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【土一揆】なぜ農民たちは一揆を起こしたのか

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【土一揆】なぜ農民たちは一揆を起こしたのか」というテーマでお伝えしたいと思います。

一揆という言葉の原意は、一致団結するということでした。やがてそれが武力で権力に抵抗し、自分達の要求を受諾させるという意味に転化したのです。当時、一揆とは庶民が支配者層に対抗する、ほとんど唯一にして強力な手段でした。

一言で一揆と言っても、その性格によって次の4つに分けられます。

土一揆・・・惣村の農民(土民)が結束して徳政(借金の帳消し)などを求めて抵抗すること。

一向一揆・・・・・一向宗門徒が挙兵すること。

国人一揆・・・・国人(有力な土着武士)が守護大名から一国の支配権を奪取しようとすること。

百姓一揆・・・・江戸時代に農民が年貢の減免などを幕府や藩に要求して隆起すること。

 

 土一揆(つちいっき)とは、室町時代にたびたび起きた農民たちの蜂起のことをいいます。「どいっき」ともいいます。当時、農民を中心とした民衆は、土民と蔑称されたことからそう呼ばれました。

 1428年、5代将軍足利義教が将軍になって間もなく、京都を中心とした広い地域で、農民や馬借(運送業者)、地侍(名主などの有力農民層)らが一揆を結び、幕府などに借金の帳消しを求めて実力行動に出ました。

これが日本で初めて発生した大規模な土一揆でした。

この年、天候不順のため作物は不作で、奇妙な疫病も流行し、人々は畑仕事が出来ず、貧困となってしまいました。

さらに、この頃は貨幣経済が農村にまで浸透したことで、多くの農民が土地を担保に高利貸(酒屋・土倉)から借金をしていましたが、このような状況下にあって高利貸らは、非情にも金を返せない農民たちから土地を取り上げました。

こうして生きるすべを失った農民たちは、ついに徳政を掲げて隆起したのです。

義教が将軍となった年には、天皇称光天皇から後花園天皇にかわりました。政治を行う人が代がわりするときには、貸し借りの関係を取り消すことが出来る徳政が行われるべきだと人々は考えていたのです。

 

まず、近江国の坂本(滋賀県大津市)の馬借が徳政をもとめて立ち上がり、それが引き金となって京都近郊の農民らが一揆を起こしました。

人々は幕府から徳政令を出される前に、「徳政だ」といって高利貸し業者の土倉・酒屋などに押しかけ、屋敷はことごとく破壊され、借金の証文は破り捨てられ、借金のために預けたもの(質という)は倉から奪い返したりしました。

こうしてはじまった一揆は、たちどころに膨れ上がり、京都・奈良へ波及していきました。

これに対し幕府は、徳政令を出さず、守護大名に鎮圧を命じました。

しかし、一揆勢は鎮圧されるどころか、毅然と守護大名に立ち向かってきました。

衰えをみせる気配がなかったため、奈良では荘園領主興福寺が「借りた分の3分の1を返してくれれば、質は戻します」という内容の徳政令を出す事態にまで追い詰められました。

播磨国兵庫県南部)でも徳政を求める動きがあり、翌1429年、守護はこれを力ずくで抑え込もうとし軍勢を送りこんだものの、農民たちの勢いが強すぎて、逆に守護方が国外に追放される結果となりました。

 

結局、幕府は徳政令を出さず、所寺院の所領や荘園が、領内における徳政を認めたことで、ようやく一揆は沈静化しました。

こうした一連の一揆を、正長の土一揆といいます。

 

奈良の興福寺の尋尊は、のちにその一揆を以下のように振り返りました。

「天下の土民(農民)がこのように公権力に反抗するのは、日本はじまって以来のことである。」

正長の土一揆は、初めて農民たちが武力によって支配者層にその要求を呑ませた大規模なクーデターだったのです。

 

その後、土一揆は再び発生してしまいます。

1441年、室町幕府5代将軍・足利義教が家臣の赤松満祐によって暗殺される事件が起こりました(嘉吉の変)。

将軍も義勝が7代将軍に就任し、土一揆が再燃したのは、

一揆が起きたのは、事件が約1カ月後のことでした。山名宗全率いる幕府の軍勢が赤松氏の討伐に向かったことで、京都の防備が手薄になると、京都とその周辺でまたしても大規模な土一揆が発生し、徳政が要求されました。

これは1428年に起きた正長の土一揆をはるかに上回る「土民数万」といわれる非常に大規模なもので、周辺の村々から農民たちが京都に押し寄せ、主要な寺は占拠されました。これを嘉吉の土一揆徳政一揆)といいます。

こうした事態に幕府はついに農民たちの要求を呑み、全国に土地の取り戻しや借金の帳消しなどを認める徳政令を発布しました。

こうして土一揆は沈静化しましたが、徳政令が公式に発布されたことで、土倉・酒屋などの金融業者は大きな痛手を負いました。

それとともに幕府も大変な損害を被りました。幕府はこれまで土倉や酒屋に税金を納めてもらっていましたが、その税が支払われなくなったからです。

幕府は、何としても税を確保しようと、土倉や酒屋に多額の税をかけるも、彼らにそのような支払い能力はありませんでした。

そこで幕府は、様々な対策を考えました。

まず、借り手が借金の一定割合を幕府に納めてくれれば、徳政が認められること。

また、逆に土倉や酒屋が貸金の一定割合を幕府に納めれば、徳政は行わなくてもよいとする法令も出すなどして、幕府はあの手この手で財源を確保しようとしました。

 

