【第一回普通選挙】日本の政治はどのように変わったのか

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【第一回普通選挙】日本の政治はどのように変わったのか」というお話です。

 

戦前の大日本帝国といえば、皆さんはどんなイメージをお持ちですか?

天皇陛下万歳!」とか「ファシズム」とか「お国のために・・・」などが出てくると思います。いずれにしても、非民主主義国家であるというイメージが非常に強いと思います。

民主国家の定義は人それぞれあると思いますが、仮に普通選挙法が成立していることだと仮定すると、大日本帝国とは意外にも世界でも最先端を行く民主国家だったのです。

普通選挙とは、財産や身分などで差別することなく、一定の年齢に達した者に投票権が与えられる選挙のこといいますが、今回は特に男子のみに与えられる普通選挙について取り上げます。

 

世界で最初に男子普通選挙が導入されたのは1848年のフランスでした。続いて1867年にドイツでも男子普通選挙が導入されました。そして1869年にアメリカ、1918年にイギリスと欧米列強を中心に男子普通選挙は導入されていきました。

 

そして日本でも1925(大正14)年に成立した普通選挙法によって、選挙権に納税条件が撤廃され、満25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられました。有権者数はそれまでの4倍の1000万人を上回るようになり、当時の人口の20%強にまで達しました。

ということで、今回は第一回普通選挙が実施されたことで、日本の政党政治はどのように変化したのかを見ていきたいとおもいます。

 

大正時代最大の遺産である普通選挙法は1928(昭和3)年に初めて実施されました。そんな記念ずべき第一回普通選挙法は皮肉にも政治腐敗を引き起こし、政党政治が必ずしも安定的な世の中を作るとは限らないことが証明される結果となりました。そんな政党政治に失望した国民はやがて軍事政治を支持するようになるのでした・・・・。

 

1925(昭和3)年に成立した普通選挙法は、民主主義の象徴的な政策であり、大正時代に巻き起こった大正デモクラシー最大の遺産であると言えるでしょう。

そんな普通選挙法を成立させた憲政会の加藤高明首相は1926(大正15)年1月に肺炎をこじらせて急逝してしまいました。

跡を引き継いだのは、加藤内閣の重要閣僚であった若槻礼次郎でした。この若槻内閣のもと、1926(大正15=昭和元年)年12月、大正天皇が亡くなり、昭和天皇が即位し、元号も昭和になりました。

 

翌1927(昭和2)年、大蔵大臣の片岡直温(なおはる)が衆議院において東京渡辺銀行が破綻したという不用意な発言をしたことで、国民の間に金融不安が広がり、いわゆる金融恐慌が日本を襲いました。これよっていくつかの銀行が倒産・休業に追い込まれ、やがて台湾銀行という大銀行も倒産しそうになります。

こうした騒ぎの責任を取るカタチで若槻内閣は発足後、わずか1年ほどで総辞職しました。

 

憲政会の行き詰まりを認めた元老・西園寺公望は、野党で衆議院第二党であった立憲政友会(以下、政友会)総裁の田中義一(たなかぎいち)を首相に推しました。

昭和天皇は1927(昭和2)年4月20日、田中義一を首相に任命しました。

こうして憲政会から政友会へと政権交代がされました。

第一党の政党内閣から第ニ党の政党内閣への政権交代が、このとき初めて実現したのです。

したがって、1927(昭和2)年4月20日、政友会内閣としての田中義一内閣が誕生。

 

1927年、野党であった立憲政友会党首の田中義一が総理に就任します。田中義一内閣は外交において軍事的な威嚇、または軍事力をもってでも、日本の国益を守ろうという積極外交を展開します。

ということで、今回は田中義一内閣の外交政策を見ていきながら、張作霖はなぜ殺されたのかについてご紹介していきたいと思います。

 

田中内閣成立後、第ニ党に転落した憲政会は、将来の展望を失った政友本党を吸収・合併し、立憲民政党(以下、民政党)を結成しました。民政会総裁には、加藤内閣で蔵相を務めた浜口雄幸(はまぐちおさち)が就任しました。ここに与党・政友会と野党・民政党による二大政党時代が誕生しました。この2つの主要政党の政策を表にまとめました。

 

政友会

民政党

党首・田中義一

党首・浜口雄幸

積極財政

緊縮財政

強硬外交(特に対中国)

協調外交(幣原外交)

地方分権化を目指す

中央集権化を目指す

借金して見栄を張る政党

ケチでひ弱な政党

三井財閥と結ぶ

三菱財閥と結ぶ

 

憲政会と政友本党が合併したことで巨大政党となった民政党に対し、政友会総裁の田中義一は政権を獲得したものの、少数与党で政局に臨むことになりました。田中首相は議会運営が不安定になることを恐れ、1928(昭和3)年1月の通常国会田中首相は内閣不信任案上程の先手を打ち、解散・総選挙に打って出ました。田中首相衆議院で多数を獲得して政権基盤を固めようとしたのです。

こうして、普通選挙成立後、最初の総選挙(第一回普通選挙)が実施されたのでした。普通選挙法発足によって急増した有権者に訴えかけるよため、両党は新聞広告やポスター、さらにはレコードを利用するなどのメディア戦略を展開し、激しく鎬(しのぎ)を削ります。

政策面に目を向けますと、民政党は憲政会以来の政策を踏襲し、内政においては緊縮財政を唱え、外交においては幣原喜重郎外相による協調外交(幣原外交)を主張します。一方の政友会は、内政においては積極財政をアピールし、外交においては田中首相兼外装の強硬外交を展開しました。特に中国大陸に対しては積極的に進出することを主張します。

 

選挙の結果、与党・政友会の獲得議席は217、民政党は216とわずか1議席でかろうじて政友会が勝利を収めるという結果になりました。この選挙結果に両党は大きな衝撃を受けました。

これ以降、両党は互いに政策をやり玉に挙げ、激しい非難を繰り広げるようになりました。現代でいうところのネガティブ・キャンペーンのようなものです。

政友会は民政党の政策を非難するような内容のポスターを掲げました。

「中央集権など時代遅れよ。これからは地方分権の時代です。地方にもっと光を。」

一方の民政党も政友会の政策を非難するような内容のポスターを掲げました。

「政友会など借金して見栄を張る中身のない政党だ。もっと堅実な緊縮路線で行くべきだ。」

 

