日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【無意味だった!?】なぜ日本はシベリア出兵に参加したのか【寺内正毅】

 こんにちは。本宮貴大です。この度は、記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【無意味だった!?】なぜ日本はシベリア出兵に参加したのか【寺内正毅】」というお話です。 

 シベリア出兵は無意味な出兵だったと言われています。

 「アメリカと組んだことで強気になった日本がロシアに干渉してしまった愚かな出兵」、または、「シベリア侵略の野望にかられた愚かな出兵」などと、何の意味もないムダな戦争と自虐されています。3千人余りに犠牲を出して、結局は撤兵します。

今回は、なぜ日本はシベリア出兵に参加したのかについてみていきたいと思います。

ロシア革命による社会主義国家の誕生は日本にとっても大きな脅威でした。日本国内でも資本主義社会に対する不満から労働運動が高まり、大逆事件以来息をひそめていた社会主義者復権しました。ロシア革命が波紋を呼び、日本の社会主義化・共産化を恐れた寺内内閣はシベリアへ軍隊を派遣。反革命軍を支援しました。

 

 19世紀末、ロシアでも近代工業が本格化し、労働者階級が急増しました。資本家と労働者による資本主義社会がロシアにも到来したのです。

 ところが、20世紀に入り、1905年に、日露戦争による食料難が深刻さを増す中、民衆が暴動を起こしました。(第一次ロシア革命

 そして1914年(大正4)年に第一次世界大戦が勃発。再びロシア国内で暴動がおこるようになりました。

 人類史上類を見ないこの大戦争は、予想以上に長引きます。これによってロシア国内は食糧難など経済的に深刻化していきました。

 

 そんな中、ロシア国内では資本主義社会に対する不満が強まっていきました。

 資本主義社会は一言でいうと競争社会なのです。いかに大きな市場を見つけるか、その巨大な市場からいかに多くの利潤を得るか、これが全てなのです。

 これによって、19世紀中頃から、欧米列強は自国の商品を売りつける巨大な市場を求めて、世界中の植民地をはかりました。帝国主義の時代です。

 各国は、より多くの植民地を拡大するために競争してきました。

 しかし、この競争が第一次世界大戦に発展してしまったのです。

 ロシアでは、ボリシャビキと呼ばれる急進的な社会主義者たちが勢力を拡大。彼らの指導者となったレーニンは労働者のための社会である共産主義社会主義の国を建設しようとしました。

「人類史上類を見ないこの大戦争は資本主義社会が生んだものだ。我々はイギリスやフランスのような資本家に都合の良い社会を目指すのではなく、労働者の国、すなわち、共産主義の理想国家を創るのだ。」

 レーニンは即時休戦と食料問題の解消、そして地主から没収した土地の再分配という3つの政策を「平和とパンと土地」というわかりやすいスローガンを掲げ、兵士、農民、そして工場労働者から熱烈な支持を獲得しました。

 

 第一次世界大戦勃発時、連合国で唯一の非民主的国家であったロシアが1917年の二月革命によって民主主義的国家となったとき、イギリスやフランスなどの連合国は最初のうち、これを歓迎する姿勢でいました。

 ところが、レーニンという革命家による十月革命で民主主義が倒され、共産主義体制が確立されるようになると、資本主義を完全否定する社会主義共産主義の政治思想を自国の体制を脅かす危険思想とみなしたイギリスとフランスは一転してロシアの革命政府を敵視するようになりました。

 

 実はこのレーニンを後押ししていたのは、実はロシアと敵対国にあったドイツでした。ドイツがロシアとの講和を狙ってレーニンを後押しし、戦局を打破しようとしたのです。第一次世界大戦は1917年のアメリカの連合国側への参戦によって、それまで形勢が逆転。ドイツは敗北の危機に直面していました。

 レーニンのような「反戦」を唱える社会主義者に武力革命を行わせ、ロシアとの間に講和条約を結びたかったのです。

 

 1917年の十月革命でロシア国内の主導権を握るようになったレーニンは翌1918年3月、ドイツとブレスト・リトフスク条約を結び、正式に停戦協定を結びました。ロシアは第一次世界大戦から戦線離脱したのです。

 ドイツの狙いは大成功。

 これによってドイツは東部戦線(ロシア)にまわしてした戦力をイギリスやフランスなどの西部戦線(イギリス・フランス)に集中させることが出来ました。

 

 ロシアと連合国軍として戦っていたイギリスやフランスは困惑し、ドイツ軍は3月21日、西部戦線に大攻勢をかけ、英仏両国は撤退を余儀なくされてしまいます。

 イギリスとフランスはロシアを「裏切り者」として敵視するようになります。

  連合国軍はロシアに宣戦布告しました。

ボリシェビキ政権はロシアの正式な政府とは認めない。」

 連合国軍はロシアのシベリア地方に軍を送り込んでドイツを撹乱し、再び二正面に追い込もうとしました。たまたまシベリアではロシアの捕虜となった後、反乱を起こしたチェコ軍がロシア軍と戦っています。そのチェコ軍の救出が表向きの理由にイギリスとフランスの連合国は軍隊を派遣したいと考えます。

 しかし、イギリスやフランスには戦力をさく余裕はありません。

 そこでイギリスは同盟国であるアメリカと日本にシベリアへの出兵を要請してきました。

 

日本に対しては「シベリア鉄道の占領を認める」というほうびまでちらつかせてきました。

これに対し、時の寺内正毅内閣は慎重でした。

ヨーロッパの戦争には深入りしないというのが日本の大方針であったし、日本単独で出兵しても、目的は達成できないと考えたのだ。特に元老・山県は強く反発しました。

 

ところが、1918年の7月になると、アメリカがシベリアに出兵を決めました。

これを機に日本もシベリア出兵やむなしの気運が高まりました。

この頃、日本国内でも労働者が低賃金・長時間労働など資本主義社会への不満を持った労働者が各地で労働運動を展開していました。そして大逆事件以来、息をひそめていた社会主義者復権するようになりました。

「ロシアの共産主義者による革命は、我が国にとっても脅威だ。革命の波紋が日本にもやってくるであろう。革命に干渉し、シベリア親日領土を作るのだ。そこを日本との緩衝地帯とするのだ。」

これは寺内首相だけでなく、政友会総裁である原敬など多くの政治家が社会主義共産主義思想を、国家体制を脅かす危険思想として恐れていたのです。

こうして8月、日本もシベリア出兵に応じることを決定しました。

 

しかし、いきなり軍隊を派遣すると「侵略」になってしまい、ロシアだけでなく国内からも非難が殺到することが予想されました。なので、「正当な政権を失って弱体化したロシアの反革命軍(白軍)を支援するため」、「シベリアで反乱を起こしたチェコスロバキア軍(同盟国軍)を救出するため」という大義名分を掲げたうえで出兵が開始されました。

明治時代の日露戦争前の「戦争始めろブーム」は大正時代になると一気になくなり、むしろ平和で豊かな生活を人々が望むようになっていたのです。

 

万が一、ロシア革命が日本にも波及すれば日本の共産化や社会主義国家へと変貌してしまう危険性があったのです。

「ロシアの皇帝が退位したそうだ。レーニンという革命指導者が社会主義国家の建設を推進している。」

ロシアの共産化は日本にとって脅威でした。当時の日本国内でも労働運動が湧きあがっており、低賃金・長時間労働を強いられる労働者が待遇改善を求めて社会主義を唱えていました。これはロシア革命の影響も否定できません。

 

 

そのためにシベリアのあたりに共産革命を防ぐ緩衝地帯を作りたい。それがシベリア出兵の大きな目的でした。その難しさを痛感されたのも事実です。

当時の日本もロシアの共産化を警戒していました。

 

1918(大正7)年8月12日、日本は慌ただしく約1万2千人の日本兵日本海に面したウラジオストクに上陸しました。

 

ところが11月、第一次世界大戦が連合国軍側の勝利で終わりました。このためアメリカ軍は撤兵するが、日本軍はそのままシベリアに居残りました。兵力も7万3千に増やし、

ロシアの赤軍と戦いを続けました。

しかも、当初、シベリア出兵における連合国軍との取り決めでは、ウラジオストク周辺にしか部隊を派遣しない約束でしたが、日本側はバイガル湖から東のシベリアを日本の支配下に置こうとしたのです。日本は以前からロシアの南下政策に悩まされてきました。そんな悩みの種であった「ロシアの脅威」から解放されれたいと考えていたのです。

