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【江戸時代】江戸の三大飢饉は人災だった!?【松平定信】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【江戸時代】江戸の三大飢饉は人災だった!?【松平定信】」というお話です。

 近世の三大飢饉とは、1732年に享保の飢饉、1782年から88年までの天明の飢饉、1833年から39年までの天保の飢饉になります。

 

 最初に1732年に発生した享保の飢饉ですが、その原因は意外なことに虫でした。イナゴやウンカなどが大量発生したのです。イナゴとはご存じの通り、集団で田園を襲い、稲穂や稲葉を食べつくしては、他の地域へ移動し、新たな田園を襲うといういかにも害虫らしい生態です。

 ウンカはセミに似た昆虫ですが、体長はわずか5ミリ程度のコバエみたいな奴です。稲に取りついて養分だけを吸い尽くし、さらにウィルスまで媒介し、家畜や人間に感染症をもたらすとんでもない害虫です。

 こいつらが大量発生したことによって、収穫高は例年の半分以下となり、1万2000人も人々が餓えや病気で亡くなったようです。しかし、大量発生という異常は自然界の秩序によって適正な数まで落ち着きます。この享保の飢饉は一年で治まりました。

 

 しかし、この50年後の1782年、東北地方を中心に天明の飢饉が発生します。この天明の飢饉、88年までの6年間にも及びました。なぜこんな長期間に及んだのでしょうか。

 東北地方にはやませとよばれる冷たい風が吹き、東北の広い地域で冷害をもたらしました。すると、本来、南方などの暖かい地域で栽培される米は育ちにくくなります。さらに長雨が続き、凶作になってしまいました。

 

 これに追い打ちをかけるようにさらなる悲劇が東北を襲います。

 

 1783年、群馬県にある浅間山が大噴火します。その火砕流はふもとの村を襲い、多くの村人が犠牲になりました。

 それだけでなく、噴火によって発生した噴煙は成層圏にまで到達していました。日本列島の大気は西から東に向かっており、成層圏は地表近くの空気の何百倍の風速です。 したがって、噴煙は東北地方に向かって空を覆うように舞い散り、東北の日光は完全に遮られ、大量の火山灰も降り注ぎ、稲は大打撃を被ります。

 これらの自然災害が重なったことで、天明の飢饉は長期化しました。この飢饉は近世史上最悪の飢饉とよばれ、餓死者は津軽藩青森県)だけでも13万~20万人にもおよぶ大惨事となったのです。

 

 東北の人々は餓えに苦しむあまり、馬や犬、猫を殺して食べます。得体の知れない植物やキノコであっても、餓えを防ぐために食べます。背に腹は代えられません。

 

 ある旅人が越後の国(新潟県)を訪れたときに、ある家の様子を覗いてみた。すると衰弱した子供達が柱にくくりつけられているではありませんか。旅人はこれをみて、母親に訪ねました。

「なぜ、こんな弱っている子供達の自由を奪うようなことをするのか。」

母親は力のない声でこう言いました。

「この子達、柱にくくりつけておかないと、餓えにより兄弟が互いに食い合うようになってしまうためだ。」

旅人は言葉を失い、そのまま立ち去りました。

 

 人間、腹をすかせると共食いに走るようです。もはや理性もクソもありません。「腹を満たしたい」という感情だけが先走り、倫理感や道徳感もつまらないものに感じてしまいます。

 盗みや暴行も多発します。食料を他人から奪いとるのです。

 農村は完全に機能不全となりました・・・。

 

 餓えによって衰弱しきった人間達に、やがて凶暴な野生の動物達が集まってきます。お腹を空かせた野生の犬やタヌキ、キツネ、鷹などです。動物達は何日にも渡って辺りをウロウロしています。人間が倒れるその瞬間までじっと待っているのです。動物といえど、食べることに対する執念は人間以上に強いのです。

 以前は食べる側だった人間が今度は食べられる側になるという異常な事態が発生してしまったのです。

 

 これに対し、時の老中・田沼意次は有効な対策が出来ず、江戸の庶民を不安に陥れました。「田沼は一体何をやっているのか。もし江戸でも飢饉や災害が起きたら、どうするのだ。」

 江戸庶民は抑えきれない不安と怒りで一揆や打ちこわしを起こし。米を買い占めていた商人の屋敷を襲います。田沼の支持率は急降下し、田沼失脚のきっかけが出来てしまいました。

 

さらにこの45年後の1833年から39年に天保の飢饉が起こります。この飢饉は全国的な飢饉となり、冷害に加え、大雨や台風が頻繁に発生。その結果、収穫高は例年の3割程度にまで落ち込みました。

 この飢饉も20万~30万人の人々が餓えや病気によって亡くなっています。当時の人口は2000万人から3000万人ほどと言われており、2000万人として20万人が餓えで亡くなるということは100人に1人の割合です。餓死することはなくても餓えで苦しんだ人は相当数にのぼりました。このため、全国的に百姓一揆や打ちこわしが発生。

 これには飢饉だけでなく、江戸に対する不満もありました。実は江戸では天明の飢饉の庶民の暴動を教訓に、各地の米を集めさせ、貧民のために炊き出しを行ったのです。江戸を救うために大阪の米すらも江戸に集中させられたことに大阪の庶民は衝撃を受けます。やがてこれが大塩平八郎の乱を引き起こすきっかけとなるのでした。 

江戸の三大飢饉によって少なくても100万人の人々が亡くなったのです。

江戸の経済成長によって消費がさかんに行われるようになりました。この時代背景から天明の飢饉は一部の権力者による私利私欲が大勢の人々の命を奪ったということで人災だという声も上がりました。そんな中、東北地方でありながら、一人の餓死者も出さなかった藩がありました。その藩主こそ、あの人物です。

 

 

 1783年から89年まで6年続いた天明の飢饉ですが、これは自然災害ではなく、人災だという声もあがりました。

 

 江戸時代中期の経済成長によって、消費物資が増え、たくさんの娯楽も生まれました。当時の老中は田沼意次で、貨幣至上主義の政治が行われていました。貨幣がどんどん市場に流通し、巷には消費を促すような謳い文句が溢れていた時代です。

 人間は欲深い生き物なだけでなく、世間の風潮にも流されやすい生き物ですから、当然それらの消費を楽しみます。すると本来、手段であるはずの消費が目的化してしまい、消費中毒者が多数誕生します。現代のアベノミクスのように。

 

 それがある藩の領主にも現れ、悲惨な事態を招いてしまいました。

津軽藩は大量のムダ遣いによって商人から多額の借金を抱えてしまいました。津軽藩は農民から徴収した年貢米を換金して借金を返済していました。

 そんな中に起きたのがこの天明の飢饉です。借金に追われた津軽藩非常時の備蓄米すらもお金に換えていたた、餓えに苦しむ農民達に米を支給することが出来なかったのです。東北は本来、ヒエや麦が適した地域で、米の栽培には適していません。しかし、お米はお金になるという理由で、東北の多くの藩も商品性の高いお米の栽培を奨励していたのです。

 したがって、東北の自然環境が自体が厳しいのではなく、当時の経済状況がミスマッチを起こしたのです。

 

 話を戻します。

 消費中毒者が現れると、貧富の差が生まれます。近代的な商品やサービスを提供していた商人達が田沼の保護政治も相まって大金持ちになりました。したがってお金は江戸に住む商人達のもとに集中します。地方の人達が東京や大阪に憧れを持つのはそのためです。

