motomiyatakahiroの日記

勉強、教育、人材育成

尊王攘夷運動に影響を与えた学問 水戸学とは【吉田松陰】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「尊王攘夷運動に影響を与えた学問 水戸学とは【吉田松陰】」というお話です。

 

 幕末になると、天皇を尊ぶ皇国意識と外国の動きを警戒する海防意識が芽生えます。それを背景に水戸学が台頭しました。水戸学とは水戸藩から生まれた学問・思想ですが、いかにして生まれたのでしょうか。

 ということで、今回は水戸藩の歴史を見ていきながら、水戸学について紹介いたします。

徳川家康によって水戸藩には尊王思想が信奉されました。2代藩主の徳川光圀は、『大日本史』の編纂を開始。幕末になると『大日本史』から水戸学が誕生するのでした。

 

 水戸藩の歴史は、江戸幕府が開かれる前の関ヶ原の戦いまで遡ります。

 水戸という地は元々、佐竹氏という大名が統治していました。そんな中、1600年の関ヶ原の戦いで東軍総大将・徳川家康から東軍として加勢するよう要求されますが、佐竹義宣(よしのぶ)は中々態度をはっきりさせずにいました。

 戦後、東軍が勝利したことで、佐竹氏は外様大名として久保田藩(秋田)に転封させられてしまいました。

 代わりに家康の五男・信吉は親藩として水戸藩に置かれます。しかし、病弱だった信吉は江戸幕府が開かれた1603年に病没してしまったため、新たに十一男・頼房が初代藩主として水戸に入ります。これが水戸藩のはじまりです。

 

  家康は江戸時代の士農工商の序列と徳川家の支配体制を強化するために、儒学の中の朱子学に注目します。そこで家康は林羅山朱子学を受容し、体系化することを命じました。こうして朱子学徳川将軍家公認の学問として確立します。

 一方で家康は、徳川御三家のうち、水戸藩にだけは尊王思想を信奉するよう命じます。これは将来的に江戸幕府が倒され、武家社会以前の天皇中心の国家に戻っても、徳川家の血筋が絶えないようにするためです。仮に天皇中心の国家になり、徳川家が全て処刑されても尊王思想が徹底されている水戸徳川家は生かしてもらえるのではという考えです。

 1628年、頼房の子として生まれたのは、「水戸黄門」でお馴染みの徳川光圀(みつくに)です。光圀も幼いころから幕府公認の学問である朱子学を学びます。

 

  そして、1851年、3代将軍・家光が死去。その後を継いで家綱が4代将軍就任し、武断政治が終わり、文治政治が始まります。争いのない平和な時代になったのです。

 この頃、幕府は学問の奨励を行い、各藩は学問に励むようになります。その目的は立身栄達というより、娯楽の意味合いの強い好学志向から来ていました。第一、この時代に武功による立身出世など不可能ですし。

 

 そんな中、水戸藩でも学問に励むきっかけとなる出来事がありました。頼房の世継ぎに確定した光圀は18歳の時、中国の歴史家・司馬遷が書いた歴史書『史記』を読んで感銘を受けます。

「わしも『史記』にならぶ歴史書をつくりたい。超大作を作るのじゃ。」

 こうして光圀は超大作である『大日本史』の編纂を決意し、日本の古典の諸資料との収集と研究にあたります。以来、水戸藩は『大日本史』の編纂を中心に、古代~中世日本史を研究します。これには藩の予算の3分の1を投下しており、水戸藩は深刻な財政難に陥ります。この『大日本史』の編纂は明治時代まで続きます。

 

 同時に光圀は僧の契沖(1640~1701)に日本最古の和歌集・『万葉集』について研究するよう命じています。契沖は万葉集を分かりやすく説明した注釈書として『万葉代匠記』を書きます。これが後に「国学」の発展の礎となり、本居宣長(1730~1801)によって大成されるのでした。国学については、以下のリンクから。

 

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 日本史の研究を続ける光圀は、朱子学はいかにして日本に伝わったのかを調べます。朱子学鎌倉時代宋(中国)に渡った禅僧によって日本に伝えられたため、別名「宋学」とも呼ばれました。

 宋の時代は、異民族問題が絶えず、悪戦苦闘した漢民族王朝が「尊王斥覇」という思想を作ります。尊王斥覇とは、「仁徳をもって治めた国王を尊び、武力によって政権を握った覇者を排斥する」という考えで、異民族に対する戦争の大義名分とされました。

 この「尊王斥覇」の思想は朱子学の歴史として大日本史にも書かれることとなりました。しかし、これが後に尊王攘夷へと発展し、皮肉にも倒幕に繋がってしまうのでした・・・

幕末になると、全国的に攘夷思想が巻き起こります。水戸藩の9代藩主となった徳川斉昭は藤田藤湖という学者を起用。東湖は『大日本史』の中から尊王論を体系化。その思想は長州藩あの人物へと受け継がれていきます。やがて「尊王」と「攘夷」が結びつき、尊王攘夷運動が盛り上がります。幕末動乱期の始まりです。

 

 幕末になり、外国船が日本近海に現れるようになると、欧米列強から日本を守るという海防意識が全国的に芽生えます。その意識は、国学の「日本の神の国であり、外国は悪魔の国である」という思想と相まって、攘夷思想へと発展していきます。

 9代藩主に就任した徳川斉昭は、幕府の海防参与として外国からの侵略に対処するべきと主張を続けました。したがって、斉昭の水戸藩は、全国的に注目を集めます。

 江戸時代後期から幕末の動乱において、政局は斉昭を中心に動き始めます。斉昭は藤田東湖(ふじたとうこ)という学者を中枢に起用し、西洋列強に備え軍政改革に着手。

 それに呼応するように薩摩藩(鹿児島)の西郷隆盛や、越前藩(福井)の橋本佐内など後の時代の中核を担う人々がそれぞれ軍政改革に着手し、政治的発言力を持つようになります。

 1839年、斉昭は建白書(意見書)を幕府に提出。「西洋列強に侵略されていないのは、東アジアでは日本のみで、列強は必ず日本にやってくる。軍備増強を図るべきだ。」と持論を展開する。

 その後も、斉昭は建白書を提出するものの、幕府は無視し続けたのち、1844年、斉昭を水戸藩主から降ろした。斉昭は謹慎を命じられ、幕府に意見することが出来なくなりました。

 これを受けて、藤田東湖は『大日本史』の中に出てくる「尊王斥覇」という中国の思想を日本にも当てはめ、尊王天皇、覇者=幕府とし、「尊王思想」と「倒幕思想」を生みだしました。水戸学の完成です。

 