日本軍はシベリアの奥地や樺太(サハリン)北部、そして当時ロシアが権益を持っていた満州北部にも軍隊を送り込んでいました。

こうした日本の単独行動は、以前から日本を警戒していたアメリカからの不信を招きました。

「日本はかなり急進的な国だ。非常にやっかいな存在だ。」

さらに国内からもシベリア出兵に対する批判に声が高まりました。この頃、日本国内では米騒動が全国的に展開されており、一説には70万人以上の人々が米の輸送の妨害や精米会社を襲撃したりしていました。

内外からの圧力を受けた日本政府は、シベリア支配下に置くという現実離れした野望を諦め、1922(大正11)年に3千余りの犠牲を払い、家局撤兵することになりました。

 

このシベリア出兵はロシア人の反日感情を強めるきっかけとなりました。シベリア出兵以前は日本人は大人しくて礼儀正しい民族であるという印象がありました。日露戦争の時も、悪いのはむしろロシアであり、日本のような小国がよく頑張ったと、むしろ賞賛されていたようです。

それが、シベリア出兵後は、「日本人」は怖いというイメージに大きく変わったようです

ソ連時代の教科書には「ロシア人を大きな鍋に投げ込んで殺す日本人」といった図が載るなど反日教育がされていました。現在のロシアの対日感情はソ連時代の教育宣伝の影響です。日本はシベリアに居座り、かなり乱暴な軍事行為をとったのでしょう。このような日本軍の印象をソ連政府が強く抱いたことが第二次世界大戦の対立構造を生むきっかけにもなります。

これ以降、日本は国益という名のもと、かなり無茶な行為をしていきます。これが第二次世界大戦の悲劇を招くことになります。いよいよ日本の暗黒時代が訪れようとしていたのでした・・・。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著 産経新聞出版

5つの戦争から読みとく日本近現代史       山本雅弘=著 ダイヤモンド社

教科書よりやさしい世界史                   旺文社

昭和時代 絶対知っておきたい史実・人物     保阪正康=著 朝日新聞出版

【産業革命】日本の資本主義はどのように発達したのか

こんにちは。本宮貴大です。

このたびは、記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【産業革命】日本の資本主義はどのように発達したのか」というお話です。

 前半記事では「資本主義社会はどのようにして発展したのか」について、後半はそんな「日本資本主義の特色」について解説していきたいと思います。

江戸時代から明治時代になったことで、日本の産業革命が起きました。工場制手工業から工場制機械工業へ。封建制社会から資本主義社会へ。身分制度が撤廃され、職業選択の自由も与えられました。しかし、自由が与えられたことで、「資本家」と「労働者」という新しい身分制度が誕生しました。

 日本は江戸時代までは封建制社会でした。封建制社会とは一言でいえばピラミッド型の身分制度です。江戸時代は徳川将軍家をトップに「士農工商」の強硬な身分制度は敷かれており、将軍や大名、領民などが「支配する人」、農民や商人などの領民を「支配される人」と呼ばれていました。

 「士農工商」の身分制度のもとでは、

 武士の子として生まれたのであれば、生涯、武士としてその使命を全うしなさい

 農民の子として生まれたのであれば、生涯、農民としてその使命を全うしなさい

 これが常識です。

 農民の子が商人になりたいと思っても、その夢はかないません。職業選択の自由はないのです。

 農民は朝から草を刈り、田畑を耕し、その土地から獲れた作物を、自分では食べずに領主に納め、その残りで慎ましい生活を送ります。それが農民の生き方であり美徳なのです。

 しかし、支配者である領主は労働をせず、領民からたくさんの年貢を取り、裕福な生活をします。領民はその領地に縛られていますから、「もう農民なんかやーめた」ということは出来ません。この時代、脱藩は死罪に値します。

 このように封建制社会とは、人々の自由が制限された、不平等な社会制度なのです。

  

 そんな江戸時代に、マニュファクチュアと呼ばれる生産形態が誕生しました。

 マニュファクチュアとは農村部に工場を設け、そこに農民を労働者として集め、手作業や流れ作業などによって商品を製造する工場制手工業のことです。資本主義社会の原型が徐々に出来上がっていったのです。

 このマニュファクチュアは全国的に広がり、各藩がマニュファクチュアを積極的に推進する動きがみられました。藩自らが工場を建設したり、生産された特産品を藩の専売とし、大成功を収める藩が出てきたのです。

(専売・・その藩のみが独占的に特産品を売ること。)

 中でも雄藩としてのしあがったのは、薩摩藩長州藩です。薩摩藩は砂糖の専売、長州藩は紙やロウの専売によって藩政改革に成功したのです。

こうした商業を通じて経済力をつけた雄藩が徳川将軍家という封建社会の最高支配者を倒すことを企てました。これが幕末の革命になります。

 

 さらに、ペリー来航をきっかけに、欧米列強に産業や技術、文化において相当な遅れをとっていることを痛感し、日本は近代化を目指しますが、江戸時代からの強固な身分制度は近代化への著しい妨げになるという指摘がされました。

 お雇い外国人として来日したフルベッキは「日本も近代国家建設のために全ての国民を法のもとに自由で平等であるべきだ」と説きました。フルベッキの門下生であった大久保利通伊藤博文大隈重信など後の明治政府の中心人物となる人物がいました。

 

 明治政府発足後、日本は近代国家樹立を目指して富国強兵や文明開化をスローガンに列強諸国と肩を並べる強国となるべく邁進していきました。中でも、富国強兵の前提となる殖産興業に取り組み、西洋の資本主義社会を取り入れていきました。殖産興業とは読んで字のごとく西洋の産業をそのまま移殖し、業を興すという意味です。

 近代国家樹立のために明治政府は、江戸時代の士農工商身分制度を撤廃し、四民平等としました。それと同時に、職業選択の自由も与えられました。

 

 職業選択の自由が与えられたことで、人々は封建制社会から解放されました。しかし、人々は結果的に「資本家」と「労働者」という新しい身分制度の中に組み込まれていくのでした。

 なぜ、そうなったのでしょうか。

 自由って重いんです。20世紀のフランスの哲学者・サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言いましたが、自由は責任と表裏一体の関係にあるのです。

例えば、自分で独立開業しても良いけど、それによって生じた結果に対しても自分で責任を負わなくてはいけないのです。

 そこで、責任を負いたくないと思う人達が出てきました。

 責任を負うくらいなら自由は制限されても、誰かに支配される(雇われる)方が良いという人達です。平たくいえば、「資本主義社会の中で成功するにはどうすれば良いか」と考えることを放棄した人達です。その人達は労働者として資本家に雇われる道を選びました。

 人々は資本主義社会の中で人々は資本家になった人達と、労働者になった人達の2大階級に分かれました。

 

 こうして日本は産業革命を経験し、資本主義が急速に発展していきます。産業革命とは一言で表すと「今まで手で作っていた製品を、機械で作るようになった」ということです。労働者はそれまでの職人タイプではなく、機械を動かすオペレーターとして働くようになりました。工場制手工業(マニュファクチュア)から工場制機械工業に移行したのです。

 こうした機械技術の飛躍的な進歩によって安価な製品が短時間で大量につくることが出来るようになり、大量生産大量消費社会に転換しました。人々の生活は格段に便利なものとなっていきます。

 日本の産業革命は大きく2回訪れます。軽工業部門で起きた第一次産業革命と重工業部門で起きた第二次産業革命です。

 明治政府は日本が欧米列強の植民地に転落しないよう「富国強兵」をスローガンにしました。「富国強兵」とは「国を富ませて兵を強くする」という意味ですが、その前提となる殖産興業を政府は民間と二人三脚で力を注いでいきました。

 政府は民間へのモデルとして最新工場を各地に設けていきました。これを官営模範工場と呼びます。工場には有能な外国人を高額で招き、欧米の先進技術を知識人や技術者に習熟させたのです。

 その代表例が1872年に開業した群馬県富岡製糸場です。この工場にはフランス製の最新機械が設置され、フランスから技師も招かれました。

 その甲斐あって、1880年代後半から日清戦争終結までの間に、綿糸や製糸などの軽工業の分野で産業革命が起きました。日本は大量の綿糸や絹織物、生糸を大量に製造し、海外に輸出しました。