 一方で、地方は荒廃します。人は華やかで明るい所に集まる傾向がありますので、江戸ドリームを夢みる人達が江戸や上方などの都市に流れ、地方の人口は激減するという現象もおきてしまいました。

 

 

 田沼の行った貨幣至上主義は中央集権を加速させ、地方分権がおろそかになり、地方自治体が自然災害という非常事態に対処出来ないという悲惨な結果を招いてしまいました。

 

 東北の災害とういうことで、2011年に起こった東北太平洋地震東日本大震災)が連想されます。この少し前の2008年のリーマンショックという世界同時不況後、日本の基幹産業である製造業が軒並み経営悪化し、撤退、廃業、海外移転が相次いで起こりました。特に地方の疲弊は著しく、商店街はシャッター通りと化し、人口は都心部へと流入してしまいました。

 要するに、お金が地方から都市部に集中してしまったのです。

 中央集権化が進んだことで、被災地の自治体すら地元の被災者を援助出来ないという事態がおこりました。

 あの震災は地方が自立して政治を行うことが出来ていない状態となっていることを世間に知らしめる結果となってしまいました。

 

 東北地方を中心に深刻な災いをもたらした天明の飢饉ですが、東北地方にありながら、唯一餓死者を一人も出さなかった藩がありました。それは白河藩福島県白河市)です。そこの藩主こそ、松平定信です。質素倹約重視だった定信はお金に余裕があり、江戸や大坂から大量の米を購入し、餓えに苦しむ農民達に分け与え、飢饉を乗り切ったのです。

 定信のこの功績は全国的に高く評価され、1788年、彼は老中へと昇格します。その翌年、いよいよ松平定信による寛政の改革が始まるのです。

 以上。

次回もお楽しみに。

本宮でした。それではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

【田沼意次】フロンティア精神溢れる熱い男。

 

 

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【田沼意次】フロンティア精神溢れる熱い男。」というお話です。

 

田沼意次は経済通なだけでなく、外国アレルギーのない江戸時代には珍しい役人でした。日本が貿易立国になるのは田沼失脚と共に白紙になります。こうして江戸幕府は近代化のチャンスを逃す結果を招くのです。

 

 1734年、8代将軍・徳川吉宗享保の改革を実施しているとき、14歳の田沼意次は、次期将軍である徳川家重の雑務役として江戸城内でその政策を見守っていました。

 吉宗の改革が抜本的な改革にならなかったのは、お米=お金の米本位体制という経済のしくみに限界が来ていたからです。お米は農産物である以上、豊凶があります。獲れたり獲れなかったりします。そうなると、幕府としても年貢米が増収したり、減収したりと安定しません。

 かといって、農民が必死の思いでお米を増やしても、武士も農民もお米をお金に換金して生活しているので、米価が暴落し、みんなの給料が目減りするというジレンマに陥ってしまいます。こんな不便な制度は時代と共に崩れていくのが基本原則です。したがって、時代は「農業至上主義」から「貨幣至上主義」へと転換していったのです。

 

 田沼は吉宗の改革から以下のことを学びます。

貨幣経済は今後ますます普及していく。したがって、金・銀の獲得は必須になるだろう」

 商業活動がさかんになるにつれ、貨幣そのものの需要も高まってきていることに気付いたのです。

 吉宗が引退した1745年、家重が9代将軍に就任します。同時に家重に気に入られていた田沼は家重の側用人として政治運営に携わります。吉宗と大岡の活躍によって、幕府の財政は一時的に好転したにも関わらず、徳川家の相変わらずの浪費生活で再び幕府の財政は火の車と化していたのです。

 いよいよ田沼自身が財政再建の前線で活躍するときがやってきたのです。

 

 当時、「士農工商」の底辺であり、卑しい身分だった商人が力をつけていました。

田沼は商人から貨幣を収めさせることで幕府の収入増を図ったのです。まず、運上金・冥加金(税金)を収めさせる株仲間の奨励と、などの「儲かる資材」を幕府直営の座という団体を設立し販売する専売制を行いました。

 

 当時の貨幣の原料は金・銀です。しかし、国内ではすでに金・銀が不足状態になっています。というのも、長崎貿易では海外の商品を購入するカタチをとっていたため、国外へ金・銀が大量に流出していたのです。

 国内にないなら、海外から輸入するしかありません。そこで田沼は清との貿易を積極的に行うようになります。

清といえば現在の中国ですが、ナマコ、アワビ、フカヒレといった中華料理の高級食材の需要がもの凄い高く、それら3品を詰めて俵物として清に輸出し、金・銀を輸入したのです。

 

 また田沼は、工藤平助という医者が著した「赤蝦夷風説考」を読んで、当時未開の地であった蝦夷への憧れを抱きます。蝦夷地とは現在の北海道のことですが、現地の人はロシアとひそかに貿易していたのです。田沼はそれに目を付けました。ロシアってどんな国なのだろう。お金持ちの国なのかな。と期待に胸ふくらませていたのです。

 また、北海道は現在でもメロンやジャガイモなどのおいしい食材の名産地ですよね。蝦夷地の豊かな大地で美味しい作物が栽培出来れば、新たな市場開拓が出来るのではないか。そう考えた田沼はロシアとの貿易成立と、蝦夷地の探索のために、最上徳内蝦夷地に派遣します。

 

 このように田沼は国内に不足しつつあった金・銀を輸入し、南は長崎で、北は北海道でで貿易を拡大するという本格的な貨幣経済に備えていたのです。

 

 田沼は経済通なだけでなく、外国アレルギーがないという点でも江戸時代には珍しい役人だったのです。

 

 結局、ロシアとの交易は実現しませんでしたが、田沼は貿易に関して他にも様々な政策を計画していました。巨船を造って外国へ調査団を派遣したり、海外から知識人を招聘して技術や文化を取り入れたりすることも考えていたようです。その証拠に田沼の屋敷には南蛮(西洋)の珍奇な品物で溢れていました。

 あれ?戦国時代の織田信長もヨーロッパの文化を積極的に取り入れ、自分のコレクションにしていましたよね。田沼も信長同様、進取の気質に富む熱い男だったのですね。

 

 

 

 1772年、家重が死去し、息子の徳川家治が10代将軍に就任します。家治は父・家重の遺言通り、田沼を老中に任命します。田沼は遂に国の政権を握る最高責任者になったのです。

 老中になった田沼は貨幣の統一事業を行います。当時、経済圏は全国に拡大していたにも関わらず、江戸や大坂、地方で貨幣が異なるという現象が起きていました。これを全国共通の貨幣にすることで手間が解消され、経済が活性化しました。

これらの政策によって遂に幕府の財政は黒字に転じました。この頃、文化は江戸を中心に栄えます。元禄文化が上方(大阪)中心であったのに対し、この頃になって「江戸前」という言葉に代表される江戸中心の趣味の世界が開けたのです。これが後の化政文化へと発展していくのです。

 

「出る杭は打たれる。」田沼の功績を面白く感じない人達が現れます。その代表格が松平定信。定信は反田沼組織を結成。定信は田沼に自然災害や治安悪化の責任を追及し、老中を辞任に追いやったのです。

 

「経済通」という江戸時代には珍しい天才児であるはずの田沼がなぜ、失脚させられたのか。ここからはその理由も述べていきたいと思います。

 いつの時代も目立つ奴は潰そうとする輩がいるものです。出る杭は打たれるのです。田沼は一旗本の家に生まれたいわば中流階級の子。それが老中にまで成り上がったのですから。大出世と言えます。しかし、親藩譜代大名のような古くから徳川家に尽くしてきた人達からすれば面白くありません。

