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【アメとムチ】なぜ普通選挙法と治安維持法は同時に成立したのか。

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【アメとムチ】なぜ普通選挙法と治安維持法は同時に成立したのか。」というお話です。

 

それでは、今回は普通選挙治安維持法がどのような経緯で制定されたのかを見ていきたと思います。

大正時代とは「大正デモクラシー」の時代です。デモクラシーとは民主主義のことですが、大正デモクラシーとは民主主義を求めて政党や民衆が官僚達に抗議する運動のことです。これが大正時代の大きな特徴です。

今回はそうした民衆の願いが叶い、遂に普通選挙法が制定された時のことを解説したいと思います。これと同時に治安維持法という法律も制定されます。この両者は表裏一体の関係にあり、普通選挙法は国民にとってのアメであり、治安維持法とは、国民にとってのムチであると言われています。

 

普通選挙とは、身分や財産、学歴、そして納税などの制限がなくなり、国籍を有する全ての青年に選挙権を認める制度のことでうす。今までは直接国税として○○円以上納めている人達に選挙権が認められていましたが、今回の普通選挙法でそうした納税制限がなくなり、満25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられました。

 

一方、治安維持法とは、現行の政治形態や経済体制に対する言論や運動を取り締まる法律で、治安維持という名目上のもと、社会主義者や左翼団体を問答無用で弾圧するというものです。

つまり、「国民には、政治に参加する権限を与えてやるから、政治や経済に対して反対運動を起こすなよということです。」

 

では、普通選挙治安維持法はどのように制定されていったのでしょうか。今回もストーリーを展開しながら普通選挙法と治安維持法が制定された経緯について見ていきましょう。

 

清浦圭吾内閣は貴族院を基盤とした特権階級を主体とした超然内閣を行いました。しかし、護憲三派と呼ばれた三政党から非難を浴び、清浦内閣は総辞職に追い込まれました。普通選挙運動が盛り上がる中、連立内閣を成立させた護憲三派は、普通選挙法の実現に乗り出します。しかし、それには枢密院という大御所の役人達の承認を得なくてなりませんでした・・・・・。その中で治安維持法が生まれたのです。

 

大正12年の暮れ、摂政宮であった裕仁親王(後の昭和天皇)が議会の開院式で虎の門を通られた時、鉄砲を打って皇太子を狙った者がおりました。これが虎ノ門事件となります。皇太子に直接お怪我はなかったものの、皇族を狙ったテロ行為は大事件です。時の山本権兵衛内閣は全員、「申し訳ない」と責任を取り、翌年の大正13年には閣僚全員が辞表を出しました。こうして山本内閣は発足から4カ月ばかりで倒れてしまいました。

 

虎ノ門事件によって山本内閣が倒れた大正13年、政府内では新たな内閣を作る話が出ていました。

当時、総理大臣を選ぶのは天皇の責務ですが、元老という天皇から顧問のような役割を委託された大物政治家が居座る立場がありました。次の総理大臣を誰にするか天皇から相談を受け、それに答えるため、事実上、元老が総理大臣を選ぶ立場にありました。

この時分になると、元老は西園寺公望ただ一人であり、伊藤博文や、黒田清隆山県有朋などの「明治の英傑」と呼ばれた元老達はほとんど亡くなっており、総理大臣を天皇に推薦する権限を持つのは西園寺のみであり、最後の元老と呼ばれました。総理大臣に挙がった人は清浦圭吾でした。

 

西園寺は山本権兵衛に続き、 清浦圭吾を首相として推薦。天皇に上奏しました。

当時、清浦は80歳近くの大御所であり、既に高い地位の役職を歴任していました。明治20年代、山県内閣が出来たとき、大臣を務め、その後も貴族院、枢密院などを歴任した典型的な役人出身の政治家です。元老である西園寺公望は清浦を総理大臣として推薦しました。大正13年、大正天皇の命令によって清浦は組閣の命を貰いました。

そして1924(大正13)年、清浦圭吾内閣が発足しました。

 

この頃、世論では、普通選挙実現を求めて各地で普選運動が展開されてしました。欧米各国が次々に民主主義を実現していく中、日本でも普通選挙の実現を叫ぶ声が強まっていたのです。

西園寺は普通選挙の実現は時期尚早としました。かつて平民宰相と呼ばれた原敬普通選挙を見送りました。西園寺にとって原は政友会の右腕です。ですから西園寺も原の意見を支持していたのです。

「西園寺殿は、政党ではなく、時代遅れの老人を総理になさった。一体何をお考えなのだろう。」

そんな老人総理の清浦は予想通り、政友会や憲政党などの政党から閣僚を入れることなく、閥族や貴族院を勢力とした超然内閣を作り上げました。清浦内閣は典型的な保守派政治の路線を進めました。もちろん普通選挙も時期尚早としました。

普通選挙だと?そんな軽率な法律を通したら、とんでもない事態になるぞ?」

 

まぁ、清浦はこのように時代遅れの老人政治家でした。

こんな時代遅れの超然内閣を作った清浦内閣は各政党からすこぶる不評でした。当然ながら、野党である政党勢力は清浦内閣に反発します。

 

総選挙の時期が近付くにつれ、各政党内では、普通選挙の実現を求める運動がさかんに行われるようになりました。

特に加藤高明率いる憲政会は清浦内閣に反発していました。憲政会は従来から普通選挙実行論を掲げており、薩長藩閥政府や超然内閣に強硬な姿勢を見せていました。

高橋是清率いる立憲政友会は、原敬以来ずっと普通選挙反対の姿勢をとってきましたが、選挙の時期が近づいてくると普通選挙反対とは言っていられなくなりました。高橋是清は言います。

普通選挙は、もはや時代の要請だ。ここで普通選挙を見送れば、多くの社会主義者や左翼団体が今以上に加熱します。」

こうして立憲政友会普通選挙賛成にまわり、

そして、犬養毅率いる革新倶楽部も清浦内閣に反対でした。革新倶楽部とは、政友会でもなく憲政会でもない第三党で同じく犬養毅率いる立憲国民党が大正11年に解散したのち、

 

こうして従来から普通選挙を主張していた憲政会と革新倶楽部に政友会が歩調を合わせるカタチで政党勢力がタッグを組みました。

藩閥政府を倒し、憲政擁護を謳う政友会、憲政会、革新倶楽部の3つの政党が連合し、護憲三派が結成されました。彼らは、そのスローガンとしてを掲げ、清浦内閣を打倒するべく倒閣運動を展開することを決意しました。

 

ところで、政党はもう一つあります。それは政友会から分裂した政友本党です。実は、原敬の死後、後を継いだ高橋是清内閣の時に内閣の改造、非改造をめぐって政友会内部が分裂してしまったのです。その中で非改造を主張していた保守派の政友会は、政友本党となりました。政友本党普通選挙に反対し、清浦内閣の与党となりました。

 

3つの政党が連合したので、選挙となれば衆議院の半数以上は楽にとることが出来ます。これに対して政友本党の方は、選挙をやるには政府の与党であった方が有利となります。そうすれば、警察の取り締まるとか、そういうことも非常に楽である、というので、清浦の方の与党になったのでした。