以降、政友会と民政党による二大政党間の対立は激しさを増し、足を引っ張り合うという行き過ぎた政治闘争にまで発展してしまいました。

それは敵対政党に対し、ささいなスキャンダルや失策を持ちだし、相手を貶めるために激しく攻撃するという政策論争で、実りある発展的な政策論争とは程遠いものでした。

したがって、両党の最優先目標は多数の得票数と議席数を獲得することです。つまり、両党の掲げる公約はすべて「国民の生活のための公約」ではなく、「選挙に勝つための公約」に成り下がってしまったのです。

 

本格的な民主主義国家としてスタートするはずだった第一回普通選挙法は皮肉なことに政党政治が必ずしも安定的な世の中を保証しないことになってしまったのです。

 

普通選挙が実施され、有権者が爆発的に増えたことで選挙費用も一気に跳ね上がりました。普通選挙実施前まで、選挙の費用は平均3万円ぐらいだったのが、今回の第一回普通選挙では5万円に達し、そして昭和7年の選挙では7万円にもなりました。当時の7万円とは、現在の価値に直すと1億円ほどになります。

こうした高額の選挙費用は一般人ではまかなえません。したがって、立候補者は必然的に資産家かもしくは政党の支援を受けられる者になりました。

政党は、立候補者の選挙権を支援するために公認料というものを設けていました。これは現在の政党の公認料とお暗示もので、政党が選挙費として公認する候補者に一定の資金を渡すというものです。

しかし、政党はそんな政治資金をどこから集めたのでしょうか。

政党は親しい巨大企業や資産家から援助を貰っていたのです。政友会には三井財閥が、民政党には三菱財閥がつき、スポンサーのようになっていました。さらに安田、古河、住友などもそれぞれ政党に資金を提供していました。

普通選挙は皮肉にも政党と財閥の関係を結びつけ、「政治とカネ」の問題という現代でも起こり続けている社会の懸案問題のひとつとなってしまいました。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

5つの戦争から読み解く日本近現代史       山崎雅弘=著  ダイヤモンド社

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著  旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著   山川出版社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著  産経新聞

【本能寺の変3】秀吉は信長暗殺計画を知っていた!?【豊臣秀吉】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【本能寺の変3】秀吉は信長暗殺計画を知っていた!?【豊臣秀吉】」というお話です。

 

豊臣秀吉明智光秀、この2人は共に織田信長に仕える実力者としてメキメキと重臣にまで出世していきました。2人は主人信長様の愚痴を言い合い、共に励まし合う仲でした。そんな中、光秀は信長に謀反を決起。躍起になる光秀を止められないと悟った秀吉は信長に代わって天下統一を引き継ぐことを決意しました。

 

1582年6月2日、まだ夜が明ける前の早朝のことでした。1万を超える明智光秀の軍勢がぞくぞくと京の都に入ってきました。

軍勢はやがて本能寺を包囲しました。

本能寺に宿泊していた信長は物音で目が覚めました。そして世話係の蘭丸に

「誰か喧嘩でもしておるのか?」

「いえ。寺が兵に包囲されています。」

「なんだと!?如何なる者の企てぞ。」

明智の配下のようです。」

「光秀・・・・。謀反か!?」

信長は頭の中で様々な思考を巡らせました。それまでの光秀とのやりとりを思い返したのです。自分は光秀を嫌っていた。でも光秀も自分のことを嫌っていたのです・・・・。

そしてこう言いました。

「ワシは自ら死を招いたな。」

「殿、もう逃げ場がありません。気付くのが遅すぎました。」

「分かっておる。ふん、光秀などにくれてやる首などないわ。寺に火を放て。」

信長は自ら弓を持って、応戦しました。しかし、鉄砲の銃弾が信長の左肩に命中。応戦を断念しました。

「是非に及ばず。」

そう言い残し、信長は燃え盛る炎の中、自害しました。享年49歳でした。

 

騒ぎを聞いた信長の長男・信忠わずかな兵を集め、本能寺に救援に向かいます。父・信長を救助しようにも本能寺はすでに炎上しており、中に入ることは出来ません。

「信忠様、お逃げください。明智軍は信忠様も狙っております。」

「たわけ!このまま逃げられるか。父上の仇を討つのだ。二条城に入れ!守りを固めろ!」

信忠は二条城で防戦態勢を取るも、1万3千の明智軍が相手では多勢に無勢、攻撃を受けて城は陥落。信忠も戦死してしまいました。

京都は一時、大騒動になりましたが、戦闘が一部地域に限定されていたため、多くの人は何が起こったのかまだ知らぬままでした。

 

その頃、中国地方備中高松城では羽柴秀吉の軍が城を包囲していました。城の周囲を水で満たし、兵糧尽きるまで待つという「水攻め」をしていました。

「お!官兵衛殿、今、城の中に美人が見えたぞ!側室として迎えても良いのう。ムフフッ」

「殿、いい加減にしないと、また信長様に怒られますぞ。」

「しかし、早く降伏してくれんかのう。このままじゃ城の中の女も子供もすべて無駄死にじゃ。」

毛利方は和睦を申し出たものの、秀吉はこれを拒否。大将・信長の援軍が到着するのは今か今かと待っていました。

援軍が到着すれば毛利方5万との正面衝突は避けられません。一同はまさに一触即発の空気の中にいました。

そんな時でした。6月3日、一片の悲報が事態を急変させました。

「殿、大変です。」

「どうした!?」

「親方様が・・・・信長様が・・・・・」

すぐに事態を察した秀吉の眼にはすでに涙が出ていました。

明智殿が本能寺にて信長様を襲撃、信長様はご自害されたとのこと・・・・」

「それは真か?・・・」

「先程、明智方から毛利軍に送った諜報員が我が軍の警戒網に引っ掛かりまして。これはその諜報員より奪った密書でございます。おそらく真かと・・・・」

「光秀殿、なぜ・・・・・。」

秀吉は激しく後悔しました。やはりあの時、光秀を阻止しておくべきだったと。自分を支えていた強固は足場が、はかいまでに崩壊してしまったのです。

泣き崩れる秀吉を官兵衛は説得します。

「殿、しっかりしてください。親方様が亡くなった今、天下を取るのは秀吉様、あなたです。」

「たわけ!!天下などどうでも良いわ。それより今は、一刻を争う事態だ。」

秀吉はすぐに立ち上がり、全軍に言いました。

「毛利とは和睦申し入れをせよ。そして全軍、京へ戻れ!!!!」

「どうするおつもりで!?」

「決まっているだろう。光秀を討ち取るのじゃ。」

「オオーーーッ」

 