 新卒で入社し、何十年も会社に尽くしてきたのに中途採用として入った社員の方が、役職が上になったのですから、新卒入社組とすれば当然面白くはないでしょう。

その代表各こそ、吉宗の孫であり、白河藩主の松平定信です。

 

 株仲間という同業組合を結成したことで商人達は競争を辞めます。すなわち、企業努力をやらず、ラクして金儲けをすることを覚えてしまったことで、世間には「努力したくない」という風潮が出てきてしまいました。この風潮を招いたのは田沼だと定信は批判します。

 その後、田沼には不運が付きまといます。

 自然災害が人々を襲ったのです。

 1783年、浅間山が噴火します。噴火した火山灰は東北地方の稲を直撃。さらに噴煙が日光を遮りました。これに加え、冷害などの天候不順が続いたことも相まって、深刻な飢饉が発生します。それが東北を中心に起こった天明飢饉です。この飢饉は1781年から89年の6年間も続き、これは餓死者30万人という史上最悪の飢饉となりました。

 一方で商人達は米を買い占め、高く売りつけるという功利に走るという最悪な状況となってしまいした。

 

 田沼は飢饉が起きた被災地に対して何の手も打てず、野放しにしていました。そんな中、東北の白河藩福島県白河市)の藩主・松平定信は田沼のずさんさを次のように批判しています。

「虫ケラでさえ、冬のために食料を備蓄するのに国のリーダーたる者が緊急時や飢饉の時のための蓄えをしていないのか。」と。

 

 江戸では東北地方の飢饉に不安を覚えた町人が大規模な打ちこわしを起こします。

「俺達は米不足に悩んでいるのに、商人はなぜ米を買い占めるのか。これは商人を優遇してきた田沼のせいだ。」と。

 

 現代の私達も東北の被災地ということで連想されるのは、東北太平洋地震東日本大震災)です。あの時の政府のずさんな対応を見て、私も不安と不信感を覚えました。

「政府はいざとなったら、私達を見捨てる。」と。

 

 ある知事が「天罰が下った」などと発言していましたが、日本人は祟りなどの目に見えない力を信じる傾向もあります。

 

 それは当時の人々も同じだったのでしょう。民衆のやり場のない怒りや不安は、悪の為政者の反映だと考えるようになります。「田沼の悪政によって天罰がくだった」のだと。「天変地異が起きているのは田沼の仕業だ。」「為政者の悪の反映だ」などと批判の声が殺到します。

 

 そうなると、田沼の悪いところばかりが目につくようになります。

 

 そんな中、民衆の間でいつしか田沼に対するこんな噂が流れます。

「田沼は悪商人から大量の賄賂を受け取っていた。」と。

 

 こうして1786年、松平定信は災害や暴動の責任を田沼に追求。田沼は遂に老中を辞任に追い込まれました。

 

 田沼は最後までひたむきに公務を全うしていました。本当に彼は時代の変化やニーズを把握し、近代国家の樹立を目指していたのです。

 

 「賄賂」を当時の感覚でどこまで絶対悪とみなすかは注意が必要です。当然ですが、江戸時代は今よりずっと汚職や悪行が横行していました。賄賂でもなければ生計が成り立たない職業もあったくらいです。もちろん褒められるようなことではありませんが、そこまで非難されるほどのことでもなかったでしょう。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

【田沼意次】織田信長の再来!?重商主義の革命児

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【田沼意次織田信長の再来!?重商主義の革命児。」というお話です。

米を幕府の収入とする従来の全農主義を崩し、貨幣を幕府の収入とする重商主義を目指した。それまでの常識を覆す革命を起こしている点は戦国時代の織田信長に似ていると考えます。

 

 

悪商人「田沼さん、いつもお世話になってます。今後ともごひいき下さい。」

田沼「ふっふっふっふ。お主も悪よのう。」

悪商人「いえいえいえ。御代官様ほどでは。」

悪商人が差し出したお饅頭の下には一面に小判が敷き詰められていたのでした・・・。

 

 「賄賂政治」といえば、こんな場面をイメージされる方が多いのではないでしょうか。

 田沼意次といえば、「賄賂をもらっていた」とか「幕府を私物化していた」と言われ、腹黒政治家というレッテルを貼られています。とんでもない。彼こそ、貨幣経済を活性化させ、幕府の財政を立て直し、かつ近代国家への推進を図った革命児と言って良いと思います。

これは田沼失脚後の80年後の明治時代、ぞれは実現しますが、田沼は従来の常識を根底から覆すような近代合理主義の政策をしていったのです。これと同じような革命を起こした人が戦国時代にもいました。そう。織田信長です。田沼と信長には以下のような共通点があります。

  1. 貨幣経済を活性化することで、現金をかき集めること。
  2. 中央集権国家を目指したこと。

 田沼は商業経済・貨幣経済を活性化することで、貨幣をかき集め、幕府財政の立て直しを図りました。それまでの幕府の基本財源は農民からの年貢です。幕府は年貢米をお金に換金することで、財政を立てていました。

 したがって、農村には米以外の商品が入ることを防ぎ、農民が功利に走らずに年貢米を確実に収めさせるようにするという全農主義をとっていました。これが従来の幕府の基本政策です。田沼はこれを180度転換し、商人からの貨幣(現金)を収めさせ、幕府の財源としたのです。

 信長も銭を集めるために経済を活性化する政策を行っています。それが「楽市・楽座」とよばれる自由な商業形態です。田沼も商業活性化のために「株仲間」という政策を打ち出します。商人達に「株仲間」を奨励したのです。しかし、この株仲間は自由ではなく、価格統制が目的で、商人達に適正価格で商売をするよう求めた政策です。

 例えば、ある商品を買うのに価格が高すぎると誰も買いません。なので、やたらと価格を吊り上げるなということです。逆に、価格が安すぎると商人達が儲かりません。なので、競合他社同士、競争は辞めて、ある程度儲かる一定の価格で売っていいよ。というルールを創ったのです。高すぎず、安すぎず、適性価格で売るようにしたのです。

 また、営業独占権を与えることで、競合他社の新規参入を禁止するようにしたのです。こんなおいしい政策なら商人達は喜んで税金を払ったことでしょう。要するに、「十分儲けさせてやるから、その代わり、幕府に儲けの一部を運上金・冥加金として収めなさい」という意味です。(運上金・冥加金とは現在でいう税金のことです。)

 

 面白いのは、信長は同業他社の新規参入を許可した開放的な政策なのに対し、田沼は新規参入を禁じた閉鎖的な政策である点です。例えば私達は、トイレットペーパーが多少高くなっても買いますよね。生活必需品だから。田沼の時代は200年前の信長と違い、多様な消費物資が生まれ、生活必需品が増えた結果、一社が営業を独占する販売形態でも商品は売れたのです。

 

 さらに、田沼は専売制という政策も行っています。専売制とは、幕府は儲かりそうな事業について座という団体を作り、幕府が直接、運営することで、その莫大な収益を吸い上げることが出来るようにしたのです。儲かりそうな事業にはをはじめ、真鍮朝鮮人などの人気商品が選ばれました。

 

 