しかし、今回のような土一揆は、その後もたびたび起こるようになり、幕府は一揆が起こるたびに徳政令を出すようになりました。

 

現在の奈良市柳生の地に、巨石に刻まれた地蔵尊があり、その脇に「正長元年(1428)より先は神戸四ヵ郷(柳生周辺)に一切の負い目(借金)あるべからず」という文字が刻印されています。

それは、正長の土一揆のさい、農民たちが領主から徳政を勝ち取ったのを記念してつくった石碑だと伝えられています。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

【室町仏教】鎌倉6仏教はその後どうなったのか

こんにちは。 本宮 貴大です。

今回は「【室町仏教】鎌倉6仏教はその後どうなったのか」というテーマでお伝えしたいと思います。

 

鎌倉時代に成立した新仏教には以下の6つがありました。 それぞれ少しだけ解説します。

・浄土宗(念仏を重視)・・・法然を開祖とし、「南無阿弥陀仏」という念仏を口で唱えることで極楽往生が約束されるという専修念仏を説きました。 主な支持層は、京都近辺の公家や女官、都市住民などでした。

浄土真宗(念仏を重視)・・・法然の弟子だった親鸞は、法然の教えをさらに深め、自分の無力さを自覚している悪人こそが極楽往生できるという悪人正気説を唱えて浄土真宗として広めていきました。 主な支持層は、関東・東海・北陸・近畿の農民たちでした。

臨済宗坐禅を重視)・・・宋に渡った栄西が日本に持ち帰った禅宗の一派で、その教えは、坐禅を組み、師匠の与える公案を解決することで悟りの境地に至ることが出来るというものでした。 主な支持層は鎌倉幕府や全国の上級武士たちでした。

曹洞宗坐禅を重視)・・・栄西の弟子でもあった道元も、宋へ渡った後に曹洞宗を日本に持ち帰りました。 その教えは、ひたすら坐禅を組むことによってのみ悟りを開くことが出来るというもので、只管打坐という厳しい修行方法を貫きました。 主な支持層は、地方の中級・下級武士たちでした。

日蓮宗法華経を重視)・・・開祖である日蓮法華経の教えこそが唯一の救いの道であると唱え、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることで国も人も救われるのだと説きました。 主な支持層は、都市の中級武士や商工業者でした。

時宗(念仏を重視)・・・浄土宗の一派で、一遍を開祖とします。 一遍は諸国を遊行し、念仏札を配り、踊念仏などを行ってその教えを広げていきました。 主な支持層は、全国の農民や武士たちでした。

 これらの新仏教は、旧仏教との勢力の強かった鎌倉時代においては、まだ旧仏教をしのぐほどの勢力とはなりませんでした。

 しかし、南北朝の内乱を経て、室町時代に入ると、その保護者であった朝廷や公家が没落し、荘園制も崩壊して寺院がその経済的基盤を失ったために、旧仏教は次第に勢力を失っていきました。

それに代わって、新仏教の諸宗派が武士・農民・商工業者などの間に教線を広げ、その信仰を得て大規模な教団として発展していきました。 特に、禅宗一休宗純日蓮宗の日親、浄土真宗蓮如の活躍は注目されます。

 

浄土宗・・・法然の死後、鎮西派と西山派などの多くの流派に分かれていたが、南北朝時代のころから地方武士の信仰を得て、その保護を受けて教団化していきました。 朝廷・貴族・上流武士とも接触を深め、東山文化の時代には、禅宗と並んで、貴族・上流武士の間に広まっていきました。

 

浄土真宗一向宗・・・親鸞の死後、門弟たちによって京都大谷に祖廟がつくられ、娘の覚信尼が留守職となりました。 その後、親鸞の孫の覚如が第3代として門徒から独立して本願寺を創建し、教団化を図りました。いつしか浄土宗は一向に念仏に専修することから一向宗と呼ばれるようになりました。

 一方で、浄土真宗には、専修寺派や仏光寺派などの宗派が誕生し、本願寺派の信者が分離していったため、本願寺は次第に衰えていきました。

 そんな本願寺の再建を目指したのが、第8代の蓮如でした。 1471年、蓮如越前国の吉崎(福井県あわら市)に道場を立てて北陸で布教活動を始め、その信者である門徒たちは講という信心のための寄合をしきりに開きました。 蓮如は、御文というやさしい仮名遣いの手紙を各地の寺院に送り、信者の獲得と指導に努めました。 こうして一向宗本願寺派は北陸を中心に信者が急増していきました。

 やがて、越前国の隣の加賀国(石川県南部)で一向一揆が頻発したために、蓮如は京都に戻り、近郊の山科に本願寺を建て、晩年には大阪の石山にも本願寺を建立し、一向宗本願寺派の隆盛の礎を築きました。

 