日本製品は品質だけでなく、価格も安い。」

 日本の製品は中国やアメリカで爆発的に売れました。

 以上が第一次産業革命で、軽工業分野は目覚ましい発展を遂げたにのに対し、重工業部門はかなり立ち遅れていました。しかし、「富国強兵」を目指す日本にとって、軍事工業の基礎となる鉄鋼の国産化は必須で、日清戦争後の軍備拡張や鉄道敷設などの鉄鋼の需要増への対応が急がれました。

 

 重工業分野が発展する第二次産業革命は日露戦争終結後におこります・・・・。

日本の産業革命は半世紀という驚異的な速さで起こりました。それはまさに革命と呼べる大変革です。こうした急速な資本主義社会の成立・発展は、江戸時代以来の日本人の思想や精神などの歴史的前提条件が可能にしたのでしょう。

 日本の資本主義の特色は欧米先進諸国が200~300年を要した過程を、せいぜい半世紀という極めて短期間で達成し、急速に発展していきました。こんな「高度成長」は世界の歴史上でも日本くらいでしょう。

 西洋の産業革命は18世紀末のイギリスが最初と言いましたが、その経済的・社会的変化は革命と呼べるほど急激な変化ではなく、産業革命という用語の使用をさける学者もいるくらいです。そういう意味では日本の資本主義経済の始まりはまさに「産業革命」と呼べるでしょう。

 もっとも、日本の資本主義の発展はすでに産業革命が終わっていた欧米諸国の経済制度や技術、知識を日本にそのまま移殖したからに他なりません。それを差し引いても、日本の急速な発展は注目に値します。

 また、産業化の推進には巨額の費用を必要としましたが、ほとんど外国資金に頼ることなく達成されたことも注目に値します。日本の産業化を支えたのは生糸です。開国以来、生糸は日本の主力製品であり、欧米を中心に爆発的に売れ、それで儲かったお金でお雇い外国人や外国製の機械設備を購入し、国内産業を成立・発展させたのです。

なぜ、日本は急速に資本主義経済を確立出来たのでしょうか。

理由は2つ考えられます。

 1つは「日本人の勤勉性」ではないでしょうか。江戸時代には徳川家康の命によって林羅山によって体系化された朱子学寺子屋教育として教え、「勤勉こそが美徳」という思想が徹底されていました。

 現在の日本にも「働かざる者、食うべからず」という言葉がありますが、日本人には「勤勉こそが美徳」が根付いており、生活の糧を得るには、何かしらの労働をすることが必要であると考えます。しかし、海外ではこの発想は中々根付いていません。

 1つ例をあげますと、東南アジアの某国で、交通料を取ろうと、通路をふさぎ、お金を巻き上げている人達がいました。彼らは役人ではなく、一般人です。このような日本ではありえないような卑怯なやり方でお金を稼ごうと考える人達がいるのです。

 

 もう1つは国民の大半が同一民族、同一言語を話し、宗教的な対立や民族紛争もない仲間意識や同胞意識があったことです。これほどの単一民族のみの国は世界では稀です。これは島国という日本の地理的な要素や鎖国という江戸時代特有の政策もあって、海外から移民が入ってこなかったことが、むしろプラスに働いた典型例でしょう。 

 

 これは戦後の日本にも言える事です。1945(昭和20)年に日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦しました。敗戦後の日本はすっかり焼け野原になり、「資源のない日本は、これからどうなるのか。」と先行き不透明な混乱期に突入しました。

 しかし、海外から輸入した資源を加工して、高性能な製品として輸出する加工貿易と疲れを知らない日本人の働きぶりによって、日本は大きく成長しました。そして、1985(昭和60)年には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われ、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となり、国民一人当たりの総生産は世界1位を記録しました。敗戦からわずか30~40年という短期間でこれだけの急成長を遂げた国は世界でも類を見ません。まさに奇跡の復活と言えるでしょう。

 アメリカやイギリスなどの欧米列強からは「ジャパン・バッシング」とよばれ嫉妬の対象となり、シンガポールやマレーシアなどの東南アジアからは「ルックイースト政策」とよばれ、極東の国・日本は憧れの存在としてその手本となりました。

 このように勤勉実直な日本人の性格は、古くからの武士道精神や江戸時代に徹底された高い道徳心によって作られたものなので、それが急速な産業革命と経済発展を可能にしたのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史          石川晶康=著  旺文社

もういちど読む山川日本近代史        鳴海靖=著   山川出版社

学校が教えないほんとうの政治の話      斉藤奈美子=著 ちくまプリマー新書

【第一次世界大戦】なぜ日本は日露戦争の借金を一気に返済出来たのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【第一次世界大戦】なぜ日本は日露戦争の借金を一気に返済出来たのか」というお話です。

 なぜ日本は日露戦争の借金を一気に返済出来たのでしょうか。結論を最初に言うと、「大戦景気です。ヨーロッパで起きた第一次世界大戦によって日本は大儲け出来たのです。

 ということで、今回は第一次世界大戦の大戦景気によって日本はいかにしてその経済的利益を享受出来たのか。を見ていきたいと思います。

日本は大戦景気によって経済的利益を享受することが出来日露戦争の借金を全て完済。それだけでなく、外国にお金を貸すようにもなります。日露戦争のツケは大戦景気で返済。債務国から債権国へ。日本は国家財政を一気に立て直すことに成功しました。

 

 1904(明治37)年、日本はロシアと戦争をしました。日露戦争の勃発です。日本は戦費調達のためイギリスやアメリカの富豪に外債を買ってもらいました。しかし、戦いに勝利した日本は1905(明治38)年のポーツマス条約でロシアから賠償金を獲得することが出来ませんでした。その結果、日本は膨大な借金を抱える債務国(外国からお金を借りている国)になってしまいました。

 この借金をどうにかして返済しなければいけません。さもないと日本は今後、イギリスやアメリカとの外交や貿易において非常に不利な立場になってしまいます。明治維新以来、必死で取り組んだ富国強兵も全て水の泡になります。

 大蔵省は財政の立て直しを図るため、外国との貿易では赤字にならないようにし、借金返済に充てなくていけなくなりました。しかし、その状況は大変厳しく、外国からお金を借りて、それで前の借金を払い、また新たに借金をするということを続けていました。

 そんな中、海軍は大型の戦艦を建造するなど景気のいいことばかりやっていました。その結果、だんだん政府の資金繰りがつかなくなり、様々な新事業を白紙にするという「事業仕分け」をやるなど、政府は極端な緊縮財政をやらざるを得なくなりました。

 そんな状況にも関わらず、陸軍は2個師団増設を要求してきました。これが1912(大正1)年12月、大正政変という騒動が起きるきっかけになるのです。

以上が日露戦争から第一次世界大戦直前まで日本の政治情勢です。

 

 この後、1914(大正3)年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、日本は大戦景気を享受できるわけですが、その利益を最大限にしたのが、戦争直前の1911(明治44)年に小村寿太郎外務大臣によって達成された条約改正です。そう、関税自主権の撤廃です。開戦によってヨーロッパが混乱し、改正交渉に応じられなくなるギリギリセーフでの条約改正でした。

 もし、日本が自由に関税をかける権利をみとめられていなければ、大戦景気の経済的利益は享受出来なかったでしょう。

 

 大正政変によって総辞職した桂太郎ジーメンス事件によって総辞職に追い込まれた山本権兵衛に続き、1914(大正3)年4月、国民からの人気が高かった老政治家・大隈重信による第二次大隈内閣が発足しました。苦しい政局が待ち構えているかに思えましたが、大隈は幸運に恵まれます。

 大隈内閣発足からわずか3カ月後の7月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発したのです。

 この戦争を元老・井上馨は「大正の天祐」と表現しました。

「この戦争は天からの恵みじゃ。大正新時代、我が国は外交関係だけでなく、経済的な享受も大いに得ることが出来るだろう。」

 日本は日英同盟を口実に第一次世界大戦に参戦します。

 日本はヨーロッパ向けに武器や弾薬を輸出します。ヨーロッパ向けの貿易はスエズ運河を通っていくか、あるには南アフリカの先を回っていくか、どちらにしても大西洋を北の方へ上って物資が届けられます。日本が連合国側に参戦したとなると、ドイツは日本の貿易船も撃沈するでしょう。現にドイツはイギリス近海を航行している船はどの国のものでも潜水艦で撃沈するぞ。という無制限潜水艦作戦を始めています。そのため一時的にヨーロッパへの貿易が途絶える結果になりました。

 