 田沼は全国統一の貨幣制度を創りました。江戸時代の地方分権国家から中央集権国家へ大きく舵をとったのです。しかし、田沼失脚と同時に白紙に戻ります。中央集権国家の実現は明治時代まで待たなくてはいけません。田沼の政策は時代を少し先取りした政策だったのです。

 

 

 

 地方分権国家であった室町幕府を滅ぼし、信長は中央集権国家を目指していました。既存のあらゆる組織をぶち壊し、自らが国王になって全国を支配する国を創ろうとしたのです。

 しかし、江戸幕府成立と共に地方分権化に戻ってしまいます。秀吉は信長の意志を継ぎ、統一国家を達成したものの、傘下においた全国の諸大名を養うことが出来ず、失敗に終わりました。

 家康は秀吉の失敗から学び、地方分権国家を創りました。したがって、年貢を幕府に収めさせるようなことはせず、基本的に各藩がそれぞれの政治を行うようにさせていました。信長や秀吉は改革派でも、家康は保守派です。だからこそ家康は江戸に「幕府」を開き、自らは「征夷大将軍」となって鎌倉幕府室町幕府のような従来の武士社会への原点回帰を図ったのです。

 

 徳川歴代の政権担当者達は家康の統治を模倣することが最善策と決めつけ、旧来通りの米本位の農業主義の政策を取り続けます。いかにもイシアタマの軍人さんらしい考えですが、旧来のやり方が正しいわけではありません。

 時代が変われば社会経済も変わります。

 いつまでも「士農工商」にふんぞり返り、「商人なんてかまっていられない・・・」と言っている場合ではなかったのです。それくらい新たなモノやサービスが生まれ、貨幣経済が普及し、商業活動がさかんになってきたのです。

 例えば、町には傘売り、古着屋、酒屋、豆腐売り、納豆売りなど 消費物資が売られるようになり、料理屋や菓子屋も生まれ、旗本や御家人の宴会などには利用されましたし、歌舞伎や小説などのエンターテイメントも出てきました。

 

 田沼は信長とは違い、支配者はあくまで徳川将軍。自分はその将軍に雇われたサラリーマンです。したがって、将軍の権威を強くすることは、自分を強くすることになります。田沼は武士のあるべき姿は、将軍を強くすることだと教え込むのです。

 

したがって、あらゆる組織をぶち壊した信長とは違い、田沼は江戸幕府という既存の組織を維持いたまま、日本を近代国家へと成長させようとしていたのです。

 

 

では、田沼は具体的にどのようにして中央集権国家を目指したのでしょうか。それは、統一貨幣の確立です。田沼は幕府公認の全国共通貨幣を創ったのです。当時、江戸では金貨が使われ、大阪では銀貨が使われ、各藩では藩札とよばれるものが使われていました。例えば、江戸の人が大阪に旅行に行く時は、金貨を銀貨に交換(両替)しなくてはならなかったのです。それがかなりの手間で、現在の外国為替並みに厄介でした。しかも、枚数ではなく、秤にかけて重さで計算されるので、余計に手間です。これは間違いなく経済活性化を阻害する要因になります。

 

下記の言葉は田沼の残した名言です。

「金だろうが、銀だろうが、幕府が認めれば価値は同じだ。」

田沼は、江戸時代の役人クラスには珍しいお金の本質をばっちり見抜いている「経済通」だったのです。

 

 私達が持っているお金は、金でもなければ銀でもありません。お金そのものには価値はないのです。しかし、私達はそのお金で日々の買い物をしています。なぜでしょうか。それは日本銀行という信頼のある組織が作っており、国民は日本銀行が認めたそのお金を信用しているから取引が成立するのです。そう、お金とは信用で成り立っているのです。田沼は今でいう銀行のような機能を幕府に持たせようとしたのです。

 ところで、今現在はお金のしくみが中央集権から地方分権に進んでいますよね。仮想通貨というカタチでこれから普及していくことでしょう。現在は日本銀行という中央集権化が極端に行き過ぎています。その結果、地方分権化が進んでいるのです。極端から極端に移り変わっていく。これが時代の流れだと私は気付きました。

田沼の政策は続きます。

 

 

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮でした。

 

【享保の改革】江戸ノミクス・米将軍のジレンマ 後編【徳川吉宗】

こんにちは。実は最近、チンサムロードがマイブームの本宮 貴大です。

今回のテーマは【享保の改革】江戸ノミクス・米将軍のジレンマ 後編【徳川吉宗

というお話です。

 

金融政策か。成長戦略か。吉宗は決断を迫られました。吉宗の改革によって米価の上昇と消費物資の価格上昇は抑制されます。しかし、それは一時的なものでしかなく、今後貨幣経済の普及と同時に、米本位体制の経済システムは限界に達していることを思い知るのです。

 

 享保の改革とは、吉宗が1716年に将軍に就任したと同時に行われた改革であり、彼は徹底した倹約と収入の増加にも取り組みます。その政策の1つにそれまで禁止されていた新田開発を町人請負新田というカタチで復活させたことが挙げられます。町人請負新田とは財力のある町人が資本を導入し、関東を中心とした新田開発のことで、吉宗はこの政策で米の増加を図ります。

 これによって全国の米の量は増え、幕府は年貢米を大量に徴収することが出来ました。その結果、1722年、ついに吉宗は幕府の借金14万両を返済することができました。

 

 しかし、米を増やしたことで、米価の暴落という副作用を招いてしまったのです。

 米価の下落は給料の目減りを意味します。したがって、庶民は皆お金を使いたがらず、世の中は不景気になります。

 米余りによる不景気を打破しなくてはならない。これが吉宗の課題でした。

 吉宗は直接、米の価格の調整に入ります。

 まず、大阪の堂島米市場に遣いを送り、大阪の商人達に米を幕府が指定した公定価格で買い取るよう指示したのです。すなわち、商人達に幕府が一方的に決めつけた価格で米を買い取るよう強要したのです。

 そりゃぁ商人からすれば、今まで500円で購入出来ていたお米2キログラムが、突然1000円で購入しなくてはならなくなったのですから面白くないです。

 大阪の商人達は市場からどんどん撤退。商人達は米の価格が安い別のところで米の買い取りをするようになりました。

 吉宗のこの政策は失敗に終わります。

 

 吉宗の次の策、それは株仲間の公認です。商人達に同業組合を作らせ、その他の消費物資を固定価格で売るよう命令を出します。価格高騰を続けている消費物資の価格統制をしたのです。しかし、本来1000円で売れたはずの消費物資を500円で売らなければならないので、商人達は当然、猛反発しました。

このような需要と供給の経済システムを崩した吉宗の政策はまたしても失敗に終わります。

 

 次に吉宗が取った政策は。幕府による米の買い占めです。

 市場に出回っている米を出来る限り買い占め、市場における米の量を減らし、米の値段を吊り上げようというのです。しかし、当時の日本は江戸を中心に人口が増え、市場経済は幕府の力ではコントロールしきれないくらい大きなものになっていたため、幕府だけでは対応しきれないくらいまで拡大していました。すると、大名や商人達にまで米の買い占めを強要しました。しかし、お金に換金出来ない安い米ばかり買い占めてはその分、不利益が生じます。この政策も失敗におわりました。

 

 米の相場と常に睨めっこし、米の買い占めを強要する吉宗のことを大名や商人達の間では、いつしか米将軍というあだ名が付き始めました。

 

 そんなこんなで1730年、米価は吉宗の将軍就任時の4分の1まで下落していました。

 