臨済宗・・・臨済宗鎌倉幕府の保護を受けましたが、室町幕府もそれを引き継ぎ、臨済宗を尊重しました。足利義満の頃には禅宗寺院の寺格を表す五山・十刹の制が整備され、この五山・十刹の地位を手に入れた臨済宗の寺院は、幕府の保護を受けて組織化されていきました。また、五山派の僧侶を中心に、五山文学が隆盛しました。しかし、応仁の乱をきっかけに室町幕府の衰退とともに、臨済宗五山派は衰えていきました。

 これに対し、曹洞宗や、五山・十刹の制に入らない臨済宗でも大徳寺妙心寺などは林下と呼ばれ、地方での布教活動など自由な活動を行いました。

 曹洞宗では瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)以後、教団化がすすめられて法系が全国的に広がりました。

 臨済宗でも、大徳寺妙心寺をはじめ、各地に寺院が建立され、旧仏教や民間信仰とも妥結して、武士のみならず農民をも信者としていきました。大徳寺派一休宗純は、当時の禅宗の腐敗を厳しく批判し、禅宗の大衆化に努めました。宗純は、その交友関係も広く、能楽金春禅竹、茶人の村田珠光連歌山崎宗鑑など、多くの文化人が参禅して禅宗は、当時の文化に取り入れられていきました。

 

曹洞宗・・・曹洞宗では瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)以後、教団化がすすめられて法系が全国的に広がりました。

臨済宗でも、大徳寺妙心寺をはじめ、各地に寺院が建立され、旧仏教や民間信仰とも妥結して、武士のみならず農民をも信者としていきました。 大徳寺派一休宗純は、当時の禅宗の腐敗を厳しく批判し、禅宗の大衆化に努めました。 宗純は、その交友関係も広く、能楽金春禅竹、茶人の村田珠光連歌山崎宗鑑など、多くの文化人が参禅して禅宗は、当時の文化に取り入れられていきました。

 

日蓮宗・・・日蓮以来、浄土宗と激しく対立しながら地方武士の信仰を獲得し、その政治的援助を受けて領内の住民のすべてを信者にするという方法をとって信徒を広げていきました。日蓮宗は、鎌倉時代には東日本が中心でしたが、鎌倉時代末期に日像が出て以来、京都にも進出し、朝廷・貴族・幕府との結びつきを深めていきました。

 15世紀中ごろに出た日親は、布施を受けず、他宗の者には一切の施しを与えないという不授不施を説くなど、激しく他宗と対立しました。日親は『立正治国論』を著し、室町6代将軍・足利義教に諫言したため、幕府から処罰を受けました。しかし、日親は屈せず、京都から九州、中国地方の商工業者に布教していきました。

 やがて応仁の乱が起きると、京都の復興を担った有力商人や町衆は、日蓮宗を母体とした法華一揆を結び、一向一揆と対立しました。しかし、法華一揆延暦寺と争った1536年の天文法華の乱によって壊滅しました。

 

時宗・・・時宗はもともと、道場をつくり、教団をつくることを否定していました。 しかし、一遍の死後、流派が分かれ、それぞれが教団をつくっていきました。 その流派は大きく一向衆と時衆に分けられます。 時衆は同朋衆として将軍や大名の側近にも仕え、農民を中心に線教を広げました。 戦国時代に入ると、その信徒のほとんどが浄土真宗をはじめ、浄土宗や禅宗に吸収されていきました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。 それでは。

参考文献

一気に学び直す 日本史   【教養編】

【一向一揆】なぜ一向宗は一揆を起こせたのか【蓮如】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【一向一揆】なぜ一向宗一揆を起こせたのか【蓮如】」というテーマでお伝えしたいと思います。

 

一揆という言葉の原意は、「一致団結」ということでした。やがてそれが武力で権力に抵抗し、自分達の要求を受諾させるという意味に転化したのです。当時、一揆とは庶民が支配者層に対抗する、ほとんど唯一にして強力な手段でした。

一言で一揆と言っても、その性格によって次の4つに分けられます。

土一揆・・・惣村の農民(土民)が結束して徳政(借金の帳消し)などを求めて抵抗すること。

一向一揆・・・・・一向宗門徒が挙兵すること。

国人一揆・・・・国人(有力な土着武士)が守護大名から一国の支配権を奪取しようとすること。

百姓一揆・・・・江戸時代に農民が年貢の減免などを幕府や藩に要求して隆起すること。

今回は、この中の一向一揆について解説します。今回もストーリー形式で、なぜ一向宗一揆を起こせたのかについて見ていこうとおもいます。

 

一向宗とは、浄土真宗のことです。

浄土真宗の教えは、他の修行に気を取らたりせず、阿弥陀仏を信じてひたすら念仏を唱えることでしたが、一向に念仏を専修することが由来です。

この一向宗の信者たちが起こした一揆が、一向一揆です。一向一揆は、1467年の応仁の乱以降に頻発するようになり、時代を動かす要因の1つとなりました。

その背景にあったのが、室町時代に活躍した蓮如でした。1457年、蓮如存如を継いで本願寺第8世に就任しました。

本願寺親鸞墓所から発展した寺院ですが、当時の本願寺天台宗の青蓮院の末寺扱いとされており、経営に苦しみ、ひどく寂れていました。

(青蓮院・・・・京都市東山区にある天台宗の寺院。天台座主・行玄が1150年に創建。)