 日本の主力製品は生糸や綿糸で、アメリカ向けの貿易は続きましたが、ヨーロッパ向けの貿易が止まった結果、生糸が大量に余り、生糸の相場は暴落。原料である繭を作る農家も打撃を受けます。

 日本は大変な不景気になりました。

 一方でヨーロッパから日本に向ける輸入も途絶えました。第一次世界大戦は欧州各国の総力戦への発展し、ヨーロッパは混乱していたのです。したがって、当時日本が輸入に頼っていた鉄や鋼など重工業製品の価格が暴騰しました。

 大戦景気の恩恵を受けることを大いに期待していた大隈内閣は焦ります。

 そんな中、日本が大儲け出来る絶好のチャンスが訪れました。

  中国や東南アジアに進出していたヨーロッパ系の企業が戦争のため本国へと撤退していったのです。

 それに代わって日本の企業は東アジアや東南アジアという巨大な市場へと大量に製品を輸出するようになります。

 日本は日清戦争戦後に軽工業分野で産業革命を経験、日露戦争前後には重工業分野でも産業革命が起こっており、アジア屈指の工業国となっていました。繊維製品、雑貨、靴、家具など生活に必要な「メイド・イン・ジャパン」がどんどん輸出されていきました。日本はヨーロッパに代わって発展途上のアジア諸国消費財を供給したのです。

 

 それからヨーロッパからの輸入に頼っていた化学工業や機械工業は、嫌でも国内生産を可能にしなければなりませんでした。例えば、それまでドイツからの輸入していた薬品や化学肥料は国内生産を行うようになり、日本の化学工業が発展するきっかけとなりました。

 

 鉄や鋼などの重工業は、官営の八幡製鉄所が1901年に創業を始めましたが、中々軌道に乗せることが出来ずにいました。それがヨーロッパからの輸入が途絶えたことで、今後大きく伸びていきます。対戦景気は日本を依存から自立へと導いたのです。

 機械工業では、当時、日本には日立鉱山という鉱山用の電気機械を修理する小さな工場がありました。それが外国の電機製品を真似ることで電機機械を作り始めました。日立鉱山は現在、日立製作所という日本が世界に誇る大企業になっています。また、池貝鉄工所もアメリカ式旋盤の完全製作に成功しています。

 

 それまで日本が必死で取り組んできた富国強兵・殖産興業による工業力の下地があったからこそ、今回の大戦景気の波に乗ることが出来たのです。

 

 戦争が始まってから1年が経った頃、停滞していたヨーロッパへの輸出が徐々に再開されました。生糸や綿糸などの価格も回復。やがてヨーロッパへの軍需品の輸出が急拡大していきます。

  

 大戦景気は1915(大正4)年から1920(大正9)年まで続きますが、この間、続々と企業が勃興し、「成金」という言葉が流行し、大成功を収める起業家が多数出ました。

 例えば内田信也は、三井物産を退職して兄から借りた2万円(当時のお金)で1914年に海運業を始めたが、世界的な貿易用の船舶不足によって船や鉄鋼の生産が伸び、船の運賃も急上昇しました。そのため、内田は操業から3年後、なんと資本金は1000万円、所有する船は17隻、資産は6000万円を超える超大金持ちになりました。

 このような造船業・海運業の急成長による「船成金(ふねなりきん)」とよばれる‘にわかお金持ち‘が多数生まれました。内田信也は後に政治家として政友会に入ります。

 

 第一次世界大戦は、それまでの戦争とは違う大戦争で、世界経済に非常に大きな影響を与えました。日本が得た恩恵は、輸入品を国産化出来たこと、東アジア・東南アジア・そしてヨーロッパへの輸出が拡大してことです。

 輸入が減って、輸出が増える。

 戦地から遠く離れた日本経済は大いに活気付きました。

 この戦争で日本は当時のお金で28億円の儲けを出しました。これにより、日露戦争で抱えた負債を一気に返済することが出来ました。それどころか、戦費調達のためにイギリスやロシアが発行した公債を日本は買うような余裕まで出てきました。日本は大戦景気で債務国から債権国になりました。

 

 ただ、これらはあくまで大戦景気であり、1919年の戦争終結と同時に翌年から輸出が急減、それに連動して起業の業績も悪化、株式も暴落してしまい、日本経済は戦後恐慌に見舞われる結果となります。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社

【第一次世界大戦】日本が参戦した真の目的とは【加藤高明】

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【第一次世界大戦】日本が参戦した真の目的とは【加藤高明】」というお話です。

第一次世界大戦は言ってみれば、「ヨーロッパの揉め事」であり、日本ははっきり言って関係ありません。なのになぜ、日本は第一次世界大戦に参戦したのでしょうか。今回もストーリーを展開しながら、「日本が第一次世界大戦に参戦した真の目的」を見ていきたいと思います。

日本は中国におけるドイツの権益を獲得するために第一次世界大戦に参戦しました。しかし、日本の参戦理由はもうひとつあります。ドイツやロシアから譲渡された中国領を引き継ぐのではなく、改めて日本に譲渡させるよう中国政府に圧力をかけるためです。こうして日本は中国に二十一ヶ条の要求押し付けました。

 

 第三次桂内閣がわずか50日で総辞職に追い込まれた大正政変や、山本権兵衛が総辞職に追い込まれるきっかけとなったジーメンス事件によって国民からの信頼を大幅に失った政府は、その信頼を取り戻すために引退していたものの、国民から人気の高かった老政治家を引っ張り出しました。

 その老政治家とは大隈重信です。こうして1914(大正3)年4月、第二次大隈内閣が誕生しました。大隈は2回目の首相になりました。

 大隈の首相就任からわずか3カ月後、ヨーロッパのバルカン半島サラエヴォオーストリア皇太子夫妻がセルビア人の青年に暗殺される事件が起きました。

 間もなくオーストリアセルビアに宣戦布告。さらにオーストリアの盟友国であるドイツが軍事的支援をしました。一方のセルビアには後ろ楯であったロシアが支援をするカタチになりました。

 この対立はやがてビリヤードの玉が次々にぶつかりながらあちこちに転がるようにしてヨーロッパ全土に広がっていきました。第一次世界大戦の勃発です。

 

 間もなく、イギリスは日本に軍事的支援を要請。最初のきっかけはイギリスのグリーン駐在大使が戦争勃発直後の1914年(大正3)年8月7日に日本政府に電報を打ったことです。

「膠州湾を根拠地(基地)とするドイツ海軍の艦艇が中国近海やその周辺でイギリスの商船を襲撃してきたら困る、ついては、日本海軍の力で何とかしてもらいたい」。

 大隈内閣の決断は早かった。臨時閣議が開かれ、翌8日未明に「参戦」を決めました。

 日本はなぜ第一次世界大戦に参戦したのでしょうか。

 一般的に、日本は日英同盟に基づいて第一次世界大戦に参戦したとされています。しかし日英同盟によると、規定範囲はインドから東が対象で、今回はヨーロッパでの戦争は関係がなく、同盟上、日本に参戦義務はありません。また、グリーンの要請もあくまで局地的な「海軍力行使の依頼」に過ぎず、日本の参戦を申し入れたものではありませんでした。

 しかし、日本はイギリスと締結している日英同盟を拡大解釈し、「イギリスに軍事的な支援をするため」という口実のもと、第一次世界大戦に参戦します。

 日本はドイツの中国における権益を獲得するために参戦しました。

 第一次世界大戦が勃発した当初、ドイツは中華民国(中国)山東半島およびその付け根の内陸部から成る膠州(こうしゅう)湾の青島(ちんたお)軍港や、南太平洋に浮かぶ島々(現在のサイパン島パラオ諸島など)を植民地としていました。

 元老・井上馨は ヨーロッパの列強諸国はこの未曾有の激戦のため、東アジアに関心を向ける余裕がなくなっていた状況を見て、中国におけるドイツの拠点を日本の手中に収めることを画策しました。

「これを機に我が国の中国進出を果たすのじゃ。この戦争はチャンスだ。大正新時代における天の恵みじゃ。」

中華民国・・第一次世界大戦の数年前に、300年近く続いた清朝が倒れ、新しく中華民国が建国されました。)

 

 こうした思惑から大隈重信内閣は、加藤高明外務大臣の主導で、日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦しました。日本は参戦という大義名分のもと、大正政変以来、懸念されていた2個師団増設と海軍拡張に踏み切ります。

 

