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【第一次世界大戦】なぜ日本は日露戦争の借金を一気に返済出来たのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【第一次世界大戦】なぜ日本は日露戦争の借金を一気に返済出来たのか」というお話です。

 なぜ日本は日露戦争の借金を一気に返済出来たのでしょうか。結論を最初に言うと、「大戦景気です。ヨーロッパで起きた第一次世界大戦によって日本は大儲け出来たのです。

 ということで、今回は第一次世界大戦の大戦景気によって日本はいかにしてその経済的利益を享受出来たのか。を見ていきたいと思います。

日本は大戦景気によって経済的利益を享受することが出来日露戦争の借金を全て完済。それだけでなく、外国にお金を貸すようにもなります。日露戦争のツケは大戦景気で返済。債務国から債権国へ。日本は国家財政を一気に立て直すことに成功しました。

 

 1904(明治37)年、日本はロシアと戦争をしました。日露戦争の勃発です。日本は戦費調達のためイギリスやアメリカの富豪に外債を買ってもらいました。しかし、戦いに勝利した日本は1905(明治38)年のポーツマス条約でロシアから賠償金を獲得することが出来ませんでした。その結果、日本は膨大な借金を抱える債務国(外国からお金を借りている国)になってしまいました。

 この借金をどうにかして返済しなければいけません。さもないと日本は今後、イギリスやアメリカとの外交や貿易において非常に不利な立場になってしまいます。明治維新以来、必死で取り組んだ富国強兵も全て水の泡になります。

 大蔵省は財政の立て直しを図るため、外国との貿易では赤字にならないようにし、借金返済に充てなくていけなくなりました。しかし、その状況は大変厳しく、外国からお金を借りて、それで前の借金を払い、また新たに借金をするということを続けていました。

 そんな中、海軍は大型の戦艦を建造するなど景気のいいことばかりやっていました。その結果、だんだん政府の資金繰りがつかなくなり、様々な新事業を白紙にするという「事業仕分け」をやるなど、政府は極端な緊縮財政をやらざるを得なくなりました。

 そんな状況にも関わらず、陸軍は2個師団増設を要求してきました。これが1912(大正1)年12月、大正政変という騒動が起きるきっかけになるのです。

以上が日露戦争から第一次世界大戦直前まで日本の政治情勢です。

 

 この後、1914(大正3)年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、日本は大戦景気を享受できるわけですが、その利益を最大限にしたのが、戦争直前の1911(明治44)年に小村寿太郎外務大臣によって達成された条約改正です。そう、関税自主権の撤廃です。開戦によってヨーロッパが混乱し、改正交渉に応じられなくなるギリギリセーフでの条約改正でした。

 もし、日本が自由に関税をかける権利をみとめられていなければ、大戦景気の経済的利益は享受出来なかったでしょう。

 

 大正政変によって総辞職した桂太郎ジーメンス事件によって総辞職に追い込まれた山本権兵衛に続き、1914(大正3)年4月、国民からの人気が高かった老政治家・大隈重信による第二次大隈内閣が発足しました。苦しい政局が待ち構えているかに思えましたが、大隈は幸運に恵まれます。

 大隈内閣発足からわずか3カ月後の7月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発したのです。

 この戦争を元老・井上馨は「大正の天祐」と表現しました。

「この戦争は天からの恵みじゃ。大正新時代、我が国は外交関係だけでなく、経済的な享受も大いに得ることが出来るだろう。」

 日本は日英同盟を口実に第一次世界大戦に参戦します。

 日本はヨーロッパ向けに武器や弾薬を輸出します。ヨーロッパ向けの貿易はスエズ運河を通っていくか、あるには南アフリカの先を回っていくか、どちらにしても大西洋を北の方へ上って物資が届けられます。日本が連合国側に参戦したとなると、ドイツは日本の貿易船も撃沈するでしょう。現にドイツはイギリス近海を航行している船はどの国のものでも潜水艦で撃沈するぞ。という無制限潜水艦作戦を始めています。そのため一時的にヨーロッパへの貿易が途絶える結果になりました。

 

 日本の主力製品は生糸や綿糸で、アメリカ向けの貿易は続きましたが、ヨーロッパ向けの貿易が止まった結果、生糸が大量に余り、生糸の相場は暴落。原料である繭を作る農家も打撃を受けます。