蓮如はこれを打開するために、親鸞の教えを再びさかんにしようと京都周辺で積極的に布教活動を行い、信者を組織化することで、本願寺の再建を図りました。

領主(地頭や荘官)たちの厳しい収奪行為に苦しめられた農民は、自衛組織(一揆)をつくることで、抵抗しました。さらに、応仁の乱をはじめとした戦乱が乱発すると、農民や町民は自衛意識をさらに強め、農民たちの自衛組織は、運営面を考えて自治組織へと発展していきました。

蓮如は、そうした民衆の自衛意識や連帯意識を利用しました。蓮如は庶民でも読める平易な仮名遣いの文章で教義を説く御文を各地の門徒に送って布教を促し、信者を獲得していきました。

こうしたやさしい言葉遣いで書かれた蓮如の教えに惹かれた民衆は、一向宗門徒(信者)となっていきました。

こうした信仰心によって一体感を強めた民衆は、さらに自衛組織を強め、守護大名とも渡り合えるようになっていきました。

こうした門徒たちが作った町は、寺内町といって周囲を土塁や堀で囲むという独特な構造を持っていました。いわば城塞都市です。こうして寺を中心に形成された城郭都市を寺内町といいます。

一方、蓮如の方は、比叡山延暦寺から1465年に大谷の本願寺を焼かれてしまうなどの迫害を受けていました。延暦寺は、一向宗本願寺派の急激な門徒増加に危機感を抱いたのです。

そのため、蓮如は難を避けるために加賀国との国境に近い越前国の吉崎(福井県あわら市)に拠点を移し、そこに寺(吉崎御坊)を開きました。

以後、蓮如北陸地方を中心に教団を拡大させていきます。

蓮如は北陸の村々に講とよばれる門徒の組織をつくり、要所に道場を設けて、そこを信仰の拠点としました。そして、教えをわかりやすい手紙でつづった御文を各地に送って、門徒たちを指導しました。

こうした蓮如の活動によって、北陸一帯には浄土真宗門徒が増えていきました。

そのころ、加賀国の守護である富樫家では、兄の政親と弟の幸千代が後継者争いをしていました。政親は本願寺門徒を味方につけて、弟を破りましたが、それから1年もしないうちに今度は門徒の力を恐れて一向宗本願寺派を弾圧するようになりました。

これに対して、門徒たちは、年貢の納入を拒むなどの抵抗をしました。蓮如はこうした門徒たちの動きを抑えようとしますが、抑えきれなくなり、1475年、遂に吉崎を去ります。そして1483年、蓮如は京都に戻り、郊外の山科に本願寺を再建しました。そこは、土塁や堀、石垣で周囲を堅め、境内には堂塔のほか門徒の居住エリアもあり、城郭都市の様相を呈していました。

 

一方、加賀国では、1487年、政親が9代将軍・足利義尚の要請に従って、従軍するために国を離れました。そのすきに本願寺派門徒や地元の武士達が政親の一族である富樫泰高をかつぎあげて蜂起しました。そn数は10万とも20万ともつたえられています。

この知らせを聞いた政親は急いで帰国するも、門徒の力は強大で、1488年に自害しました。これを加賀の一向一揆といいます。

以後、加賀国門徒らに支配され、幕府が税をかけようとしても、荘園領主が年貢をとろうとしても、本願寺の了解がなければ何も出来ない状態になりました。つまり、このときの加賀国は、時の権力者の力の及ばない独立国となっていたのでした。

これお以後、約100年間、加賀国一向宗本願寺派の領国となり、「百姓の持ちたる国」とまで言われ、その隆盛を極めましたが、16世紀後半に織田信長によって滅ぼされるのでした。

一方の蓮如は、晩年には大阪に石山本願寺を創建し、本願寺派の隆盛の礎を築き上げました。

 

今回は一向一揆について解説してみましたが、16世紀以降に活発化する一向一揆は、農民たちの自衛意識や連帯意識が基盤となっており、蓮如は、そうした農民たちの感情を利用して信仰心のもと、権力者たちに対抗できるくらいの組織を創り上げたのでした。

寺内町は近畿・北陸・中部地方などに多く造られました。現在でも、今井町、一身町、富田林にその名残を見ることができます。

【惣村とは?】なぜ農民たちは自治組織をつくったのか

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【惣村とは?】なぜ農民たちは自治組織をつくったのか」というテーマでお伝えしたいとおもいます。

 中世は、一般に「自力救済」の時代と言われています。それは、自分のことは自分で守るというという意味ですが、それは個人単位だけでなく、組織や地域単位でも重視されました。

 鎌倉時代末期になると、畿内周辺に農民たちの自治的村落が出現しました。これを惣村(惣)といいます。この惣村では「一致団結」というのが何より重視されます。ゆえに村では掟が定められ、違反者は厳罰に処せられました。

 今回は、そんな自治的村落(惣村)について解説していきながら、「なぜ農民たちは自自治組織をつくったのか」について見ていこうと思います。

鎌倉時代、農村では、地頭や荘官(領主)からの不当な要求や収奪に対して自衛組織を作って対抗しました。彼らは領主への年貢は村で一括して納入する地下請(百姓請)を行いました。もし領主が過分に税を強要したり、不正に農民から搾取しようとした場合、一致団結して抵抗しました。