 万策尽きて途方に暮れている吉宗の元にある救世主が現れます。江戸町奉行として物価対策にあたっていた大岡忠相(おおおか ただすけ)です。彼は次のような提案をします。

「米の価格を上げるには、貨幣を増量する必要があります。」

 つまりお金の量を増やして、お金をお米と同じくらいの価値まで下げなくてはいけないというのです。現在で言う「アベノミクス」という金融政策をやりましょうというのです。

 

 しかし、吉宗には不安がありました。貨幣を増量すれば、以前のようにニンジン1本が1万円になるというハイパーインフレを引き起こされ、大混乱が起きるのではないか。米の値段が上がるのは良いが、連動して他の商品も値上がりし、人々の生活はさらに苦しくなるのではないかということです。

 

 このような危惧から吉宗は忠相の提案を却下。

 

 吉宗は新たな政策を考えます。そこで出てきたのが、成長戦略です。

米が金にならないのであれば、米以外の作物を農民達に作らせ、それを換金するようにしようと言うのです。米以外の作物として浮上したのが、菜種です。これは灯油の原料となる作物ですが、江戸を初め主要都市には人口増加のため、灯油の需要が増えていました。つまり米本位体制から菜種本位体制に切り替えるという政策です。

 

 金融政策はインフレを引き起こす危険性を秘めている。一方で、この成長戦略、かなりリスクが付きまといます。今まで栽培したことのない作物を栽培するのですから当然時間がかかり、お金もかかります。軌道に乗るまで農民達を食いつなげるだろうか。もし失敗すれば農民はさらに苦しむことになります。

 

金融政策か。成長戦略か。吉宗は決断を迫られます。

 

 そんな中、1733年に享保の大飢饉が発生します。米余りが一転して米不足に変わりました。米不足に悩んだ江戸の下層町民が米を買い占めていた商人の米問屋を襲うという打ちこわしが起こります。

しかし、この享保の大飢饉は1年ほどで収まります。またしても、米価の上昇が起こったのです。

 大岡忠相から、もう一度進言を受けます。

「もう待ったなしです。米の値段を上げるには、貨幣を増やすしかありません」

 決断を迫られた吉宗はついに金融政策という決断を下します。

 

 こうして1736年、遂に吉宗は、大岡忠相を主導者として貨幣の品位を落とした改鋳に踏み切りました。新しい貨幣はどんどん増産され、市場に回り始めました。

 この金融政策によって米価は上昇。そして、その他の消費物資の価格抑止は一時的ですが、実現したのです。

 経済面においてかなり苦戦を強いられた吉宗ですが、当時、アダム・スミス国富論などありませんから、仕方がないことですが、吉宗には「商品の需要と供給の変化による価格変動」という考えは、難しかったのでしょう。

 これをきっかけに吉宗は米本位体制の経済システムは限界に達していることを幕府は思い知ります。その証拠に、続く田沼意次の政治では貨幣主義の財政再建に乗り出しています。

 米は農作物である以上、豊凶があります。したがって、価格は安定しません。米本位体制は時代とともに崩れていくのはむしろ当然のことだったでしょう。

 

ここからはインフレとデフレの話になります。

1990年のバブル崩壊から現在の2017年まで日本はずっと不景気だと言われてきました。つまり、この27年間日本の国内総生産は横ばいで、日本は経済成長しなかったのです。「失われた20年」がもうすぐ「失われた30年」になろうとしています。

 

この原因は一体何なのでしょうか。

テレビやラジオ、新聞ではデフレが原因だと言い、大人達もデフレが原因と言います。

前回の繰り返しになりますが、デフレは原因ではなく、結果です。すなわち、

デフレになる→ものが売れない→不景気になる。ではなく、

ものが売れない→デフレになる→不景気になる。というメカニズムです。

マクロ経済とは一言でいうと「需要と供給のバランス」です。

ものが売れないのはなぜでしょうか。需要がないからです。例えば、あなたが今からテレビを製造するテレビ会社を設立したとします。その事業は上手くいくと思いますか?おそらく上手くいかないと思います。日本国内には、テレビがある程度行き渡り、需要がないのです。

需要がないから売れ残るのです。

今後、テレビの需要が見込める海外にでも出店しなければ売れません。

結局、不景気なのは誰が悪いのでしょうか。消費者?企業?政府?

これは明らかに企業です。日本の企業は市場分析やニーズの把握という企業努力を怠り、売れる商品の研究をしていないということです。

「作った分売れる時代ではないから。」

「黙っていて売れる時代ではないから。」

結果ばかり分析しても仕方がないです。「なぜ売れないのか」という原因を分析しなければいつまでも解決しません。

私も、このブログを書いて痛感しています。投稿した記事が、面白いと思われれば、アクセス数は急上昇するのに、面白いと思われなければアクセス数は急降下します。結果がダイレクトに出る完全実力主義の世界です。したがって、私は絶えず研究しなければなりません。何が受け入れられ、何が受け入れられないのか。人々は何を求めているのか。

エンターテイメント?共感?実用性?

話が大きく脱線しましたが、今後私も努力をしなければいけないと思いました。

以上。

今回も最後まで閲覧して頂き、本当にありがとうございます。

本宮 貴大でした。それでは。

参考文献

日曜日の歴史学 山本博文著 東京同出版

江戸早わかり事典 花田富士夫著 小学館

面白いほどよくわかる 江戸時代 山本博文監修 日本文芸社

 

 

【享保の改革】江戸ノミクス・米将軍のジレンマ 前編【徳川吉宗】

 こんにちは。実は最近、ふ菓子がマイブームの本宮 貴大です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは【江戸ノミクス】米将軍徳川吉宗のジレンマ 前編【徳川吉宗

というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

デフレーションとは国の発展によってもたらされた結果であり、豊かな生活を与えくれる政策です。一方、インフレーションとは単にお金を増やしたことによって商品・サービスの量や質は変わらないのに値段が上がってしまい、豊かさを感じない政策です。

 今回から1716年に8代将軍に就任した徳川吉宗享保の改革をご紹介していきます。その際、マクロ経済の勉強少ししておかなくてはいけません。

 

 まず、前提知識として、価値の高低は、数が多いか少ないかで決まります。例えばダイヤモンドと石ころで考えると、ダイヤモンドは数が少ないため、価格は高くなります。しかし、石ころは数が多いため、価格は低くなります。これを前提知識として持っておいてください。

 では、マクロ経済の勉強をしたいと思います。

 

 まず、A国という国のA商店のAさんは1匹の魚を100円で売っていました。

 しかし、今年は大量発生しているせいか魚がたくさん獲れました。魚の数が増えたため、魚1匹あたりの価値は下がったのです。一方、お金の数は増えていません。魚の価値が下がったため、必然的にお金の価値が上がったのです。すると、A商店では魚2匹を100円で提供することが出来るわけです。魚1匹を100円で買っていた時代と比べて、魚2匹を100円で買えるようになったのですから100円の価値は上がったということになります。つまり、物価が下がったということです。これがデフレーションです。

 

「え?デフレって悪いことなんじゃないの?今の話を聞いていると買う側からすれば良いことのように感じるけど・・・」と思った方は、後ほど説明します。

 

 次に、国Bという国のB商店のBさんは1匹の魚を100円で売っています。しかし、国Bはお金を大量に刷りました。お金をたくさん創ったのです。すると、お金の数が増えたので、お金の価値は下がります。一方で、魚の数は増えていません。お金の価値が下がったため、必然的に魚の価値が上がるのです。すると、B商店では魚1匹が200円で売っているという現象が起こるのです。魚1匹を100円で買っていた時代と比べて、魚1匹を200円で買うのですから100円の価値は下がったということになります。つまり物価が上がったということです。これがインフレーションです。

