)が農民や町民で構成された政府軍に敗れました。

話を戻します。

こうして革命によって絶対王政が倒され、イギリスやフランスをはじめヨーロッパに民主国家が誕生しました。

民主主義とは、国民が主体となって政治を行うしくみのことですが、人間が生まれながらに持っている自由や平等などの権利を尊重した政治形態です。これが国民意識ナショナリズム)を芽生えさせ、イギリス人はイギリス国民として、アメリカ人はアメリカ国民として、フランス人はフランス国民として、その誇りやプライドを持つようになったのです。

 

さて、19世紀までの戦争は職業軍人が戦場に向かうのに対し、20世紀からの戦争は国民軍が戦場に向かいます。

当然ですが、戦争を長期間続けていると・・。

「もっと武器を持ってこい」

「もっと弾薬を持ってこい」

「もっと食料を持ってこい」

「もっと兵隊を持ってこい」

ということになります。

兵士の数は職業軍人だけでは明らかに足りません。

国民軍と国民感情の強さを知ったことで、長期戦である20世紀の戦争では、是非とも国民を扇動して国民軍を率いて戦いたいところです。

 

国民意識ナショナリズム)が芽生えたことで、国民同士の団結力は高まったものの、それだけでは、国民を徴兵することは出来ません。国民の戦争参加への大義名分を示さなくてはいけないのです。

19世紀までの職業軍人の場合、「国王の私腹を肥やすため」というもので十分でしたかが、国民軍はそんな正直なものでは動きません。当然ですね。そこで・・・・。

「国民を守るため」

「自分達の領土を守るため」

「正義のため」

「民主主義のため」

という国民意識に則したものを大義として掲げました。

特に強い動機になったのは、「民主主義のため」です。

民主国家であるイギリスやフランスは、専制国家を「悪の帝国」としてまつりあげ、民主国家を共通の敵としました。

第一次世界大戦では、その構図がはっきりとしています。イギリス・フランス・ロシアの連合国軍(民主国家群)と、ドイツ・オーストリアオスマン帝国による同盟国軍(専制国家群)の対立です。

(当時、ロシアは専制国家でしたが、戦争中にロシア革命が起こり、一時的に民主国家になっています。後にソ連という社会主義国家になります。)

 

さぁ、国民軍を徴兵します。

「まずは、独身者を徴兵する。」

「兵士が足りなくなってきた。妻帯者も徴兵する。」

「また兵士が足りなくなってきた。年齢制限を引き下げる。」

20世紀からの戦争は、国民のための戦争はとして男たちを前線へと駆り出しました。

いや、むしろ「正義のための戦争」、「民主主義のために戦争」となれば、「悪の帝国」である専制国家群を倒すために男たちは喜んで戦争に参加しました。

「民主主義を守るためだもんね。男たちが戦場で戦うなら、私たち女も軍需工場で働くわ。」

こうして20世紀の戦争は全国民を巻き込んだ国家総力戦となったのでした。

 

先述の通り、20世紀からの戦争は民主国家である方が有利です。それはつまり長期戦には必要不可欠な国民軍が専制国家にはそぐわないシステムだということです。

これが原因で、当時の専制国家は、次々に滅亡していきました。

1917年のロシア革命によるロシア帝国の滅亡

1918年のドイツ革命によるドイツ帝国の滅亡

1918年にオーストリアハンガリーの二重帝国が滅亡

1922年にトルコ革命によってオスマン帝国が滅亡

このように、時代の流れにそぐわない君主国家はどんどん姿を消していきました。

 

さぁ、表の最後の項目になりますが、19世紀までの戦争は、国王や参謀本部の戦略や戦術が勝敗を決めました。しかし、20世紀からは、技術力や経済力などの国力のある国が勝敗を決めるようになっていきます。

これに関しては、次回以降、第一次世界大戦を事例として上げ、ストーリーを展開しながら詳しく解説していきたいと思います。(以下のリンクからどうぞ。)

 

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最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

世界史劇場 第一次世界大戦の衝撃       神野正史=著  ベレ出版

学校が教えないほんとうの政治の話       斉藤美奈子=著 ちくまプリマー親書

日本人のための世界史入門           小野谷敦=著  新潮新書

【国家主義とは】あなたは左翼派?それとも右翼派?【徳富蘇峰】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧して頂き、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【国家主義とは】あなたは左翼派?それとも右翼派?【徳富蘇峰】」というお話です。

今回は国家主義についてみていきます。国家主義(右翼)に対抗する思想は、個人主義(左翼)です。国家主義個人主義はどのような違いがあるのでしょうか。まず、以下の表からおおまかな概要をつかんでください。

個人主義

国家主義

文明開化から生まれた

富国強兵から生まれた

人権優先

国益優先

自由と平等を重視

道徳と忠誠心を重視

反体制派

体制派

左翼派

右翼派

 

突然ですが、あなたに質問です。

あなたは「個人主義者」ですか?それとも「国家主義者」ですか?