しかし、数から言えば野党の方が圧倒的に多い。自信をつけた護憲三派第二次護憲運動という看板を掲げ、清浦内閣のもとで開かれた議会で、内閣不信任案を提出しました。

衆議院の多数派を牛耳る護憲三派が、これを議会で投票すれば数の上で護憲三派の方が有利ですから、内閣不信任案は議会を通ってしまいます。清浦内閣は途端に議会を解散し、総選挙に突入しました。

こうして1924(大正13)年1月、震災から数カ月しか経ってない時に選挙となったわけです。

護憲三派が公約として掲げたのは、「政党内閣実現、普通選挙断行、減税実施、」です。普通選挙は もちろん普通選挙のは前から普通選挙を公約として掲げ、政権を握ったので、普通選挙法は国会に是非通さなければなりません。

 

選挙の結果は、誰も予想しなかったものとなりました。衆議院第一党となったのは、憲政会だったのです。憲政会は160、政友会が110、政友本党の方も前に持っていた議席からいくらか減らして130ぐらいでした。

総選挙は護憲三派が圧勝、清浦内閣は発足からわずか5カ月で総辞職に追い込まれました。

 

元老の西園寺公望は早速、与党となった憲政会の総裁である加藤高明を首相として天皇に上奏。加藤は大正天皇の命により、組閣に取り掛かりました。

その際、一緒に「打倒、清浦内閣」を掲げて護憲運動を行った政友会と革新倶楽部にそれぞれ入閣を求めました。

こうして首相には憲政会総裁の加藤高明が、これに政友会の高橋是清革新倶楽部犬養毅が大臣として加わり、加藤高明内閣が誕生しました。

一方の政友本党は、床次が大将になって選挙をやったけれども、これは前内閣の与党ですから、内閣に加わることは出来ないことになりました。

このように第二次護憲運動とは、民衆のデモを伴う倒閣運動ではなく、選挙で争うことで倒閣を実現した運動なのです。

 

清浦内閣に代わり、新たに誕生した加藤高明内閣ですが、発足後早速、公約であった普通選挙法を帝国議会に提出しました。

 

ところが、当時は、このような重大な法案を議会に提出する際には、その前に枢密院という役所の承認を得なければなりませんでした。枢密院とは 非常に厄介な役人達が集まっていました。

加藤高明内閣の内務大臣で、この後すぐ総理大臣にもなる若槻礼次郎は枢密院からの承認を得るべく数密議員達の御宅を一軒一軒訪れました。

「こういうわけですので、どうか承認のほう、お願いします。」

しかし、枢密院の連中は口をそろえて言いました。

「君達は極めて安易な法律を作ろうとしていることを、まず自覚しなければならない。今の時勢、社会主義思想が浸透しているこの時勢、世の男子全てに選挙権を与えてしまったら、共産主義無産政党が必ず当選してしまう。これは極めて危険なことだ。」

 

そう、枢密議員をはじめ政府が危惧していたのは共産主義勢力でした。

実はちょうど同じ年、加藤内閣の外務大臣である幣原喜重郎は、ロシア革命後に成立したソビエト社会主義共和国連邦との間に国交を樹立し、日ソ基本条約を締結していました。

幣原の外交方針は国際協調主義であり、日本の資本主義の反対である社会主義国であっても、互いに協定を結び、平和維持に努める方針を固めたのです。これは幣原外交と呼ばれており、他にも対米協調や対中国内政不干渉政策の実施に努力しました。

しかし、ソ連と協定を結んだことで、必然的に社会主義思想が日本にも本格的に入ってくることを意味していたのです。

普通選挙には同意してやるが、共産党の結社を禁ずる法律をつくれ。」

これが枢密議員の共通の意見でした。

これには高橋是清犬養毅も反論の余地はありませんでした。

 

これによって、加藤内閣は治安維持法という法律を考えました。これは政治体制や経済政策に対する言論を弾圧する法律で、資本主義の前提である私有財産制度を否定する社会主義運動を弾圧しようとしました。また、万世一系(ばんせいいっけい)の天皇を元首とする国体を変革し、天皇を神とする国の在り方を変えようとする左翼団体も弾圧しようとしました。

これによって、暴動はおろか、組織を結成しただけで懲役10年以下となるので、かなり重い刑罰です。政友会による改正が1928(昭和2)年に行われた際には、死刑または無期懲役まで厳罰が加えられることになって、社会主義者達は非常に厳しい弾圧を受けることになります。

 

こうして普通選挙と同時に治安維持法は議会を通過。両令は1925(大正14)年に制定されました。

 

普通選挙法によって納税制限がなくなり、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられました。そして治安維持法によって、政府に対する批判的な言論や組織も弾圧されることになました。

 

普通選挙の実施は次の若槻礼次郎内閣のときの1928(昭和2)年になりますが、政府の心配通り、労働者や小作人を代表する無産政党から8名もの当選者が出てしまい、中には非合法に成立した共産党関係者も含まれていました。このため、時の内閣である田中義一内閣は強い衝撃を受け、その対応に迫られるのでした・・・・。

 

さぁ、今回の記事で大正時代は以上になります。大正時代とは、藩閥政治や超然内閣を倒し、民主主義の風潮が一段と強まり、政党内閣や普通選挙を実現していった時代です。大正時代は15年間で、45年続いた明治時代の3分の1しか期間がありません。しかし、現代の私達の政治的な面で大きな影響を及ぼした非常に重要な時代だったのです。

以上

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著  旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著   山川出版社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著  産経新聞

【大正デモクラシー】民本主義と天皇機関説の関係性とは

  こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【大正デモクラシー民本主義天皇機関説の関係性とは」というお話です。

 明治時代は民権派参政権を求めて自由民権運動を展開し、政府と民間が全面対決をした時代でした。明治政府は1885(明治18)年に内閣制度を発足、1889(明治22)年には大日本帝国憲法を発布、そして1890(明治23)年には第1回衆議院議員選挙帝国議会が開かれ、日本の立憲体制が整えられました。

 しかし、それは、民権派が求めた民主主義とは程遠い天皇をトップとした薩摩・長州の出身者による藩閥政治と超然内閣による事実上の独裁政治でした。

 これに対し、民間人の不満は大正時代になって再度盛り上がります。衆議院も力を強めるようになり、議会と民衆が大きな力を持って民主主義を求め、藩閥政治や超然内閣を打倒する時代となったのです。世はまさに「大正デモクラシー」の時代です。

 

 ということで、今回の前半記事は、大正デモクラシーの理論的根拠となった2つの思想である民本主義天皇機関説はどのよのような関係性なのかをご紹介していきたいと思います。そして後半記事は、大正時代を通して展開された大正デモクラシーとは、政治や社会にどのような影響を及ぼしたのかを見ていきたいと思います。

民本主義とは天皇機関説が前提条件として存在することで初めて成り立つ思想です。天皇機関説藩閥政府などの専制政治を否定し民本主義普通選挙や政党内閣などの民主政治を推進する。そんな前輪と後輪のような両者の思想は大正デモクラシーを理論的に支える思想となりました。 