 

 解説に入ります。デフレーションとは、モノの生産力が上がった「結果」、供給過剰になり、物が売れず、モノ余りが続く状態を指します。したがって、モノの価値が下がり、物価が下落するのです。先程の例で言うと、魚2匹が100円で手に入るのですから、むしろ良いことです。つまり、デフレーションは「原因」ではなく、「結果」なのです。生産力が上がるという国の発展が「原因」となってデフレーションという「結果」が起きるのです。

 そこで、下落した物価を元通りにするにはどうすれば良いでしょうか。そうですね。ここで初めてお金を増刷するのです。そうすると、モノが増えた分、お金も増えたので、魚1匹が100円へと元通りになるのです。

 つまり、お金を増刷するというインフレを促進する行為は、モノの生産力が上がり、デフレが起きてから行うのです。

 デフレを起こすのは、企業の生産力を上げる必要があるため、難しいです。しかし、インフレを起こすのは、お金を刷るだけなので簡単です。

 安倍首相のアベノミクスや日銀の黒田総裁の「黒田バズーカ」はお金を刷っただけで数字を弄っただけの政策なのです。国の生産力が上がっていない状態で、お金ばかり増えてどうするのですか。商品の質や量が変わっていないのに値段が高くなってしまうのです。順番が逆なのですよ。だから昨今の私達の生活は豊かになったと感じないのです。

 

 ここまで読んでいただいた方なら「デフレは悪ではない」ことがお分かり頂けると思います。これでもまだ、「デフレは悪」と思う方はテレビや新聞に完全に操作されています。

 

 

徳川吉宗の行った享保の改革はお米を増やすことで幕府の財政再建を図ろうとしました。しかし、お米が増えたことで米価が大暴落。インフレーションが起きてしまったのです。吉宗の政策には近代的な経済的現象が入り込んでしまったのです。

 

 

 

 

 「改革」とは「改める」という漢字が使われているので、何かマズイことが起きており、その危機的状況を打破するための政策を行ったということです。

  

 この時の7代将軍・徳川家継は当時8歳。持病が悪化し、いつ死んでもおかしくない状態でした。将軍職は完全なる世襲制で後継者は基本的にその子供が引き継ぐことになっていました。しかし、家継はまだ8歳。当然子供などいません。したがって、幕府は将軍の後継者問題に直面します。

 そんな中、徳川御三家の1つ紀州藩の領主であった徳川吉宗が将軍として推薦されるようになります。そして7代将軍・家継が8歳で亡くなったと同年の1716年、吉宗が8代将軍として大抜擢されました。

(当時の大名には区別があり、徳川御三家親藩、長く徳川家に仕えていた大名を譜代大名関ヶ原の戦い後に徳川家の傘下になった大名を外様大名としていました。)

 

 当時、幕府は財政難に陥っていました。

 4代将軍・徳川家綱の頃、明暦の大火が発生し、江戸がほぼ全焼。その再建に多額の費用がかかってしまったのです。さらに、5代将軍・徳川綱吉は学問を重んじ、仏教儒教を奨励していました。そのため、仏教のシンボルである寺社の造営を積極的に行っていました。さらに徳川家は接待など日夜、贅沢な生活をしていました。

 その結果、幕府は多額の借金を抱える羽目になりました。幕府は借金返済を早急にすませるため、貨幣を増やす金融政策を始めます。

 例えば、あなたがローンで1000万円の借金をしているとします。一方で、あなたにはお金を増刷する権限があります。この場合、あなたは1000万円の借金を早急に返済する手段は、お金を増やすことです。したがって、幕府は貨幣の改鋳に躍起になります。

(改鋳とは・・貨幣に含まれる金の量を減らし、貨幣の量を増やす行為。その結果、元禄貨幣は光り方も鈍く、あきらかに価値がさがっていました。)

 

 お金の数が増えたので、お金の価値は下がります。それに連動して他のモノの値段が上がってしまいました。例えば、ニンジン1本がナント、、、1万円という事態が発生してしまったのです。つまり、ハイパーインフレが起こってしまったのです。

 

  吉宗はまず、この非常事態を解消するべく市場に出回っている古い貨幣の回収をお行いました。みんなの協力の甲斐あり、たった2年で3分の1の貨幣を回収することに成功しました。

 

 一方で、幕府の再建をどうすれば良いのでしょうか。

 まず、吉宗が出した改革は、改革ではお馴染みの「質素・倹約令」です。

例えば今まで1日3食だった食事を1日2食にしなさいと命令を出したのです。それ以上は「腹のおごりだ。」と戒めました。

 

 次に吉宗が出した改革は全国各地の「新田開発」です。田畑を増やし、お米の収穫高を増やし、農民からお米を大量に徴収しようと考えたのです。「え?貨幣(お金)じゃないの?」と思う方もいるかも知れませが、当時は土地至上主義で、お米がお金同然の価値をもっていたのです。

 当時の人口の9割を占めていた武士と農民の生活の糧はお米から生まれていました。

武士達は農民から徴収したお米を商工業者にお金に換金してもらい、生活しています。一方、農民達もまた、獲れた米の量から年貢米の分を差し引いて、さらに自分達の食べる米の量も差し引いて、余ったお米を商工業者にお金に換えてもらい、その他の商品を購入しています。

 当時はお米こそが価値あるもので、お米こそが人々の生活を支えていた米本位体制だったのです。

 お米の量が増えるまでの間、幕府が食いつなぐために、吉宗は前代未聞の政策に出ます。なんと、全国の諸大名から参勤交代の在府期間を半年にする代わりに、お米を貸してほしいと願い出たのです。将軍自ら「恥じを顧みず申し渡す」と前置きし、諸大名からお米を借り上げました。これが1722年の「上げ米の制」です。

 

 吉宗の新田開発の甲斐あって全国の米の生産量は大幅にアップしました。これで幕府のところには大量の米を徴収することに成功しました。

 しかし、お米の数量が増えたので、米の価値は下がります。

 例えば、あなたが江戸時代の農民だとして、今までは、お米2キログラムで1000円に換金し、そのお金でキャベツとニンジンのセットを買っていました。

 それが、お米の数が増えたことで、お米の価値は下がってしまいました。一方で、お金の数は増えていません。したがって、お米2キログラムでは500円にしか換金出来なくなってしまいました。その結果、キャベツとニンジンのセットが買えなくなってしまいました。

 今まで通り、1000円に換金するには、お米を4キログラム用意しなくてはなりません。そう、お米の価値が下がったため、必然的にお金の価値が上がったのです。

 その結果、キャベツやニンジンなど、その他の物の値段が高くなってしまうといういわゆる「米価安の諸色高」が発生してしまったのです。

 

 ましてや、質素倹約令も出されているため、世間は「倹約第一」の風潮。したがって、商工業者も、お米は今まで通りの量はいらないのです。なので、米は余ります。お金に換金出来ず、お米ばかり余ってしまうという米価の暴落が発生したのです。

 

 武士も農民も給料が減ってしまい、生活苦になってしまったのです。当時の武士の日記にはこんな記録もありました。「馬も飼えなくなり、人も雇えなくなった・・・」と

 