  さて、先程の宋(中国)の話で大義名分という言葉が出てきましたが、水戸学には、この大義名分論が唱えられています。

 大義名分とは何でしょうか。大義名分とは、人としてまた、家臣として国家や君主に対して守るべき道理や節義。または、ある行動のよりどころとなる正当な理由のことです。

 たとえば、いくら武士とはいえ、理由もなしに一方的に戦争をしかけるのは、世間の反感を買います。そこで、「国を守るため」という正義の理念を世間に示すことで出兵が可能になるのです。この正義の理念こそ‘大義名分‘です。大義とは、大きな正義を意味し、名分とは身分に応じて守るべき本分を意味します。

  さらに国体という観念も唱えられています。国体とは、その国の政治的基本原則のことですが、日本では特に「天皇を中心とした政治体制、社会秩序」のことを指しています。

 

 この水戸学を主体的にとらえ、体系化したのは長州藩吉田松陰でした。松陰は攘夷思想の中でも「西洋列強に対抗するには西洋の技術を学びとる必要がある」という建設的な攘夷思想の持ち主であり、ペリー再来航の際、海外へ密航を企てます。

 

 また、松陰は時代状況に対する幕府の対応に見切りをつけ、異議申し立ての精神を胸に宿しつつ「一君万民論」を唱えます。「一君万民論」とは、天下はただ一人の君主にのみ権限を認め、その他の臣下、人民は全て平等とする考えで、天皇を神格化している点が大きな特徴です。この思想は明治維新以降、松陰の弟子たちによって天皇を主権とした国家体制がつくられるのです。

 

 この思想は、当時としては画期的な思想で、長州藩主だけでなく、藩境を超えて全国的に広がりました。

  天皇を神格化する「尊王」と、外国を打ち払う「攘夷」が結びつき、尊王攘夷が誕生。これを大義名分とし、尊攘派の志士は京都の町で「天誅(てんちゅう)」とよばれるテロ行為を行うのでした・・・・・。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治維新という過ち         原田伊織=著 毎日ワンズ

早わかり幕末維新          外川淳=著  日本実業出版社

【学制公布】なぜ明治時代の就学率は急増したのか

 

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【学制公布】なぜ明治時代の就学率は急増したのか」というお話です。

江戸時代までは身分制度が強固であり、立身出世はありえませんでした。しかし、明治時代になり、身分制度が撤廃され、四民平等となりました。福沢諭吉は著書『学問のすすめ』で貧富の差は勉強したか否かの違いであると説きます。誰でも立身出世が出来る時代になったことで、当時の若者は奮い立ち、日本に教育熱が巻き起ったのです。

 

  近代国家を有効に進めるには、国民の知識水準を高めることは必須でした。そこで、政府は、全ての国民は等しく教育受けるべきだとする「国民皆学」を目指した教育制度の充実に力を注ぎます。

 その手初めとして政府は、1871(明治4)年、教育行政を担当する文部省を設置します。その翌年、学制が公布されます。これによって、フランス式の教育制度を範とし、全国を8大学区にわけ、それをさらに32中学区に分け、さらに210の小学区にわけ、各学区に大学、中学、小学校の各1校を設置する計画が出されます。しかし、この理想的な計画は、当時の日本にはハードルが高く、1879年にアメリカを範とした教育令に取って代わられます。

 しかし、これも上手くいかず、政府は模索を始めます。そして啓蒙団体・明六社創立者である森有礼が初代文部大臣に就任後の1886(明治19)年、学校令が公布され、小学校が義務教育となります。1889年には大日本帝国憲法が制定され、徐々に憲法に基づいた教育制度が整ってきます。

(学校令・・帝国大学令師範学校令・中学校令・小学校令などの一連の法令の総称です。)

 

 驚くべきは、義務教育の定着率の速さです。明治時代の30年間の短期間で男女ともにほぼ100%の就学率となりました。義務教育の定着率の推移を見てみましょう。

  学制公布直後の小学校の就学率は30%程度でほとんどが男子でした。しかし、1875年には女子が20%近くまで伸び、男子は50%を超えました。1890年には男子は70%に対し、女子は30%程度に留まりました。しかし、その後、女子の就学率が急上昇し、1900年には80%を超えました。そして、1910年には、男女ともに100%近くになり、ほぼ全ての国民が小学校に通うようになりました。

 

  なぜこんな急速に就学率が増加したのでしょうか。

 

 もちろん政府が積極的に教育制度の拡充を推し進めたことも要因の一つですが、それだけではありません。

 というのも、本来、子供は大事な働き手であり、まともに働けるようになる6歳以上の子を、わざわざ授業料を払ってまで学校に通わせるのですから、人々の強い動機が必要です。実際に農村では、貴重な労働力である子供を通学させることに反対の声が上がり、授業料の負担も軽くはなかったので、小学校廃止を求めて農民一揆が起きています。

 

 それでも結果的に就学率がここまで定着したのはなぜでしょうか。

  それは従来の身分制度が撤廃され、誰でも立身出世が出来る世の中になったからです。つまり、「出生して豊かな暮らしがしたい」という強い願望が子供や若者達に芽生えたのです。

  前代の江戸時代は「士農工商」という強固な身分制が敷かれており、武士の子は生涯武士として、農民の子は生涯農民として、商人の子は生涯商人としてその使命を全うすることが常識でした。

しかし、明治時代になって「士農工商」という身分制度が撤廃され、「えた・非人(ひにん)」という言われなき差別もなくなり、武士以外の平民(農民・職人・商人)も名字を名乗ってよいとされる四民平等が基本方針となりました。

 

 森有礼同様に明六社の中心人物だった福沢諭吉は「天賦人権論」を説きます。これは「人は生まれながらに平等であり、その権利は天皇や政府から与えられたものではなく、人が自然と持っている権利であり、まさに天から与えられたものだ」という思想で、福沢の著書『学問のすすめ』でも「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」と、平等権が唱えられています。

 しかし、それは生まれた瞬間だけの話であり、その後、貧富の差はどんどん開いていき、その貧富の違いは勉強をしたか否かの違いだと説きました。だから『学問のすすめ』なのです。

 

 中学校(現在の高等学校に相当。)を優秀な成績で卒業すれば、教員になるための師範学校や、軍人になるための陸軍士官学校に入れます。両者は授業料が無料なうえ、寮まで完備されています。そこを卒業すれば教員や職業軍人という現在の公務員になることが出来ます。つまり生涯安泰ということです。

 さらに成績優秀者は師範学校から高等師範学校を経て、大学に行けます。大学にいけば将来は高級官僚です。さらに体力に自信があれば陸軍士官学校から陸軍大学校を経て将官として軍の中枢部に入ることが出来ます。

 