 日本は大変な不景気になりました。

 一方でヨーロッパから日本に向ける輸入も途絶えました。第一次世界大戦は欧州各国の総力戦への発展し、ヨーロッパは混乱していたのです。したがって、当時日本が輸入に頼っていた鉄や鋼など重工業製品の価格が暴騰しました。

 大戦景気の恩恵を受けることを大いに期待していた大隈内閣は焦ります。

 そんな中、日本が大儲け出来る絶好のチャンスが訪れました。

  中国や東南アジアに進出していたヨーロッパ系の企業が戦争のため本国へと撤退していったのです。

 それに代わって日本の企業は東アジアや東南アジアという巨大な市場へと大量に製品を輸出するようになります。

 日本は日清戦争戦後に軽工業分野で産業革命を経験、日露戦争前後には重工業分野でも産業革命が起こっており、アジア屈指の工業国となっていました。繊維製品、雑貨、靴、家具など生活に必要な「メイド・イン・ジャパン」がどんどん輸出されていきました。日本はヨーロッパに代わって発展途上のアジア諸国消費財を供給したのです。

 

 それからヨーロッパからの輸入に頼っていた化学工業や機械工業は、嫌でも国内生産を可能にしなければなりませんでした。例えば、それまでドイツからの輸入していた薬品や化学肥料は国内生産を行うようになり、日本の化学工業が発展するきっかけとなりました。

 

 鉄や鋼などの重工業は、官営の八幡製鉄所が1901年に創業を始めましたが、中々軌道に乗せることが出来ずにいました。それがヨーロッパからの輸入が途絶えたことで、今後大きく伸びていきます。対戦景気は日本を依存から自立へと導いたのです。

 機械工業では、当時、日本には日立鉱山という鉱山用の電気機械を修理する小さな工場がありました。それが外国の電機製品を真似ることで電機機械を作り始めました。日立鉱山は現在、日立製作所という日本が世界に誇る大企業になっています。また、池貝鉄工所もアメリカ式旋盤の完全製作に成功しています。

 

 それまで日本が必死で取り組んできた富国強兵・殖産興業による工業力の下地があったからこそ、今回の大戦景気の波に乗ることが出来たのです。

 

 戦争が始まってから1年が経った頃、停滞していたヨーロッパへの輸出が徐々に再開されました。生糸や綿糸などの価格も回復。やがてヨーロッパへの軍需品の輸出が急拡大していきます。

  

 大戦景気は1915(大正4)年から1920(大正9)年まで続きますが、この間、続々と企業が勃興し、「成金」という言葉が流行し、大成功を収める起業家が多数出ました。

 例えば内田信也は、三井物産を退職して兄から借りた2万円(当時のお金)で1914年に海運業を始めたが、世界的な貿易用の船舶不足によって船や鉄鋼の生産が伸び、船の運賃も急上昇しました。そのため、内田は操業から3年後、なんと資本金は1000万円、所有する船は17隻、資産は6000万円を超える超大金持ちになりました。

 このような造船業・海運業の急成長による「船成金(ふねなりきん)」とよばれる‘にわかお金持ち‘が多数生まれました。内田信也は後に政治家として政友会に入ります。

 

 第一次世界大戦は、それまでの戦争とは違う大戦争で、世界経済に非常に大きな影響を与えました。日本が得た恩恵は、輸入品を国産化出来たこと、東アジア・東南アジア・そしてヨーロッパへの輸出が拡大してことです。

 輸入が減って、輸出が増える。

 戦地から遠く離れた日本経済は大いに活気付きました。

 この戦争で日本は当時のお金で28億円の儲けを出しました。これにより、日露戦争で抱えた負債を一気に返済することが出来ました。それどころか、戦費調達のためにイギリスやロシアが発行した公債を日本は買うような余裕まで出てきました。日本は大戦景気で債務国から債権国になりました。

 

 ただ、これらはあくまで大戦景気であり、1919年の戦争終結と同時に翌年から輸出が急減、それに連動して起業の業績も悪化、株式も暴落してしまい、日本経済は戦後恐慌に見舞われる結果となります。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社