 こうした日本の積極的な姿勢を知ったイギリスのグレイ外相は驚きます。

「おいおい。ちょっと待て。日本にはそこまで要求していないぞ。」

 この戦争で、日本が我が国に借りを作れば、今後イギリスに何かあるたびに日本がしゃしゃりでてくるかもしれない。

 イギリスは勢いを増す日本を警戒します。日本がこのまま そうなれば東アジアだけでなく、南太平洋のイギリス領であるオーストラリアやニュージーランドも横取りされるかも知れない。

 イギリスは日本の参戦を拒否します。さらに最初のグリーン駐日大使の要請も取り消すと言い始めました。しかし、加藤しくこく食い下がります。

「日本軍の行動範囲は山東半島や膠州湾周辺に限る。間違ってもイギリス領には派兵しない。」

 これを条件に日本はドイツに宣戦布告。日本はイギリス、フランス、ロシアを中心とした連合国側で正式に第一次世界大戦に参戦しました。

 

 日本軍が行ったのは、まず日本海軍は膠州湾に艦隊を停泊。あっとういう間に制圧してしまいました。

  

 9月2日には日本陸軍はドイツが中国大陸の本拠地としていた山東半島に上陸。十月には青島(ちんたお)を完全に占領。翌11月、ドイツは日本に降伏しました。

同時に日本海軍も赤道以北のドイツ領南諸島サイパン島やの一部を制圧しました。

 

ドイツは本国やヨーロッパ周辺での戦争に手を焼き、東アジアに十分な兵力を送ることが出来なかったのです。

 

 日本が第一次世界大戦に参戦した目的は実はもう一つありました。

 ドイツ権益の獲得とは異なるものでした。日本が中国に持つ諸々の権益を改めて日本に譲渡するよう中国政府に圧力をかけることでした。つまり、かつてドイツが清国(中国)に結んだ租借権を日本が引き継ぐのではなく、改めて日本は中華民国(中国)に租借権を結ばせ、長期にわたる領土の租借権を獲得しようとしたのです。

 

 日本が列強から譲り受けた租借権は今回のドイツだけではありません。

 かつて日本は日露戦争でロシアに勝利し、旅順と大連を含む遼東半島(りょうとうはんとう)の権益をロシアから譲り受けました。これも同様にロシアが清国(中国)と結んだ「1898年から25年間」という租借の期限は引き続き有効とされるため、1914年から9年後の1923年には日本の租借権は失効され、中華民国(中国)に返還しなくてはいけません。

 第一次世界大戦によってヨーロッパの支配が弱まったことを利用した日本はこれらの権益について古い条約をいったんリセットし、十分な有効期限を持つ新しい条約に切り替えたのです。

 

 対戦はヨーロッパを主戦場とする未曾有の激戦であったため、ヨーロッパの列強諸国は東アジアに関心を向ける余裕を失っていました。それをいいことに大隈重信加藤高明外務大臣が中心となって中華民国袁世凱政府に対し、ニ十一ヶ条の要求を突き付けました。その内容は、山東省でのドイツの利権の継承、満州における日本の利権拡大のほか、かなり無茶な要求が数多く盛り込まれていました。

 当然、袁世凱は何色を示します。

 そこで日本は以下の条件を引っ込めます。

「中国政府に日本人の財政顧問、軍事顧問を招く」

「必要な地の警察を日中合同とする」

 といった要求を引っ込めたうえで、再度要求を突き付けます。

 日本は戦争も辞さない構えを見せ、中国に最後通牒を出します。

 

 列強が干渉してくれることを期待していた中国 しかし、イギリスなどはむしろ日本と妥協するよう進言してきたため、袁世凱は仕方なく日本の要求を受け入れたのです。

 この強引なやり方に中国の人々は大いに反発し、要求を受諾した5月9日は、国恥記念日と呼んで中国国内での反日運動を煽った。

 

 日露戦争によって中国の南満州の権利を得た日本、そして今回の第一次世界大戦によってその権益をさらに拡大させました。明治維新から半世紀、日本は列強諸国の技術や文化をがむしゃらに吸収してきました。ここに来て、日本は遂に列強諸国と肩を並べる帝国主義国家になったのでした。 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

子供に伝えたい 日本の戦争           皿木善久=著 産経新聞出版

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

5つの戦争から読み解く日本近現代史       山崎雅弘=著 ダイヤモンド社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著  祥伝社

【第一次世界大戦】なぜヨーロッパは2つの勢力に分かれたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【第一次世界大戦】なぜヨーロッパは2つの勢力に分かれたのか」というお話です。

 

 本題に入るまえに、外交や安全保障におけるある法則をご紹介します。

 それは、「敵の敵は味方になる」という法則です。

 例えば、お互いに不仲で緊張状態にあるA国B国C国があったとします。

 ある日、A国B国に侵攻しました。A国の侵攻を受けたB国は当然、A国に宣戦布告しました。さらにA国C国にも侵攻しました。C国A国に宣戦布告します。

 B国にとっての最大の敵A国は、C国にとっての最大の敵でもあります。すると、A国という共通の敵を倒すためにB国C国は手を組むようになるのです。

 これが「敵の敵は味方になる」という法則です。これを踏まえたうえで、本題に入ります。

 

 第一次世界大戦は最終的に、ドイツ・オーストリアオスマン帝国を中心とする同盟国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国が戦う構図になります。

 しかし、意外な事実かもしれませんが、イギリス、フランス、ロシアの3国は歴史的に非常に仲が悪いです。そんな3国がなぜ手を組んだのでしょうか。

 実は19世紀末~20世紀にかけて、3国にはドイツという共通の敵が現れるようになったのです。

 ということで、今回もストーリーを展開しながら、「なぜヨーロッパは2つの勢力に分かれたのか」について見ていきたいと思います。

第一次世界大戦の根本的な原因は、列強諸国による植民地問題と民族問題です。ドイツという共通の敵を倒すために手を組んだイギリスフランスロシアという共通の敵を倒すために手を組んだドイツ・オーストリアオスマン帝国。同じ目的を持つ国同士が手を組んだことで、連合国軍と同盟国軍という2大陣営が形成されたのです。

 第一次世界大戦の対立構図はどのようにして生まれたのでしょうか。なぜ世界は2つの勢力に分かれたのでしょうか。第一次世界大戦は、欧米列強の植民地拡大をめぐって各国が結んだ同盟関係や民族紛争によって対立構図が出来上がります。

 

 フランスとドイツは1870年の普仏戦争以来、すっかり犬猿の仲になりました。それまで、小さな国の集まりで、統一国家の体を成していなかったドイツは、18世紀にビスマルク率いるプロイセン王国が中心となってオーストリアを排除するカタチでドイツの統一が進みました。

 そんな新興国プロイセンを警戒したのが、フランスです。19世紀末になると、プロイセンとフランスによる普仏戦争が起こります。勝利したプロイセンは1871年、国王ヴィルヘルム1世がパリでドイツ皇帝に即位したことで、ドイツ帝国が誕生しました。一方、敗戦したフランス国内では反独感情が残る状態となりました。

 

 

 19世紀末は帝国主義の時代でもあります。帝国主義とは一言でいうと資本主義社会が軍事力と結びついて、領土や植民地拡大を図ることです。当時の帝国主義国家は、イギリス、フランス、ロシア、オランダ、アメリカでが、やがて新興国・ドイツが加わるようになります。

 ドイツは帝国主義国家の中間入りを目指し、アジアやアフリカに植民地拡大を図ります。

イギリスはインドのカルカッタ、エジプトのカイロ南アフリカケープタウンをそれぞれ鉄道で結ぶ植民地政策を行い、海外進出の拠点としていました。これをそれぞれの都市の頭文字をとって3C政策と言います。イギリスはアフリカを北のエジプトから南の南アフリカに向かって縦断するように植民地を拡大していきます。

 これに対抗するべくドイツはバクダート鉄道の建設を進め、ベルリンビザンティウムイスタンブールバクダードを拠点として3D政策を展開しました。

 イギリスは勢いを見せるドイツを警戒するようになります。

 

 一方、フランスもイギリスに負けまいと本土に近いロッコアルジェリアからアフリカの植民地拡大を図ります。イギリスの縦断政策に対し、フランスは西のモロッコアルジェリアから横断するように植民地を拡大していきます。

 こうしたフランスの植民地政策を面白く思わなかったドイツは、フランス領・モロッコでフランスと支配権をめぐって2度の小競り合いをしています。(ロッコ事件

 