「勉学で優秀な成績を修めれば、誰でも高級官僚になれる」

 

 こんなことは従来の封建社会では絶対にあり得なかったことです。たとえ極貧の家に生まれたとしても学校に通って優秀は成績を修めれば、将来の展望が開けるなんて、日本史上初めてのことです。現代でこそ当たり前の事ですが、当時の人々には強烈なインパクトで刺激が強すぎます。

 人々はどうにかして小学校に通おうとしました。家柄や身分に関わらず誰でも立身出世が出来るという千載一遇のチャンスに、勉強しないわけがないのです。

 

 福沢諭吉の『学問のすすめ』は空前のベストセラーとなりましたが、当時の子供や若者を奮い立たせ、日本に教育熱を巻き起こしたのです。このように従来の身分制度を撤廃したことは、社会秩序を根本から変える大改革となったのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

斎藤孝の一気読み!日本近現代史         斎藤孝=著  東京堂出版

風刺漫画で日本近代史がわかる本         湯本豪一=著 草思社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社

【どう違う?】明治維新と文明開化 (文明開化編)

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【どう違う?】明治維新と文明開化(文明開化編)」というお話です。

 

 記事の順番が前後していますが、今回も明治時代を取り扱います。皆さんは明治維新と文明開化の違いをしっかり理解していますか。両者の違いとは何なのでしょうか。

 結論を最初に言うと、明治維新とは政治面での近代化。文明開化文化面での近代化。明治維新とは「武家社会の解体」であり、文明開化とは衣食住をはじめとした「文化の西洋化」です。

  そこで、今回は後編ということでストーリーを展開しながら、文明開化を紹介していきたいと思います。(明治維新編は以下のリンクから。)

 

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 そもそも文明とは何でしょうか。文明とは衣・食・住をはじめとした慣習・風俗・学問・思想など人間が文化的な生活をするために必要な様々な要素の集合体のようなものです。

  また、文明開化とは「文明」が「開かれた」という意味ですが、それまで鎖国政策によって閉鎖的だった日本の文化を、西洋を始めとした世界から文化を取り入れることで、近代化を目指したものです。文明開化は明治維新が行われているほぼ同時期に始まりました。

 

 戊辰戦争の中、新政府は1868(明治1)年早々、明治天皇の名前で五ヶ条の御誓文で今後の方針を発表しました。これには「それまでの攘夷思想を改め、知識を世界から取り入れる」という開国和親の方針も含まれていました。

 しかし、翌日に民衆に対して発布された五傍の掲示ごぼうのけいじ)には従来の儒教道徳を尊守し、キリスト教を邪宗(悪い宗教)として禁止する江戸時代までの思想統制が継続されました。すなわち、五ヶ条の御誓文と五傍の掲示は真逆の法令なのです。  これには、明治政府の悲願である近代化の一方で、徳川政権時代のような天下泰平の支配体制を継続させたいという2つの相反する矛盾した葛藤が垣間見えます。

(攘夷・・・外国を毛嫌いし、国内から追放すること。幕末の日本でさかんに叫ばれました。)

日本の文明開化の象徴は、やはり丁髷(ちょんまげ)を切り落とす散髪です。散切り頭となり、頭がさびしくなった明治初期の男性達は、世界の様々な種類の帽子をかぶるようになりました。

 

  まず、「衣食住」の「衣」から見ていきましょう。

 文明開化の象徴的な出来ごとは、1871(明治4)年に公布された「斬髪勝手」です。これは「散髪してもかまわない」という意味ですが、それまでの丁髷(ちょんまげ)を切り落としても良いというものです。明治政府には丁髷文化をなくしたいという思惑がありました。実は丁髷、在日の外国人からは好奇な目で見られ、しばしば冷笑の的として取り上げられていました。

  しかし、人々はなかなか断髪しようとしません。実は丁髷とは、武士、農民、職人、商人などの身分や職業によって異なり、また先祖代々伝わってきた家紋のようなものであり、人々が個性を表すアイデンティティの象徴だったのです。

 ところが、1873(明治6)年、明治天皇が散髪すると、庶民も進んで丁髷を切るようになっていきました。散発の普及率は、明治5年の10%から徐々に増していき、明治8年には20%、明治10年には40%、明治12年には70%となりました。

 

 丁髷を落としたことで頭がさびしくなった男性達は帽子をかぶるようになりました。その帽子はシルクハットやトルコ帽、パナマ帽、ナポレオン帽(ヘルメット帽)など世界から入ってきた様々な種類があります。ナポレオン帽とは、よく昔のアフリカ探検隊などが暑さや危険を避けるために厚くて硬い兜状の帽子のことです。こうして街中には帽子に洋服という完全な洋風姿の男性や、着物に帽子という和洋折衷式の男性など、実に個性的な風貌をした男性が入り混じっていました。

 

 冬になると、人々は首を冷やさないようにマフラーというものをするようになりました。

 当時、このマフラーの影響なのか季節を問わず、ハンカチを首に巻くという変なファッションが流行します。当時の新聞各社は「なんとも奇妙な格好だ。最近の若者ときたら・・・」と批判的な記事を掲載しています。さらに人々は防寒とファッションも兼ねて肩掛けやマントのような「ショール」も流行りだします。

 それにしても、「最近の若者ときたら・・・」という言葉は今も昔も変わらない年配者の常套句だったようです。

 

人々の食生活も徐々に西洋化してきます。牛鍋(ぎゅうなべ)、ビール、アイスクリーム、ラムネ、コーヒー、紅茶などが普及してきます。

 

  ここからは人々の食生活の変化について見ていきます。積極的に西洋に門戸を広げたことで、未知の飲食物が庶民に広がりました。

 例えば、「牛鍋(ぎゅうなべ)」というものです。もともと牛の肉など口にしなかった日本人ですが、牛肉を砂糖と醤油で煮るという独自の調理法で日本人の大好物として定着しました。そんな牛鍋のオトモには・・・・やっぱり「お酒」ですか。くぅぅ~いいねえ~。

 瓶ビールは、幕末に日本にやってきた西洋人が日常的に呑むために自国から持ち込んでいたようです。しかし、それでは量が足らず、明治に入ってから、どうしてもビールが飲みたいという在日外国人によって日本製のビールが造られるようになったことが普及のきっかけです。

 

  通りには何やら「氷」の目印が掲げられた店が並び始めます。「氷屋」です。その柱には「アイスクリーム銭4銭」と書かれています。アイスクリームは1869(明治2)年に横浜馬車道に「あいすくりん」という名称で売られたのが最初で、当初はシャーベット状のもので、現在の氷アイスに近いものだったようです。