民本主義

天皇機関説

天皇主権

天皇主権

吉野作造

美濃部達吉

民主政治を推進

専制政治を否定

普通選挙実現を目指す

藩閥政治を打破する

政党内閣を目指す

特権内閣を打破する

 大正時代を象徴する社会運動といえば、「大正デモクラシー」です。デモクラシーとは日本語訳では「民主主義」となりますが、大正時代も明治時代の自由民権運動のような国民の声を政治に反映させる参政権を求めた社会運動が展開されました。そのキーワードが、「第一次護憲運動」、「大正政変」、「米騒動」、「第二次護憲運動」です。

 

 そんな大正デモクラシーの理論的根拠となった2つの思想が東大教授で政治学を担当していた吉野作造が唱えた民本主義と、同じく東大教授で憲法学を担当していた美濃部達吉が唱えた天皇機関説があります。

 両者はどのような関係性があるのでしょうか。

 両者の共通点や違いから見ていきましょう。

 民本主義天皇機関説も目指すゴールは同じです。それはまさに「日本に民主主義の政治を実現すること」です。

 民主主義とは、国民が主体となって政治に参加するという意味ですが、そのためには、現在の日本国憲法のように主権は国民になくてはいけません。しかし、民本主義天皇機関説も主権は天皇であることを肯定しています。

 

 吉野の民本主義ですが、民主主義とは違うのでしょうか。

 吉野はデモクラシ―を「民主主義」とは訳さずに「民本主義」と訳しました。民主主義と訳してしまうと、国民に主権がある「主権在民」である必要があります。しかし、当時の大日本帝国憲法下では天皇に主権がある「主権在君」です。なので、吉野は天皇主権のもとで人民本位の政治を行うべきだとして民本主義と訳しました。民本とは本位からきているのです。

 民本主義では、天皇を主権としつつも、実際の政治をより民主主義的に行うようにするべきだと説きました。そのためには普通選挙の実現政党内閣の成立を目指す必要があると唱えています。政党内閣とは、選挙によって選ばれた国民の代表者が衆議院議員となって国民に代わって政治を運営することです。この政党内閣の主張は、多くの知識人に影響を与え、「政党内閣こそ最高の政治形態だ」とされました。

 

 一方の天皇機関説は、天皇主権を肯定しつつも、国家を1つの法人ととらえ、国会や裁判所、内閣などはそれを構成する機関であり、天皇はその統治権を行使する最高機関であるとしました。つまり、天皇とは神のような絶対的な存在ではなく、あくまで憲法上の地位のひとつであり、天皇は独断で政治を行うことは出来ず、その憲法に拘束されるとしました。

 このように天皇機関説とは、薩長藩閥政治超然内閣を打倒するために憲法の視点から攻めていく思想なのです。

 

 このように民本主義とは、民主政治を推進する思想であるのに対し、天皇機関説専制政治を否定する思想になるのです。

 すなわち、両の関係性とは、「破壊」と「創造」の関係と言えるでしょう。天皇機関説薩長藩閥政治や超然内閣を打倒(破壊)し、民本主義普通選挙や政党内閣の実現(創造)を目指すのです。

大正時代とは力を強めた議会や民衆のデモによって時の内閣が2回も倒される時代となりました。その上で政党内閣や普通選挙が実現されるなど大正時代とは政治的に非常に重要な時代なのです。

 

 さて、こうした2つの思想を背景に大正時代の民主主義を求めた社会運動はどのようにして展開され、どのように藩閥政府や超然内閣が倒されたのかを見ていきましょう。

 

 1912(明治45)年7月、明治天皇崩御されました。皇太子による即位式が行われ、年号も大正となり、あしかけ45年に及んだ明治時代が終わりました。

 この年、東大法学部の教授をしていた美濃部達吉が、『憲法講話』を発表しました。大日本帝国憲法について解説書としては、憲法製作者の張本人である伊藤博文による『憲法義解』という本がすでにありましたが、美濃部のこの本には伊藤とは異なる視点で憲法を解釈していました。その主張の中で最も有名なのが、天皇機関説だったのです。

 折しも、この年の末に陸軍の抵抗で西園寺公望の内閣が潰れ、桂太郎天皇から首相の大命が下ったとして3度目の内閣を組閣しました。しかし、桂太郎長州閥で陸軍のボスである山県の息のかかった人物で藩閥政治と超然内閣の典型でした。

 そんな桂に対し、衆議院立憲国民党犬養毅や、立憲政友会尾崎行雄らは「世論尊重の憲法政治を守れ(憲政擁護)」、「陸軍・海軍の軍閥薩長藩閥を打破せよ(閥族打破)」を掲げる運動を展開。世にいう第一次護憲運動がおこりました。

 そんな中、発表されたのが吉野作造民本主義でした。吉野は大日本帝国憲法の枠内でも、実際上の民主政治が可能であると主張しました。

 こうして藩閥政治や超然内閣を否定した天皇機関説に、政党内閣や普通選挙の実現を目指した民本主義が加わり、大正デモクラシーの理論的根拠の基盤が出来上がりました。美濃部の天皇機関説とは結果的に吉野の民本主義憲法の視点から支えた思想となりました。

 これに共感を覚えた民衆も護憲運動に参加します。民衆は国会を包囲するデモを展開、第三次桂内閣は成立からわずか53日で総辞職に追い込まれました。これを大正政変と呼びます。

 元老は桂の後任として、今度は薩摩閥で海軍のボスである山本権兵衛が選ばれました。国民はこれに不満を持ちますが、なんと桂内閣打倒の中心となった立憲政友会が自分達の政策を実現することを条件に山本内閣に協力することになってしまいました。

(元老・・・薩摩・長州の出身者を中心とする明治維新の功労者達のこと。当時は元老が総理大臣を任命していました。)

 これに対し、国民は大いに失望し、再び倒閣運動を展開します。そんな折、海軍の汚職事件(ジーメンス事件)が明るみにでてしまい、山本内閣は短期間で総辞職に追い込まれました。

 こうした事態を受けて、元老達は、仕方なく国民に絶大な人気があった大隈重信を首相に登用、第二次大隈内閣を発足させることで国民を納得させることに成功しました。

 

 第二次大隈内閣が成立した直後の1914(大正3)年、第一次世界大戦が勃発します。時の外務大臣である加藤高明は連合国側として参戦することを決めます。

 参戦した日本は1915年、まだ統一的な権力を確立していない袁世凱の中国政府に対し、二十一ヶ条の要求という極めて不平等な条約を突き付けました。

 このような強硬で露骨な姿勢に世論からの批判が殺到。これを受けた大隈内閣は1916(大正5)年に総辞職に追い込まれました。

 大隈内閣の次は、寺内正毅という人物が首相に就任します。しかし、この寺内もまた桂太郎の後継者の1人で長州閥であり陸軍の中心人物でした。

 寺内は元老の意を受けて組閣し、政党を無視した超然内閣と藩閥政治を行いました。

 しかし、1918(大正7)年になると、ロシア革命によって 日本もシベリアに兵を派遣することを決断します。このシベリア出兵に伴う需要増を見込んで米商人達が米の売り渋りを始めたために米価が高騰。民衆の不満が爆発して米騒動が起こります。これに対し、寺内内閣は軍隊を派遣して米騒動を抑え込もうとしました。