なんと、講和申し入れをしていた毛利に対し、逆に秀吉軍の方から講和を申しいれるカタチとなりました。

「輝元様、あの羽柴軍が講和の申し入れをしてきました。」

「一体、どうしたというのだ。」

「主君・信長が横死したそうです。」

「なんと・・・・。でもそれは絶好の機会ではないか。これで信長の援軍はなくなったわけだ。ワシらにも武運が開けたわけだ。」

「殿、冷静になってください。我が軍はこれまで散々、羽柴軍の切り崩しに遭ってきました。その結果、多くの重臣達が羽柴軍に寝返ってしまいました。もはや毛利家中は崩壊寸前です。」

「うん、そうだったな・・・・。」

「実力で羽柴軍に勝ち目はありません。今後のことを考えると、ここはひとつ奴らに恩を売っておいたほうが賢明かと・・・。」

こうして毛利氏は秀吉からの講和申し入れを即時に受け入れました。そしてこの決断は後に毛利氏の窮状を救うことになるのでした・・・。

 

6月4日、毛利と和睦を成立させた秀吉は2万の軍勢を率いて中国から全速力で京へ戻りました。(中国大返し

しかし、鎧や武器を持った兵士達の足どりは遅すぎました。おまけに長期に及ぶ毛利との戦闘で兵達は酷く疲弊していました。

「駄目だ。この速度では遅すぎる。」

7日沼城城に到着した一同に対し、司令官の秀吉は思わぬことを命じます。

「全軍、甲冑を脱げ!最低限の武器だけ持って再出発じゃ。」

甲冑を脱いだことで身軽になった兵士達は猛スピードで再出発しました。

 

その頃、光秀はどうなったのでしょうか。

本能寺の事件から2~3日も経つと各地に「織田信長が重臣・明智光秀の謀反のよって討たれた」という情報が流れていきました。事件発生当日よりもさらに大きな混乱と衝撃が波及していきました。

そして6月5日、光秀は京都周辺を掌握するようになりました。光秀は天皇や公家に金銀を献上するなどして朝廷工作に乗り出しました。そして天皇は、光秀の行動を高く評価し、光秀を征夷大将軍に任命しました。

以降、光秀は全国の諸大名に「信長横死」の手紙を送りました。

「諸大名の皆さん、従来の武家社会をもう一度再建していきましょう。」

全国の諸大名にそう呼びかけたのです。

しかし、光秀の意向に反し、信長征討は全国の諸大名をはじめ、多くの領主・領民から反感を買うこととなりました。意外にも織田信長という人物は庶民から絶大な人気を誇っていたのです。

室町時代から続く「座」や「関所」は庶民の自由な商売を大きく阻害し、一部の特権階級にのみ利益が集中する状態になっていました。信長の代表的な政策の1つである「楽市・楽座」と呼ばれる自由な商業政策は、中世の悶々とした封建的な閉鎖的な社会制度を取っ払い、近世の合理的で開放的な社会制度を作り上げるための政策だったのです。信長の偉業とは一言でいうと、「日本のルネサンス」と言えるでしょう。

光秀はそんな先進的なリーダーを殺してしまったのです。

 

そして、極めつけは光秀の重臣達すらも光秀に協力しようとしなかったことです。

光秀の重臣である細川藤孝は一足先に秀吉軍の援軍として中国地方へ遠征していました。

「光秀の謀反による信長横死」を聞いた細川は光秀に大きく失望、そして光秀からの協力要請に対し、こう答えました。

「今は君主・信長公の追悼をあげるだけです。」

 

光秀の認識は甘かった。

朝廷や公家を取り込めば自分が天下を担うことが出来ると考えていたが、単なる一領主に過ぎない光秀にとってそれは極めて困難なことでした。光秀は思ったほど多くの勢力から支持を得ることが出来なかったのです。

光秀はただ、室町時代以来の伝統的で秩序ある国家を再建したかっただけだった。しかし、今では「君主殺しの逆賊」のレッテルを貼られるという秀吉の予測通りの結果となってしまいました。

 

6月6日、京を目指す秀吉軍は途中、本拠地である姫路城に入り、2日ほどの休息を取ることにしました。

「信長様の仇を討つため、光秀との戦いには絶対勝たなくてはいけない。」

そこで秀吉は、現在の価値でいう80億円相当の金銀を将校クラスの武将達に。そして8万石の備蓄米を全ての兵隊に分け与えたのです。

「勝つ前にこれだけくれるのだから、勝った後はどれだけくれるのだろう。」

部下達の士気は最高潮にまで高まりました。

食ったことでエネルギーが出て来た武将達は9日、全速力で京へ向かいました。

 

そして6月12日の朝、秀吉軍は尼崎に到着。この頃、秀吉軍の動向を明智軍も察知するようになります。

「殿、大変です!秀吉軍がこちらに向かっております。」

「なんだと!」

「その数およそ3万!もの凄い速さです。」

京に戻る途中、秀吉軍に加担する勢力は増えていました。信長の弔い合戦という秀吉の大義名分は多くの勢力の共感を呼んだのです。

「秀吉め・・・やっぱり来たか。」

「殿、大至急、兵の召集を願います。」

「いいだろう。奴らを迎え討て!!!!」

これから合戦だというのに、光秀の表情はどこか清々しいものがありました。3万という数を聞いた瞬間、光秀は悟ったのでしょう。「自分は秀吉に圧倒される。自分は最期、秀吉と戦い、精も根も尽き果てよう。」そう光秀は決心したのかもしれません。

 

6月13日、秀吉軍と光秀軍は京都と大阪の県境に位置する山崎で対峙しました。秀吉軍3万に対し、光秀軍は1万余り、もはや光秀に勝ち目はありません。

合戦の火ぶたがきられたのは午後4時頃です。数で劣る光秀軍は多少健闘するも間もなく総崩れ、合戦は2時間ほどで終結しました。

 

「殿、光秀を取り逃しました。只今より追撃し、早急に首を持って参ります。」

しかし、秀吉は制止しました。

「放っておけ。どうせ奴に味方する者などいるはずもない。世の中には殺して良い君主と殺してはいけない君主が存在する。光秀殿は明らかに殺してはいけない君主を殺してしまった。こうした摂理を彼は見抜けなったのだ。」