しかし、このアイスクリーム、結構高価であり、一般庶民には中々手の届くものではありませんでした。庶民は「氷水」で我慢したようです。

 この「氷水」ですが、最初はただ氷を砕いて水の中にいれて出されるに過ぎませんでした。それから鉋(かんな)で削るようになり、雪片のようにしてコップに盛り、砂糖をかけて出すようになりました。その後、様々な和みをいれ、氷あられ、氷蜜、氷レモン、氷ブドウ、氷白玉、氷イチゴ、氷ラムネなど氷薄茶など「氷水」の種類が増え始めます。

 

 ラムネはペリー来航と同時に日本にやってきました。「レモネード」が日本人には「ラムネ」と聞こえてしまったようです。初めて飲んだ日本人はゲップが出て、ビックリしたそうです。この奇妙な飲み物は、日本人には敬遠されました。しかし、1877(明治10)年にコレラ菌が流行したことで、人々は水の代わりにラムネを飲み始めたことから、徐々に浸透していきました。

 

 来客の際のおもてなしにも変化が見られます。旅館などでは来客にお茶を出しますが、そのお茶は、取っ手のついた洋風のコーヒーカップでスプーンも差しこまれています。中身はもちろんコーヒーで、明治10年代にはイギリス領インドから紅茶が豊富に輸入され、紅茶も人々の間で楽しまれました。

 コーヒーの最強のパートナーといえば、やっぱり牛乳(ミルク)でしょう。牛乳は当時、「コーヒーに混ぜたる滋養液」とよばれ、人々の健康飲料だったようです。牛乳は毎朝、牛乳配達が大きなブリキカンに入れ、小さなブリキカンに小分けして配って回ったようです。

 街の様子も西洋化してきます。代表的なのは東京銀座で、火に強いということで煉瓦造が注目を浴び、公官庁施設を中心に西洋風の建築物が建てられるようになりました。

 

 さぁ、文明開化によって街の様子はどのように変化したのでしょうか。街路にはガス灯、家々にはランプがともり、人力車馬車が街路を走るようになりました。

(人力車は日本発祥であり、現在のタクシーのような役割を果たしていたそうです。)

  建築物も西洋化が始まります。幕末の開港後、外国人居留地にはすでに西洋風の建物は存在していましたが、居留地以外では、日本建築ばかりでした。

 明治に入ると、銀座の公官庁施設を中心に、煉瓦造りの西洋建築が続々と建てられるようになります。そして、1872(明治5)年に銀座で大火災が発生したことがきっかけで、煉瓦造の耐火性が注目され、政府は都市不燃化計画を推進します。

 

 そこで、東京府は、板葺(いたぶき)屋根の取り壊しに関する通達をだします。しかし、行政の勝手な通達で家を壊されることに住民は不満を持ちます。しかし、木造が火に弱いのは紛れもない事実。その対策は急がれるも、中々進みませんでした。

 そんな中、明治24年に岐阜県・愛知県一帯に大地震が発生。煉瓦造の建物はもろくも崩れ去るなか、日本古来の木造は、地震に強く、気候や風土に適した建築物だと見直されることにもなりました。

「火に強い煉瓦、地震に強い木造」ということでしばしば意見が対立しますが、1923(大正12)年9月1日関東大震災によって、火にも地震にも強い鉄筋コンクリート造が日本でも注目を浴びるようになるのでした。

 

東京府・・・現在の東京都。廃藩置県後、東京府京都府大阪府の3府の1つとされました。)

 

 この他にも、思想や学問の面でも、西洋の新しい知識や言葉が人々に知られるようになります。さらに「自由」、「平等」、「権利」などそれまでの日本にはなかった素晴らしい概念も取り入れらます。人々の無知を切り開き、新しい知識の普及を牽引した組織が1873(明治6)年に組織されました。明六社です。

 

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 同年、江戸時代までの旧暦(太陰太陽歴)を廃止し、欧米同様に太陽歴が採用されています。旧暦の1872(明治5)年12月3日を、太陽暦の1873(明治6)年1月1日とした。また、1日を24等分して1時間とする定時法や、日曜の休日制も導入されました。

 この明治6年は日本の近代化において画期点となった年でした。この年は、徴兵令の発令や、地租改正による税制の抜本的改革も行われ、先ほどの五傍の掲示で禁教だったキリスト教禁令も廃止されています。

 

 このような、一連の文化的な変化を文明開化と呼びます。明治維新によって、武家社会を壊し、東京を中心とした中央集権国家を確立すると同時に、今回見てきたような西洋の文明を取り入れようとする気運も着実に高まっていったのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

文明開化がやってきた チョビ助とめぐる明治新聞挿絵 林丈二=著  柏書房

風刺漫画で日本近代史がわかる本           湯本豪一=著 草思社

教科書よりやさしい日本史              石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史            鳴海靖=著  山川出版社

【どう違う?】明治維新と文明開化 (明治維新編)

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【どう違う?】明治維新と文明開化(明治維新編)」というお話です。

  記事の順番が前後していますが、今回から明治時代を始めていきます。皆さんは明治維新文明開化の違いをしっかり理解していますか。両者の違いとは何なのでしょうか。

 結論を最初に言うと、明治維新とは政治面での近代化。文明開化文化面での近代化。明治維新とは「武家社会の解体」であり、文明開化とは衣食住をはじめとした「文化の西洋化」です。

  そこで、今回は前半ということでストーリーを展開しながら、明治維新を紹介していきたいと思います。(文明開化編は以下のリンクから。)

 

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徳川将軍家から政権交代した明治政府はまず、武士階級の解体に取り組みます。版籍奉還は旧体制に限界を感じていた諸藩はすんなりと受け入れます。しかし、廃藩置県は一かハかのクーデターだったのです。

 

  戊辰戦争の中、新政府は1868(明治1)年早々、明治天皇の名前で五ヶ条の御誓文で今後の方針を発表しました。首都は京都から江戸に移され、同年10月、天皇江戸城に入ります。そして江戸は東京と改名され、江戸城も東京城と改名され、そのまま天皇の皇居として現在にいたります。

 

 さて、幕末の革命によって徳川将軍家から薩摩・長州の出身者による明治政府に政権交代しましたが、明治政府の喫緊の課題はとにかく近代国家を樹立することでした。

 しかし、憲法の制定、議会の確立、産業革命を取り入れ近代的な産業の勃興、各藩の藩札を廃止し、貿易に有利な日本国としての統一通貨の発行。さらに教育制度の充実や交通機関、病院など近代国家には欠かせない都市インフラの整備など、課題は山積みです。

  ですが、新たな「創造」をするには、まず旧体制を「破壊」する必要があります。歴史は、「破壊」→「創造」→「維持」→「衰退」のサイクルを繰り返しているのです。 

 「衰退」した江戸時代から明治時代という新たな「創造」をするには、まず破壊が必要です。

 

