【荻生徂徠】朱子学を批判した学問 古文辞学
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【荻生徂徠】朱子学を批判した学問 古文辞学」というお話です。
江戸時代に発達した学問といえば、「儒学」です。鎌倉時代に仏教が日本で発展したように、江戸時代も儒学が日本で発展しました。
しかし、一口に儒学といっても日本で流行したのは大きく3系統に分けられます。
「儒学」とは中国の孔子の教えをまとめた『論語』を解釈した学問ですが、朱子学や陽明学はその弟子達が解釈した学問になります。朱子学なら朱熹という人が、陽明学なら王陽明という人が解釈した学問です。
そして日本では朱子学を林羅山が、陽明学を中江藤樹が受容し、体系化していきました。
しかし、孔子の教えを朱熹や王陽明などの弟子の解釈から間接的に学ぶのではなく、孔子の教えを直接学ぼうとする人々が現れました。これが古学派の人達になります。以下、儒学3系統の代表的な学者をまとめた表を載せておきます。
朱子学派 |
陽明学派 |
古学派 |
朱熹が解釈した学問 |
王陽明が解釈した学問 |
孔子の教えを直接的に学ぶ |
小林惺窩 |
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熊沢蕃山 |
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木下順庵 |
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荻生徂徠(おぎゅうそらい)は『論語』以前を学ぶことで、『論語』とは道徳などの個人の修養ではなく、政治のあり方を示す経世済民の術であると解釈しました。すなわち、「私の道徳」ではなく、「公の政治」です。その後、彼の弟子である太宰春台が現れ、江戸時代は経世論が流行り始めます。
今回は古学派の古文辞学の創始者である荻生徂徠(1666~1728)について紹介してまいります。
これまで古学の祖・山鹿素行や、古義学の創始者・伊藤仁斎を紹介してきましたが、今回紹介する荻生徂徠は彼らと大きく異なる点が2つあります。
1つ目は、素行や仁斎はいずれも『論語』そのものを研究しており、孔子さんの教えを直接学びとろうとしました。しかし、荻生徂徠は『論語』‘以前‘を研究しており、孔子が生きた春秋・戦国時代よりさらに前の時代を学ぼうとしている点です。
つまり徂徠は「我々が孔子を手本とするように、孔子さん自身も以前の誰かの教えを手本にしているのではないか」と考えたのです。
2つ目としては、素行は士道を、仁斎は仁愛を提唱しましたが、いずれも庶民(武士)に対する教えであり、彼ら自身も庶民です。ところが荻生徂徠は支配者層に対する教えを説いており、徂徠自身も幕臣になっています。
つまり徂徠は「そもそも『論語』とは庶民など被支配者に対する教えではなく、官僚など支配者に対する教えなのではないか」と考えたのです。
既出のように孔子は春秋・戦国時代の皇帝ですが、その時代はいわゆる「戦乱の世」であり、不安定な時代です。そこで孔子は春秋・戦国時代以前の「殷」や「周」もしくはそれ以前に天下安泰の世が成立しており、その時代の皇帝の政治を学び、『論語』としてまとめたのではないかと考えたのです。
徂徠は、このような古代中国の偉人や聖人の古典や文辞(文章と言語)を当時の意味で解釈することで学びとる古文辞学を提唱しました。
徂徠は1666年に江戸幕府4代将軍・徳川家綱の弟である綱吉の専属医の子として生まれます。14歳の頃、綱吉が5代将軍になると、父が島流しに遭い、浪人生活を送りながらも学問に励みます。
綱吉政権になったことで、学問を好み、尊重する本格的な文治政治が始まります。
30歳になった頃、綱吉の側用人である柳沢吉保に学者としての能力を買われ、再び幕臣に抜擢され、政治の道を論じるようになります。
引退後は江戸に私塾・けん園塾を開き、古文辞学と経世済民の儒学を完成させました。
徂徠は少年時代も含めて、幕府の実態を目の当たりにしています。
江戸時代の徳川将軍家は豪華絢爛な生活をしており、昼から酒を呑み、鯛の尾頭を食べ、大奥へ行けば‘絶世の美女‘と好きなように遊べる欲望まみれの生活をしていました。
一方で庶民に対しては朱子学を利用して「朝から晩まで仕事をし、しっかりと年貢を納めなさい」と徹底的に教えこんだのです。
「農民は生かさず、殺さず」とは徳川家康の言葉ですが、家康は天下泰平の世という大義のもと、徳川一族が何百年も遊んで暮らせるようなしくみをつくったのです。
徂徠は考えます。
「もしかして支配者がもっと政治に関心を持ち、優れた政治を行えば、天下安泰の世は実現するのではないか。」と。
『論語』とは、被支配者に対して示した道徳なのではなく、支配者に対して示した道徳なのであり、孔子は古代の偉人の教えを学ぶことで春秋・戦国時代を終わらせようとし、それらをまとめ、『論語』としたのではないか」と。
では具体的に支配者がどうすれば天下安泰の世が築けると徂徠は解釈したのでしょう。先程チラッと出てきました。経世済民。そう、経済です。
経済の語源は世を経(おさ)め、民を救う経世済民から来ていますが、徂徠は、政治を運営する人達は、経済を活性化させることこそ社会秩序の安定と民衆の安寧につながると主張しました。
朱子学も陽明学も個人の修養を目的としている学問です。また古学の山鹿素行も伊藤仁斎も同様です。しかし、荻生徂徠の古文辞学は政治家が経済を活性化させるという大局的な視点での修養を目的としている学問です。つまり、「私の道徳」から「公の政治」へと180度転換させたのです。
荻生徂徠の開いた私塾・けん園塾は多くの学者志望者を集め、やがて徂徠の系統から太宰春台という学者が現れます。彼は著書・「経済録」の中で経済を重視する学問を提唱します。ここから江戸時代は経世論が流行り、経済録はその最初の著作になります。
この後、1772年、経済学のプロである老中・田沼意次が政治を行いますが、彼の失敗は天明の飢饉の際、米価高騰によって商人が米の売り渋りをするという人の感情が入り込んだ現象が発生したことです。つまり経済学の基本である需要・供給曲線通りに行かなかったのです。
人には感情があり、理性的な人間を前提として扱う経済学のようには実際の経済は動かないことが実証された典型例です。
現代を生きる私達には、荻生徂徠の提唱した経世済民の術は残念ながら理想論であったことがわかります。そこで現代注目を浴びているのが行動経済学という学問です。
以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。