秀吉は光秀を断罪しました。

 

戦いに敗れた光秀は坂本城へ向かうべく京都市内の竹やぶの中を移動中、百姓からなる落ち武者狩りに襲われて竹槍で突かれ、あえなく落命してしまいました。

 

光秀を破った秀吉は天に向かって信長に詫びました。

「信長様、大変申し訳ございませんでした。ワシは光秀の暴走を止めることが出来ませんでした。こんなことになってしまって、許してくれなど言いません。ワシに出来ることは信長様の無念を晴らすことです。」

秀吉は信長の達成出来なかった天下統一を何としても成し遂げると誓いました。

 

以上、本能寺の変をご紹介いたしました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

「秀吉」をたっぷり楽しむ法      高野冬彦=著        五月書房

マンガで一気に読める日本史      金谷俊一郎=監修      西東社

詳細図説 信長記           小和田哲男=著       新人物往来社

信長は本当に天才だったのか      工藤健策=著        草思社

http://kamurai.itspy.com/nobunaga/honnouji2.htm

【本能寺の変2】秀吉は信長暗殺計画を知っていた!?【豊臣秀吉】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【本能寺の変2】秀吉は信長暗殺計画を知っていた!?【豊臣秀吉】」というお話です。

 

 豊臣秀吉明智光秀、この2人は共に織田信長に仕える実力者としてメキメキと重臣にまで出世していきました。2人は主人信長様の愚痴を言い合い、共に励まし合う仲でした。そんな中、光秀は信長に謀反を決起。躍起になる光秀を止められないと悟った秀吉は信長に代わって天下統一を引き継ぐことを決意しました。

 

 1582年5月初旬、信長は甲斐の武田氏の大将・武田勝頼を討ち取り、京にさらし首としました。

「おい。光秀っ」

「ハハッ、何でしょうか。」

「今度、武田攻略を祝って京で戦勝祝賀会を開くことにした。そこに家康公も招いている。光秀は京の伝統料理に詳しいだろう。そこで、光秀には家康公の接待を取り仕切って貰いたい。」

 光秀は数秒経ってから返事をしました。

「ハハッ、承知しました。」

  

 その後、信長は中国遠征をしている秀吉から援軍要請の通知を受けました。

「毛利が主力部隊を投入してくるつもりだと!?サルも苦戦しているようだな。」

 そんな中、5月15日、信長に誘われて、安土城に入った徳川家康。光秀は手の込んだ京風料理で家康をもてなしました。

 すると、家康は鯛の味に違和感を覚えました。

 そして信長は光秀に問い詰めました。

「なんだ、この鯛は。光秀、まさか腐った鯛を出したんじゃないだろうな。」

「そんなはずはありません。京風料理は薄味でして尾張三河のものとは違います。」

「お前、バカか。三河の家康公にこんな薄味でもてなすとは何事だ。」

「で、ですが京風料理でもてなせとおっしゃったのは殿ではありませんか。」

「うるさい。こんな鯛食えるか。この役立たずめ。」

 信長は光秀に罵声を浴びせた上に、足蹴りを食らわせました。

「も・・・申し訳ございませんでした・・・・。」

「もういい。お前に接待役など頼んだ俺が間違いだった。光秀、お前はサルの援軍として中国地方に出陣しろ。しばらく京には戻らなくて良い。分かったな。」

 光秀は数秒経ってから返答しました。

「ハハッ。承知致しました。」

 光秀は次の大仕事であった四国の長宗我部攻略の任を解かれ、秀吉の指揮下として中国の毛利征討に加わることになりました。光秀は格下げされたのです。

 決定的でした。

 光秀の中で、プツリと糸の切れるような思いが起こりました。

 

 翌日以降、光秀は中国出陣のための準備を始めました。

 そんな中、光秀の重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)は信長征討を訴えました。

「殿、もう我慢出来ません。信長公を討ち取りましょう。間もなく四国攻めが始まってしまいます。私はもう元親殿に合わせる顔がありません。」

利三は妹を四国の長宗我部元親に嫁がせており、信長と長宗我部氏の友好関係に貢献していました。そんな長宗我部氏を信長が攻め滅ぼすというのだから利三としては納得出来ません。

「殿、ご決断を。」

しかし、光秀には思いとどまるものがありました。

(光秀殿、どうかご容赦を・・・・。)

秀吉の声が光秀の頭をよぎりました。

 

そんな光秀のブレーキが外れる出来ごとはすぐに起こりました。

5月26日、光秀の居城・丹波亀山城に信長の使者がやって来ました。信長の書状にはこう記されていました。

「光秀の治める丹波・近江の国は信長に召し上げよ。代わりに出雲・石見の国を与える。」

これは「国替え」と呼ばれるもので、現在でいう転勤のようなものです。

しかし、問題なのは、出雲と石見は毛利氏の領地であることです。信長は未だ敵領地であるはずの地を与えると命じてきたのです。

「国替え」は何も光秀だけに命じられたものではありません。しかし、敵の領地が代わりに与えられるというのは前例がありません。領地を失えば、領主は家来を養うことが出来ません。つまり、今回の毛利攻めを成功させなければ、光秀とその家来達は路頭に迷うことになるのです。

まぁ、事実上のクビです。光秀は領地すらも信長に取り上げられてしまったのです。

 

5月29日、信長は朝廷達に暦の変更など様々な改革案を提案するべく京に入りました。

信長はその日から数日間、本能寺にチェックインしています。

その情報はすぐに明智軍に伝わりました。

「信長勢は6月2日まで京に滞在してから四国に出陣するようです。その間の宿泊先は本能寺になるようです。」

信長が宿泊する本能寺は‘寺‘であり、‘城‘ではありません。したがって、必然的に信長の手勢はわずかであることは容易に予想されました。

それに、信長の重臣達は全国に散らばっています。

柴田勝家は北陸方面を、滝川一益は関東方面を、織田信孝は四国方面を、そして羽柴秀吉は中国方面に遠征中です。畿内にいるのは明智光秀だけでした。

つまり、信長は完全に無防備な状態で宿泊しているのです。

「今しかない。」

そう思った光秀は利三など重臣達と本能寺襲撃の作戦会議を開きました。

 