 では、明治政府が行った破壊とは何でしょうか。そうです。武士階級の解体です。これが明治維新の本質的な部分となります。江戸時代は、全国に270近い藩が存在しており、それぞれの藩が独自の政治を行う完全な地方分権制度でした。

 明治政府は、まずこの藩というものを解体し、中央政府に権力を集中させなければ欧米列強と同じような近代国家への転身は出来ません。その中央の象徴とは天皇の君臨です。天皇は国民から厚い信頼と支持を得ており、その天皇をトップに据えることで、近代国家樹立を早急に推し進めようとしたのです。

 

  戊辰戦争終結した1869(明治2)年、明治政府は版籍奉還を全国の藩に命じます。これは諸藩に領土(版)人民(籍)天皇に返納させるという内容です。

 明治政府はいきなり藩を取り潰すのではなく、最初に領土と人民を返還させ、段階的に藩の廃止に移ろうとしたのです。したがって、旧藩主はそのまま知藩事という職に任命され、そのまま支配体制を継続しました。

 諸藩はこの改革を意外とすんなり受け入れます。おそらく、彼らも気付いていたのでしょう。旧体制のままでは国を守れないと。本来、武士の使命は、人民を守ることです。しかし、このままではその役割を果たせそうにない。ここは一度、領土と人民を返納し、明治政府に期待することが国を守ることに繋がると考えたのです。

 

 さぁ版籍奉還が完了したので、次は廃藩置県です。これは藩を廃止して、新たに県を設置し、中央から政府の役人(県令)を派遣するというものです。

 しかし、藩を廃止するというのは、やはり慎重に行くべきです。

 というのも、実は明治政府は常備軍を持っていなかったのです。言われてみれば、戊辰戦争で新政府軍として戦ったのは諸藩の藩兵です。彼は戦争が終われば、当然自分達の国に帰ってしまいます。

  さらに、江戸時代に軍制改革によって力をつけた藩もゴロゴロいます。このまま藩を廃止すると、軍事力を持たない新政府ゆえ、全国で反乱が起きた場合、明治政府は再起不能になるのは必至です。

 このように「第二の戊辰戦争」を危惧する役人は少なくありませんでした。

 

 しかし、政府の中心人物である木戸孝允大久保利通は、急進的で悲壮な考えを持ちます。

「このまま決断を先送りにして、政府が崩壊するより、いっそう大英断によって、一気に藩を潰し、それが失敗して瓦解したほうが良い。」

 学校の教科書では、サラッと書かれてある廃藩置県ですが、実は一かハかの賭けだったのです。

 

 作戦は、護身のための親兵を用意し、全国の知藩事を皇居に集め、明治天皇から直々に「廃藩」を宣言してもらうというものでした。

 親兵には、当時最強の軍事力を誇る薩摩(鹿児島)の兵を味方として迎える必要がありました。そのためには、薩摩の西郷隆盛に協力を依頼する必要があります。しかし、西郷は明治政府に愛想を尽かし、既に鹿児島に帰っていました。

 同じ薩摩出身の大久保は西郷と蟠(わだかま)りがあるため、期待出来ません。木戸は部下である山縣有朋を鹿児島に派遣し、西郷を説得します。

 薩摩藩藩士達から絶大は人気を誇っていた政府の要請を西郷はあっさり受け入れます。おそらく、藩の廃止は時代の流れだと認識していたのでしょう。

 

 1871(明治4)年、作戦は決行されます。西郷は鹿児島から兵を率いて上京。木戸も自ら長州へ戻り、兵を引き連れてきました。そして板垣退助率いる土佐軍も到着。こうして薩・長・土3藩による8000人の連合軍が東京に集結。これらの軍事力を備えた上で、同年7月、皇居に集められた知藩事達の前で明治天皇は「廃藩」を宣言しました。

 こうして明治政府は政治的な統一を成功させました。

 

明治政府は引き続き、武士階級の解体に取り組みます。四民平等によって武士という身分がなくなり、秩禄処分によって武士の給料であった「家禄」も廃止されます。そして廃刀令によって武士の特権的象徴だった帯刀も禁止されるのでした・・・

 

  この後、いよいよ「武士」という職業そのものが解体されます。

 政府は基本方針として四民平等を示します。近代国家樹立のためには国民は皆、平等である必要があるとして、それまでの士農工商身分制度を撤廃しました。

 しかし、武士の解体と同時に、誰か代わりに武力で国防や治安維持に務めなくてはいけません。大村益次郎は徴兵制を構想します。この近代国家らしい構想は山縣有朋が中心となって1872(明治5)年、明治天皇の名前で徴兵告諭が発布され、国民の義務として国を守る兵役を負うべきだと示します。そして1873(明治6)年の徴兵令で具体的な徴兵の規則が制定されました。

 

 これによって事実上、武士という身分は消えたわけですが、明治に入っても、武士達には「士族」という新たな身分が与えられ、藩に代わって明治政府から「家禄」という給料をもらっていました。いわゆる‘失業保険‘のようなものです。

 しかし、政府にとってこの家禄の支出は財政圧迫の原因であり、国家財政の30%にも及んでいました。これ以上、彼らを養うことは出来ません。

 

 1876(明治9)年、政府は遂に士族達への「家禄」を廃止します。これを秩禄処分といいます。代わりに5~14年分の家禄を一括で支給し、その間に何とか生活を成り立たせるように促しました。

 また、同年には刀を差して外を歩いてはいけないという廃刀令も出されたことで、遂に武士の特権的象徴であった帯刀が禁止されました。

  こうした旧武士に対する冷たい仕打ちをしたのが、同じ武士出身である木戸や大久保だったことは、何とも皮肉なことです。

 

 多くの士族達はこれら一連の法令を全て受け入れた。そして新しい時代に自らが自立するためにそれぞれが歩き始めた。この潔さが明治の富国強兵の原動力になったことは間違いありません。

 しかし、中には急激な時代変化に追従出来なかった士族達もいました。彼らは政府に対して不満を強め、1876年以降、各地で反乱を起こします。その代表的な反乱は、士族達の不満を引き受けた西郷隆盛が引き起こした西南戦争です

 

 こうした1868(明治1)年~1876(明治9)年の一連の政治的な変化を明治維新と呼びます。

 

 一方、明治政府は「西洋の文明を取り入れること」をスローガンに文明開化も実行に移します。

 ということで、次回は文明開化についてご紹介します。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

斎藤孝の一気読み!日本近現代史          斎藤孝=著  東京堂出版

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史  河合敦=著  祥伝社

教科書よりやさしい日本史             石川晶康=著 旺文社

【植木枝盛】自由民権運動に影響を与えた思想家

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【植木枝盛自由民権運動に影響を与えた思想家」というお話です。