 現代では、生産力を上げることはデフレーションを起こすため、人々の生活は豊かになります。

 しかし、吉宗の時代では、お米=お金の米本位体制なので、お米を増やすのは、お金を増やすことと等しい政策だったのです。

 

 特に吉宗が行った新田開発は、米の生産力が高まったため、安くお米が手にはいるようになり、一見、豊かな生活になったように感じますが、実はお米の価値を暴落させるというインフレーションを促進する政策だったのです。

 

 18世紀の経済学者・アダム・スミスが提唱した「神の見えざる手」という経済的現象が吉宗の改革の中に入り込んでしまったのです。吉宗はある意味、日本史上初めて、近代的な問題に直面した将軍だと言えるでしょう。

お米の値段を上げるにはどうすれば良いのでしょうか。「何としても米の価格を適正価格まで上げなくてはならない。」これが吉宗の課題です。

吉宗の戦いは続きます。

以上。

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

【江戸時代】江戸幕府公認の学問 朱子学とは【林羅山】

 こんにちは。実は中学時代イケてないグループに属していた本宮 貴大です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【江戸時代】江戸幕府公認の学問 朱子学とは【林羅山】」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

平和な時代になった江戸時代中期。この頃から町人文化が発展をしてきます。非常に華やかで井原西鶴近松門左衛門菱川師宣などが活躍した文化です。

 

 文治政治は4代将軍・家綱、5代将軍・綱吉、6代将軍・家宣7代将軍・家継の時代まで続きます。特に5代将軍・徳川綱吉が将軍に就いたときの1681年に、従来の武家諸法度第1条の改定がされています。

従来は「文武弓馬の道、専ら相嗜むべきこと。」

つまり、「学問や武芸に熱心に取り組む事」とされてきましたが、綱吉の時に、

「忠孝をはげまし、礼法をただし、常に文道武芸を心がけ義理を専にし、風俗を乱すべからざる事」とされました。

 つまり、「忠孝をはげまし礼法をただし、常に文道武芸を 心がけ義理を専にし、風俗を乱さぬ事」という意味です。

 

 「欲望を抑え、規律ある生活をし、もっと学問や文化に励め」という文治政治らしい法律へと変わったのです。この時代、徐々に優秀な学者が研究に専念し、学問として成立するようになってきます。学問が発展するということはそれだけ戦いや反乱もなく、治安が安定し、平和な世の中になったということを意味します。

 

平和な時代が続いたため、徐々に元禄文化という文学・芸能・絵画・学問・思想などが発展していくのです。これらを17世紀後半から18世紀前半の江戸時代中期に生まれた元禄文化といいます。

 

元禄文化には、歌舞伎、人形浄瑠璃浮世草子俳諧など豊かな作品世界が広がりました。

 近松門左衛門浄瑠璃作品は現在の映画のような感覚で楽しまれ、井原西鶴浮世草子と呼ばれる現在の大衆向けの小説が登場。教養ではなく、エンターテイメントとして人々に楽しまれました。

 絵画においては菱川師宣見返り美人が有名ですが、浮世絵版画と呼ばれる絵画の大量生産システムが開発されました。

これら元禄文化はお金のあるところ。つまり富裕層の間で誕生した町人文化です。

 

さぁ、娯楽も良いですが、学問に励むことも大事です。

この時代は「学問の夜明け」とも呼ばれ、学問や思想が発展していきます。教科書にはチラッとしか出てこず、授業でもあまり触れてくれない。でも試験には出る範囲ということで、今回から数回に分けて、元禄文化の学問や思想について述べていこうと思います。

 

儒教の教えに注目した徳川家康にスカウトされた林羅山。彼は中国の朱子学を独自の解釈をして日本独自の朱子学として大成します。この思想は江戸時代のピラミッド社会の形成に大きく貢献しました。

 

 

  江戸時代を通じて代表される学問と言えば、儒教ですね。この儒教は今日の私達の道徳教育のベースにもなっている近代日本を説明する上で大変重要な学問・思想です。私達が学生の頃から受けている道徳教育に非常に強い影響を受けています。

儒教とは中国の思想ですが、どのような思想なのでしょうか。

その典型例といえば、年功序列です。すなわち、「年長者ほどエラい。」、「年長者を敬うべき」というのは私達の日常では当たり前ですよね。あれは儒教の教えから来ています。さらに欲を抑えて、理性的で規律ある行動こそが美徳であるとする思想です。名残と言って良いでしょう。

 

 日本はそれまで仏教が主流であり儒教とはあくまでその周辺範囲の思想。つまりマイナーな学問とされていました。しかし江戸時代になるとこの儒教が一気に主流になります。

 この江戸時代に儒教の教えは朱子学派、陽明学派、古学派と枝分かれしていき、日本独自の思想へと発展していくのです。

 

 ではなぜ、仏教の国であった日本が江戸時代になって、急に儒教の教えを重んじるようになったのでしょうか。江戸時代以前はいわゆる「戦乱の世」であり、「天下を取るのはこの俺だ!」と言わんばかりに人々が殺し合いをしていた時代でした。その結果、子供が親を殺す、弟が兄を殺す、部下が上司を殺すといった下剋上の風潮が強かった時代です。それが織田信長豊臣秀吉徳川家康の活躍によって、天下統一が達成され、平和な時代になったのです。

 徳川家康儒教の中でも特に朱子学に注目しました。

 当シリーズでもたびたび出てきましたが、朱子学封建社会を創るうえで非常に便利な思想・学問だったのです。

 封建社会とは一言で言うと、国王をトップとしたピラミッド型の社会のことですが、儒教という「年長者を敬うべき」という思想は安定した身分制度を創る上で非常に便利な思想だったのです。その結果、国民が規律を守り、反乱がなく、徳川家が支配者としていつまでも存続するような国を創ることが出来たのです。

例えば、飛鳥時代にも聖徳太子が官人への規範として十七条の憲法を発足し、強力な中央集権国家を創ることを目指しました。

 言ってみれば朱子学とは支配する側には都合が良く、支配される側には都合が悪い学問だったのです。

ということで今回は儒学の中の朱子学派の学者であり、藤原惺窩の弟子である林羅山を主人公として話を進めていきたいと思います。1583年、京都に生まれ、13歳から建仁寺で学問に励む。22歳の時に藤原惺窩に入門を許可され、朱子学にも励むようになる。その後、家康に学才を認められ、駿府城に居候します。家康の死後も、秀忠、家光、家綱の側近として幕府の出版事業や外交文書、法律関係の重要な政務に携わります。

 

 その学説の根本には理と気による理気二元論があります。これは宇宙の原理である「理」を学ぶことで、人間の欲望である「気」は「理」に一致していくという思想です。

 人間は欲望や感情のような私利私欲を持っています。これを「気」と呼びますが、一方で、人間は宇宙で最も優れた動物であり、高い学習能力があるため、理性的で規律ある「理」を学び取ることが出来るとした。

 したがって、徳を積むことで「理」を学ぶことが出来、人間の中に内在する「気」が鍛えられ、「気」が「理」に一致し、理に従う人になることが出来る。その結果、やがて心の平安が訪れる。としています。

 

 

 少し難しいですね。

 要するに人間誰しも持っている欲求や感情を抑えて、礼儀作法を学び、規律ある生活を送り、それを極めれば、宇宙や世の中の真理を知る人徳のある人間になることが出来るという教えです。

 このような考えを「格物致知」と言います。

 

