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【浜口雄幸内閣】協調外交はなぜ挫折したのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【浜口雄幸内閣】協調外交はなぜ挫折したのか」というお話です。

第一次世界大戦後、列強諸国は戦争を放棄し、軍縮を進めました。浜口雄幸内閣は、列強諸国と強調するべくロンドン海軍軍縮条約を締結。しかし、それが海軍軍令部からの反発を招き、されに野党立憲政友会からも統帥権の干犯だと攻撃を受けてしまいました。


 田中義一内閣が満州某重大事件(張作霖爆殺事件)の収拾に失敗して倒れたあと、政権の座を取り戻したのが民政党浜口雄幸内閣でした。
 この内閣が掲げていたのは、緊縮財政と国際協調です。

1930(昭和5)年4月、協調外交と軍縮政策を進める浜口内閣は、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、海軍の軍縮政策と国際協調路線を推し進めました。

 今回は、浜口内閣の外交政策として国際協調を取り上げ、そんな協調外交がなぜ挫折したのかについてお話したいと思います。

 

 1914年に勃発した第一次世界大戦は、それまで人類が体験したことのないほどの悲惨なもので、多くの犠牲者を出してしまいました。

 そこで、第一次世界大戦後の1919(大正8)年のパリ講和会議の結果、ヴェルサイユ条約が結ばれ、ヨーロッパの平和秩序を維持するための様々な取り決めがされ、二度とあんな悲惨な戦争が起こらないよう、国際的平和機構である国際連盟も発足されました。

 また、1921(大正11)年には、ワシントン会議が開かれ、今度はアジア太平洋方面の平和秩序を維持するための取り決めがされました。

 その中で、1922(大正12)年のワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、海軍の軍縮に先鞭(せんべん)がつけられ、アメリカ・イギリス・日本・ドイツ・イタリアの先進諸国は大幅な軍縮を行いました。そこでは、アメリカ・イギリス・日本の主力艦の比率は5:5:3に、つまり日本はアメリカに対し、6割の主力艦の保有が認められました。

 ワシントン海軍軍縮条約で、主力艦が制限されたため、列強間の建艦競争は補助艦に移りました。

 そこで、1927(昭和2)年、今度は補助艦についても軍縮を決めるためにスイスのジュネーブで会議が行われます。しかし、イギリスとアメリカが対立したので不成功に終わりました。

 それが、今回のロンドン海軍軍縮会議において、英米間の折り合いがつき、日本・イギリス・アメリカ・ドイツ・イタリアの主要海軍国における補助艦の保有量に制限を加えてパワーバランスを構築しようという狙いがありました。

 この会議への参加は、田中内閣の時点で、すでに閣議決定されていましたが、浜口内閣になってからようやく若槻礼次郎元首相らを全権として送りました。

このように列強を中心とした世界各国は、「国際平和のため」という名目で、次々に軍縮を行っていきました。

 一方で、主力艦の建艦が制限されたため、列強各国は建造途中の戦艦の処分や、軍事予算の大幅な削減に苦労するという不都合な状況にも立たされました。

 その分、戦艦をはじめ、関連業種の需要も減退するため、景気は悪くなります。人件費削減のため、海軍への就職口も狭まり、海軍兵士の給与も減ります。

 日本の帝国海軍も強い反発を示しました。そして特に海軍軍令部では以下のような意見が定説となりました。

「太平洋に侵攻してくるアメリカ戦艦に対抗するには、最低でも7割の兵力がなくてはならない。」

 海軍軍令部長加藤寛治や次長の末次信正らは、ワシントン会議時の加藤友三郎海相による対米6割の受け入れに強い不満を残しており、御前会議において以下の三大原則の決定を要求しました。

1.補助艦は合計で対米比7割の比率を確保すること

2.ワシントン会議での大型巡洋艦保有量も対米比7割の比率に改定すること

3.潜水艦は現保有量を確保すること

加藤らは、各地への宣伝にも努めていました。

 一方で、同じ帝国海軍でも海軍省は「条約締結は仕方なし」とする勢力で、彼らは条約派と呼ばれました。全権団に随行する財部海相や、岡田啓介軍事参議官や、鈴木貫太郎侍従長は、かつて2個師団増設問題で政党と正面衝突した(大正政変)陸軍の轍(てつ)を踏むべきではないと考えており、2大政党の一方から永く怨まれることは海軍のためにも望ましくないとしていました。