まず、両者の意味をしっかり定義したほうが良いですよね。

個人主義とは、その名通り、個人の自由や平等、権利などを優先する考えです。

国家とは、その名通り、国家に最高の価値を置く考えで、全体主義とも言います。

す。

国家とは何でしょうか。

国家は、①国民、②国土、③国家権力の3つの要素から出来ています。人がなんとなく集まっただけでは、それは国家とはいえません。人(国民)がいて、領土があって、それを統括するリーダーが国家権力として存在しなくてはいけません。

人々が初めて日本という国を意識し、日本人として自覚し始めたのは、明治時代になってからです。開国によって日本が国際社会にデビューし、日本という独立国家になったのです。

 

では改めて、あなたは「個人主義」ですか?それとも「国家主義」ですか?

もう少し分かりやすい質問に置き変えたいと思います。

あなたは消費税が上がり、医療費の自己負担額も増えることに、賛成ですか?反対ですか?

「冗談じゃない。私達の生活がもっと苦しくなるじゃないか。絶対反対だ。」と思う方は、個人主義者です。

「私達の生活も大変だけど、国だって大変なんだよ。国にいろいろ要求しているんだから、仕方ないと思わないと。」と思う方は、国家主義全体主義)者です。

 

あまりテレビでは報道されませんが、政府と民間(個人)は増税原発問題などでしょっちゅう対立しています。

 

それは今から120年ほど前の明治時代も同じでした。

明治時代にも個人と国家の対立が起きていました。

明治維新以降、明治新政府の最大の課題は、幕末に締結された不平等条約の改正でした。そのために明治政府は「富国強兵」や「文明開化」という2つのスローガンを掲げ、欧米列強と肩を並べる近代国家を樹立し、不平等条約を改正することを目指したのです。

 

しかし、政府がスローガンとした富国強兵と文明開化は相反するもので、思想の対立の始まりでした。

文明開化によって、西洋の思想や文化が輸入されました。そこには人間は生まれながらに、自由で平等であるという日本にとっては画期的な考えがありました。

人々は「自由とは何か」「平等とは何か」「権利とは何か」を勉強し、やがて国家に対し、参政権を求めた自由民権運動へと発展していきました。自由民権運動の理論的指導者である中江兆民は、以下のように国権論を批判します。

「富国強兵は、人民の犠牲の上に成り立つ最悪なものだ。人民から多額の税金を徴収し、それを軍備という非生産的なものに振り向けるのであるから、人民の生活はさらに圧迫される。人民が反発するのは当然である。」

このように自由民権運動とは個人の権利を優先する考えで、それを国家も認めて欲しいと訴える運動で、反体制運動と言えるでしょう。

 

一方、富国強兵とは、兵力を強くすることです。強化された軍事力で欧米列強を威嚇し、植民地支配を受けない独立国家を目指したのです。そのためには人民一人一人の負担と犠牲はやむを得ない。全ては「国民を守るため、日本を守るため」です。

 

個人の自立を目指すのか、強い国を目指すのか、この両者がそれぞれ民権論と国権論として対立したのが、明治中盤以降の時代情勢です。

 

明治政府は、民間の自由民権運動に対抗するために、ドイツの君主権の強い憲法を参考に、憲法作成に取り組み、立憲君主国家の建設を目指します。

「人民に主権を奪われてはならない。」

これが政府の思惑です。つまり、個人主義の考えを封じ込め、国家主義の考えを徹底するのです。

そのためには、憲法作成と同時に、人民の思想統制を行う必要があります。江戸時代には、それと同じように、初代文部大臣の森有礼のもとで、国民皆学と義務教育制度の充実を目標として1886(明治19)年に学校令が制定さ、憲法に基づいた教育制度が整えられていきます。立憲政治の国家

そして、1889(明治22)年、ドイツの憲法を参考にした大日本帝国憲法が発布されます。

これによって、民権論と国権論の対立は、国権論の勝利に終わったのです。

大日本帝国憲法のもとでは、人民は国民ではなく、天皇に仕える臣民であるとしました。臣民とは、戦国時代の家臣をイメージして頂けると分かりやすいと思います。戦国時代の家臣とは、君主に対して忠誠心を持ち、死を覚悟で戦いに臨むという精神です。(武士道精神)

 

翌1890年には、政府は教育制度を本格的な思想統制の手段として整えていきます。それが教育勅語です。

教育勅語は、その後の学校教育の規範となるもので、発布された翌日には、文部省から全国の学校に教育勅語の謄本が配られ、その内容を貫徹するよう訓令しました。

その内容とは、万世一系天皇が統治する日本国の在り方や、国体を重んじる精神、皇室に対する忠誠心と愛国心、そして儒教道徳を子供達に要求するものだったのです。

(国体・・・・日本の天皇を中心とした国家体制のこと)