 鎌倉時代は、農業技術の進歩により、荘園では生産性が高まった時代でした。生産力が高まったことで農民の暮らしが良くなると、名主から土地を借りて耕作していた農民たちが、自ら新田を開き、小作農から自作農へと成長していく者も現れました。

 こうしたことから、農民の暮らしは徐々に向上していき、荘園で暮らす農民たちは、収穫をあげる努力を続け、とれたものを出来るだけ多く手元に残そうとしました。

 これに対して、荘園を支配・管理していた地頭や荘官などの武士は、様々な名目をつけて農民たちに臨時の税をかけたり、労働にかりたてて直営地の耕作などに当たらせようとしました。農民たちは、自分たちは下人や所従ではないので、従者のように使われてはたまらないと抵抗しましたが、年貢や公事が滞れば、罰金を取られ、罰金を払えずに下人に身を落とす人もいました。

 こうした地頭や荘官の厳しい圧迫に対して、農民たちはだまっていたわけではありません。荘園領主に地頭・荘官の乱暴や非法を訴えたり、年貢を減らすように要求したりしました。こうした要求をするときには、荘園領主に文書を差し出して訴えました。これを百姓申状といいます。その際、農民たちは神社などに集まって共同して行動することを誓い、約束したことを破らないと神仏に誓う文書(起請文)をつくりました。

 そして、訴えが認められない場合には、農民たちは一致団結して抵抗し、要求を認めさせようとしました。その方法は、主に以下の3つです。

「強訴」・・・村人全員で要求を掲げて、地頭や荘官のもとに押しかける。

「逃散」・・・農民たちが集団で田畑を耕すのをやめ、荘園の外に逃げ出すこと。

土一揆」・・・刀や弓などを持ち出し、武力によって抵抗すること。

 こうして団結を強めた農民たちは、村ごとにまとまり、鎌倉時代の後期になると、地下請(百姓請)といって、荘園領主と契約して自分たちで年貢の徴収や納入を請け負うようになりました。 

南北朝時代になり、戦乱が多発すると、農民の自衛組織は、運営面から自治組織(惣村)へと発展していきました。惣村では、寄合という村民による会議を重視し、惣掟という規則を自分達で決めました。乙名・沙汰人などと呼ばれる指導者を中心に、地域の神社などの祭礼を主催した宮座などを核に団結しました。

 農村内で自作農が増えてくると、これまで名主(古くからの有力な農民)にしたがっていた中小の農民たちも、権利を主張するようになり、荘園内の様々な問題を、名主だけの考えで決めることが出来なくなりました。

すると、惣村内での様々な取り決めが必要になりました。

山野の共同利用はどうするか、

かんがい用水路の建設・管理をどのように進めるか、

祭りなどの行事をどのようにしておこなうか、

盗みなどの秩序をみだす行為をどう防ぐか、

荘園領主や守護などがかけてくる年貢や夫役にどう対応するか、

周辺の村と境界をめぐって揉めたときはどうするか、

 などについて、名主ばかりではなく、中小の農民もふくめてみなが神社などに集まって相談して決めるようになりました。

 こうして鎌倉後期から名主・農民たちが村や地域ごとにまとまった、惣村とよばれる自治組織が畿内を中心に生まれました。

 惣村内部では、名主を含めた構成員(村人達)は、惣百姓とよばれ、農業の共同作業や、戦乱に対する自衛を通じて結束しました。惣百姓は山や野原などの共同利用地である入会地を確保し、灌漑用水などを共同で管理しました。年貢も惣村がひとまとめに請け負う地下請、もしくは百姓請が広まっていきました。

 また、惣村は、番頭・沙汰人・乙名(おとな)と称するリーダー(地侍や名主層)によって構成される宮座とよばれる祭祀集団が中心となって運営されました。村の重要な決定事項には、合議機関として寄合(集会)が開かれ、ここで最終決定がなされました。なお、寄合は全員参加が原則でした。

 また、戦乱や犯罪から村人の命や財産を守ことも、惣村運営における重要な要素でした。惣村では、団結を守るために村内の掟である惣掟を定め、掟を破ったり、犯罪をおかしたりした者を厳しく処罰しました。

たとえば、1504年2月14日の深夜、村共有のワラビ粉を盗んだ母子(母1人、子供2人)が村人たちに捕らえられ、処刑されました。この話を聞いた領主の九条政基は、「なにも殺すことはないだろう」と日記に書きつけているが、たかがワラビ粉であっても、村落の秩序と結束を乱した母子の罪は、村人たちにとっては許し難い裏切りだったのです。それほど惣村の結束には固いものがありました。

 村内では、村全体の秩序を保つために村民同士が互いに警察権を行使し、違反者・犯罪者以外にも、浮浪者やよそ者を取り締まりました。これを地下検断といいます。

他にも惣掟には、生活に密着したものが多く定められていました。

「よそ者は身元保証人がいなければ、村に住まわせてはいけない」、

「入会地の木枝をとった者は罰金100文に処する」、

「拾ったと偽って畑の作物を盗んではいけない」

などがありました。

また、戦争の余波で村に兵士が乱入した際には、武力で兵士を追い払うこともしばしばだったそうです。

 