 

 明治政府は文明開化をスローガンに近代国家樹立のために急速な西洋化を図りました。日本の独立を守るには、西洋の文明を取り入れる必要があり、さもないと欧米列強の支配を受けることは必至の事態だったのです。

 ところで明治政府は、薩摩・長州の出身者による藩閥政治が行われましたが、建前上は公家出身者と武家出身者による合議制・話し合いが取られていました。しかし、内状は1~2人の独裁政治が行われていました。そこで、1870年代半ばから人々は国会開設と参政権を求めて自由民権運動が繰り広げます。

 今回はそんな自由民権運動で自ら思想を形成し、人々を共感させた思想家・植木枝盛(1857~1892)という人物を紹介します。自由民権運動と言えば、板垣退助をイメージする人が多いと思いますが、植木も同様に自由民権運動の中心人物として活躍しました。

板垣退助とともに自由民権運動の中心人物として活躍した植木枝盛は、明治政府の独裁政治に反発。福沢諭吉などの知識人から影響を受け、アメリカ独立宣言やイギリスのジョン・ロックの思想を研究。民主国家「日本」を確立するために国会開設と参政権を求めて全国を奔走しました。

 植木は1857年、土佐(高知県)に生まれます。16歳で大使を抱いて上京。海南私塾に入学するも軍人養成を目的とした教育に違和感を覚え、6カ月で退学してしまいます。退学後、独学で学問に励む植木ですが、その中心をなしたのが読書と‘新聞閲覧‘です。

 

 

 

  この新聞は1870年代に急激に普及しますが、当時の人々に新しい知識や言葉を提供しただけでなく、人々に意見や主張の持たせる啓発的な役割も果たしました。

 このように人々を啓蒙・啓発する目的で、1873(明治6)年、福沢諭吉をはじめとした先進的な知識人によって明六社という啓蒙団体が組織されました。

 

 植木は勉学の傍ら、この明六社の演説会にも出席するようになります。演説に共鳴した植木は福沢の思想である『天賦人権論』を学びます。『天賦人権論』には「人は生まれながらに自由で平等である」という理論が展開されており、それまで封建制度身分制度が当たり前だった人々に強烈な印象を与えました。この明六社の演説内容は『明六雑誌』や各新聞によって人々のあいだに広がりました。

 

 しだいに、人々は新しい政治の在り方について意見や主張を持つようになります。特に若い青年達は、自らの意見を新聞へ投稿をしており、投書が多くの新聞に掲載されることで自らの知名度を高めていきました。植木もその一人です。

 

 当初、明治政府はこれらの意見を歓迎していました。近代国家樹立のために思いを語る若者の情熱は、明るい日本の未来を想像させるものだったのです。

 しかし、次第に政府の方針とは異なる意見や、独裁政治に対する批判的な意見も散見されるようになります。そこで1875年、政府は言論の自由に制限を加える讒謗律新聞紙条例を出し、反政府運動を弾圧します。

 

 人々から言論の自由を奪った政府に対し、植木は「猿人政府説」という題名の投書を報知社に送ります。これが編集人によって「猿人君主」と改題され、『郵便報知新聞』に掲載されました。

 「猿人君主」とは、政府が情報統制や言論統制をすることで、民衆が「見ざる、言わざる、聞かざる」の状態になってしまうことが述べられていました。

 

 かつて江戸幕府が倒され、明治政府が誕生。そこにはデモクラシーの精神と近代国家の樹立を目指す思いがあった。しかし、実情は支配者が徳川将軍家から薩摩・長州の出身者に代わっただけで、被支配者を徹底統制することは何も変わっていなかったのです。

  植木は新聞紙条例違反で政府に連行され、禁獄2カ月の刑に処せられます。

 

 出所した植木は既に有名投書家となっており、多くの人々から支持を得ました。そして同じ土佐出身の板垣退助と意気投合。土佐の立志社に身を置き、執筆と演説の2つの言論活動を展開していきます。こうして近代日本の課題をめぐって明治政府と民間が対立する風潮が激化してきます。自由民権運動の始まりです。

 

 自由民権運動とは国会開設と参政権を要求する運動ですが、日本が近代化するにあたって重要な課題は、国民国家「日本」を形成することでした。そこで人々に「国民」という同朋意識を共有させ、政治に積極的に参加する国民主体の国を創る必要があると説きます。

 何やら難しい説明のように感じますが、要するに各都道府県が一致団結し、「日本」という独立した国を創り、「民主主義の国」を創ろうということです。

 

 この時初めて「日本」や「国民」という言葉が誕生し、それを生み出したのは福沢諭吉です。

 江戸時代までは完全なる地方分権制度であり、「あなたは何人ですか?」と聞くと「薩摩人です。」などと答えるのが自然でした。しかし、日本や国民という概念が生まれたことで「あなたは何人ですか?」と聞くと「日本人です。」と答えるようになっていきます。また、国民が政治に参加するなんて従来ではありえなかったことです。

 

 これを民衆に自覚させるには演説しかないと福沢は言います。イギリスやアメリカでは「スピーチ」によって民衆に政治への関心や士気を高める手法をとっていました。福沢は「スピーチ」を「演説」と訳します。演説は自由民権運動の中心的な活動であり、板垣は演説で、植木は執筆によって人々に呼びかけました。

 

 1876年、西南戦争に敗れた不平士族や、経済的に余裕のある農民(豪農)達も民権運動に加わります。

 自由民権運動が各地で盛況を見せるなか、植木らは、自然消滅してしまった愛国社の再建に乗り出します。立志社は全国の同士に呼びかけるため、遊説員を派遣します。植木もその一人として大阪、兵庫、香川、徳島、愛媛、岡山、鳥取を訪ねます。

 

 そして1877年9月、再興愛国社第一回大会が大阪で開催されたのをきっかけに、自由民権運動はさらに熱狂します。1879年の第3回大会では遂に、自由民権運動の主張の大きな柱である国会開設の要求を全国の同士を結集して政府に対して請願することを決定しました。

 

 植木はアメリカの独立宣言やイギリスのジョン・ロックという思想家を勉強し、以下のような言葉を残しています。

「そもそも国とは、人民の集まるところのものにて、決して政府によって出来たものではない。君によって立ったものでもない。国とはまったく民によって出来たものじゃ。」

 

 国とは政府や天皇がつくったものではなく、民衆が集まってこその国であり、民衆が集まってこそ政府が生まれたのだということです。

 