 しかし、これがかえって国民の反発を増幅。力ずくで抑えようとする軍人ならではのやり方が非難を浴び、やがて寺内内閣は総辞職に追い込まれました。これも大正政変に続く、民衆の力によって内閣が倒されたデモクラシーの典型例です。

 元老達は事態を収拾させるべく衆議院第一党の政友会総裁の原敬を担がざるを得なくなり、遂に本格的な政党内閣、原敬内閣が誕生しました。その直後、ヨーロッパで起きていた第一次世界大戦終結します。

 興味深いのは、第一次世界大戦オートクラシー独裁国家)とデモクラシー(民主国家)の戦いであると言われています。勝利したのは、イギリスやフランスを中心とした連合国側(デモクラシー)で、世界中のオークラシー(独裁国家)が崩壊していきました。

「皇帝や国王が独裁政治を行う時代は終わった、これからは民主政治が一般的な政治形態になっていくだろう。」

 こうして第一次世界大戦終結後、日本でも民主主義的風潮はより一層強くなり、民衆は普通選挙実施運動を展開していきました。

 

 原敬内閣は陸軍大臣海軍大臣以外は全て政友会会員であるという本格的な政党内閣を組織したということで国民から大きな期待を受けました。しかし、原は普通選挙を時期尚早であるとして一蹴。民衆の普通選挙実施運動に対し、極めて厳しい態度で臨みました。

 これによって、原敬の人気は低迷し、遂に大塚駅の運轍(うんてつ)手の青年に暗殺されてしまいます。普通選挙の実現は1925(大正14)年まで待たなくてはなりませんでした。

 

 普通選挙実施運動に触発されるカタチで、自由や平等、権利などを求めて続々とその団体が結成されていきました。労働組合の全国組織として日本労働総同盟共産主義を標榜する日本共産党小作人の支援する日本農民組合、女性解放を主張する新婦人協会、非差別部落による差別撤廃を唱える全国水平社などの団体が続々と結成され、社会運動が盛り上がりました。

 

 こうした中、第二次護憲運動が起こりました。

1924(大正13)年、清浦圭吾内閣が発足しました。清浦は政友会などの政党から閣僚を入れることなく、閥族や貴族院を勢力とした超然内閣を作り上げました。

 当然ながら、政党勢力は清浦内閣に反発し、打倒を企てて政党勢力がタッグを組みました。それは原敬以来、普通選挙に反対していた政友会総裁の高橋是清普通選挙賛成にまわり、従来から普通選挙を主張していた憲政会と革新倶楽部に歩調を合わせるカタチで行われました。

 そして政友会、憲政会、革新倶楽部による護憲三派が結成されました。彼らは、そのスローガンとして「政党内閣実現、普通選挙断行、減税実施」を掲げ、清浦内閣を打倒するべく倒閣運動を展開しました。清浦は議会を解散して総選挙を行いますが、選挙は護憲三派の勝利に終わり、清浦内閣は発足からわずか5カ月で総辞職に追い込まれました。

 このように第二次護憲運動とは、民衆のデモを伴うものではなく、選挙によって争われたものでした。

 こうして清浦内閣に代わり、護憲三派は政権を担当することになり、護憲三派を代表して憲政会総裁の加藤高明は首相に就任し、公約であった普通選挙法を議会に通します。そして1925(大正15)年、遂に普通選挙が制定されました。

 普通選挙によって納税制限がなくなり、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられました。また、同時に治安維持法も制定されます。先述の通り当時、勢力を増していた社会主義者共産主義者普通選挙の実施によって当選してしまうことを恐れ、共産主義者を取り締まろうとしたのです。

 しかし、1928(昭和2)年の普通選挙制定後、最初の衆議院議員選挙で政府の心配通り、労働者や小作人を代表する無産政党から8名もの当選者が出てしまい、中には非合法に成立した共産党関係者も含まれていました。このため、時の内閣である田中義一内閣は強い衝撃を受け、その対応に迫られるのでした・・・・。

 

 このように大正時代とは、藩閥政治や超然内閣を倒し、民主主義の風潮が一段と強まり、政党内閣や普通選挙を実現していった時代なのです。大正時代は15年間で、45年続いた明治時代の3分の1しか期間がありません。しかし、現代の私達の政治的な面で大きな影響を及ぼした非常に重要な時代なのです。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

父が子に語る近現代史              小島毅=著   トランスビュー

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著  旺文社

ニュースがよくわかる 教養として日本近現代史  河合敦=著   祥伝社

オールカラーでわかりやすい日本史                西東社

【大正から昭和へ】昭和天皇の願いとは。

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【大正から昭和へ】昭和天皇の願いとは」というお話です。

 

 大正天皇崩御は1926(大正15)年12月25日でした。それから「昭和時代」が始まるわけですが、今回は大正時代末から昭和時代に変わるときの昭和天皇の思いや時代背景などをご紹介したと思います。

 

大正天皇摂政宮の地位に就いた裕仁親王(後の昭和天皇)は、第一次世界大戦のヨーロッパの戦場跡を視察して涙しました。昭和天皇の願いとは、日本の天皇制と皇位の継承を守りつつも戦争が起こらない平和な時代が1日でも早く訪れることでした。しかし時代は天皇の願いとは逆方向に向かってしまうのでした・・・。

 

 1919(大正10)年11月、皇太子裕仁(ひろひと)親王、後の昭和天皇が、大正天皇の公務を代行する摂政宮(せっしょうのみや)の地位に就きました。大正天皇は生まれつき心身の病がひどく、日常の公務が遂行できないということで静養に入り、20歳の裕仁親王摂政として公務を代行します。

 裕仁親王摂政に務めさせる話は以前からありました。それは1918年(大正7)年の原敬内閣の時で、裕仁親王が17歳のときでした。成人になる前に皇太子に海外を視察させ、世界のことを学んで頂くべきだという意見が出て来たのです。

 

 そんな話が出てから2年後の1920(大正9)年、大正天皇の病状についての記者発表が行われるようになると、同時に裕仁親王のヨーロッパ外遊が始まりました。

 しかし、当時の皇太子は英語もしゃべれず、ヨーロッパのマナーも知りませんでした。なので、最低限の英語力と西洋マナーが教育されました。

 そして1921(大正10)年3月、20歳になった裕仁親王はヨーロッパ外遊に旅立ち、半年間、第一次世界大戦後のヨーロッパを巡察しました。

 イギリスに渡った裕仁親王はイギリス国王であるジョージ5世に会いました。

 ジョージ5世は東洋から来たプリンスを快く歓迎しました。

 裕仁親王ジョージ5世に訪ねます。

「イギリスの君主制は非常に長く続いておられます。なぜそんなにも長く続いているのですか。」

「我がイギリスには伝統的に議会というものがあり、その議会を通じて法律をつくり、物事を決めています。すなわち、立憲君主制を守っているからだと自負しております。」

「君主が独断で国を動かしてはいけない。民衆から必ず反発を買います。君主は君臨すれど、統治せず。下僚が上奏してきたことに対し、承諾、裁可する。それが立憲君主制というものです。」