では、最後に惣村が発達した事例を紹介して終わりにしたいと思います。

惣村として、よく知られているのは、琵琶湖の北岸にあった菅浦(滋賀県長浜市)です。菅浦の住民は13世紀から15世紀にかけて、となりあった大浦の住民と境界をめぐって激しく争い、それぞれの村は団結を強めていました。菅浦の人々によって結成された惣は、15世紀から16世紀にかけて次第に組織を整え、乙名(おとな)とよばれる年長の指導層が、若衆とよばれる者たちを率いて惣の運営に携わりました。住民たちは警察や裁判に関する権限まで自分たちの手に握り、自治を行いました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

聴くだけ  日本史  古代~近世    東京大学受験日本史研究会

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

早わかり 日本史   河合敦=著    日本実業出版社

【どう違う?】鎌倉時代と室町時代の経済情勢

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【どう違う?】鎌倉時代室町時代の経済情勢」というお話です。

鎌倉時代 室町時代
農業 二毛作 三毛作
商業 三斎市 六斎市
金融業 借上 土倉・酒屋
運送業 問丸 馬借・車借

 農業では、鎌倉時代二毛作なのに対し、室町時代には三毛作が始まります。商業では、鎌倉時代の月に三度開かれる三斎市が、室町時代には月に六度開かれる六斎市へと発展します。回数が増えているということは、その業界が発展しているということです。なので、覚えやすいと思いますが、金融業や運送業などは名前の違いに注意が必要です。

 まず、中世の経済の大前提として貨幣経済が都市部のみならず、農村にまで浸透していったという点が挙げられます。また、中世日本は輸入銭の時代であり、宋銭や元銭、そして明銭(後出)が大量にされ、商業や金融を発展させました。

 鎌倉時代、各地の荘園では、荒れ地や湿地などの開発がさかんに進められました。用水路や貯水路などの灌漑施設がつくられ、先進地域では川から田に水をくみ上げる揚水車も現れはじめ、全国の田の面積は広がりました。
 そして、蒙古襲来前後の13世紀後半から、農業では、米の単作に加えて、裏作に麦をつくる二毛作が都を中心に近畿地方で始まりました。二毛作を始めると裏作の麦に養分をとられるので、肥料を十分に施さなければ稲の収穫量は落ちます。そのため、肥料として刈敷や草木灰、家畜のフンなどが利用されました。さらに出来るだけ肥料を地中に蓄えておけるように田畑を深く耕すことも大切でした。この時代には、すき・くわなどの鉄製の農具が広く行きわたるようになり、牛や馬に唐耒(からすき)や馬ぐわを引かせて、より深く耕せるようになりました。
 また、貨幣経済の浸透により、商品作物が作られるようになり、農民たちは副業として灯油の原料である荏胡麻も栽培するようになりました。他にも麻布などの織物や、鍛冶、鋳物師、紺屋などの各種手工業者も、農村から誕生しました。

 商業・流通では、月に三度開かれる三斎市がひろがりました。また、日宋貿易以来、宋から輸入された宋銭(銭)が貨幣経済を急速に発展させました。貨幣経済が浸透したことによって、今でいう銀行のような仕事をする借上(金融業者)が現れました。
流通面では、東回り航路と西回り航路が開通したことで、船を使って海から物資を運ぶ問丸が現れました。
こうした貨幣経済の発展と遠隔地取引が実現したことにより、為替も発達しとことも鎌倉時代の特徴です。

 15世紀を中心とする室町時代の農業では、近畿地方で米・麦に加えてさらに蕎麦を栽培する三毛作が行われ、鎌倉時代には近畿周辺のみだった二毛作が全国的に行われるようになりました。肥料には刈敷や草木灰、家畜のフンなどに加え、即効性のある下肥(人糞尿)なども用いられるになりました。
 また、農作物では野菜などの種類が増え、大消費地を抱える京都の近郊を中心に栽培がさかんになりました。こうして都市部から出た人糞を近郊の農村へ供給し、生産された農作物を都市へと運ぶという循環型社会が確立しました。
 水稲の品種改良もすすみ、早稲、中稲、晩稲の作付けも普及しました。中国大陸からは災害に強く、収穫量も多い大唐米が伝えられ、西国一帯に広まりました。
 また、蚕を育てるための桑、紙の原料となる楮、塗料に使う漆、染料に使う藍草などの商品作物の栽培もさかんに栽培されました。これも貨幣経済が発展していた証拠です。室町時代になると、土民が一揆などを起こしますが、その背景には、やはり大きな経済発展がありました。その成長ぶりは特に応仁の乱以降に目覚ましく発展していきます。

 商業では月に6度開かれる六斎市が地方でも開かれるようになります。都市部に至っては毎日物を売る見世棚という常設の小売店も登場します。連雀商人や振売のような行商人が現れ、桂女、大原女など、女性の行商人も存在しました。商人や手工業者は座と呼ばれる同業者組合を形成し、独占的な営業を実現しようとしました。
金融業者では、土民たちがしばしば徳政を要求する矛先となった土倉や酒屋とよばれる業者がさかんに活動しました。酒屋とよばれていますが、お酒を売る店ではありません。

