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【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく(前編)

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく」というお話です。

 浜口雄幸内閣の幣原喜重郎外務大臣のもと、1930(昭和5)年にロンドン海軍軍縮条約が締結されました。

 政府は当初、海軍軍令部との間で、対アメリカの補助艦保有率の最低ラインを7割と決めていましたが、実際の条約はこれを下回り、5割のところで締結されました。

 その結果、統帥権干犯問題が起こってしまいました。

 野党の立憲政友会(以下、政友会)や海軍軍令部、右翼などは海軍軍令部長の反対を押し切って政府が兵力量を決定したことは、天皇大権のひとつである統帥権を犯したのだと非難されたのです。

 

 その結果、幣原喜重郎の協調外交は弱腰外交だと非難され、このままでは満州における日本の権益が損なわれるという「満蒙の危機」が叫ばれるようになりました。

 政府は枢密院の同意を取り付けて、条約の批准に成功したが、1930年11月、浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃され、重傷を負ってしまいます。

 浜口内閣は完全に力を失い、翌1931年4月、浜口内閣は総辞職、浜口自身も間もなく死亡しました。

 

 浜口内閣の後を引き継いだのは、同じ民政党若槻礼次郎でした。若槻は2度目の総理就任だったため、第二次若槻内閣として発足しました。

 

 この頃、中国国内では国権回復を求めて民族運動が高まっており、その運動が満州にも及ぶことに危機感を深めた関東軍は、満州を長城(ちょうじょう)以南の中国主権から切り離して日本の勢力下におこうと計画しました。

 関東軍は参謀の石原莞爾(いしはらかんじ)を中心として、同1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして日本は軍事行動を開始、中国から満州を奪い取り、植民地利権を確保しようとしたのです。いわゆる満州事変が勃発したのでした。

 

 一方、国内でも、軍部中心の強力な内閣を作ろうという、国家改造運動を唱える軍部や右翼が台頭してきました。

 当時は、昭和恐慌といわれる深刻な経済不況が起きており、こうした日本の行き詰まりの原因は財閥・政党などの支配層の無能と不敗にあると考え、これらを打倒して軍中心の強力な内閣をつくり、内外政策の大転換を図ろうというのです。

 その結果、同1931(6昭和)年には陸軍青年将校のクーデター未遂事件として、3月には3月事件が、10月には10月事件が起こり、ました。翌1932(昭和7)年2月には、血盟団というテロ集団が井上準之助を、3月には三井合名会社の中心で理事長の団琢磨を暗殺します(血盟団事件)。

 こうした国家改造運動の思想的な基盤の1つが、北一輝の『日本改造法案大綱』でした。彼は財閥や政党など特権階級の廃絶を目指し、クーデターで天皇を奉じて国家改造を行おうと主張したのです。

 こうした内政、外交ともに暴走する軍部を若槻内閣は阻止しようとします。若槻内閣は不拡大を宣言しますが、内閣には統帥権がなかったためその抑止は出来ませんでした。そんな若槻内閣が長続きするわけもなく、自信を失った若槻内閣は総辞職しました。

 元老の西園寺公望は、もはや民政党のような弱腰内閣ではやっていけないと判断して、次の内閣は野党の政友会に任せようとして、同1931(昭和6)年12月に政友会総裁だった犬養毅を総理にしました。

 犬養内閣は中国と直接交渉し、事態の収拾を図ったが、関東軍の暴走は止まりません。関東軍満州の主要地域を占拠し、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を執政として、同1932年3月、満州国の建国を宣言させました。

 アメリカはこうした日本の一連の動きに対して不承認宣言を発し、中国からの訴えと日本の提案で、国際連盟理事会は事実調査のためにイギリスを団長とするリットン調査団を現地と日中両国に派遣することにしました。

 関東軍リットン調査団の結果報告を国際連盟に届けられる前に、満州国の建国宣言をしたのです。

 犬養内閣も、関東軍の動きを認めませんでした。

 これに対し、右翼や軍部は反発し、1932年5月15日、海軍青年将校の一団が首相官邸に押し入り、犬養毅首相を射殺するという事件が起きてしまいました。(五・一五事件)。

 この状況では政党内閣は存続できないとして、西園寺は海軍の穏健派の斎藤実を後継首相に推薦しました。

 ここに大正以来8年間に及んだ政党内閣は崩壊し、「陸軍も海軍も財界も政党も、みんなで協力しよう」という挙国一致内閣が誕生しました。斎藤実内閣はその第一号だったのです。

 

 しかし、斎藤内閣は陸軍などの強硬意見を抑えられず、結局は満州国を国として認める日満議定書を結びました。政府は既成事実を積み上げて、自分達の正当性を主張し、何とか国際連盟に対抗しようとしました。

 しかし、連盟側は1933(昭和8)年2月の臨時総会で、リットン報告書にもとづき、満州国は日本の傀儡国家であると認定し、日本が満州国の承認を撤回すること求める対日勧告案を採択しました。すると、松岡洋右率いる日本全権団は、総会の場から退場し、同年3月に日本政府は正式に国際連盟からの脱退を発表しました。

 同1933(昭和8)年5月、塘沽(たんくー)停戦協定が結ばれ、満州事変事態は収束しました。しかし、日本は満州の経営・開発をやめることはありませんでした。
こうした陸軍の動きを止められない斎藤実内閣は1935年に総辞職します。

 

 このころ、ヨーロッパではファシズム全体主義)という、暴力的な方法で民主主義や人権を無視する全体主義が台頭します。イタリアのムッソリーニ日着るファシスタ党や、ドイツのヒトラーによるナチスなどです。このした全体主義の思想はやがて日本にも波及していくのでした・・・・。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうござました。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
アナウンサーが読む 詳説山川日本史 笹山晴夫=著 山川出版社
教科書よりやさしい日本史  石川昌康=著        旺文社