つまり、「天皇陛下、万歳!」、「全てはお国のために。」「滅私奉公こそが美徳である」という思想を徹底的に教え込んだのです。日本の暗黒時代の幕開けです。

 

こうした時代の変化に伴い、国家主義者達がぞくぞくと現れてきました。

徳富蘇峰(とくとみそほう)は、もともと民権論者で、平民主義を唱えていました。1887(明治20)年に友民社を設立し、同年、雑誌『国民之友』で平民主義を唱えました。平民主義とは民権論とほぼ同義ですが、井上馨鹿鳴館に代表される政府のような一部の特権階級だけが、欧米の優れたものを享受するのではなく、個人にも西洋のものを享受できるようにするべきだとしました。しかし、1895(明治28)年の三国干渉で日本がロシア、フランス、ドイツの圧力に屈服し、日清戦争で獲得した遼東半島を返還したことに失望。

「現在の日本の弱腰外交は目も当てられない。もっと強い国をつくるのだ。」

として、時代の流れとともに国権論者に転じ、初めて国家主義ナショナリズム)を思想として宣揚しました。

 

西村茂樹(にしむらしげき)は、強い国「日本」をつくるには、人々の儒教道徳の徹底が必要だとして『日本道徳論』を著しました。江戸時代のプラス面は、儒学の中の朱子学を人々に教え込んだことで、260年間の天下泰平の世を作り上げたことです。マイナス面は、日本が西洋列強に比べて100年以上も近代化が遅れてしまったことです。しかし、明治後半になって、近代化政策が一段落したところで、もう一度、儒教道徳を徹底させて、国民の一致団結を目指そうとしたのです。

 

三宅雪嶺(みやけせつれい)は、西洋の真似ごとばかりする政府の欧化主義を批判。雑誌『日本人』にて、国粋主義を提唱しました。国粋主義とは、その国の個有の文化的価値を尊ぶ国家主義の一種で、三宅は、西洋の外面(そとずら)ばかり真似ても、富国強兵には限界が来る。そうではなく、日本ならではの伝統文化の中に価値の基準として、真・善・美を求め、それを基礎にすることで、富国強兵は実現すると主張しました。

 

岡倉天心(おかくらてんしん)も、三宅同様に国粋主義の考えを主張しました。さらに岡倉は、日本はアジア唯一の立憲国家であり、アジアを牽引するリーダーであるとして日本の指導者的立場を唱えました。

 

また、陸羯南(くがかつなん)のような国権論と民権論のバランスが大事であるとして、両者の統合を唱える思想もいました。

 

こうして、民権論は完全に封じ込まれていきます。

1900(明治33)年には治安警察法が制定され、反体制派の弾圧がはじまり、国がやることに反対したら、警察に捕まるようになってしまったのです。その後、大正時代に入ると治安維持法などの法律もどんどん整備されていきます。

 

このような国家を優先した結果、日本はどうなったでしょうか。

私達はその歴史的な結果を知っています。

1941(昭和16)年、日本は太平洋戦争に突入。政府は国家総動員法という法律までつくり、国民生活のあらゆるものを全て戦争に振り向けるよう命じたのです。経済は統制され、自由な商売は禁止、必要なものすら買えなくなる。言論の自由もなく、戦争に反対めいたことを口にしようものなら、ただちに逮捕される。戦費を調達するために国債を無理やりにでも買わせ、徴兵令が出れば、若者達は兵士として駆り出されていく。中学生や女学生は授業も受けず、工場で働く・・・・。

このように日本国民は生活を犠牲にして国のために尽くしてきました。その結果、日本は壊滅しました。沖縄は戦場になり、東京は大空襲を受け、広島と長崎には原爆が落ち、たくさんの人々が亡くなりました。国家が個人の生活を破壊しつくしてしまったのです。

 

今後、大正時代、昭和時代を取り扱っていきますが、国家主義思想の徹底は、日本の暗黒時代への入り口になるのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

学校が教えないほんとうの政治の話        斎藤孝=著  東京堂出版

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

風刺漫画で日本近現代史がわかる本        湯本豪一=著 草思社

もういちど読む 山川日本近代史         鳴海靖=著  山川出版社

中江兆民植木枝盛               松永昌三=著 清水書院

【大逆事件】なぜ冤罪の幸徳秋水は処刑されたのか【幸徳秋水】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【大逆事件】なぜ冤罪の幸徳秋水は処刑されたのか【幸徳秋水】」というお話です。

 日清・日露戦争期に日本は産業革命を経験し、急速に発展すると共に過酷な労働条件が、労働問題・社会問題として表面化していきました。

 1894(明治27)年の日清戦争以降、日本は紡績業や製糸業を中心に産業革命が起き、資本主義社会が発展していきます。同時に紡績工場で働く貧困女工が低賃金で長時間労働を強いられているという問題が浮き彫りになりました。人々の社会主義への関心は強まって行きました。