 流通では、馬借に加えて車借も登場し、より活発な物流が実現していきました。
 これらの商業の発達の前提となったのは、鎌倉時代同様、やはり銭の大量輸入でした。とくに永楽通宝が安定した通貨として明から輸入されました。しかし、こうした経済発展に伴い貨幣の流通量が不足したので、日本で作った粗悪な私鋳銭も現れました。結果、様々な種類の銭が混在したため、取引の際に良い銭だけを選ぶ撰銭が行われるようになり、これでは商取引がスムーズにいかないので、幕府や、後の戦国大名も、撰銭を抑制し、通貨の交換を促す撰銭令を出しています。

つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
教科書よりやさしい日本史   石川晶康=著    旺文社
聴くだけ 日本史  古代~近世   東京大学受験日本史研究会 Gakken

 

【どう違う?】守護大名と戦国大名

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回は「【どう違う?】守護大名戦国大名」というテーマでお伝えしたいと思います。

守護大名 戦国大名
室町幕府公認の大名 幕府に任免権はない
由緒正しき大名 成り上がりの大名
大大名に多い 小大名に多い
徴税を朝廷に納める 徴税は全て自分たちで使う
任地の領有権を持たない 任地の領有権を持つ

室町幕府が任命した正式な大名が「守護大名」です。対する戦国大名とは正規の大名である守護大名を勝手に追い払うなどして土地を乗っ取り、成り上がった領主を戦国大名といいます。
例えば室町前期における越前国福井県)の守護大名は斯波(しば)氏でした。しかし、やがて現地の有力者であり守護代に任じられていた朝倉氏が、斯波氏を追い出して土地を乗っ取ってしまいました。なので、朝倉氏は戦国大名です。

室町時代は大大名が多くいました。大大名とは、より多くの領地を持つ大名のことで、斯波氏も大大名の1つでした。斯波氏が治めていた領国は越前国のほか、尾張国も領土でした。ただでさえ広大な領土を治めるのは大変なことなのに、守護大名は、将軍のいる京を離れることができませんでした。
江戸時代の大名屋敷は江戸にありましたが、室町時代の大名屋敷は京にありました。つまり室町時代は、京に朝廷も将軍御所も、大大名の屋敷もあったわけです。
政治闘争などもあり、守護大名は京を離れることができません。そこで領地のことは、地元の豪族を守護代に任命して実務を任せていたのです。その守護代が、越前国の場合、朝倉氏であり、尾張の国では織田氏だったのです。

織田氏も朝倉氏と同じように斯波氏を追い払って尾張の国を乗っ取ります。ちなみに、のちに織田信長朝倉義景は対立しますが、もとを質せば双方とも斯波氏の守護代出身だったのです。正確にいえば、織田信長の家は、守護代織田家の家老の家です。ですから、同じ守護代出身と言いましたが、実は信長の家は朝倉氏よりも一段格下、守護大名と比べると二段くらい下のところから成り上がったといえます。
こうして下の身分の者が上の人を追い払い、権力を奪うことを「下剋上」といいます。

戦国時代の大名は、基本的には「由緒正しき守護大名」と「成り上がりの戦国大名」の2つに大別されるのですが、現実はもう少し複雑です。
なぜなら成り上がった戦国大名室町幕府に取り入り、正式な大名、つまり「守護」に任命してもらうケースや、もともと守護大名なのに他国を乗っ取り戦国大名としてのカラーを強くしていった大名もいたからです。その典型が武田信玄今川義元です。
武田家は甲斐の国、今川家は駿河の国を任された、れっきとした守護大名でした。彼らは世の中に下剋上の風潮が広がる中、自国を乗っ取られないために、そしてあわよくばこの機に自国を拡大しようと軍事的強化やそれを可能にする経済力の強化を計り、戦国大名と化していきました。
戦国大名となり、軍事的強化を計った今川義元は領土拡大のために尾張織田家へと侵攻し、信長との死闘を繰り広げるのでした。

参考文献
学校では教えてくれない戦国の授業 井沢元彦=著 PHP

【五山制度とは】なぜ大徳寺は五山制度を抜けたのか【臨済宗】

こんにちは。本宮 貴大です。
今回は「【五山制度とは】なぜ大徳寺は五山制度を抜けたのか【臨済宗】」というテーマでお伝えしたいと思います。

今回は、五山制度とは何かについて見ていきながら、なぜ大徳寺は、五山制度を脱退したのか、について解説していきたいと思います。

室町幕府鎌倉幕府と同じく、臨済宗を尊重しました。臨済宗の寺院は、幕府の保護を受けて、五山・十殺の制によって組織化されました。五山十刹の制とは、中国にならった臨済宗の寺院の格のことで、京都の南禅寺を最上位に、京都五山鎌倉五山が定められました。

鎌倉時代に日本に伝えられた禅宗は、室町時代には幕府の保護を受け、宗教にとどまらず、広く社会や文化、くらしに影響を与えました。禅宗の文化は建築や庭園、絵画や書・文芸、茶や料理など多方面にわたり、室町文化を支える土台となりました。この禅宗の文化の中心となったのは、五山派とよばれた臨済宗の大寺院とそこで活躍した僧たちでした。
五山とは、禅宗寺院の寺格(寺の格式)や順位を定めた制度で、中国の南宋時代にはじまったものです。五山に次ぐ寺格とされる10の寺院(十刹)を合わせて五山十刹の制といいます。
日本では、鎌倉幕府が最初に五山十刹の制をとり入れました。鎌倉幕府は、1310年頃に浄智寺建長寺円覚寺寿福寺鎌倉五山として認定し、その後、京都の南禅寺建仁寺東福寺も含まれるようになりました。