 裕仁親王にとって最も重要なのは、天皇制、皇位の継続性であり、そのためなら戦争も辞さないという強い心構えが既にありました。裕仁親王は好戦的な人物ではありませんが、かといって平和主義者でもないのです。

 さらにジョージは続けます。

「ヨーロッパ各国を巡察するようですが、是非とも戦場跡をご覧になってください。我々はニ度とあのような過ちを繰り返してはいけません。」

 裕仁親王は、第一次世界大戦で戦場になり、最も被害の大きかったベルギーの戦場跡に向かいました。ヨーロッパが同盟国軍と連合国軍の2つの勢力に分かれ、両軍が緊張状態にあった1914(大正3)年7月、同盟国側のドイツ軍は中立国であるはずのベルギーに侵攻。それを口実に連合国側のフランス軍も進軍。両軍はベルギーで激突しました。

 その結果、多くのドイツ軍とフランス軍、そしてベルギーの民間人が命を落としました。

 ベルギーの戦場跡は悲惨なもので、それはまさに地獄絵図と呼べるものでした。

 裕仁親王はベルギーの将校に案内され、その説明を受けました。

 そして将校は涙ながらにこう言いました。

「私も息子2人をここで失いました。」

 それを聞いた裕仁親王も涙を流しました。

「戦争とは勝手も負けても地獄が待っている。誰ひとり得しない。戦争などやるべきではない。」

 天皇制の存続のために戦争を辞さない覚悟でいた裕仁親王ですが、一方で戦争の恐ろしさを直に体験したのでした。昭和天皇の願い、それは国の伝統と王位の継承を守りつつも、戦争のない平和な時代が1日も早く訪れることでした。

 大正時代末期、すでに「日米もし戦はば」というフィクションが発刊されており、ベストセラーになりました。いずれ交米を代表するアメリカとアジアを代表する日本が戦わなくてはならない時代がくるという予測があったのでした。

「本当に戦争を避けて通ることは出来ないのだろうか・・・・。」

 そんな思いが当時の裕仁親王の胸の内にもあったに違いありません。

 

 同じ頃、第一次世界大戦の戦場跡を日本の軍人達も見に行っています。その悲惨さを目の当たりにした軍人達の中には軍人を辞めてしまった人もいます。彼らも涙が止まらなかったと言います。

 一方で全く涙が流れなった軍人もいました。

「なぜ君主制の強いドイツが負けたのか。民族意識や教育水準もトップレベルのドイツ帝国が民主主義のイギリスやフランスになぜ負けたのか。」

 そう考えていたのは、東条英機という人物です。

 彼はドイツが負けたのは、ドイツ革命を起こした不埒(ふらち)な国民がいたからだと分析しました。そしてこう結論付けます。

「これからの戦争は国家総力戦でないと勝てない。軍人だけでなく、国民も戦争に参加する時代だ。国民に愛国心と忠誠心を徹底させるのだ。」

 東条はどうすればドイツが勝てたのか、またこれからの戦争はどうあるべきかを考えていたのです。これが昭和の日本が経験する第二次世界大戦の伏線になるのでした。

 

 大正時代中頃、日本は第一次世界大戦の大戦景気を享受することが出来ました。そのおかげで民間企業がたくさん生まれました。国民の6割はまだ農民でしたが、都市の人口はどんどん増えていき、いわゆる給料生活者がたくさん出てきました。

 給与生活者は自分の子供に高校や大学へ進学させ、最新の知識を学ばせました。こうして多くの学生が昭和の最初に社会に出ていくわけですが、ここで彼らはようやく気付きます。日本にはまだ最新の知識や技術を受け入れる基盤がなかったことに。

 昭和の初めに流行語になった「大学は出たけれど」はこのようにしておこりました。

 

 大正10年代に入ると、世間には厭戦反戦のムードが漂い、戦争や軍事的な事件はほとんど起こりませんでした。それは第一次世界大戦の反省により、世界規模で軍縮が進められたからです。

 1922(大正11)年にはワシントン会議においてワシントン海軍軍縮条約も結ばれ、日本の海軍は軍縮を余儀なくされました。こうした動きが圧力となり、やがて陸軍も軍縮を余儀なくされます。

 さらに1923(大正12)年に起きた関東大震災のために国家予算を割かねばならず、軍部は大幅な人員削減を行いました。多くの軍人がリストラされましたが、再就職先には旧制中学校や旧制高校で、配属将校で軍事教育を担当したり、民間企業に勤めたり、自営業になったりしました。しかし、それらの職にあぶれた軍人には強い屈辱感が残りました。これが昭和初期の相次ぐテロ事件の伏線になります。

 1924(大正13)年~1925(大正14)年になると、海軍兵学校陸軍士官学校ともに大幅に定員削減が行われました。

 さらに大正時代とは「大正ロマン」と呼ばれるほど「人間性」を重視する空気が流れていた時代で、志賀直哉のような白樺派小林多喜二のようなプロレタリア文学が登場しました。このような文学や芸術に反戦ムードが相まって軍人に対する社会的な風当たりは強いものとなりました。

 軍人は街を歩くときは軍服では歩けず、人々の冷たい視線に出会って肩をすくめなければなりませんでした。また「軍人になると嫁がもらえない」という言葉も流行りました。

 

 このように大正時代までは反戦ムードが漂い、日本の軍事行動もほとんどなく、身を縮めるように生きていた軍部が昭和に入ると途端にその存在感を誇示し、軍事行動に出るようになります。1927(昭和2)年には山東出兵、翌1928(昭和3)年には中国軍閥張作霖を列車爆破で殺害、そして1931(昭和6)年には満州事変と次々に軍事行動が起きています。昭和初期の暗黒時代の幕開けです。

 この対照的な時代情勢はなぜ起きてしまったのでしょうか。

 これは大正天皇崩御とともに裕仁親王昭和天皇として即位したことと無関係ではないはずです。

 大正天皇崩御されたのは、1926(大正15)年の12月25日午前1時25分です。その3時間前、宮内省は御脈拍160以上、御呼吸67、御体温40.3、と発表しており、病名は明らかにされませんでした。大正天皇は47歳の若さで崩御されたのです。

 大正天皇崩御されてから2時間後、26歳の皇太子裕仁親王即位式が行われました。 御用邸には各皇族、西園寺公望ら元老、時の首相・若槻礼次郎をはじめ閣僚達が集まり、

 玉座に就いた裕仁親王には璽と国璽が玉座前の案上に奉安されました。ここに124代目の天皇が誕生したのです。

 すぐに閣議が開かれ、5時間もの時間をかけた結果、新しい元号は「昭和」となりました。その由来は書経の尭典の中にある「百姓昭明、万邦協和」からとったものでした。

 一時は「光文」に決まっていましたが、東京日日新聞がスクープとして掲載してしまったので、急きょ閣議が開かれ、「昭和」に決まったのでした。

 