 以後、植木は憲法草案の委員会の中心人物として活動します。この憲法草案こそ、国民国家「日本」のグランド・デザインの集大成として国自らの手で描かれたものなのです。憲法案には主権在民国民主権)が述べられており、政府が権力を濫用し、暴政をはたらくなら、国民は抵抗権を行使出来ると規定されていました。

 また、立憲君主制ではあるものの、天皇も国民と平等の存在とみなしており、民主制を保障するなら、当面は現行を維持してもよい。しかし、いずれは共和制をとるべきと主張しています。

 さらに、国民主権の国を創るには、国は出来るだけ小さくする必要があり、日本をいくつかの州に分けて自由独立を保障する連邦制をとるべきと述べられています。

 人権についてはきめ細やかな配慮がされており、特に警察の人権侵害の行為などには強い警戒心を抱いています。死刑制度も廃止されています。

 

 結局、伊藤博文がドイツの憲法を参考に天皇主権大日本帝国憲法を発布されたことで、植木の憲法草案は採用されませんでしたが、遥かに時を超え、現行の日本国憲法に大きな影響を与えていることは間違いありません。

 

 こうした自由民権運動の全国的展開を受けて政府は1881年、遂に10年後を期して国会を開設することを決めました。この頃、植木もその結成に尽力した自由党板垣退助を党首として結成されます。

 その後、植木は1890年の第一回帝国議会に向けて全国を奔走します。そして第一回衆議院議員総選挙に出馬、みごと当選し、国会議員としても活躍します。

 しかし、1892年の第二回総選挙を目の前にして、病に倒れ、その短い生涯を終えます。享年35歳。(毒殺説あり)

 民主国家の草案は、民間レベルで明治初期に既に存在していたとは驚きです。近代日本が今後の動向を模索する青年期を迎えると同時に、青年・植木もその人生を近代国家「日本」のために捧げたのです。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

日記に読む近代日本 2明治後期 植木枝盛日記 千葉功=編 金井隆典=著 吉川功文館

【明六社とは】文明開化をリードする明治の啓蒙思想家達

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【明六社とは】文明開化をリードする明治の啓蒙思想家達」というお話です。

明治政府は 文明開化をスローガンに日本を西洋化をすることで近代国家樹立を目指しました。そんな文明開化を思想の面から人々をリードするべく啓蒙団体が結成されました。明六社です。彼らは『明六雑誌』を通して人々に『天賦人権論』を発表。この思想は後の自由民権運動で強く叫ばれるようになります。

 

  1873(明治6)年、アメリカから帰国した外交官・森有礼の提案により西洋の学会にならって明六社が創設されました。明治6年に創設されたから明六社と言います。覚えやすいですね。 

 「明治維新」による中央集権国家の確立と同時に、日本は国をあげて西洋文明の摂取に取り組みました。いわゆる「文明開化」です。

 

 この明治初期の偉人達を勉強していると、いつも思うのですが、ものすごい危機感が伝わってきます。とにかく一刻も早く近代国家を築きあげ、西洋列強に対抗して日本の独立を保とうと必死です。そのくらい日本の文明は遅れており、いつ植民地にされてもおかしくない状態だったということです。

  そのためには従来の価値観や考えを捨て、西洋の文明を取り入れるしかないと考えられました。

 明治政府は「文明開化」をスローガンに日本を西洋化することで、近代国家樹立を目指しました。明六社とはそんな文明開化を思想の面から推し進めるために集結した啓蒙思想家の団体です。

 啓蒙思想とは何でしょうか。

 啓蒙とは、「蒙(くら)きを、啓(あき)らむ」という語源から来ています。これは「めくらな人々に光を照らすこと」を意味し、人々が絡め取られている過去の常識や偏見、迷信を取り払い、理論的、理性的、科学的に物事を解釈するように導くことです。

 江戸時代の鎖国政策によって日本独自の文化が芽生え、元禄文化化政文化など日本が世界に誇る町人文化が生まれたことは確かです。しかし、いつまでもそれに固執するわけにはいきません。日本を独立国家として存続させるには、西洋の先進的な知識や技術、思想などを取り入れることは必至です。明六社啓蒙思想家達は、日本の文明開化のリーダーなのです。

(ここでいう「めくら」とは目の見えない人ではなく、物事の道理や価値などがわからない人のことを指します。)

 

 そんな明六社の社員には既出の森有礼を中心に、福沢諭吉西周(にし あまね)などの多数の洋学者が勤務しており、彼らは『明六雑誌』の発行や講演会、談話会などで西洋文明の新しい学術や、知識、思想などを広げました。(啓蒙活動)

 

 『明六雑誌』とは、明六社が発行している雑誌ですが、彼らの啓蒙活動に大きな役割を果たしたのが、新聞・雑誌・出版事業の発達です。新聞はすでに幕末から存在していましたが、1870(明治3)年、日本最初の日刊新聞として『横浜毎日新聞』が発行されたのをはじめ、同年代に『東京日日(にちにち)新聞』、『読売新聞』、『郵便報知新聞』、『朝日新聞』などが相次いで出版されました。その多くは政治問題を取り上げて評論するものばかりで、現在のような経済や社会に関する情報はあまり掲載されていませんでした。

 

 明六社が一貫して庶民に伝え続けた思想は、「天賦人権論」です。この思想は、福沢諭吉がアメリカで「平等」という概念を発見したことをきっかけに、他の啓蒙思想家達にも受容されました。そのくらい画期的な思想だったのです。

 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 そんな「天賦人権論」とは、「人間は生まれながらにして自由・平等であり、幸福を求める権利を持っており、これは国家や天皇から与えられたものではなく、人間が生まれた瞬間から既に持っている権利で、いわば天から与えられた権利であり、国家も侵すことが出来ない固有の権利である。」と主張しています。

 この思想は1870年代半ばから展開されてくる自由民権運動のなかで強く叫ばれるようになります。

 

 疑問に思った方もいるかも知れませんが、そもそもなぜ日本に啓蒙活動をリード出来るような洋学者が多数いたのでしょうか。

  実は、ペリー来航以来、旧幕府は蘭学弾圧を撤回し、必至で蘭学を奨励し、人材育成をしていたのです。当時の西洋の唯一の窓口はオランダのみだったため、蘭学になっています。森を除く、福沢や西などの多数の洋学者は、幕末から幕府の蘭学機関に勤務し、幕臣として蘭学の研究、教育、蘭書の翻訳にあたりました。この下地があったからこそ、日本は明治時代になってすぐに啓蒙活動による文明開化に乗り出すことが出来たのです。

  しかし、1875(明治8)年、政府は、新聞紙条例を制定するなど自由な言論を取り締まるようになります。明六社の活動は徐々に衰退していき、同年11月に『明六雑誌』も廃刊となりました。