 アフリカ支配において、縦に領土を拡大するイギリス、横に領土を拡大するフランス、両国の交差地点となったのは、スーダンのファショダで、英仏両軍は対立。一時、一触即発の危機に陥りました。(ファショダ事件

 しかし、ここで両国にはドイツという共通の敵がいることが判明します。

「今は、イギリスとフランスが互いに争っている場合ではない。それよりも、ドイツという新興国をもっと警戒するべきだ。」

 英仏両軍はドイツの脅威に対抗するために事態を収拾。共にドイツと対立することを条件に友好関係を築きました。こうして「敵の敵は味方になる」という法則に従い、イギリスとフランスはドイツという共通の敵を倒すべく互いに手を組むようになりました。

 さぁ、最初の第一次世界大戦の対立構造が出来上がりました。イギリス・フランスとドイツの対立構造です。

 

 同じ頃、東アジアでも動揺が起こりました。

 1894年、新興国・日本と老大国・清が戦争を始めたのです。(日清戦争)。戦争は新興国である日本の勝利に終わり、老大国であったはずの清の弱体化が世界に知れ渡り、列強諸国に領土をかじりとられるようになります。いわゆる「中国分割」です。

 フランスは東アジアへの進出をスムーズにするために、ロシアと同盟を組み、東アジアにおける利権を互いに認め合いました。このフランスの動きを警戒したイギリスは、東アジアの新興国・日本と同盟を結び、対抗します。これが1902年の日英同盟です。

 このように、アフリカではドイツを警戒して同盟を結んだイギリス、フランス。アジアではロシアとフランス、また、イギリスと日本の同盟関係が誕生しました。第一次世界大戦は日本を含めた列強諸国の複雑な同盟関係によって起きた戦争なのです。

 

 そして1914年、ボスニアの首都サラエヴォで起きたオーストリアの帝位継承者が暗殺される事件が起こります。これが第一次世界大戦の開戦のきっかけとなった有名な事件です。様々な民族が住み、互いに対立するバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれるほど政情不安定な地域でした。

 

 オーストリアは間もなく、セルビアに宣戦布告。ドイツは属国であるオーストリアに軍事的な支援を行うカタチで参戦します。 

 しかし、一方のセルビアの後ろ楯であったロシアが軍を配備し、ドイツ・オーストリアを牽制しました。こうしたロシアの動きに対し、ドイツは先手を打つようにロシアに侵攻しました。

 こうして、セルビアを支援するロシアと、オーストリアを支援するドイツによる対立構造が出来上がりました。

 

 一方、オスマン帝国(トルコ)とロシアも古くから犬猿の仲でした。それは民族問題であり、ロシアの強い支配を受けているトルコ系民族を解放し、サマンカルドを都としたトルコ人の帝国を樹立するというパン=トルコ主義に基づいたものでした。

 ヨーロッパでサラエヴォ事件が起こると同時に、オスマン帝国もロシアに宣戦布告。こうして「敵の敵は味方になる」という法則にしたがって、ドイツ・オーストリアオスマン帝国はロシアという共通の敵を倒すべく互いに手を結びました。

 

 しかし、ここにきてドイツが致命的な失態をやらかします。なんと、長年犬猿の仲であったフランスにも侵攻してしまったのです。これによって、戦争は一気に拡大しました。「敵の敵は味方になる」という法則に従い、フランスは同盟を結んでいたロシアに近づきます。

「もはや、フランスとロシアの同盟関係は東アジアの植民地問題に限ったことではない。ここは手を組み、ドイツという共通の敵と戦おうではないか。」

 こうしてフランスとロシアは手を組むようになりました。

 さらにフランスと友好関係を築いていたイギリスもドイツに宣戦布告します。

 そして、ヨーロッパから遠く離れた日本も日英同盟に基づき、連合国軍側にて参戦します。

 

 さぁ、第一次世界大戦の対立構造が完成しました。イギリス、フランス、ロシア、日本を中心とする連合軍とドイツ、オーストリアハンガリーオスマン帝国を中心とする同盟国軍による対立構造です。

 第一次世界大戦とはもともと暗殺犯の母国セルビアオーストリアの2国間の問題でした。しかし、今回紹介したようなヨーロッパ各国の情勢が絡んで一気に拡大しました。当時の人達も、この戦争が後に「世界大戦」と呼ばれるようになるとは思わなかったでしょう。開戦直後の1914年7月、兵士達はクリスマスまでには家に帰れると思っていたようです。そのくらい開戦当初はヨーロッパの小国の小競り合いのようなものだったのです。

 戦争は結局、4年3カ月も続いてしまいました。短期決戦を目指すドイツ軍の作戦が失敗し、両軍が塹壕(ざんごう)を掘り進んでにらみあったことが、戦線の膠着につながったとも言われています。

 さらに、この対戦、従来の戦争とは大きく異なっていました。それは、国民全体を巻き込む総力戦に発展したことです。

 それまでの戦争は戦場で戦う兵士のみが衝突するもので、どこか紳士的で正々堂々とした「名誉ある戦い」の色合いが強かったです。しかし、今回の第一次世界大戦以降は、女性や子供も含めた一般市民が無差別に殺されるというとても悲惨で卑劣な戦いになってしまいました・・・。

つづく

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい世界史                   旺文社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社

【明治から大正へ】大正政変をわかりやすく (前編) 【西園寺公望】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【明治から大正へ】大正政変をわかりやすく(前編)【西園寺公望】」というお話です。

 

 

明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位。年号は明治から大正になりました。日露戦争によって借金を抱えた西園寺内閣は陸軍の師団増設提案を拒否しました。しかし、陸軍大臣上原勇作は抗議の辞任をします。陸軍の協力を得られなくなった西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。西園寺の後を引き継いだのは、三度目の総理大臣となる桂太郎。これが大正政変のプロローグとなります。

 

明治時代は45年続きました。

日露戦争後、東アジアの強国となった日本は、1907(明治40)年に帝国国防の方針を固め、陸軍は現有の17個師団を25個師団に増師し、海軍は戦艦・巡洋艦を各8隻づつ建造する八・八艦隊(はちはちかんたい)を実現するという軍備拡張の長期目標を設定していました。

明治最後の年となる1912(明治45)年、政権を運営していたのは、2回目の総理大臣となった西園寺公望です。西園寺の政権下で明治天皇崩御されます。

明治天皇日露戦争が始まる前ぐらいから糖尿病の傾向がありました。糖尿病とは尿の中に糖分が出てくる病気で、自覚症状のない非常に恐ろしい病気です。当時、糖尿病の原因はよくわかっていませんでした。侍医が「お米を食べすぎないように」とか「砂糖をなめてはいけない」などいろいろ申していましたが、明治天皇は、一向にお聞きになりません。

 

明治天皇は非常にお酒に強い人だったようです。ディナーの時は話をしながらぐいぐい召しあがっておられた。しかも、テーブルの上のお酒が空になってしまうまでは絶対に引っ込まないというような大酒家だったようです。

おそらくこれが原因でしょう。

明治天皇の糖尿は、だんだん酷くなっていきました。

しかし、勤勉実直な明治天皇は毎日の政務を怠りませんでした。

1912(明治45)年は明治天皇がなくなる年で、明治最後の年となります。

明治天皇は毎年行われる陸軍の大演習をご覧になります。陸軍の大演習とは2つほどの師団を動員し、両方が模擬戦闘を行うというものです。明治天皇は不自由を忍んで出席してくださったのです。

同年7月19日、明治天皇は夕食の後、床にたおられ、そのまま昏睡状態に入ってしまいました。東大医学部の教授が御視察をして、 尿毒症であることが判明。しかしその症状はかなり進行しており、とうとう目を覚ますことはありませんでした。

そして7月30日、明治天皇は閣僚に見守られながら、最後、心臓麻痺で亡くなられました。

こうして45年間に及んだ明治時代が終わりを告げました。

そして大正天皇が新たに即位。年号も大正となり、大正時代が始まります。

 

さぁ、これから大正時代を取り扱っていきますが、皆さんは、大正時代といえばどのようなイメージがありますか。大正時代の最大のキーワードは「大正デモクラシー」と言えるでしょう。

「デモクラシー」とは日本語でいうと、「民主主義」という意味ですが、大正時代は「民主政治」が強く叫ばれた時代です。「民主政治」とは、国民が主体となって政治を行うことで、国民の声を政治に反映させることを強く求めたのです。(世論尊重の憲法政治)