 26歳の若さで天皇に即位した裕仁親王を軍部はどのような目で見ていたのでしょうか。軍の指導権を握る上層部は50代~60代であり、明治天皇の頃から仕えており、日露戦争も経験しているベテラン集団です。彼らからすると、昭和天皇はこれから育てていかなくてはならない若きプリンスである一方、どこか子供扱いしていた部分があるのだと推測します。

 経験未熟な昭和天皇を見下し、次々に軍事体制を整え、大日本の名君主として祭り上げてしまうとする気運がありました。

 そこには日本の権益を拡大させることで昭和天皇に報いようとする善意の気持ちがあったのかも知れない。しかし、軍事行動を先行し、天皇にはひたすら追認を迫るだけで、天皇をないがしろにした行動であることには間違いありません。 

 こうした例は、様々な場面で見受けられました。ある陸軍次官が夜8時頃に上奏に向かう際、晩酌をして酔っぱらった状態で向かったことがありました。当然ですが、天皇陛下の御前に行く前に酒を呑むなど言語道断。昭和初期には、軍部によるこうした若い天皇を舐めている行為が目立つようになります。

 こうして昭和時代前半の時代情勢は、昭和天皇の願いとは逆方向に向かって突き進んでいくのでした・・・・。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

朝日おとなの学び直し!昭和時代       保阪正康=著  朝日新聞出版

昭和史を読む50のポイント         保阪正康=著  PHP

【原敬内閣】なぜ原敬は普通選挙に反対したのか 【原敬】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【原敬内閣】なぜ原敬普通選挙に反対したのか【原敬】」というお話です。

第19代総理大臣に就任した原敬は平民宰相という言葉とは裏腹に当時、要求が高まっていた普通選挙には否定的でした。原は権利ばかり主張し、自立心を持たない当時の日本国民の甘えを戒めたのです。また、「民衆による普選運動」を恐れた元老や軍部に対し、原は普通選挙を実施しない代わりに政友会のような大政党に有利な小選挙区制を採用しました。原は薩長藩閥政府を抑え、本格的な政党内閣の確立を目指していたのです。

 

 

 前回に引き続き、原敬内閣について見ていきます。

 原敬は1918年に第19代総理大臣に就任。原は薩長藩閥や陸海軍などの軍閥という立場で政権を握ったのではなく、衆議院議員選挙を経て、衆議院に多くの議席をもつ立憲政友会の党首として首相となりました。このため、原は平民宰相と呼ばれ、国民から大きな期待を受けていました。

 

 原敬内閣について、もう1つ触れておきたいのが、1919(大正9)年に改正された選挙法です。

 まず、これまでの選挙法の変遷について見ていきたいと思います。

 日本で最初に選挙法が発布されたのは1898年の黒田清隆内閣のもと、大日本帝国憲法と同時に発布されました。これにより憲法が規定する帝国議会のうち、衆議院は臣民とよばれた国民の選挙で選ばれるようになりました。

 しかし、その当時の衆議院議員選挙法では選挙権を持つのは、直接国税15円以上を納入する25歳以上の男子のみでした。これは全人口の1.1%程度で、民主政治とは程遠く、これまで自由民権運動を精力的に行ってきた層は失望しました。日清戦争後に男子に限った普通選挙を目指す運動が起きますが、この運動は広がらず、まもなく衰退します。

 1900(明治33)年になると、第2次山県有朋内閣のもとで、選挙権は直接国税10円以上に引き下げられ、全人口比も2.2%にまで増加しました。

 そして、1918(大正7)年、米騒動をきっかけに人々は社会秩序の変化を強く感じました。原内閣が迎えたこの年は、普通選挙運動は知識人や学生、社会主義者を中心に大衆運動として都市部を中心に盛り上がっていました。

 

 平民出身である原敬内閣のもとでは、普通選挙がいよいよ実現するかに思われましたが、以外にも原は慎重でした。

 1919(大正8)年末から1920(大正9)年3月まで開かれた第41回帝国議会で、原は選挙法の改正案を議会に提出しました。そこには、選挙権を1年間に直接国税3円以上に引き下げ、25歳以上の男子のみとしました。そして、選挙区を大選挙区から小選挙区に変更するものでした。

 直接国税3円とは、現在のお金で1万8000円程度であり、農村部なら少し耕地を所有し直接国税を支払っているなら選挙権が与えられる。これは全人口の5.5%ですが、当時の選挙権とおしては大幅に緩和されたといってよい。その一方で選挙権の該当者が少数なのは、それでけ当時の日本国民が全体的に貧乏であったということです。

 1919(大正8)年の議会で原内閣は選挙法の改正を行います。選挙権についてはそれまでの直接国税10円以上を納める者でしたが、原内閣は、直接国税3円以上を納める者に変更しました。

 

 平民宰相と呼ばれた原敬は意外にも普通選挙には否定的だったのです。

 確かに野党時代、あれほど憲政擁護を主張していた立憲政友会は、いざ政権を取ると一転して普通選挙には否定的な態度をとりました。

 なぜ、原は普通選挙に反対したのでしょうか。

 原は権利ばかり主張し、義務を果たそうとしない国民の甘えを戒めたのです。

 原敬は当時盛り上がりを見せていた労働運動に対し、以下のような内容を日記に綴っています。

「西洋の国々では8時間労働を実施する国が出てきたようだが、日本の場合は勤務中に無駄話をしたり、他に注意を奪われたり、こまめに休憩時間を入れたりしている。これが実情です。それでも日本は8時間労働制の徹底を要求している。これは筋が通らない。」

かつて、原は自由民権運動には肯定的で日本国民が目指すべきものだと見なしていました。しかし、ここにきて原はそれを危険な思想だと感じるようになったのです。

「民権派や社会主義者などの権利ばかり求める思想家はきわめて軽薄だ。自立心や常識を持たない臣民が西洋のまねをして、その権利を要求するのはつじつまが合わない。」

普通選挙に関しても、国民一人一人が自立心を持ったうえで政治に参加するのが望ましいとしました。

こうして原は立憲政治の原則を誠実に考えるがゆえに、普通選挙を時期尚早とし、その実現を見送ったのでした。

また、与党である政友会の主な支持層は地方の地主層で、彼らも普通選挙に否定的であったこともその原因の1つと考えられています。

 

原はさらに選挙制度大選挙区から小選挙区に変更するように求めました。これはなぜでしょうか。

第41議会が開かれている最中の1919(大正8)年2月、東京では普通選挙を求めて大規模なデモが起こりました。集まったのは3千名ほどで、3月には1万人を超えました。

議会が開かれる直前、原は元老で陸軍閥のボスである山県有朋を訪れていました。

山県は普選運動を恐れおののいていました。

「昨今、普選運動が盛り上がりを見せている。これは社会運動とならび、革命につながるかも知れない恐るべきデモだ。普選実現の時期を誤ると、とんでもない事態になるだろう。どうか原殿、選挙権に関しては慎重な対応をしていただいきたい。」

原も普選運動を危険思想と見なすと同時に、これは利用出来ると考えました。元老や軍部のような薩長藩閥の政治家たちを嫌いぬいていた原は彼らをどうすれば抑え込むことが出来るかを考えていました。

 