 

 明治時代は、ジャーナリズムが発達した時代です。新聞や雑誌、書籍が多く発刊され、人々の情報ツールとして活躍しました。ジャーナリストの横山源之助が描いた克明な記録『日本之下層社会』や、農商務省が実態を調査し、まとめた『職工事情』という報告書により、全国の労働者の過酷な生活状況が明るみに出ました。

 これをきっかけに労働者の「労働者階級」としての自覚が芽生え始めます。労働運動に対して人々の関心が集まるようになり、賃金の上昇や労働環境の改善を求めて労働者が団結する労働運動が全国的にひろがっていきます。

 

 労働者の労働運動はやがて、社会主義という思想を後ろ楯とした社会主義運動へと発展していきます。社会主義とは、資本主義を否定する政治思想ですが、資本主義の最大の問題点である「貧富の差」や「労働者の搾取」を解消するためのマルクスエンゲルスによって提唱された考えです。

 

 幸徳秋水は、堺利彦とともに『万朝報』という新聞記者をしていました。当時、かなりの有力紙であり、

 20世紀に入り、社会主義思想はどんどん広がり、1901(明治34)年には日本初の社会主義政党である社会民主党が1901(明治34)年に結成されました。その中心人物の一人が今回の主人公である幸徳秋水です。

 こうした社会主義を掲げた労働運動を警戒した政府は言論弾圧を加え、社会民主党はただちに解散を命じられました。

 1902(明治)年には第一次桂太郎内閣が誕生したとき、日露戦争の危機が濃厚になると、各新聞社は「ロシアとの一戦やむなし」と開戦論を報じるのに対し、幸徳ら『万朝報』は日露戦争の非戦論を唱えるようになりました。

 

 しかし、『万朝報』の社長・黒岩涙香(くろいわるいこう)は発行部数を増やすために、それまで説いてきた非戦論から一転して開戦論を報じ、国民感情を煽るようになりました。

 そう、当時の日本国民のあいだでは、空前の日露戦争ブームで、「三国干渉で日本から領土を奪った憎きロシアに今すぐ宣戦布告せよ!」と騒いでいたのです。少数意見である『万朝報』は発行部数に伸び悩んでいたのです。

 それでも幸徳と堺は、依然として非戦論を唱えます。

 この意見の不一致から幸徳と堺は『万朝報』を退社。代わりに「平民社」という会社を立ち上げ、その機関紙として『平民新聞』を発行して、非戦論を論じました。

 

「このままでは、ロシアと開戦になってしまう。この戦争は列国の経済的競争の激甚なため。何として避けなくてはいけない。」

 幸徳によると、日露戦争は資本主義が生んだ汚点であり、一部の特権階級の利益のための多くの庶民が犠牲になる経済戦争であると非難しているのです。

「戦争とは、官僚と資本家がタッグを組んでしかけた戦争だ。」

 20世紀の戦争は、日露戦争に限らず、経済戦争である場合が多いです。

 この当時、欧米各国は帝国主義の国になっており、資本主義は自由競争社会であり、各国が市場を求めて植民地を拡大し、その利権をめぐって各国が対立しています。これが後の第一次世界大戦の勃発に繋がります。

 

 「戦争反対」なんて冷静な皆さんであれば、極めてまともな意見であることは容易に分かるはずです。むしろ感情的になっているのは、大多数の開戦派で幸徳ら少数の非戦論派は冷静な判断が出来ていると言えます。「少数意見だから間違えている、多数意見だから正しい。」という考えは100年前も現在も変わっていないのです。このように幸徳秋水社会主義の立場から、日露戦争の非戦論を展開しました。

 

 しかし、社会主義者による反対運動を警戒する桂内閣は、幸徳らのこしらえていた『平民新聞』も発売禁止にするよう命じました。彼らが書くものは後から後から発売禁止になります。平民社も新聞社であり、営利団体ですから、次から次に発売禁止されたら大損害です。当然平民社の経営は立ち行かなくなり、間もなく平民新聞は終刊に追い込まれました。

 

 日露戦争が勃発した頃、幸徳はアメリカに渡米します。日露戦争終結し、日本国内には戦争に対して疑問を持つ人達が増えてきた頃、幸徳は帰国。幸徳はアメリカで無政府主義(アナーキズム)と呼ばれる考えに引きずられるようになりました。これはマルクスエンゲルスの考えとは違います。

 無政府主義(アナーキズム)とは何でしょうか。

 無政府主義とは、読んで字のごとく、政府の支配などいらないという思想で、社会主義思想を発展させた思想です。太古の昔、自然発生的に生まれた人間社会があり、人々は差別や搾取などなく、共同生活をしていました。その村の中には一種の規律やルールがあり、秩序と平和を保っていました。それこそが人間社会の本来あるべき姿なのだという考えです。