しかし、この制度が広く認知され始めるのは室町時代になってからのことで、後醍醐天皇は1334(建武元)年に京都を中心として南禅寺大徳寺東福寺建仁寺建長寺円覚寺を五山として定めました。特に大徳寺は、京都でも有数の禅宗寺院であり、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が14世紀前半に紫野に小堂を建てたことに始まるとされています。宗峰妙超は、花園天皇の帰依を受けた臨済宗の僧侶で、大徳寺は1325年には花園天皇の祈願所となりました。
そんな天皇家と関係の深い大徳寺後醍醐天皇も重視し、建武元年の定めでは、南禅寺とともに五山の筆頭寺院としました。

しかし、これが裏目に出る結果となりました。
足利尊氏室町幕府を開くと、敵対勢力(南朝勢力)となった後醍醐天皇に親しいという理由から大徳寺は五山から外される結果となりました。
尊氏は、1342年に鎌倉(武家派)と京都(公家派)の対立緩和のために、下記のように鎌倉と京都のそれぞれに五山寺院を定めました。

鎌倉 京都
一位 建長寺 南禅寺
二位 円覚寺 天龍寺
三位 寿福寺
四位 建仁寺
五位 東福寺
準五位 浄智寺

その後、足利義満は1386年に鎌倉(武家派)と京都(公家派)が対等となるために下記のように鎌倉五山京都五山を改めました。なお、京都の南禅寺は最上位として五山之上に置かれました。

鎌倉 京都
五山之上 南禅寺
一位 建長寺 南禅寺
二位 円覚寺 天龍寺
三位 寿福寺 建仁寺
四位 浄智寺 東福寺
五位 浄妙寺 万寿寺

その後、大徳寺は、足利義満の時代に五山制度に復帰するも十方住持(住職を広く募集する)を求められたため、それを受け入れることが出来ず、五山制度を抜けました。禅宗では五山制度に入らない曹洞宗や、臨済宗でも妙心寺大徳寺などは林下寺院と呼ばれ、幕府の保護を受けた五山寺院に対し、より自由な活動で民間布教につとめました。

一方、経営難に陥った大徳寺は、1386年に足利義満が定めた五山十刹の第九位という屈辱的な地位で五山制度に復帰しました。しかし、そんな大徳寺に、十方住持(じっぽうじゅうじ)が求められました。
十方住持とは、住職となる僧をその寺の出身者に限らず、広く募集するということです。しかし、宗峰妙超の法燈を大事にしてきた大徳寺にとって、そうした住職を公募するようなことは大変受け入れ難いものでした。したがって、大徳寺は、今度は自ら五山制度を脱退しました。

五山制度に入らない寺院のことを林下と呼びます。林下寺院は、幕府の援助が受けられないため、経営に苦しみましたが、より自由な活動で民間布教につとめる禅宗の一派として五山派に対抗しました。
戦国時代に入ると、林家寺院に帰依した在地領主の勢力が下剋上によって伸びるとそれとともに発展しました。
林下寺院として大徳寺は、1467年に応仁の乱で大きな被害を受けるも、一休宗純の尽力によって再興されました。その復興を、京都や堺(大阪府堺市)などの商人たちが支えました。その後、戦国時代には、千利休ら茶人が参禅し、江戸時代には幕府の統制のもと発展していきました。

では、最後に五山寺院と林下寺院のそれぞれで活躍した僧たちを軽くご紹介してから終わりにしたいともいます。
まず、五山寺院の僧たちですが、足利尊氏の保護を受けて京都の天龍寺を建てた無窓疎石とその弟子たちが挙げられます。
無窓疎石は、足利尊氏の保護を受けた僧侶で、禅宗室町幕府がつながるきっかけとなりました。尊氏は疎石の勧めで後醍醐天皇の菩薩を弔うために天龍寺を建立し、その造営費を得るために天龍寺院船という貿易船を元(中国)に派遣しています。
また、無窓疎石の甥の春屋妙葩は、足利義満の外交顧問(相談役)となって外交政策に乗り出しました。明(中国)や朝鮮などと外交していくためには、外交文書の政策などがあり、漢文や漢詩の知識を持つ禅僧の助けが必要だったのです。
無窓疎石の弟子の義堂周信(ぎどうしゅうしん)、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)らは、すぐれた漢詩をつくりました。このような五山の僧らの漢詩文学を五山文学といいます。

林下寺院では、大徳寺の住職となった一休宗純が挙げられます。一休は、名声をのぞむことなく各地を歩いて庶民と親しく接し、五山派の僧が権力に取り入り、堕落していると手厳しく批判しました。また、その風変わりな恰好や行動が、人々を驚かせ、茶人の村田珠光や能役者の金春禅竹連歌師の宗長などに影響をあたえました。
こうした彼の社会風刺や批判精神に満ちた生き様が庶民に受け、江戸時代以降、一休をモデルとした頓知エピソードが創作されるようになったそうです。

つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
図解 眠れなくなるほど面白い 仏教  渋谷のぶひろ=著 日本文芸社
日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社