 以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

もういちど読む 山川日本近代史 鳴海靖=著 山川出版社

【岩倉使節団】彼らはなぜ条約改正を諦めたのか【岩倉具視】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【岩倉使節団】彼らはなぜ条約改正を諦めたのか【岩倉具視】」というお話です。

岩倉使節団条約改正と西欧文明の視察を目的に横浜港を出港します。しかし、日本にとっての不平等条約は彼らにとって有利な条約です。そう簡単に権利を手放しません。岩倉らは条約改正を断念します。この頃、西欧諸国も、フランスの帝国の崩壊やドイツ帝国の誕生など変革期を迎えており、岩倉らには刺激的で条約改正どころではありません。これが後の憲法草案の調査研究の複線にもなるのでした。

 

  1871年(明治4年)に廃藩置県を達成し、全国を完全に新政府の直轄地とすることが出来ました。国内での中央集権国家の確立に目途がたったところで、今度は対外政策です。

  明治政府には大きな課題がありました。条約改正です。江戸時代末期にアメリカと日米修好通商条約を締結したことをはじめ、列強諸国と通商条約を締結しますが、その条約は不平等な条約であったことが明るみになり、領事裁判権の廃止関税自主権の撤廃を急いでいたのです。

 また、明治天皇は苦慮していました。西欧の文明の進み具合のショックを受けており、近代国家樹立にはその文明を取り入れるしかないと感じ、一刻も早く追いつくべく産業育成をしなければならないと。

 そこで、政府は欧米への使節団の派遣を計画しました。右大臣・岩倉具視を団長に、木戸孝允大久保利通伊藤博文など錚々たる面々です。その他、留学生や女学生を含めた総勢100人を超える大集団となり、同年11月にサンフランシスコに向け、横浜港を出発しました。

  この岩倉使節団渡航目的は以下の2つ。

1.欧米列強に不平等条約を解消させ、彼らの欧米列強と同じ立場に立つこと。

2.欧米列強の政治、制度、文化、教育を日本に取り入れ、列強と同等レベルにまで進歩させること。

 

 しかし、現実は甘くなかった。

 最初の訪問国であるアメリカのサンフランシスコに到着した一行は、アメリカの盛大な歓迎に喜び、条約改正は簡単に進むかに思われました。

 しかし、交渉に必要な委任状を持っていないことを指摘され、大久保と伊藤が委任状を取りに日本に戻るという事態が発生してしまいました。

 

 大久保と伊藤が委任状を取りに日本に戻っている間、岩倉と木戸は条約改正の話をアメリカ首脳部に持ちかけます。しかし、アメリカ側は全く聞く耳を持ちません。アメリカからすれば不平等条約自国にとって有利に貿易を進められる条約であり、そうやすやすと手放すはずがなかったのです。これ以上条約改正の話をすると関係が悪化するとみた岩倉らは条約改正を断念。目的を文明視察のみに絞りました。

 

 この後、一行はアメリカ国内を視察するわけですが、日本との相違点に驚愕するばかりでした。

 当時のアメリカも変革期を迎えていました。1865年に南北戦争が終わり、黒人初の上院議員が誕生。1867年にはロシアからアラスカを買収。1869年には大陸横断鉄道が開通し、現在のアメリカの国土がほぼ確定。本格的な西部開拓に乗り出していました。

 

 ワシントンで大久保・伊藤と合流した一行は、大西洋を渡り、ロンドンに向かいました。

 当時、民主主義の先頭を走っていたイギリスやフランスでも大きな社会変革を迎えてしました。

 イギリスでは18世紀に起きた産業革命によって大量生産・大量消費の時代を迎えるも、一方で労働環境は劣悪で、大きな社会問題となっていました。1868年にグラッドストンを党首とした自由党が誕生したことで、教育法や労働組合法を制定し、労働者階級の地位向上が図られていました。

 

 フランスでもドイツとの普仏戦争に敗北したことでナポレオン3世が退位し、1870年に第三共和政が誕生していました。しかし、パリにコミューンと呼ばれる労働者によって結成された自治政府が誕生します。ヴェルサイユの臨時政府はドイツからの援軍を受け、市街戦を展開。自治政府を鎮圧することに成功しました。

 使節団は、議会政治や産業振興だけでなく、当時の日本ではまだ顕在化していなかった労働者問題にも触れることが出来たのです。

 

 一行はさらに、イタリアとドイツに向かいます。

 長らく国家として成立していなかったドイツとイタリアもこの頃、統一国家として誕生します。

 イタリアは9世紀のフランク王国分裂以降、実に1000年以上ものあいだバラバラの状態が続いていました。これを統一したのがサルディーニャ王国でした。国王であるヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と宰相カヴィールのコンビは1866年にオーストリア帝国からヴェネチアを奪取、ローマ教皇が占領していたローマも統合し、1870年には現在のイタリア王国として統一されました。

  ドイツは18世紀に台頭したプロイセン王国が中心となり、オーストリアを排除するカタチでドイツの統一が勧められます。これに反対したフランスはドイツと普仏戦争を開始。ドイツはビスマルクの活躍により、フランスに勝利。1871年に国王ヴィルヘルム1世が皇帝として即位し、ドイツ帝国が誕生しました。

 

岩倉使節団の首脳部はこのイタリアとドイツの偉業に思わず共鳴してしまいます。

「自分達もつい最近まで倒幕のために実に多くの戦争をし、ようやく新しい国家を樹立出来たことを。」

 

同じ運命をたどった両国のうち、特にドイツ帝国には強い印象を受けます。後に伊藤博文は再びドイツを訪れ、憲法草案の調査研究を行います。なぜ日本はイギリスやフランスではなく、新興国であったドイツの憲法を模範にしたのかがわかるエピソードだと思います。

 

彼らが帰国したのは、1873(明治6)年で、この年の1月1日から「1日は24時間、1年は365日」という太陽歴が採用され、福沢諭吉森有礼を中心とした明六社が結成されるなど本格的な文明開化が推し進められていました。

 

団長の岩倉は数年前までは筋金入りの攘夷派で外国人を毛嫌いしていましたが、西欧の近代化にただただ圧倒されるばかりで、もはや条約改正どころの話ではなくなったのでした。

 

同行した留学生達は留学生活を終え、帰国した後、いろいろな分野の専門家としてお雇い外国人に代わって日本の近代化を牽引していくのでした。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

父が子に語る 近現代史      小島毅=著   トランスビュー

斎藤孝の一気読み!日本近現代史  斎藤孝=著   東京堂出版

もういちど読む 山川日本近現代史 鳴海靖=著   山川出版社

教科書よりやさしい日本史     石川晶康=著  旺文社