原は普選の実現を見送る代わりに、選挙区を大選挙区から小選挙区に変更することを認めて欲しいと山県に迫りました。小選挙区とは、1選挙区から議員を1名のみ選出する選挙制度ですが、政友会のような多数党であればあるほど有利な選挙区制です。多数党である政友会が衆議院過半数を占めることが出来ます。

原は小選挙区とすることで、衆議院での政友会の基盤を強化しようとしたのです。

原の妥結案を山県も了承。これで衆議院参議院を最大勢力である山県系官僚閥を抑えることができました。

こうして原は1919年の選挙法の改正案をみごとに通過させたのでした。

本当に原は政党内閣の確立に献身的であったことが窺えます。

 

この1919(大正8)年という年は、フランスの首都パリで第一次世界大戦の戦後処理であるパリ講和会議が開かれた年でもありました。原内閣は、全権大使として元老の西園寺公望に出席して頂くよう依頼。西園寺率いる日本全権団は、パリに向け、日本を出発。同年○月にはヴェルサイユ条約に調印します。日本は中国での旧ドイツの利権を引き継ぎ、南洋諸島も獲得しました。翌1920(大正9)年には国際連盟も発足し、日本はイギリス、フランス、イタリアに次ぐ4番目の常任理事国となります。日本も世界平和の責任を担う重要なポジションを任されたのです。

 

1920野党である憲政会や立憲国民党はでも普通選挙の実現をスローガンにやかましく論じていました。

1920(大正9)年に開かれた第42回帝国議会において憲政会は以下のように主張しました。

「昨年の議会において選挙法の改正をして頂いたことには歓心いたしました。しかし、我々が求めているのは税金による選挙権の制限を撤廃した選挙法(普通選挙)の実現です。」

憲政会は選挙法をもう一度改正し、普通選挙を実現する改正案を提出しました。

政友会としては薩長藩閥勢力との約束がありますので、普通選挙の実施は出来ません。したがって、建前としては「とにかく去年選挙法を改正したばかりです。それをまた改正しろというのはおかしい。ただの一度も新制度の選挙を行わずに改正などありえないことです。」

としました。

 

1920年5月に行われた総選挙で与党政友会は圧勝しました。

ただ、この年から大戦景気の好景気後の経済の落ち込みが起こります。(戦後恐慌)

前回述べたように経済に関しては放任主義である原は、大戦バブル後の不景気も克服することが出来ませんでした。

 

普通選挙の否定や不況対策の不振は原の「平民宰相」というイメージを大きく損なう結果となりました。

原内閣は発足当初、初の爵位をもたない平民宰相として本格的な政党内閣として熱狂的な支持を受けていました。しかし、藩閥や軍閥との折り合いにばかり腐心するあまり、十分に期待に応えることが出来ず、国民の間に不満が強まります。

 

やがて原は内閣発足から3年後の1921(大正10)年に暗殺されてしまいます。

東京駅の南口の壁に、小さなプレートがはめ込まれているのをご存じでしょうか。気付きにくいですが、「原首相遭難現場」と書かれています。

1921(大正10)年11月4日、原はこの日の夕がた、京都で政友会の大会に出席するために改札口に向かいました。そこへ柱に隠れていた男がぶつかるようにして胸を刺しました。原はその場で倒れ、午後8時前、死亡が確認されました。

犯人は仲岡という人物で、19歳の大塚駅に運轍手(うんてつしゅ)でした。運轍とは、手動でポイントを切り替える仕事です。

中岡は取り調べに対し、原政権に不満を持っていたことを明らかにした。

「原首相を殺せば景気がよくなると思った。」と原を狙ったとした。これは中岡の単独犯として無期懲役の判決を受けました。

しかし、この事件には黒幕説が絶えません。

中岡の裁判自体は事実調べもたいして行われず、判決を受けました。中岡は1934(昭和4)年に恩赦で出獄し、中国に渡っています。その後の中岡の歴史的資料はほとんど見つかっていません。昭和13年頃に満州日日新聞に「中岡こんいち君結婚」という小さな記事が掲載されますが、中岡は中国名を持っており、中国人女性と結婚したようです。

しかし、これ以降、中岡は完全に歴史から消えてしまいます。なぜ暗殺犯がここまで匿われているのでしょうか。これは確実に巨大な組織、国家レベルに匹敵する組織が関わっているとみて間違いないでしょう。

原は非常にバランス感覚のとれたリアリストで、藩閥や官僚と権力間のバランスを取りながら議会政治をおこなってきました。そんな原が暗殺されたことは当時の政治家の間に言葉にならない恐怖心を植え付けたことは間違いありません。

昭和に入る直前の大正10年代、日本の議会政治は完全にバランス感覚を失ってしまいました。政治家は自分の利権にばかり走り、汚職や疑獄が次々に起こります。昭和時代に入ると、五・一五事件やニ・ニ六事件など首相や要人を狙ったテロが相次ぎます。原の暗殺は昭和初期の混沌とした不気味な時代への幕開けと言えると思います。

世界が第一次世界大戦の反省から国際平和を推進する中、日本国内は混沌とした暗黒時代へと突入していくのでした・・・・。

 

原敬が暗殺された後、大蔵大臣で政友会では原の筆頭相談役だった高橋是清が首相に就任します。高橋内閣は原内閣をそのまま引き継ぐように全閣僚を留任させたうでスタートするのでした・・・・。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

原敬 外交と政治の理想   下         伊藤之雄=著 講談社選書メチエ

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著 産経新聞

朝日おとなの学びなおし!昭和時代        保阪康正=著 朝日新聞出版

【原敬内閣】原敬の積極政策をわかりやすく【原敬】

 

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【原敬内閣】原敬の積極政策をわかりやすく【原敬】」というお話です。

第19第首相に就任した原敬は本格的な政党内閣を組織しました。時代は超然内閣の時代から政党内閣の時代へと移り変わったのです。原首相は大学令などの高等教育機関の充実、鉄道敷設などの公共事業の充実などの積極政策を推進しました。その一方で軍備拡大に関しては先送りにしました。それは第一次世界大戦終結に伴う軍縮や国際協調路線という時代の流れを原首相があらかじめ先読みしていたからです。

 

 今回から原敬という人物を主人公にストーリー展開していこうと思います。皆さんは原敬といえばどんなイメージをお持ちでしょうか。おそらく、「平民宰相」とか「本格的な政党内閣を組織した人」というイメージがあると思います。

 政党内閣とは何でしょうか。

 この当時、政党の多くは民党とよばれ、国民の選挙によって選ばれた衆議院議員の多くが所属していました。今回の原敬が党首である立憲政友会犬養毅立憲国民党加藤高明立憲同志会などがそれにあたります。このような政党(民党)が内閣を組織し、政権を運営していくことを政党内閣と言います。

 では、それまではどのような内閣だったのでしょうか。それまでの日本の内閣の多くは超然内閣というものでした。政党内閣と比較してみましょう。

超然内閣

政党内閣

官僚で構成

衆議院議員で構成

薩摩・長州の出身者(藩閥

国民の選挙で選ばれた人達

強権的な政

民衆的な政治

 