 確かに理想の世界ですが、実現的とは言えません。無政府主義は、社会主義という理想国家から飛躍したユートピア社会といえるでしょう。

 このように社会主義思想にも穏健で現実的な社会主義と急進的で空想的な無政府主義(アナーキズム)の2種類あるのです。ちなみに、このような無政府主義を別名・共産主義と呼んだりもします。

 

 1906(明治39)年、桂内閣が総辞職し、西園寺公望による第一次内閣が出来ます。西園寺内閣は社会主義などの反体制派の意見には比較的寛容で、強い思想弾圧を行いませんでした。これを機に社会主義勢力は力を強めていきます。

 幸徳秋水は、高山潜や堺利彦らとともに日本社会党を結成。しかし、この日本社会党、議会政策を重視する穏健派と、直接行動を起こそうとする急進派に分かれてしまいます。片山潜や阿部磯雄、西川光ニ郎などの穏健派はあくまで言論によって社会主義を訴えるのに対し、大杉栄、管野スガなどの急進派は暴動や反乱によって社会主義を訴えようと考えたのです。穏健派はマルクス主義と理論的根拠とするのに対し、急進派は幸徳のような無政府主義(アナーキズム)と呼ばれる過激な思想を理論的根拠にしていました。

 

 日本社会党は各地で演説を行い、「無政府主義」や「共産主義」を訴えました。勢力を増す社会主義者達に対し、西園寺内閣は危機感を感じ、遂に警察を出動させ、各地の演説を中止させ、日本社会党に対し、解散を命じました。

 こうした強引な弾圧行為に反発した社会主義者達は1908(明治40)年、暴動を企てて公園に集まりました。集まった社会主義者の特に若年層が多く、彼らは「無政府共産」という白文字を縫い付けた赤旗を掲げて行進し、革命歌を歌い、街頭で暴動をこしました。西園寺内閣はすぐに警察隊を派遣。暴動は間もなく鎮圧され、多数の社会主義者を検挙者しました。その中には暴動を止めに入った堺利彦までも捕まってしまいました。堺は裁判にかけられ、1年~2年ほどの懲役刑を言い渡され、牢獄へ入れられました

 

 こうした赤旗事件を受けて、同年、新たに組閣された第二次桂内閣は、社会主義運動に対する取り締まりを一段と強化しました。

 そして、1910(明治43)年、幸徳秋水をはじめとする急進派が明治天皇をすべての根源悪とみなし、その暗殺を計画。爆裂弾の製造にあたっていたということが発覚しました。

 こんなとんでもない事件を見逃すわけにいかない政府は、幸徳秋水ら急進派を検挙、続いて紀州、大阪、熊本などの全国にいる社会主義者を大量に検挙。その人数は三十数名にも及び、全員非公開の裁判に付されました。

 当時の刑法では、天皇、皇后、皇太子、皇太孫などの皇族に対して暗殺を企てた者は死刑とするという条文がありました。しかも、当時の裁判は大審院という最高裁判所のみ。つまり、現在のような控訴と上告が出来る3回の裁判ではなく、1回のみの裁判です。

 裁判は同年秋から始まり、翌1911年に判決が言い渡されました。

 その判決は実に過酷なものでした。

 幸徳秋水ら24名には死刑。他の8名には有期刑が言い渡されました。弁護士はあまりに重すぎる刑だとして減刑を要求しました。

 その甲斐あってか、次の日、明治天皇の御意向ということで、24名のうち、死刑が 行われるのは12名、残り12名には無期懲役減刑されました。

 死刑執行はすぐに行われました。

 牢獄に入っていたことで、検挙を免れた堺は幸徳の死を受け、うなだれました。

「幸徳は天皇暗殺など企てていない。これは政府のでっちあげだ。幸徳は暗殺計画を止めようとしていたのだ。政府の奴らめ、厄介者を全て消し去りやがった。」

 

 そうです。実は幸徳秋水はこの事件に関与しておらず、首謀者でもなかったことが1960年代に歴史的資料から明らかになりました。実は大逆事件、刑法の大逆罪を利用した政府が多くの冤罪である容疑者を無理やりに逮捕・拘禁したものだったのです。

 なぜ冤罪である幸徳は処刑されたのでしょうか。

 政府は幸徳を処刑したかったのでしょう。

 政府が恐れていたのは、労働運動や社会主義運動が「革命」につながることです。しかも、幸徳は社会主義の中でも過激な無政府主義の思想家です。彼らを放っておくと、本当に政府が倒されてしまうかも知れない。

 革命となると、幸徳のような知識人は、理論的指導者になりうる人材です。消し去ってしまわなくてはいけないのです。

 政府は、この大逆事件をきっかけに警察庁内に特別高等課(特高)を設置し、社会主義運動は全てタブーとして徹底的に弾圧する姿勢を見せた。やがて、国民の大多数も社会主義を危険思想とみなすようになり、社会主義者達の活動は一気に衰退していきました。(冬の時代)

