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歴史はストーリーで覚える。 【江戸時代編 その1】

こんにちは。本宮 貴大(もとみや たかひろ)です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「歴史はストーリーで覚える。 【江戸時代編 その1】」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

なぜ、関ヶ原の戦いが起きたのか。秀吉の「成長志向」が豊臣政権内の分裂を生み出してしまった。関ヶ原の戦い勝利した家康は「成長志向」を完全否定する実例教育を大名達に見せつけます。江戸幕府は今後、「安定志向」を歓迎する維持された大組織になるのです。

 今回は江戸時代編ということですが、家康が開いた江戸幕府とは一体どのような組織だったのでしょう。それを説明するために秀吉の朝鮮出兵まで時代を少し巻き戻して考えてみます。

 秀吉の朝鮮出兵は巨大組織を維持するために新たに領土拡大をし、その領土を報酬として大名に与えることを目的としていました。しかし、朝鮮の兵力もかなり強力で年貢収入を上げるための領地拡大という目的だけで達成出来るものではありませんでした。

 実は秀吉が朝鮮出兵を決断する前に、五奉行石田三成からある提案がされていたのです。その案は、貿易立国への転換です。朝鮮や明と交易を広げ、その収益を得ようとした。

 しかし、この案は石田三成のような貿易や商業の知識とスキルのある大名は大いに活躍出来るだろうが、戦いなどの軍事的な成功を収めた加藤清正などの従来の武士の功労者には利益が少ない。したがって加藤清正は貿易立国の案に大反対します。これが力が自慢の武断派と、頭脳集団である文治派による対立となり、武断派を東軍、頭脳派を西軍とした関ヶ原の戦いが発生したのです。

 この不平等は最後まで解消出来ずに秀吉は朝鮮出兵に踏み切ったのです。

 その結果、石田三成らは、商業目的で軍を進めながらも、和議を求めて逃げる相手に話し合うために追いかけるという悲劇な状況となり、一方の加藤清正らは軍事的成功を求めて侵略行為をするという不可能な目的を追いかける。その間にあった秀吉は迷い苦しんだ末に、この世を去ります。

 当時の朝鮮や明は日本の貿易に応じる気は全くなく、石田三成の貿易立国は不可能な計画だった。一方の加藤清正らの考えた植民地化も住民の強い抵抗や日本の統治技術の不足からたとえ軍事的に成功しても不可能な計画であったのです。

 こうして朝鮮出兵は失敗に終わります。

 関ヶ原の戦い勝利し、秀吉の実質的な後継者となった家康はこの成長体質を完全否定する。実例教育を大名に示します。

  なんと、関ヶ原で味方した大名達の家を次々に取り壊したのです。関ヶ原の戦いで敵対した毛利や上杉、島津とは対照的に家康側に最も忠実に働いた加藤清正福島正則などの

 関ヶ原の戦いで敵対した大名の家を取り壊してもその時の恨みや将来への危惧からとしかとらえられないでしょう。しかし、忠実な大名の家を壊されるとその原因は何かと考え始める。それが成長志向だとこのとき、皆、気付いたことでしょう。

 現代で喩えると、バブルに乗って土地投機をした会社がバブル崩壊によって倒産しても、みんさんは、「投機って危ないねえ。」くらいににしか思わないでしょう。しかし、真面目な大手会社が真面目な先行投資や事業多角化をして倒産した場合、世の中から成長志向は消えうせるでしょう。

 ということで、今回は関ヶ原の合戦後、家康の安定志向の組織体制について学ぼうと思います。

 

秀吉の一代で興亡した教訓から家康は何代にも渡って政権を維持する組織を目指したのです。

 

 秀吉が失敗した成長志向ではなく、安定志向のよる政治体制であった。

秀吉が犯した失敗。秀吉の家臣団はバカでも悪人でもありませんでした。成長を続けた巨大組織を養うためにはどうすれば良いかを絶えず考えていました。しかし、成長志向を悪にし、安定志向に発想を転換するということが出来なかったのです。

領土を拡大し、力を強めるという成長志向を辞め、安定して奉公することが美徳と教育された。これが3代将軍・徳川家光が定めた参勤交代へと引き継がれていきます。

 

江戸幕府の組織体制はどんどん整っていきます。江戸幕府3代将軍・徳川家光のときです。

 

江戸幕府は2代将軍・徳川秀忠の時代までは、まだまだ軍事的要素の強い組織体制で将軍の意志がストレートに現場に届くというものでした。

しかし、家光の時、江戸幕府の政治体制が完全に整い、将軍様は稟議書にハンコを押すだけで良いとされた。徳川家光は「生まれながらの将軍」とよばれ、強力なリーダーシップを発揮し、幕府の組織作りに励んだ。

大名は1万石以上の領地を与えられました。その大名は3つに区分されます。徳川一門を親藩、戦国時代から長く家康に仕えた大名を譜代大名関ヶ原の戦いによって徳川氏に屈服した大名を外様大名としました。

トップを将軍とし、

この家光、大名統制に関して非常に厳しい態度で臨みます。諸大名の監視役を担う「大目付」を新設します。家光が警戒心を強めたのは、外様大名だけではありません。なんと家光の弟・忠長を自害に追い込みます。家光が重病を患ったとき、諸大名が忠長を奉じて謀反を起こそうとしているという噂があったからだと言われています。

 家光の大名統制の代表的な政策に参勤交代があります。大名の妻子を江戸に人質として差し出し、1年おきに江戸まで往復させる道中の費用や宿泊費を負担させ、幕府に逆らう力をつけさせないようにするものでした。

鎖国という極めてドメスティックな政策に乗り出すのです。

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮 貴大でした。それでは。