 これが本来の朱子学の教えですが、林羅山朱子学では全然違うことを言っているのです。

彼は、頻繁に「上下天分の理」という思想を強調しています。

天は尊く、地は卑し。天は高く、地は引くし。上下差別あるごとく、人にもまた君は尊く、臣は卑しきぞ。

つまり、人には生まれながら身分が決まっており、不平等である。上位の身分の人達は尊い存在でるが、下位の身分の人達は卑しい存在なのだという

これは朱熹朱子学とは全く関係ない思想です。朱熹朱子学には身分差別のことは一言も言っていないわけです。

 さらに、林羅山が重視したのは「敬」である。それは「存心持敬」と呼ばれ、自分の欲求や欲望に支配されずに礼儀を正す敬を持つことだとした。これは朱熹朱子学でも同じです。

 しかし、ここでまたトンチンカンな主張します。存心持敬は格物致知の実現ではなく、上下天分の理の実現のためと言っています。さらに敬を「うやまう」ではなく、「つつしむ」ことと解釈しています。私利私欲が少しでもあるとそれを戒める。しかしその目的は上下天分の理のためとされているのです。

 

ちょうど水戸黄門で、「この紋所が目に入らぬか!」と助言われ、下々の者は「ハハーッ」と膝まづくようなイメージです。家紋を見せるだけで反乱が収まるわけですから支配者側からすればこれ以上都合の良い思想はないわけです。水戸黄門のあのシーンが史実通りであれば、上下天分の理という林羅山朱子学は徹底されていたのでしょう。

 

  時代が変われば、思想も変わります。今現在、このような考え方はあまり受け入れられませんよね。理性や規律は未来への保証があってこそ成立するものであり、変化が激しく、先行き不透明な現在では、むしろ物欲や野心などの欲望がないとやっていけない時代です。欲望こそが未来を創る原動力になっているのです。

 

 

 

話を江戸時代に戻します。

  

徳川将軍お墨付きの学問である朱氏学派はどんどん普及していきます。

これだけ自由と平等が当たり前になっている世の中ではとても受け入れられないことですよね。

 

 朱熹朱子学は、何も庶民だけでなく、国王も仁徳を持つべきだと主張してします。

朱子学は万人に共通の教えとして 国王も欲を抑え、規律と礼儀ある行動をしなくてはいけないとされています。もし、国王にそれらの作法が欠如していた場合、市民が革命を起こし、国王は追放されても仕方がないという考えがあります。

 ところが、林羅山朱子学にはその教えはないのです。徳川将軍家は毎日贅沢な生活をしていたのです。庶民には欲を抑えて規律ある生活を要求しているにも関わらず、これも従来の朱子学とは大きく異なる点です。

林羅山は1657年に死去。その後、子息である林鵞峰(はやし がほう)が引き継ぎます。

綱吉が5代将軍になる頃には朱子学派の門下生であった新井白石が輩出されます。白石は6代将軍・家宣と7代将軍・家継に仕えて理想的な君主像を彼らに講義しました。

 

まぁ、林羅山のこのような思想は現在の世の中では到底受け入れられる考えではないことは周知の通りだと思います。

当時の江戸時代にも案の定、この思想を批判する学者が出てきます。ということで、次回は中江藤樹を紹介したいと思います。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

【生類憐みの令】実は悪法ではなかった!?5代将軍徳川綱吉の政策

 こんにちは。実は味覚オンチの本宮 貴大です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【生類憐みの令】実は悪法ではなかった!?5代将軍徳川綱吉の政策」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

江戸時代は里子、捨て子、間引きが横行しており、動物達も当たり前のように捨てられていました。生類憐みの令とは命を粗末にする民衆への戒めと正しい倫理感を植え付ける目的の法律だったのです。

 

 テレビなどのマスメディアで親がまだ幼い自分の子供を虐待したという報道を目にすると、心が痛みます。ニュースのコメンテーターは近年の社会問題だとか、核家族化が崩れたためとか、死角の多いマンションが増えたからとか・・・いろいろな意見を述べています。

 大人の児童虐待は本当に最近の話なのでしょうか。

 

 いいえ。江戸時代では現在では、考えられないような子供の虐待が行われていました。

 当時、子供は11~12歳で住みこみの就職(奉公)に出るため、働き手、稼ぎ手としては大変貴重な存在。女子は10歳前後で遊女に売ることも出来ました。養育費においても学校等に通わないため、大変安上がりです。

 したがって、子供を養子として差し出すとかなり儲かります。したがって、子供はどんどん産まれました。そう、江戸時代の子供は売り買いの道具だったのです。

 

 また、江戸時代は里子が多かったと見て間違いないようです。里子とは、親から金銭と衣類を付けられて他人に養育を依頼された子供のことですが、江戸時代には有効な避妊具はないので、未婚の妊娠は数えきれないほど多く、街には里子が溢れていました。

 当時も堕胎という概念があり、女性の堕胎医もいましたが、堕胎の技術は粗雑なもので、母体にもかなりの悪影響を与えます。堕胎にリスクが伴うのであれば、たとえ望まない妊娠でも産まざるをえません。

 

 しかしながら、里子に金銭や衣類を身につけさせるのは富裕層だから出来ることであり、貧しい層になるとボロ布に包まれただけの子供を「どうか、元気に育っておくれよ。」と親が囁いて他人の家の玄関に置き去りにするという「捨て子」となってしまいます。

 

 百歩譲って、捨て子ならまだ良い。もっと悲惨なのは「間引き」といわれる風習です。

 

 「間引き」とは、生まれたばかりの赤ちゃんを殺すことで、産婆に頼めば実行してくれました。産婆とは助産婦のことですが、出産の手助けの他、間引きも役割も担っていました。どうやら貧しく子沢山の夫婦が多かったようです。

 主に東北や関東を中心にすでに3~4人の子供がいる親は生まれてくる子を間引いていたことが記録に残っています。これは貧しい農山村だけでなく都市部に住む庶民や下級武士の間でも行われていました。江戸時代は子供が死亡しても原因究明もされなければ、医師による死亡診断書も必要ないので、基本的には親の言い分通りに処理されてしまいます。

 

  これらは当時の社会問題となっていました。したがって、5代将軍・徳川綱吉は「生類憐れみの令」を出しました。この命は学校の授業や教科書では極端な生命尊重を命じた「厳しい法律」と紹介されています。最近では犬を愛護していたことで「犬将軍」とやや面白可笑しく描かれていますが、決して気まぐれな将軍の思いつきによる命ではなく、実際はそれなりの合理性のある命だったのです。 

 捨てられていたのは、子供だけでなく、年寄りや病人も当たり前のように行われていました。

 物資の運搬として機能していた牛馬も、ケガや病気で歩けなくなったら捨てられる。犬も猫も鶏も同様に・・・犬などは野犬化すると人に危害を加える危険な存在にもなります。また、犬を試し切りする武士が多かったことなど記録が残っています。

 

 このような命を粗末にするような野蛮な風習を辞めさせるために綱吉はこの法律を創ったのです。改正も含めて135回も出されたのは無視されていたため。「いい加減に守れよ」といったところでしょうか。

 綱吉の「厳しい政治」とは殺伐とした気風を教化し、欲望まみれに行動する人々に倫理感を植え付けさせることだったのです。

以上。

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。それではまた。

参考文献

本当はブラックな江戸時代 永井義男 著 辰巳出版

日本史 100人の履歴書 矢部健太郎 監修 宝島社