 

 今後、国民は政府から言論の自由表現の自由を奪われていきます。こうした徹底した思想統制がこの後に起こる第二次世界大戦で多くの犠牲者を出す大きな原因となります。

日本の暗黒時代の幕開けとなるのでした・・・・。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史           石川晶康=著 旺文社

明治大正史 下                中村隆英=著 東京大学出版会

もういちど読む山川日本近代史         鳴海靖=著  山川出版社

学校が教えないほんとうの政治の話       斉藤美奈子=著 ちくまプリマー新書

【労働運動】日本の社会主義思想はどのように広がったのか【片山潜 他】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【労働運動】日本の社会主義思想はどのように広がったのか【片山潜 他】」というお話です。

明治時代に入って日本は資本主義社会としてスタートしますが、その実態は労働者に過酷な労働を強いる酷いものでした。資本主義のひずみと言えます。労働者は社会主義という思想を後ろ楯に政府と対立するようになります。

 

 明治時代に入って、日本は産業革命を経験し、工場制手工業から工場制機械工業が次々に勃興しました。急速な資本主義社会の発展です。

 その結果、日常生活に必要な便利なモノがたくさん生産され、人々の生活は徐々に豊かになっていきました。

 

 しかし、物事には必ず、光と影が存在します。光が当たれば必ず影が出来るのです。人々の生活が豊かになる一方で、資本主義社会の発展は大きなひずみを生むことになりました。

 実は急速な資本主義の発達は、多くの労働者の犠牲の上に成り立っていたのです。そう、資本主義社会の発達にともなうモノの豊かさは資本家や実業家などの富裕層が享受しており、モノを生産する労働者は全く享受出来ずにいたのです。

 労働者は、低い賃金で長時間の過酷な労働に従事し、資本主義社会では「資本家階級」と「労働者階級」の主従関係(雇用者と被雇用者)で成り立っていますが、儲けを最大化したい資本家としては、労働者を出来るだけ安い賃金で長時間働いてもらいたいのです。

 また生活環境も衛生状態の悪い生活環境に置かれるなど劣悪な労働条件を強いられていました。このように資本主義社会が始まったばかりの当時の日本の企業は、全てブラック企業だったのです。

「おいおい。今日も12時間勤務だぜ。これで一週間連続だ。いつになったら休暇が貰えるんだ。全くコキ使いやがって」

「仕方ないさ。飯が食えるだけありがたいと思わないと」

「う~ん・・・・・そういうもんなのかな」

 このように1894年に勃発する日清戦争以前は、労働者同士の意識が成熟しておらず、労働運動は本格化しませんでした。

 

 ところが、1886(明治19)年に甲府の製糸工場で、100名あまりの女工が過酷で劣悪な労働条件に反対してストライキを起こしました。

 これは政府や資本家階級に大きな衝撃を与えると同時に多くの労働者に勇気を与えました。

「よくぞ。やってくれた。彼女らは全国の労働者を代表してストライキを起こしたのだ。我々も団結して労働条件改善を訴えるのだ。」

 これをきっかけに労働者の「労働者階級」としての自覚が芽生え始めます。さらに、ジャーナリストの横山源之助が描いた克明な記録『日本之下層社会』や、農商務省が実態を調査し、まとめた『職工事情』という報告書により、この時期、全国の労働者の過酷な生活状況が明るみに出ました。これにより、資本主義社会の弊害である労働問題に対して、社会の関心が集まるようになり、労働者が団結して賃金の上昇や労働環境の改善を求める労働運動は全国的にひろがっていきます。

 

 ただ、全国に労働運動が広がるのは良いのですが、同時に理論的根拠を掲げる必要があります。闇雲にストライキを起こし、不平や不満を訴えるだけでは単なる暴動であり、より多くの人を共感させることは出来ません。大衆はそこまでバカではありません。

 しっかりとした理論的根拠を立てて、それに基づいた上で自分達の主義主張をする必要があります。

 そこで登場したのが社会主義という思想だったのです。これもやはり西洋からの輸入思想です。

「どうやら、西洋には社会主義という思想が存在するらしい。労働者の国を目指した理屈だそうだ。」

「労働者の国!?我々のための国ということか。どんな思想なのか早速調べてみようじゃないか。」

 西洋で資本主義の問題点を指摘したのは、19世紀のユダヤ系ドイツ人で経済学者のマルクスです。マルクスは、労働者は資本家から搾取されていることを指摘し、お金のある資本家は、どんどん儲けを増やし、毎月給料をもらう労働者は暮らすだけで精いっぱいです。

 資本主義社会では「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」という性質があります。自由競争の資本主義は弱肉強食で、資本家のような強者には有利ですが、労働者のような弱者には不利に働く社会なのです。

