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歴史はストーリーで覚える。 【徳川家康編 その2】

 こんにちは。本宮 貴大(もとみや たかひろ)です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「歴史はストーリーで覚える。 【徳川家康編 その2】」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

秀吉の死によって豊臣政権内は家康派三成派で対立が激化。家康の天下人への執念の戦いが始まります。まずは、豊臣政権内の反家康派を一掃すること。これが関ヶ原の戦いになります

 豊臣秀吉は天下統一に伴って、五大老五奉行という役職を作り、政治の運営をさせていました。五大老は、徳川家康を筆頭に毛利輝元などの有力大名5人名で。五奉行には、石田三成を含む秀吉の腹心であった5人で構成されています。

 

 1598年、秀吉は病に倒れます。その頃、朝鮮侵略は朝鮮の激しい抵抗によって膠着状態にありありました。この朝鮮侵略は秀吉の死によって失敗に終わります。

 秀吉が死ぬ間際、五大老五奉行を集め、こう願います。

 秀吉「返すも返すも秀頼のことを頼む。」

 と幼い息子・秀頼に対する心配と名残惜しさをにじませます。そんな秀吉の約束を五大老五奉行は守ることを誓います。そして秀吉はこの世を去ります。

 

 秀吉が死んだことで、その後継者や政治運営をめぐって五大老五奉行内で対立が起こります。実はこの五大老五奉行内には以前から派閥があり、同じ政権内でありながら互いに牽制し合う間柄でした。

 その中でも豊臣政権の実質ナンバー2だった家康が独自に権力を強めていきます。しかし、政権は豊臣家ではなく、あくまで徳川家にあるとし、豊臣政権滅亡を目指していました。

 

 この家康の台頭に警戒心を強めたのが石田三成です。この対立は激しくなり、徳川家支持の家康派豊臣家支持の三成派の2大派閥に分かれます。

 こうして1600年、家康派を東軍三成派を西軍として両者は関ヶ原で衝突します。(関ヶ原の戦い

 戦いは東軍の圧勝で終わり、負けた西軍側の諸大名達にはそれは厳しい処罰が下りす。こうして家康は豊臣政権内の反家康派を一掃することが出来たのです。

 

 ところで歴史の教科書では東軍の総大将は徳川家康西軍の総大将は石田三成と書かれています。したがって、あまり知られていない事実ですが、実は西軍の総大将は毛利輝元になります。石田三成は1大名に過ぎず、五奉行の中では事務官僚だったように、あまり戦闘向きではなかったのです。

 では毛利は一体どうしたのでしょうか。そう、東軍に寝返ったのです。その裏工作をしたのはやはり家康です。家康は毛利を含めた強力な大名を東軍側にどんどん寝返らせています。西軍の主力であった毛利勢は参戦こそしたものの、傍観を決め込まれ、西軍は窮地に追い込まれます。

 この毛利勢の中でも精鋭部隊を率いる小早川秀秋が東軍に寝返り、参戦したことで西軍の敗北が確定的になったことは歴史ドラマ等でも大変有名な話です。

 

 1603年、家康は天皇から武士の最高峰・征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きます。これによって家康が名実共に天下人であることを全国に知らしめ、支配体制の基礎が創られました。

 そして1605年、早くも家康は息子の秀忠に2代将軍として地位を譲り、自らは駿府城に大御所として居城します。この時、家康は65歳。

 

 さぁもう御隠居ですね。後は息子・秀忠に任せてのんびり余生を楽しみましょう。家康様、お疲れ様でした~。

 

 とは行きません。家康にはまだ大事な仕事が残っています。

 

秀吉の死に際に交わした約束。家康は罰あたりを覚悟で決断します。徳川の天下を脅かす火種は全て消し去らねばならない。家康は非情にも豊臣秀頼とその母・淀殿大阪の陣で自刃に追いやります。そして今後260年にもおよぶ江戸時代が誕生しました。

 

 家康に残された最後の仕事。それは秀吉の息子・豊臣秀頼の始末です。秀頼は家康が江戸に幕府を開いてもなお、政権は豊臣家にあるとしていました。徳川政権樹立のため、この秀頼だけは何としても屈服させる必要があったのです。

 

 1611年、家康は秀頼を京都の二条城に呼びつけます。ここで70歳の家康と19歳の秀頼が初めて対面します。この時、家康は秀頼を見て「背がスラリと高く、頭も切れる。誠に末恐ろしい。」と感想を述べています。家康は確信します。秀頼はいずれ力をつけ、豊臣政権を脅かす存在になると。

 そんな時、秀吉との約束が家康の頭をよぎります。

 

秀吉「返すも返すも秀頼のことを頼む。」

 

 しかし、家康は「私はもう70歳、罰があたるなら、それも仕方あるまい」

と、秀吉との約束を破り、秀頼とその母・淀殿の抹殺を決意します。

 

 家康は歴史から学んでいました。

 遡ること鎌倉時代平清盛は幼年の源頼朝を殺さずに生かしておいたがために、後の平氏は頼朝によって滅ぼされています。

 秀頼と淀殿を殺せば、世間の非難は避けられない。しかし、徳川政権を脅かす火種は全て消し去ってしまわなくてはならない。そのために家康は非情な決断をしたのです。

 

 1614年、大阪冬の陣が起こります。翌年1615年には大阪夏の陣が起こります。これにより、秀頼とその母・淀殿大阪城内で自刃。豊臣家は滅亡します。

 

 大阪の陣が終わった後、家康は罪滅ぼしのためか南無阿弥陀仏と念仏の写経に励みます。それは長さ11メートルの巻物として現在に残っています。

 

 ちょうどその頃、江戸幕府では2代将軍・徳川秀忠が様々な法律を発足します。その法律とは大名に幕府に逆らうことが出来ないような完全な支配体制を創るためのものです。

 それが1615年に発足された武家諸法度です。これは大名達が守るべき規則で大名同士で勝手に争ったり、同盟を結んだりしてはならないといった内容です。発足したのは秀忠ですが、原案を考えたのは家康で、草起したのは金地院崇伝です。

 同じように天皇や公家に対しても守るべき法律を発足します。それが禁中並公家諸法度と呼ばれる法律で天皇や公家や政治には介入せず、学問や文化に励みなさいという内容のものです。

 

 また、一国一城令という法律も発足されます。これは大名1人につき、城は1か所だけにしなさいという法律です。武士にとって城とは「拠点」であり、領土拡大のためには必須の建物です。武士は城を拠点に侵攻し、食料や兵が不足したら、城に備えてある兵や物資・馬などを補充し、再び攻め入ることが基本でした。この拠点が一か所になることで軍事力が削がれ、隣国への侵攻を困難にしました。

 

 さて、死期が近づいた家康は息子や孫達に形見分けを行います。それは家康が生涯で読みつくした軍記物や歴史書、医学書などの大量の書物でした。これからの時代、武士は武術だけでなく、相応の教養も身につけよという意味です。いわゆる「文武両道」の精神です。

  そして大阪の陣が起きた翌年の1616年、家康はこの世を去ります。享年74歳でした。

  こうして江戸時代という今後260年に渡って争いのない平和な時代が訪れたのです。

以上。

最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮 貴大でした。それでは。