 このように海軍部内では条約に賛成する「条約派」と反対する「艦隊派」に分裂し、以後、両派の対立が構造化していきます。

 さらに、同じ軍部でも陸軍からの反発はあったのでしょうか。

 陸軍相の宇垣一成は、問題に深く立ち入ることなく一貫して政府を支え、陸軍を統制したため、反発は起きませんでした。


 さて、ロンドン会議の全権は、若槻礼次郎元首相を全権主席とし、軍縮交渉は同1930(昭和5)年1月から開催されました。

 しかし、日本の対米比7割の要求に対し、アメリカやイギリスから強い批判がありました。

 若槻礼次郎主席全権はアメリカ代表のスティムソン国務長官、イギリス代表のマクドナルド首相と交渉し、妥協点を模索しました。
交渉は3か月にも及びました。

 辛抱強い交渉の末、同1930(昭和5)年3月12日、補助艦に関しては日対米比率69.75%というきわどいですが、ほど7割の水準で妥結。

 潜水艦に関しては日・英・米は同量を保有する妥協案が成立するという日本側の希望がほぼ認められました。

 しかし、大型巡洋艦に関しては、条約の期限である1935年までは対米比7割以上を確保で良いが、それ以降は6割以下に抑えると決められました。その代わり、アメリカは保有可能な18隻のうち、3隻の起工を1933年以降とすることで妥結しました。

 この案は、当時の日本とアメリカの国力差を考えれば破格の扱いでした。

 主席全権の若槻は本国に電文し、同案の承認を請訓しました。

「これ以上の成果は望めません。何とかこの水準に妥結したいと存じます。」

 しかし、これに対し、海軍軍令部の「艦隊派」は、大型巡洋艦の対米比率はあくまでも7割以上でなければいけないと異議を唱えました。このとき、帝国海軍はアメリカを仮想敵国としており、対米7割に満たない妥協案は到底呑むことが出来ない取り決めでした。
「この案ではアメリカに対し、5分5分での軍備を持つというカタチにならないではないか。」

昭和天皇は、浜口首相を励まします。
「世界の平和のために早く纏めるよう努力せよ。」
昭和天皇は妥協案を承認し、ロンドンにいる若槻全権団に条約への調印を回訓しました。
加藤軍令部長天皇に反対上奏を試みます。
「これでは、多くの海軍兵士からの反発を招くことでしょう。軍令部長として責任は取れません。」
しかし、侍従長鈴木貫太郎の説得に加藤は引き下がり、海軍としては不足する兵力を補充に努めることで、その鉾(ほこ)を納めました。
そして同1930(昭和5)年4月22日、全権はロンドン海軍軍縮条約に調印しました。

ところが、問題はその批准過程で再燃しました。
野党や枢密院、そしてマスコミが政府の方針に対して強い批判展開したのです。
この条約を締結した浜口内閣は、与党政権としては立憲民政党でした。
当時、野党の立場だった立憲政友会はライバルである民政党に少しでもつけ入る隙があれば徹底的に叩くという姿勢でした。
つまり、この軍縮条約を政争の道具として使ったのです。
政友会は政府攻撃のために大日本帝国憲法11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という統帥条項を持ち出し、政府が海軍軍令部の反対を押し切って条約に調印したことは、天皇大権の1つである統帥権、すなわち陸海軍を指揮・命令する天皇の大権を犯すものであり(統帥権の干犯)、憲法違反であると浜口内閣を激しく非難しました(統帥権干犯問題)。
この統帥権の干犯を最初に持ち出したのは、立憲政友会の総裁・犬養毅でした。
「日本の陸海軍は、天皇直属の組織であり、政府が勝手に軍縮を決めるのはおかしい。」
野党政友会は、民政党を攻撃するために、眠れる枢密院をわざわざ活性化させたうえに、海軍の一部と提携する行動に出ました。
結果として、この統帥権干犯問題は、軍部が政治介入する口実を与えるきっかけとなりました。軍部は政府が軍の意向に沿わない決定をしようとすると、それがあたかも統帥権の干犯に通ずるかのような政府批判を展開するようになり、内閣や議会が干渉することが出来ない、半ば独立した存在になっていきました。

こうしてロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐり、軍縮を進める政府(浜口内閣)と軍縮に反対する海軍軍令部の対立関係は徐々に深まりました。
これに政友会や枢密院、右翼、マスコミが加勢し、政府批判を展開しました。
「浜口は海軍軍令部や陸軍参謀本部をないがしろにし、軍を指揮する統帥権を内閣、すなわち政党の下に置いて、大元帥を廃する計画をしている。」
そして、同1930(昭和5)年11月14日、浜口首相は東京駅で右翼の佐郷屋留雄(さごうやとめお)に狙撃されて重傷を負い、療養に専念しなければならなくなった。そこで、幣原外務大臣が臨時首相代理を務めることになりました。

 

参考文献
マンガでわかる日本史 河合敦=著 池田書店
昭和史 上 1926~1945  中村隆英=著  東洋経済新聞社
教科書には載ってない大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
さかのぼり日本史 ③昭和~明治  御厨貴=著  NHK出版
大日本帝国の興亡【満州と昭和陸海軍】   Gakken