 マルクスが書いた本に、彼の友人であるエンゲルスの序文を寄せた本に『共産党宣言』というものがあります。この本の中の最後の一文には「万国のプロレタリア団結せよ」というものです。プロレタリアとは労働者のことです。この言葉は、世界中の労働者を勇気づけました

 

 この時期になると、マルクスエンゲルスの著作がどんどん日本に入ってきて、若年層を中心に読まれました。当時は翻訳本などを出すと、すぐに政府や警察から摘発されます。しかし、英語が読める人も結構多かったので、社会主義思想は急速に浸透していきました。

 

 日本に広がった社会主義思想は、日清戦争以降、社会主義運動としてその勢いを増していきます。

1897(明治30)年にはアメリカから帰国した高野房太郎らが職工義友会を組織しました。高野が留学したアメリカには労働組合という組織が存在し、労働者を保護することを訴えている実情を目の当たりにしました。

 高野は「職工諸君に寄す」という一文を配布しました。

 これに共鳴した片山潜らが職工義友会に加わり、同年、労働組合期成会が結成されました。

 片山が中心となった労働組合期成会は、労働者を守る法律である工場法の制定を求めた組織で、その機関紙として『労働世界』が発行され、全国的に労働運動の呼びかけが展開されました。

 これ以降の明治30年代には、鉄工組合、日本鉄道矯正会、活版工組合など、当時の産業界を支える職業の人達がそれぞれ職種別に労働組合をつくっています。日本のプロレタリア(労働者)も団結したのです。

 

 1898(明治31年)には社会主義研究会という組織が生まれ、各地で集会や言論大会を始めました。

 資本主義に対立する社会主義は、反体制的な危険思想として政府は激しい弾圧を加えます。政府は資本主義の主役である資本家と手を結んでいます。その証拠が当時の議会制度によく現れています。1889(明治22年)年に大日本帝国憲法が発布され、翌年には第一回衆議院選挙が行われますが、選挙権があるのは、国に15円以上の税金を納めている満25歳以上の男性だけでした。

 そう、政府にとって資本家とは多くの税金を納めてくれる大切なスポンサーなのです。政府は資本家達の利益を優先するのは当然です。

 政府が「政治の支配者」ならば、資本家はいわば、「経済の支配者」なのです。支配者と支配者が手を組むことで、お互いの相乗効果が得られるのです。

 そんな資本主義社会を否定し、政府に盾つく社会主義の連中を弾圧する方法は実に簡単です。言論弾圧です。弾圧の王道中の王道です。

 要するに、

「お前たち、集まるな」

「お前たち、情報を共有・拡散をするな」

 とするのです。時の総理大臣である山県有朋は、1900(明治33)年に治安警察法を発布。社会主義思想社の組織の結社や集会の禁止だけでなく、新聞などの情報ツールの発行を全て禁止するようにしました。

 

 しかし、作用が強くなれば、反作用も強くなります。これは物理の原則です。弾圧された社会主義思想はより一層勢力を増していきます。

 社会主義研究会を母体とした日本初の社会主義政党である社会民主党が1901(明治34)年に結成されました。その中心人物が『万朝報』という新聞記者をしていた幸徳秋水という人物です。幸徳を中心とした社会民主党は理想綱領として、貴族院廃止・普通選挙実現・8時間労働の実施などを謳いました。『万朝報』は当時の新聞社としてかなりの有力紙であり、多くの労働者の共感を呼びました。 

 

 1902(明治35)年、第二次山県内閣が解散し、桂太郎内閣が誕生すると、日露戦争の危機が濃厚になってきました。ロシアが三国干渉という実にしたたかな方法で日本が清国(中国)から獲得した領土を奪い取ったことで、日本国民のロシアへの反感が強まり、各新聞社は「ロシアとの一戦やむなし」と報じるようになりました。それに対し、幸徳や堺は『万朝報』を通じて依然として非戦論を唱えていました。

 

 ところが、それまで非戦論を説いてきた『万朝報』も一転して開戦論を報じるようになりました。これは社長の黒岩涙香(くろいわるいこう)の判断です。

 それでも幸徳と堺は、依然として非戦論を唱え、意見の不一致から幸徳と堺は『万朝報』を退社。代わりに平民社という組織をつくり、機関紙として『平民新聞』を発行して、非戦論を論じました。

 

 日露戦争終結した1905年、日本国内は戦争によって酷く疲弊していまいました。その損害は、戦費はもちろん、戦死者も膨大なものとなりました。日清戦争の戦死者が1万3千人なのに対し、日露戦争の戦死者は5万人に及びました。さらに前線で病に罹ったり、負傷したりして後に亡くなった人を含めると8万人にもなります。そのほとんどは職業軍人ではなく、町や村から召集された若い兵士達でした。夫や兄、弟、そして息子を失った遺族は大変苦しい生活を強いられました。その他にも増税国債の購入、寄付、軍馬などの財産提供で生活苦に陥った国民もたくさんいました。

                                    