そして6月1日の夕方、光秀は1万3千人の兵を率いて丹波丹波亀山城を出発しました。

その道中、光秀は号令をしました。

敵は本能寺にあり。」

「ハハッ。」

家来達は「待ってました!」と言わんばかりに急に進路を東に替え、京都に向かいました。

つづく

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

「秀吉」をたっぷり楽しむ法      高野冬彦=著        五月書房

マンガで一気に読める日本史      金谷俊一郎=監修      西東社

詳細図説 信長記           小和田哲男=著       新人物往来社

信長は本当に天才だったのか      工藤健策=著        草思社

http://kamurai.itspy.com/nobunaga/honnouji2.htm

【本能寺の変1】秀吉は信長暗殺計画を知っていた!?【豊臣秀吉】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【本能寺の変1】秀吉は信長暗殺計画を知っていた!?【豊臣秀吉】」というお話です。

 

豊臣秀吉明智光秀、この2人は共に織田信長に仕える実力者としてメキメキと重臣にまで出世していきました。2人は主人信長様の愚痴を言い合い、共に励まし合う仲でした。そんな中、光秀は信長に謀反を決起。躍起になる光秀を止められないと悟った秀吉は信長に代わって天下統一を引き継ぐことを決意しました。

実力では申し分ない秀吉と光秀。しかし、信長のポジティブな面に焦点が当てていた秀吉と、ネガティブな面に焦点が当たっていた光秀。この視点の違いが2人のその後の明暗を分けたのでした・・・・。

 

 

「サル、お前が俺に仕えてからどのくらい経つ?」

「う~ん。もう20年近く経ちますねぇ。あの時は殿が21歳で、ワシが18歳の時でした。」

「もうそんなに経つかぁ。なあサル、俺は今まで、人を殺し過ぎてきたと思うか。」

「あまり深く考えない方が良いですぞ。天下泰平の世を築くには仕方がなかったことです。」

「しかし・・・・。」

「殿、少し疲れているのではありませんか。戦はしばし我らに任せて羽でものばされてください。」

「サル・・・ありがとう。そんなことを言ってくれるのはお前だけだ・・・。」

「へへへ。なんか照れくさいですな。」

皆さんご周知の通り、織田信長という人物は、とんでもなくクセの強い人物でした。短気で傲慢で人の話を一切聞かない完全な独裁者のような人でした。

しかし、短所と長所は表裏一体です。大きな短所を持っている人は、それを補うほどの大きな長所も持っているのです。

信長の独裁志向は、部下への指示を非常に迅速かつ明確にしました。それは人の話を一切聞かない信長だからこそ出来たこと。優れたリーダーは、一方では非常に傲慢なのです。

このように長所も短所も含めてその人の「ありのまま」なのです。

秀吉はそんな「ありのままの信長」を知っていました。だから秀吉は信長のことが大好きだったのです。

そして人間関係は双方向です。あなたが好意を示せば、相手もあなたに好意を持ってくれます。なので、信長もまた秀吉のことが大好きでした。

 

一方で明智光秀と信長の関係はどのようなものだったのでしょうか。

「殿、明智殿がお見えです。」

「構わん。通せ。」

ガラッ

「殿、四国の長宗我部の件でお話に参りました。」

「またその話か。その件はもう済んだ。下がれ。」

「信長様、四国攻めの件、今一度お考え直しくださいませんか。」

「おい。くどいぞ、光秀。」

「この光秀、長年、長宗我部と交渉を続け降伏を促して参りました。交渉成立まであと少し・・・何卒もう少しお時間を頂きたくお願い申し上げます。」

「光秀・・・それ以上しゃべるな。下がれ。最後の警告だ。」

「・・・・・ハハッ。大変失礼しました。」

当初は信長に心酔していた光秀。ですが、次第に光秀は信長を良く思わなくなっていきました。しかし、人間関係は双方向です。信長も光秀を良く思っていませんでした。

 

その後、秀吉と光秀は互いに信長に対する愚痴を言い合っていました。

「まったく、殿の傲慢さと気まぐれさには愛想が尽きた。」

「ははは。光秀殿、心中察しますぞ。」

「黙っていれば批判と受けとられ、眼をそらせば軽蔑したと思われる。」

「うん。信長様ほど気難しい人はこの世にはおらぬ。」

「あんな乱心者に天下人になる資格などない。ワシは今まで粉骨細心、信長様に尽くしてきたが、もう限界かも知れない・・・・。」

すると光秀は秀吉に懇願しました。

「お願いじゃ、秀吉殿。私とともに信長を討ち取ってはくれぬか。」

「何をおっしゃるか。そんなことをしたら君主殺しの逆賊となってしまうぞ。」

「心配はいりません。信長は将軍・義昭様をはじめ朝廷や公家、そして多くの諸大名からすこぶる評判が悪い。あらゆる勢力から支持されることでしょう。」

秀吉はしばらく黙ってから言いました。

「光秀殿、そなたもワシ同様、もとは身元も知れぬ流れ者の身だった。それを召し抱え、立身出世への道を切り開いてくれたのは、まぎれもない信長様のおかげですぞ。」

「そりゃそうだが・・・・。」

「光秀殿の気持ちもわかるが、ワシは信長様が大好きじゃ。」

「秀吉殿・・・・・。」

「いけませんぞ。光秀殿。ワシは明日から中国の毛利氏と戦うため大軍とともに出陣します。当面は京には戻ってきません。しかし、そなたがもし、信長様を討ち取るような真似をしたら、ワシがそなたを討ち取りに戻ってきますぞ。」

秀吉の冗談ではない真剣な表情に光秀は尻ごみしてしまいました。

「光秀殿、どうかご容赦を。」

 

つづく。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

太閤記」の人間学 豊臣秀吉     湯本陽、童門冬二ほか=著  プレジデント社

「秀吉」をたっぷり楽しむ法      高野冬彦=著        五月書房

マンガで一気に読める日本史      金谷俊一郎=監修      西東社

詳細図説 信長記           小和田哲男=著       新人物往来社

信長は本当に天才だったのか      工藤健策=著        草思社

【三方ヶ原の戦い2】武田信玄はどのようにして家康を大敗北させたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【三方ヶ原の戦い2】武田信玄はどのようにして家康を大敗北させたのか」というお話です。

 