それを実現するために提唱されたのが政党内閣論です。これは、選挙によって選ばれた国民の代表者によって内閣を組織し、国民に代わって政治を運営してもらうべきだとする説です。

ただ、注意してほしいのは、この当時の大日本帝国憲法下では、国民主権ではなく天皇主権です。すなわち、天皇の命令は絶対であり、天皇はいわば神のような存在だったのです。しかし、これでは民主政治とはいえません。そこで提唱されたのが天皇機関説です。これは、

 

こうした民主政治の実現のために提唱された2つの説があります。政党内閣論と天皇機関説です。

こうした説が提唱されたことにより、民衆は憲政擁護と閥族打破をスローガンにデモを起こすようになります。大正政変とは、そうした「デモクラシー」によって内閣が倒された最初の事例と言えるでしょう。さらに、後の寺内正毅内閣の時に起きた米騒動も、そのひとつと言えるでしょう。

 

さぁ、そんな大正という新時代、早速政府内では揉め事が起きていました。

先述のとおり、明治時代に政府は軍備拡張を長期目標としていました。しかし、日露戦争において、日本はアメリカやイギリスの富豪から外債を購入してもらったため、莫大な借金を抱えてしまいました。しかも、ロシアから戦後の賠償金を獲得することが出来ず、返済の充てがない状態になるという最悪な事態です。

これによって、政府は緊縮財政を余儀なくされ、軍備拡張計画は中々進みませんでした。これが明治終盤から大正に入るまでの政府の軍事政策です。

 

当時、政権を運営していたのは、先述の通り、第二次西園寺公望内閣です。

そんな中、陸軍大臣の上原勇作は陸軍2個師団の増設を西園寺内閣に提案してきました。

「清国(中国)では現在、辛亥革命が起きています。警戒は怠れません。朝鮮に軍隊を送りたいので、どうか予算を増やして頂きたい。」

今の上原の言葉通り、この当時、清では辛亥革命が起き、清王朝が倒されます。そして中華民国が新たに発足され、中国の近代化を目指す孫文三民主義を掲げて臨時大総統になりました。しかし、旧勢力である袁世凱が欧米列強と手を組み、孫文を追い落とし、孫文は台湾に亡命します。しかし、袁世凱には中国全体を統治する能力がなく、中国は事実上、分裂状態となってしまいました。

こうした国際情勢に対し、陸軍は師団増設を要求してきたのです。

 

当時の1個師団は1万2千人規模です。人件費だけでもかなりの出費になります。さらに火器などの装備品も含めれば膨大な出費になることは容易に想像出来ます。

西園寺首相は当然これを拒否します。

「現状の財政状況で陸軍は、朝鮮への2個師団増設を求めてきた。正気とは思えない。このまま破滅の道をたどるのか?とても乗れない相談だ。」

公家出身で、冷静沈着な西園寺は、日本が軍事力増強にばかり傾倒している状況に危機感を持っていました。

西園寺は政友会の中心人物で、のちに本格的な政党内閣を組織する原敬に尋ねました。

「原君は陸軍の主張をどう思う。」

原は非常に冷静な受け答えをしました。

「列強と強調外交が成立している現時点では、清王朝が解体したといっても、大陸に軍事力を拡大する必要はないのでは。むしろ安易に大陸に兵を送ると、却って列強の警戒心を強めてしまうのではないでしょうか。」

西園寺は「なるほど」と言って納得しました。

 

しかし、西園寺の却下を受けた上原は2日後、西園寺内閣に抗議するように陸軍大臣を辞任しました。

 

困った西園寺は元老で陸軍閥のボスである山県有朋に後任の陸軍大臣を推薦してもらうよう要請しました。当時は、軍部大臣現役武官制に基づき、現役の軍人以外は陸海軍大臣になれません。山県のような元老が適任となる人物を推薦することで、大臣が決まるのです。

元老とは、明治維新の功労者で年をとった政治家達で天皇を別にすれば、当時の政治体制の最高権力者の集まりで、天皇に代わって国の重大な決断を行う人達です。

 

しかし、元老・山県も上原の意見を支持しました。師団増設における妥協案を提示しました。

「西園寺殿、1年間の期限付きでも良い。せめて1師団だけでも増設してくれるか。」

西園寺はため息をつきました。

「陸軍のボスである山県殿までそんなことを・・・。呆れた。話にならない。」

これを機に陸軍と西園寺内閣の対立を深まりました。

 

陸軍は西園寺内閣に対し、嫌がらせをします。

なんと、陸軍は上原の後任としての陸軍大臣を推薦しないという抵抗をしたのです。

このまま陸軍大臣が現れなければ、西園寺内閣は総辞職しなければなりません。

結局、陸軍の協力を得られなかった第二次西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。

いや、むしろ西園寺が自ら政権を投げ出したといっても良いでしょう。

「私はもう総理を引き受けない。まったく陸軍には失望したよ。」

 

西園寺が辞めたことで、次の総理大臣は誰にするかという話になりました。

当時の首相は、今のように国会議員により選ばれるのではありません。元老が推挙した者に天皇から直々に大命が下されるカタチで組閣が始まる仕組みです。山県有朋松方正義大山巌井上馨などの元老は会議を開き、総理大臣を選ぶことになりました。

最初、松方にやってくれないかという話になりました。

「私はもう70歳の老いぼれだ。さすがに引き受けることは出来ない。」

次に、海軍大臣山本権兵衛に話がいきました。

「う~ん・・・私はまだ総理を引き受けられる器ではありません。」

(山本は後に総理大臣になります。)

 

結局、総理になる者が現れない。

しびれをきらした山県はこう言いました。

「こうなっては仕方がない。私なぞはもう年寄りで、時代遅れの部分があるが、私でよければやりますぞ。そうでなければ、我が長州直系の部下である桂太郎をもう一度引っ張りだします。」

同郷で大先輩である山県の提案に対し、桂は言います。

「先輩にご迷惑をかけるわけにはいきません。次の総理は私が引き受けます。」

桂は3度目となる総理大臣を引き受けました。こうして第二次西園寺内閣が潰れ、第三次桂内閣が誕生したのでした。

これが大正政変のプロローグとなります。

 

 

次の総理大臣を誰にするかということで、元老を中心に話し合いをしましたが、中々決まりません。仕方なく、山県が責任をとるカタチで内閣を組織しようとしたところ、山県の直属の弟子である桂太郎が救いの手を差し伸べました。

桂は総理大臣を引き受けた際、山県と話合いをしました。

「これからは衆議院の巨大勢力である政友会と上手くやっていかないとならない。2割~3割は譲らないと政治を上手く回していくことはできないぞ。」

桂は大変不利な状況で総理大臣になったといえます。というのも、この時の帝国議会は、貴族院衆議院があり、衆議院とは、選挙によって臣民(民衆)から選ばれた議員で構成されています。貴族院とは、1つは華族達、もう1つは昔からの古い役人や薩長藩閥の勅撰議員で構成されています。

桂は長州出身であり、薩長藩閥の貴族院の中心人物ですが、一方の衆議院には1番大きい政党として立憲政友会があります。しかも、この政友会の総裁はあの西園寺公望です。

衆議院を握っているのは政友会ですから、政友会が納得しないと予算も通らない、法律もつくれない。ですから、西園寺とは仲良くやっていかなくてはなりません。

「ならば、私も政党をつくりたい」

「桂よ。それは秘密にしないといけませんぞ。」

しかし、衆議院を牛耳っているのは立憲政友会立憲国民党です。この衆議院を何とかしないと予算も通らなければ、

かつて伊藤博文立憲政友会をつくったように桂も、衆議院に自らを支える新政党をつくりたいと願っていました。

桂も自らを支えてくれる政党をつくりたいと願うようになり、

 

 

 

今回内閣を投げ出した西園寺ですが、国民の間での人気は高いものでした。陸軍の要求を突っぱね、師団を増やすことを抑えたからです。

時代は確実に変わりつつありました。

日露戦争開戦時では、あれほど「強力な軍事国家」を支持していた国民は、日露戦争後の生活苦や治安悪化など社会問題を受け、今後はむしろ柔和なで平和な国家を求めるようになっていたのです。

大正時代とは、むやみに軍備ばかり増強してはいけない。もっと人々の生活環境の改善や平和な世の中をつくりたいと思う気運が高まった時代でもありました。こうした国際協調路線の気運が、後に総理大臣となる原敬の政策にも反映されていきます。