 また、戦地から帰ってきた兵士達の素行の悪さは社会問題になりました。

「私は戦争で、両足を失った。こんな私を誰が雇うのだ。誰が面倒見るのだ。もはや絶望しかない・・・。」

 戦争による負傷兵の社会復帰は困難を極めました。政府は廃兵院という負傷兵の生活施設を設立するも大した効果は上げられませんでした。その結果、負傷兵の中には生活苦のあまり犯罪に走るものが続出しました。

 さらに、人を殺したことで、トラウマやPTSDを患った人達のケアも彼らは自暴自棄になり、生業を放り投げ、酒や奢侈にふける毎日を送るようになってしまった。

「戦争に勝ったはいいが、我々国民は不幸のドン底に陥れられたのだ。」

 

 人々は、日露戦争は資本主義の弊害だとして政府や国家に対する不信感を強め、社会主義に飛びつく人達が増えていきました。

 まもなく桂太郎内閣の支持率は急落。

 そして1905(明治38)年末、遂に桂太郎内閣は総辞職に追い込まれました。総理大臣を継いだのは以前から政友会が明治天皇に推薦していた西園寺公望でした。

 こうして1906(明治39)年、桂太郎内閣に代わって、西園寺公望が総理大臣に就任。西園寺内閣が誕生しました。

 西園寺首相は、社会主義思想に対する厳しい弾圧を加えた桂内閣の反省を受けて、社会主義をはじめとした反体制運動に対して寛容な姿勢を見せます。

「彼らを一方的に弾圧するだけでは、より大きな反発を招く。さらに、このまま資本家と労働者の対立が長引けば、国内の産業は非効率的となる。」

 これを機に社会主義勢力はさらに力を強めていきます。

 幸徳秋水は、高山潜や堺利彦らとともに同年、日本社会党を結成。たまたま起きた東京市電の電気料金の値上げに対して日本社会党は遂に暴動を起こしたのです。西園寺内閣はすぐに軍隊と警察を出動させ、鎮圧にあたりました。

 軍隊とは、外敵と戦うというイメージが強いですが、軍隊や警察の仕事は治安維持も軍隊の立派な仕事です。なので、国民が暴動を起こせば、容赦なく銃を向けます。これが国家権力というものです。これは現在の自衛隊もそうです。

 

 この頃、幸徳らを中心とした平民社は各地で演説を行い、「無政府主義」、「共産主義」を訴えました。

 このように勢力を増す社会主義者達に対し、危機感を感じた西園寺内閣は、警察を出動させ、各地の演説を中止させました。今回のは、暴動鎮圧ではなく、言論弾圧です。そして遂に日本社会党に対し、政府は解散を命じました。

 これに反発した多くの社会主義達は1908年暴動を企てて公園に集まりました。集まった社会主義者の特に若年層が多く、彼らは「無政府共産」という白文字を縫い付けた赤旗を掲げて行進し、革命歌を歌い、街頭で暴動をこしました。西園寺内閣はすぐに警察隊を派遣。暴動は間もなく鎮圧され、多数の社会主義者を検挙者しました。

 

 こうした赤旗事件を受けて、同年、新たに組閣された第二次桂内閣は、社会主義運動に対する取り締まりを一段と強化しました。そして、1910(明治43)年には幸徳秋水が処刑される大逆事件が発生します。

 この大逆事件をきっかけに第二次桂内閣は警察庁内に特別高等課特高)を設置し、社会主義運動を徹底的に弾圧する姿勢を見せました。やがて、国民の大多数は社会主義を危険思想とみなし、社会主義者達の活動は一気に衰退していきました。(冬の時代)

 

 一方で、1911(明治44)年に再度誕生した第二次西園寺内閣のもとで、遂に労働条件の改善を図る法律をつくりました。

「我が国の将来を考えた時に、資本家と労働者の対立をなくし、生産能率を向上・維持をしていく必要がある。労働者に対する社会政策的な配慮をするべきだ。」

 ということで、社会主義者達の念願だった工場法が制定されました。工場法とは、日本最初の労働者保護のための法律であり、少年・女性の労働時間の限度を12時間とし、深夜業が禁止となりました。

 しかし、適用条件は15人以上が勤務する工場に限られるなど、多くの中小の工場には適用されませんでした。また、その他にも多くの例外規定があり、欧米の労働者保護の水準からは程遠い不徹底・不十分なものでした。

 しかも、工場法の施工は5年間の猶予をおいた1916年からの施行でした。

 選挙権を持つ資本家階級の激しい反対を受けたのです。スポンサーである資本家階級の要求を政府は聞き入れないわけにはいかなかったのです。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史           石川晶康=著 旺文社

明治大正史 下                中村隆英=著 東京大学出版会

もういちど読む山川日本近代史         鳴海靖=著  山川出版社

学校が教えないほんとうの政治の話       斎藤奈美子=著 ちくまプリマー新書