 泣く子も黙る戦国大名、それが武田信玄です。

 戦国最強と言われた武田氏は甲斐・信濃を治める有力な戦国大名として君臨していました。武田氏は戦(いくさ)のプロ集団であったことは間違いありません。

 

 前回の続きです。

 家康は間一髪のことろで浜松城に逃げ帰りました。

 武田軍は徳川軍の進路を見て、攻撃場所を決めて待ち構え、家康を後一歩のところまで追いつめたのです。

 信玄は偵察部隊を放ち、家康軍の動向を随時報告していました。風林火山を掲げる武田軍のチームワークにより家康は圧倒されたのです。

 

 家康は、自国領土に出撃するのに敵軍の位置さえも満足に把握できていない。おまけに見附の町を焼き払うという大きな損害も被ってしまった・・・・。

 今回の出陣で、家康の策敵体制の貧弱さと指揮能力のなさを露呈させる結果となってしまいました。当時の家康はこの程度の実力だったのです。

 

「家康め、間一髪のところで逃げ帰りおったな。素早しこいネズミめが。」

「殿、このまま一気に浜松城に攻め込み、家康を討ち取りましょう。」

「そう焦るな。じわじわと攻め込んでいくのさ。そうすれば、奴(家康)はまた姿を現す。野戦に持ち込んで、徳川勢を全滅させるのだ。全軍、二俣城へ向かえ!!!」

 信玄は浜松城に逃げ帰った家康を深追いはせず、代わりに天竜川を北上し、二俣城の攻略に向かいました。二俣は家康のいる浜松から北に10キロほどの町で交通の拠点でもあります。ここを攻略すれば浜松城は裸同然の無防備になり、簡単に攻略出来ます。

 

 2万あまりの武田軍が二俣城に布陣しました。二俣城は城兵3百人程度の小さな城です。武田軍の圧倒的な武力を持ってすれば簡単に開場させられます。しかし、武田軍は無理に攻め込むことはしませんでした。家康が二俣城の救援として出陣してきたところを討ち取ろうと考えていたのです。つまり、二俣城攻めは家康をおびき寄せるためのエサなのでした。

二俣城が武田軍に攻め入られているという報告を受けた家康は三河から援軍を要請しました。援軍が合流したことで8千人ほどになった徳川軍はすぐに二俣城の救援に向かいました。

しかし、偵察隊の報告によると、二俣城周辺には武田軍が陣を張っており、徳川勢を待ち構えているとのことです。

これでは迂闊に近寄ることは出来ません。家康は危険を感じ、すぐに浜松に軍を戻しました。

救援を得られなくなった二俣城は12月19日、とうとう降伏して陥落しました。

 

12月22日、武田軍は遂に浜松城に向けて南下を開始しました。

「殿、武田軍がやってきます。どうしますか。」

「余は武田軍に蹂躙(じゅうりん)されながら、何の損害もあたえられぬまま、浜松に無傷の武田軍を迎えるのか・・・・。何とか武田軍に一撃を加えたいものじゃ。」

「殿、お気持ちはわかりますが、ここはどうか籠城を願います。我が城なら籠城すれば数カ月は持ちこたえられます。そうすれば武田軍は兵糧尽きて引き揚げていくことでしょう。」

「そうですよ殿、武田軍の2万に対し、我が軍は1万1千。まとも戦って勝てる相手ではありません。」

佐久間信盛も信長からの命令として浜松籠城を進言しました。

 

南下を続ける武田軍はそのまま浜松城を囲むと思われました。しかし、浜松城から8キロほどの有玉(ありたま)で西に向きを変え、三方ヶ原に向かいました。

「殿、武田勢は急きょ、三方ヶ原台地に向かっております。」

「信玄め。またしても挑発して余をおびき出す作戦だな。」

「しかし、三方ヶ原台地から下る道は多くない。しかも、そこは急斜面であり、その先には都田川がある。とても騎馬隊が降りられる場所ではありません。」

武田軍を後方から襲えば、敵は逃げ場がありません。家康勢にも勝機が見えました。

家康は全軍に出撃命令を出しました。

あれほど籠城を勧めていた重臣達も「敵が後ろを見せた。今なら討ち取れる」と考えたのでしょう。一撃して戦果を上げた後、すぐに城に戻ればよいとしました。

徳川勢は道を急ぎました。

急げば、台地の先で武田軍を捉えられる。

しばらくして武田勢の後尾が見えてきました。

武田軍は足を速めています。それは逃げ足のようにも見えます。

「今、攻撃すれば、圧倒的な勝利を得ることが出来る。」

徳川軍の誰もがそう思い、家康自身もはやる兵隊達を止めることも出来ませんでした。

これがワナでした。

武田軍は台地に到着した先手勢から順に隊列を整え、素早く陣形を組み換え、迎撃態勢で待ち構えていたのです。

その一糸乱れぬ隊列は、数多くの遠征で訓練された武田軍ならではのものでした。

そう、逃げる部隊はワナだったのです。武田勢を追った徳川勢は槍を持った武田の先手勢からの反撃を食らってしまいました。

当初、家康方の先手勢が攻撃をしかけ、武田の先手勢を後退させていました。しかし、武田の先手勢の後ろにも陣形を整えた武田の精鋭部隊が待ち構えていたのです。崖を下って逃げていくと思っていた部隊です。

信玄は徳川勢を自陣に引き込んだところで、一気に叩き潰そうとしたのです。

武田の精鋭部隊は一斉に家康勢に襲いかかりました。

決定的でした。

武田の騎馬隊から放たれた無数の弓や槍は、家康軍に再起不能なくらいの壊滅的なダメージを与えました。

 

やがて家康自身も戦乱に巻き込まれてしました。

重臣達は家康を囲むようにして逃げましたが、すぐに武田の騎馬兵に追いつかれ、重臣達は弓や槍で次々に討たれていきました。

何人もの家臣達が身を捨てて家康を守り抜きました。

その中には馬を失い、斬り死にしようとした家康に馬を与え、自分は家康を名乗って敵陣に突進していった者もいました。家康の身代りとなったのです。

日はすっかり暮れ、逃走劇は夜のとばりの降りる中で行われました。武田軍に追いまくられた家康勢はこの暗闇で救われました。

浜松城は開城されており、いくつもの篝火(かがりび)を置いて、引き上げてくる兵たちの目安となりました。

家康は最後、4~5騎ほどの家来とともに浜松城に戻りました。

この戦いで家康軍は千人もの家来を失いました。つまり、家康はほとんどの兵士を失ったのです。

家康の大惨敗です。

家康はこの時、31歳。姉川の戦いで野戦での用兵には自信を持ったろうが、信玄には全く歯が立たなかった。

 