さぁ、第三次桂太郎内閣はどのように政権運営をしていくのでしょうか。後編に続きます。

 

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版会

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著 産経新聞出版

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む 山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

【日米亀裂!】なぜ日露戦争後に日本とアメリカの仲が悪くなったのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【日米亀裂!】なぜ日露戦争後に日本とアメリカの仲が悪くなったのか」というお話です。

中国進出に出遅れたアメリカは国務長官ジョン・ヘイが提唱した中国に対する「門戸開放」「機会均等」を提唱し、中国進出の機をうかがっていました。そんな中、日露戦争が勃発。アメリカは講和会議の仲介に入る代わりに日本が獲得した満州の鉄道経営を共同で行うことを日本と約束しました。しかし、戦後、日本は満州を単独で統治。敵だったロシアとも手を組み、アメリカの参入を排除しようとしたのです。

 

 1894年(明治27)年に勃発した日清戦争で老大国・清は新興国・日本に敗北してしまいました。これによって清国(中国)の弱体化が世界に知れ渡り、欧米列強の中国進出のきっかけをつくってしまいました。日清戦争が終わったのは、1995(明治28)年ですが、それから5年のあいだに中国は欧米列強の植民地支配を受けます。

 

 列強各国は、中国本土における港湾の租借や鉄道敷設権を獲得。中国はあっちこっちから列強諸国に領土をかじりとられていく状態になってしまったのです。

 ロシアは1898(明治31)年、旅順と大連を租借し、旅順を軍事港湾として大連を商業港湾として利用します。さらにシベリア鉄道の支線を中国の領土に引っ張り、満州を突っ切って旅順・大連まで繋がる北清鉄道の敷設権を獲得します。イギリス山東半島威海衛九竜を租借。さらに新興国であるドイツ膠州鉄道の敷設権を得ます。

 1899(明治32)年にはフランスも中国の一番南、ベトナムに近い広州湾を租借しました。日清戦争に勝利したことで列強の仲間入りした日本も、福建省という地域を他の列強諸国に割譲しないという約束を中国に結ばせます。これは、手をつけるなら日本が先だぞというような意味です。

 このような中国分割の現象が日清戦争後、20世紀に入るまでに急激に進行していきました。

 

 皆さん、お気づきでしょうか。列強諸国の中で唯一、中国進出が果たせていない国があります。

 そうです。アメリです。

 アメリカは中国進出に出遅れ、何の足がかりもない状態なので、他の列強諸国が清国分割していく状況を、指をくわえてみていたのです。しかし、アメリカも我慢出来なくなりました。アメリ国務長官ジョン・ヘイは中国進出を図ろうと「門戸開放」や「機会均等」を提唱します。

「ある国が中国のどこかの地域をある国が抑えて、自分達の商品を輸入させたり、資金を投資して鉄道を敷設して抑えるということはいけない。貿易や投資について中国は各地を差別しないで、どの国に対しても同じように認めるべきだ。」

 このように中国進出の足がかりのなかったアメリカは、中国に対する門戸開放を唱え、中国進出において列強諸国は、すべてが平等であるべきだと宣言したのです。

 

 そんな中、列強諸国が揺れ動きました。

 1904(明治37)年、日本とロシアが戦争を起こしたのです。日露戦争の勃発です。さらにヨーロッパ諸国の勢力図も大きく変化しました。イギリスはロシアと手を組んでいたフランスに接近します。そして1904年4月、英仏同盟を結び、イギリスのエジプト支配と、フランスのモロッコ支配を互いに認め合いました。

 すると、新興国として勢力を伸ばしていたドイツは、フランスのモロッコ支配に反発し、ドイツとフランスの関係が悪化。こうしてイギリスとフランス陣営とドイツは対立関係に入りました。ここに後の第一次世界大戦の対立構図が出来上がりました。

 

 こうした列強諸国の激震をチャンスとみたアメリカは、そのドサクサに紛れて中国進出を果たすべく機をうかがっていました。

 そんな中、日本大使が、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト日露戦争の講和会議の仲介に入ってくれるよう依頼してきました。アメリカにとっては絶好のチャンスでした。まさに「飛んで火に入る夏の虫」です。

 ルーズベルト大統領は、講和会議の仲介に入ることを快く承諾しました。しかし、それは日本に対する好意や親切心からではありませんでした。見返りを期待していたのです。

 

 日露戦争に勝利した日本に対し、ロシアから中国北東部と満州の利権を獲得した暁には満州を日本と共同統治したいと提案しました。具体的には満州にある長春・旅順口間の鉄道を日米共同経営とすることでした。

 時の首相・桂太郎は、そんなアメリカ側の提案を了承し、鉄道王と呼ばれたアメリカ人のハリマンとの間で満州の鉄道の共同経営の覚書きを取り交わしていました。

 アメリカ国民は日露戦争中、日銀副総裁・高橋是清の依頼によって日本の公債を購入し、戦費を工面してくれました。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 ルーズベルト大統領はこれを恩として日本に提案し、約束を取り付けたのです。

 

 日露戦争の講和会議はアメリカのニューハンプシャー州にあるポーツマスで行われ、日本は旅順・大連の租借権をロシアから譲り受けます。長春・旅順口間の鉄道の経営権を獲得するなど日本は様々な権利を獲得しました。そして、間もなくロシア軍は満州から撤退しました。

 これでアメリカは日本と満州を共同統治する権限を得ることができました。遂にアメリカは中国進出を果たすかに思われました。

 

ところが・・・・。

 

 ポーツマス条約を結んで帰国した全権大使の小村寿太郎外務大臣は、これに大反対。「ロシアから獲得した満州利権は日本が単独で経営する。なぜアメリカが入ってくるのだ。彼ら関係ないだろう。」

 確かに日本は日清戦争に勝利したことで、せっかく獲得した遼東半島を返還せざるをえなくなりました。しかも、それを要求したのは全く関係ない第3国のロシアだったということを経験しているのです。

 

 小村は桂首相の反対を押し切り、アメリカの満州統治権はないと手のひらを返したのです。日本はポーツマス条約によって得た中国北東部、満州の植民地的経営に乗り出しました。旅順・大連の租借権を得たことを前提に日本はこの地域を関東州(かんとうしゅう)と名付け、その支配のために関東都督府(かんとうととくふ)を置きました。

 アメリカは約束通り、日本との満州の共同統治について提案しました。

「約束通り、満州長春・旅順口間の鉄道の共同経営を行いたいのだが。」

 日本はこの提案を拒否しました。

 アメリカ政府は不満を持ちます。

「おいおい、話が違うじゃないか。」

 このことはアメリカの各新聞も大大的に発表し、アメリカ国民も大激怒しました。

こうして日本とアメリカは満州をめぐって対立するようになりました。日本は長春・旅順口間の鉄道経営を単独で行い、南満州鉄道株式会社(満鉄)を半官半民で発足しました。日本は遂に満州進出を果たしたのです。

 それだけでなく、日本は満州から撤退したはずのロシアと手を組むようになります。1907(明治40)、1910(明治44)、1912(明治45)、1916(大正5)年の4度にわたる日露協約を結び、満州における両国の権益を取りきめました。日本は日露協約を結ぶことで、アメリカの満州進出を封じ込めたのです。

 

 以後、日本は東アジアの強国となり、急速にその勢力を拡大し、国際政局で大きな影響力を持つようになります。ここに国際社会において列強諸国と肩を並べる強国を建設するという明治維新以来の目標はひとまず達成されたといえるでしょう。

 それと引き換えに、日本はアメリカからの強い反感を買うようになります。アメリカ国内では黄禍論(イエロー=ぺリル)が吹き荒れ、日本人移民に対する差別が酷くなっていきました。アメリカへの日本人の移民は明治初年(19世紀後半)から始まり、ハワイなどを経由して多数の日本人移民がカルフォルニアなどに流入していきました。

 日本人移民は、勤勉なうえ生活習慣がアメリカ人とは大きく異なっており、しかも白人社会と交わろうとしない。

 このような政治的な情勢のみならず、根本的な性格の違いによる違和感もあり、アメリカ国民の日本人移民に対する嫌悪感が募るようになった。それを一気に沸騰させたのが、今回の満州問題です。

 

 以後、アメリカは日本が中国に勢力を伸ばすごとに強く非難するようになります。これが第二次世界大戦で日本とアメリカが太平洋で死闘を繰り広げる遠因になったのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社