一方、徳川軍を破った武田軍は浜松城を攻めず、三方ヶ原台地を西に降りた刑部(おさかべ)に留まり、年を越しました。

刑部は浜松城からは14キロしかありません。敵領の真ん中に在陣するのは不自然ですが、信玄が重病に侵されており、馬に乗ることも輿(こし)で動くことも出来ぬほど病状が悪化していたのです。

信玄は甲斐を出るときから病を自覚しており、三方ヶ原の戦いが最後の采配となりました。

そして1573年が明けた正月下旬になって武田軍は陣を進めることが出来なくなりました。信玄はゆっくりと帰路をとり、2月17日に長篠城に入り、しばらく在陣。そして信濃に入り、4月12日に死去しました。享年53歳でした。

 

強敵であった信玄の死を知った、家康は大いに悲しみ、悔みました。

「何とも惜しい人を亡くした・・・・・」

そこには安堵の念からではなく、本当に残念無念な思いでいっぱいでした。

家康にとって信玄とは、三方ヶ原の戦いで生涯忘れることの出来ない完敗を期した憎い敵であると同時に、多くのことを学びたい師であったからです。

信玄の死を知った信長は武田軍に宣戦布告するのでした・・・。

 

以上。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

信長は本当に天才だったのか           工藤健策=著  草思社

20代で知っておくべき歴史の使い方を教えよう  千田琢哉=著  Gakken

「【三方ヶ原の戦い】武田信玄はどのようにして家康を大敗北させたのか」というお話です。

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【三方ヶ原の戦い武田信玄はどのようにして家康を大敗北させたのか」というお話です。

 

 泣く子も黙る戦国大名、それが武田信玄です。

 戦国最強と言われた武田氏は甲斐・信濃を治める有力な戦国大名として君臨していました。

 武田氏は戦(いくさ)のプロ集団であったことは間違いありません。

 「疾(はや)きこと風のごとく、徐(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとし」で知られる「風林火山」は自然の摂理です。戦の心構えは自然界にヒントがあり、風のように素早く動き、林のように冷静沈着に、火のように激しく攻め込み、山のようにどっしりと陣地を構える。これが勝利の秘訣なのです。はあ

 その他にも、「人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」という組織において人材がいかに大事かを教える名言など、現代にも通じる経営哲学を生み出しました。

 

 戦国英雄として永遠に語り継がれている織田信長徳川家康でさえ、年齢、経験、知力、体力など実力では武田信玄の足元にも及びません。今回はそんな武田信玄が戦国3英傑の一人である徳川家康をどのようにして大惨敗に追いやったのかを見ていきたいと思います。

 

 

 戦国最強の騎馬軍隊を持つ甲斐・信濃を治める武田信玄

 しかし、その立場が「ある大名」の登場によって揺るがされることになりました。尾張織田信長です。信長は駿河の今川氏を討ち取り、三河徳川家康と同盟を結び、天下を我がものにしようとする戦国大名でした。まさに下剋上によって成り上がった大名です。

 そんな信長は、室町15代将軍・足利義昭を利用し、信長は新たな秩序としての理想国家を創る英雄であると同時に、古き秩序や伝統を蔑(ないがし)ろにする暴君でもありました。

 信長は義昭の権威を利用して、天下統一を迅速に達成させようとしたのです。

 そんな信長を憎んだ義昭は、越前の上杉氏や中国の毛利氏、そして甲斐の武田氏に「打倒!信長!」を記した内容の書状を送り、信長を叩き潰すことよびかける工作をしました。これによっていわゆる信長包囲網が形成されました。

 こうして信長・家康をはじめとした新勢力と、義昭・武田をはじめとした旧勢力の対立構造が出来上がりました。

 義昭と同盟を結んだ信玄は上洛のために兵を派遣することを決意しました。その機に乗じ、信玄は信長に総攻撃を仕掛けようとしたのです。

 信玄はその手始めとして、信長と同盟を結ぶ三河遠江徳川家康に攻撃をしかけました。

 これが家康が大惨敗を喫する1572年の三方ヶ原の戦いのプロローグでした。

 信玄は国境近くの家康領の民家や町家を次々に襲撃しました。

 

「殿、家康公より、伝文です。信玄が襲来したとのことです。」

この報せを受けた信長は家康の本拠浜松城に重臣・佐久間信盛を筆頭とした3千人を援軍として送りました。

 家康軍はこれで1万1千。しかし、対する信玄軍は2万の軍勢で攻めてきています。

 兵隊の数が勝敗を決める当時の戦いにおいて、家康は非常に不利な状況にたたされます。

 

 信長自身も、畿内の三好氏や石山本願寺、浅井・朝倉勢など様々な敵に手いっぱいでたくさんの軍隊を派遣出来なかったのです。そして信長自身も岐阜を離れることが出来ず、

 信玄の侵攻は凄まじく、徳川方属上は次々に陥落されていきました。

 信玄は天竜川東部の徳川方属城を攻撃したころ、家康は出陣を決めました。

 しかし、重臣達は籠城を勧めます。それに対し、家康はこう答えました。

「領主たるものは、民とともにある。その領民が武田軍の略奪に苦しんでいるのに、籠城などしていられない。それに味方の城が陥落されているのに、援軍に向かえないなど領民からの信を失う。それだけでなく、遠江の諸将は離反する恐れもある。」

 家康は4千ほどの兵を率いて出陣しました。

 しかし、すでに1万ほどの武田軍が見附(静岡県磐田市)の北まで進出していました。

 武田軍は家康の旗印を見つけるや、一気に追撃を開始しました。家康軍はこれは敵わないと、わあてて撤退することになりました。重臣達は遠江最大の町として栄えた見附を焼き払うことで、武田軍を撹乱し、追撃を振り切りました。

 しかし、武田軍の一部は町を迂回して、天竜川に至る一言坂で徳川軍に追いつき、激戦となりました。家康は重臣達の奮闘のおかげで、何とか本拠浜松城に逃げ帰ることが出来ました。この戦いを三方ヶ原の戦いのプロローグである「見附、一言坂の戦い」です。

信玄は家康を取り逃してしまったのです。

つづく。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

信長は本当に天才だったのか           工藤健策=著  草思社

20代で知っておくべき歴史の使い方を教えよう  千田琢哉=著  Gakken

【どう違う?】田中義一内閣と浜口雄幸内閣の外交政策

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【どう違う?】田中義一内閣と浜口雄幸内閣の外交政策」というお話です。

 是非、最後まで読んで頂きますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

 田中義一内閣と浜口雄幸内閣の外交政策の違い、そのポイントはそれぞれ2つあります。1つは対中国政策の違い、もう1つは欧米と結んだ条約の内容の違いです。

 

田中義一内閣

浜口雄幸内閣

対中強硬政策

対中協調政策

欧米とは不戦条約を調印

欧米とは軍縮条約を調印

田中義一内閣は、中国に対して強硬外交を展開し、国民革命軍による北伐が展開すると山東出兵を行い、済南事件も引き起こしました。欧米に対しては協調外交を展開し、パリ不戦条約に調印しました。

一方、浜口雄幸内閣は、中国に対して協調外交を復活させました。中国に対しては武力を行使せず、日中関税協定を結び関税自主権を認めました。欧米に対しては補助艦保有量を制限するロンドン海軍軍縮条約に調印しました。

 まず、田中義一内閣外交政策の特徴から見ていくことにしましょう。

 1924(大正13)年、中国には中国国民党中国共産党とが第1次国共合作を行い、北方軍閥の打倒を方針として打ち出しました。

 孫分の死後、その後を継いで国民党の最高指導者となった蒋介石(しょうかいせき)は1926(大正15=昭和元)年、国民革命軍総司令に就任し、中国統一を目指し、国民革命軍を率いて北伐を開始しました。

 1927(昭和2)年初めには革命軍が山東半島にまで近づいており、山東半島の日本の権益や満州鉄道の権益が危ぶまれました。

 しかし、時の首相で憲政会の若槻礼次郎内閣は、幣原喜重郎を外相として起用し、中国に対し、内政不干渉条約にもとづき、北伐への干渉を避けていました。しかし、日本国内の陸軍や国家主義団体、野党である立憲政友会から幣原外交を中国における日本の権益を守れない「軟弱外交」として非難しました。

 若槻内閣の総辞職後、1927(昭和2)年4月、立憲政友会田中義一内閣が成立しました。首相と外務大臣を兼任する田中義一は、組閣後間もなく、国民革命軍による北伐の進展に対して、日本人居留民の生命と財産を保護する名目で同年5月28日、山東半島に1個師団を送り込みました。(第1次山東出兵)。

 第1次山東出兵の後、田中内閣は、若槻内閣の内政不干渉原則を変更して強硬外交(積極外交)の方針を掲げました。

 この方針は同年6月27日から11日間開かれた東方会議で決められました。この会議は田中自らが主催したもので、東京で外交担当者や軍部首脳部を集めて開かれたもので、今後の中国問題を協議し、満州における日本の権益をあくまで守るという方針を打ち出しました。

 1928(昭和3)年の第2次山東出兵では、日本軍は国民革命軍(北伐軍)とのあいだで武力衝突が起こりました。これが済南事件とよばれるものです。

 このため、中国の排外運動はイギリスに代わり、日本に向けられるようになりました。

 しかし、山東出兵は大きな戦争にはならずに収束します。その後、満州某重大事件が起こり、これが関東軍の仕業だと明らかになると同時に田中は昭和天皇から不信の念を表明され、総辞職に追い込まれました。

 

 また、田中内閣は欧米諸国に対しては協調外交の方針を引き継ぎ、1927(昭和2)年のジュネーブ軍縮会議に参加しており、1928(昭和3)年にはパリで不戦条約にも調印しました。このパリ不戦条約は、米・英など15カ国が、従来、国際法で認められた国際紛争解決の手段としての戦争を行わないことを宣言するという戦争放棄の条約でした。しかし、田中内閣の中国政策はこの条約とは逆行していたのでした。

 

 次は、一方の浜口雄幸内閣外交政策を見ていきます。

 田中内閣のあとを引き受けた立憲民政党浜口雄幸内閣は、再び幣原外相を起用し、協調外交の方針を打ち出しました。

 中国に対しては田中の強硬外交を改め、協調外交を復活させ、対中国関係を改善するために、1930(昭和5)年に中国と日中関税協定を結び、条件付きで中国に関税自主権を認めました。しかし、さらなる権益回復を目指す中国の国民政府より強い外交方針を示されてしまいました。それに加え、国内では浜口内閣の外交姿勢を「軟弱外交」と非難されました。こうした中国と国内からの圧力に挟撃された浜口内閣の協調外交は行き詰まっていきました。

 また、浜口内閣は1930(昭和5)年にイギリスの提唱によって米、英、日、仏、伊の五カ国の代表によりロンドン海軍軍縮会議が開かれることになると、若槻礼次郎元首相らを全権として派遣しました。この会議では1922(大正11)年に調印されたワシントン海軍軍縮条約で先送りされていた補助艦(巡洋艦駆逐艦、潜水艦)の保有量を制限することが決められ、米・英・日の補助艦の保有率は、全体で10:10:7とすることが取り決められました。

 ところが、かねてから対米7割の保有量を主張していた海軍部内では、政府が海軍軍令部の反対を抑えてこの条約に調印したため、海軍の強硬派は、これを統帥権干犯問題として激しく非難し、軍縮条約反対の声を上げました。その他にも立憲政友会の強硬派や国家主義者体も、浜口内閣の協調外交・軍縮政策に不満をいだき、これに同調するようになりました。

 浜口内閣はこうした反対論を押し切って天皇による条約の批准を実現したが、これがもとで浜口首相は1930(昭和5)年11月、国家主義団体の青年によって東京駅で狙撃されて重傷を負い、1931(昭和6)年4月に浜口内閣は総辞職しました。浜口は同年8月に亡くなりました。

 こうした軍縮条約の調印によって巻き起こった統帥権干犯問題は、やがて強硬派のテロを引き起こし、日本はファシズムの道へと進んでいくのでした・・・・。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

昭和史 上                   中村隆英=著   東洋経済新報社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著   旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著    山川出版社

日本史論述問題集                宇津木大平 他=著 山川出版社