 超然主義といえば、1889(明治22)年の大日本帝国憲法が発布された翌日に時の首相である黒田清隆官僚達に対して行った超然主義演説が非常に有名です。

 翌1890(明治23)年に第一回衆議院総選挙第1回帝国議会が開かれましたが、結局、薩摩や長州出身者が首相や大臣を独占し、内閣を組織し、政治を運営しているという状態でした。

 つまり、超然主義とは「細かいことにはこだわらない」という意味で、「選挙の結果が議会にどう反映されても、我々の独断によって政治を行う」という非常に強権的な政治手法です。こんな政治は当然ですが、たびたび民衆の反発を買っていました。

 それに対し、政党内閣とは、国民の選挙によって選ばれた代表者による内閣ですから、民意を重視した政治を行います。(民主政治)。

 

 さぁ、前置きはこの辺にして、原敬内閣の政治ストーリーを見ていきましょう。

 

 大正時代とは、デモクラシ―の時代です。デモクラシ―とは民主主義という意味ですが、吉野作造の提唱した民本主義など国民の声を政治に反映させることを強く訴えた時代です。もし、それに反する内閣や政治が行われた場合、民衆はデモや暴動を起こし、時の内閣を総辞職に追い込んでしまいます。

(民主主義と民本主義は違いますが、この記事では同義ととらえて構いません。)

 

 デモクラシーの典型例といえば、寺内正毅内閣が米騒動によって倒されたケースでしょう。これは大正初期の第三次桂太郎内閣が倒された大正政変に続き、2回目です。

 1918(大正7)年9月、寺内は国民からの激しい反発を受け、総辞職追い込まれました。こうした事態を受けて、元老で陸軍ボスである山県有朋は、ついに決断をします。

「もはや、軍閥長州閥で政治を運営することは困難な時代になっている。ここは政党に政権を託すしかあるまい。」

 山県は国民の選挙によって選ばれた政党(民党)の中から首相や大臣を選ぶよう命じます。政権を任せるのは衆議院第一党(多数派)の立憲政友会です。山県は元政友会総裁の西園寺公望に首相になってくれるよう頼みましたが、西園寺は断りました。

「先日、山県殿は、ついに我々に政権を委ねてきた。ここは政友会の党首である原君に首相を頼みたい。」

 原は答えました。

「はい。お引き受けいたします。」

 こうして同年9月、原敬は第19代内閣総理大臣に就任し、内閣を組閣しました。

初の平民出身の総理大臣である原敬軍閥薩長藩閥による政治にあきあきしていた国民から大きな期待を受けました。

 

原は内閣の閣僚を陸軍大臣海軍大臣以外は全て立憲政友会の党員を起用。ここに本格的な政党内閣が誕生しました。

ここで1つ注意してほしいのは、原敬内閣は日本で初めての政党内閣ではないということです。初めての政党内閣は大隈重信内閣になります。

 

 それでは、原内閣成立後の最初の議会である第41回帝国議会(1918年12月~1919年3月)に向けて、提出する内政改革案を覗いてみることにしましょう。

原内閣は4つの内政大改革を示しました。

  1. 高等教育機関を中心とした教育の振興
  2. 交通・通信機関の整備
  3. 産業の奨励
  4. 国防の充実

 これらは特に原内閣による積極政策と呼ばれています。

 

 では、上記の内政改革4つの柱を1つづつ見ていきましょう。

 まず、1つ目は高等教育機関を中心とした教育の振興です。

 日本は明治時代以降、国民全員が平等に教育制度を受けられるとする「国民皆学」をスローガンとし、小学校の義務教育化の実現に注力してきました。そのために江戸時代の士農工商という強固な身分制度を撤廃し、四民平等になりました。

「どんなに貧乏な家に生まれても、一生懸命勉強すれば、高級官僚にだってなれる」

 江戸時代のような封建社会ではあり得なった立身出世への道が明治以降になって切り開かれたのです。その結果、国民の義務教育への就学率は順調に伸びて行き、明治の末年(1912年)には小学校の就学率はほぼ100%になりました。

 国民の教育への情熱は大正時代以降も冷めることはなりませんでした。大正時代になると、国民の中には、さらに高い教育を受けたいと思う人達が増えてきました。

「もっと専門的な勉強をしたい。」

「もっと勉強して、高級官僚として立身出世したい。」

 そう願う志の高い青年達が増えてきたのです。

 原首相はそんな国民の需要をしっかりと把握していました。

「現在の我が国には、帝国大学とよばれる5大学しかない。国民は高等教育を受け、立身出世をしたいと願う若者が増えている。高等教育への注力は早急な課題だ。」

 それまで日本には帝国大学と呼ばれる東京帝大、京都帝大、東北帝大、九州帝大、北海道帝大とよばれる5大学しかなく、現在のとは違い、大学生になれるのはほんの一握りの超優秀で家柄の良い学生だけでした。

 つまり、教育は平等に受けることが出来ても、官僚への立身出世は狭き門だったのです。

 原はその門戸を広げるために1918年12月に大学令を公布し、官立大学公立大学の設置を認める法的枠組みをつくりました。

 また、原首相はそれまで大学の名を冠していても専門学校としかみなされていなかった慶應義塾大学早稲田大学明治大学同志社大学などの大学昇格を積極的に認めていきました。

「これからの教育機関の在り方は、官僚主導はもちろん民間活力も利用した教育機関の充実も図るべきだ。」

 現在の有名私立大学はこのようにして大学としての体裁を整えていったのです。

 原首相のこうした高等教育機関を増設することで、より多くの若者が立身出世の道を歩めるようにしたのです。これは平民から首相にまで出世した原ならではの発想だと思います。

 

 次に、交通・通信機関の整備です。これらは積極政策の中心的な政策であり、原は鉄道の拡充を行います。

 なぜ、原は積極的に鉄道敷設に取り組んだのでしょうか。ここが原敬の政治手腕の見どころです。

 原敬内閣が成立して間もない1918(大正7)年はヨーロッパで4年半にも及んだ第一次世界大戦終結しました。

「今後、ヨーロッパ系の企業が中国や東南アジアに戻ってくる。そしたら粗悪な日本製のモノは売れなくなるだろう。」

 第一次世界大戦の大戦景気によって日本はその大戦景気を享受出来ました。しかし、戦争が終わったことで、日本の企業はヨーロッパ系企業との市場競争には勝てず、不景気が訪れるということをあらかじめ見抜いていたのです。

 原首相はこうした景気後退をカバーするべく鉄道敷設のような公共事業を行い、国内の景気安定を図ったのです。

 原内閣による鉄道敷設の特徴は都市部と農村を結ぶ鉄道を造ったことです。それまで交通や通信整備に関しては、この時代までに都市と都市を結ぶ幹線鉄道はすでに完成していました。しかし、その幹線鉄道から出る支線はまだ未整備でした。当時はまだ自動車が普及していませんから鉄道が内陸部の最も重要な輸送手段でした。都市部と農村を結ぶことで、新たな交通網と通信網が生まれ、日本国内の経済発展を促進することを狙ったのです。

 

 しかし、原内閣は経済に関しては干渉しないやり方でした。

 ここで3つ目の産業振興です。

 原首相は政府が不自然に経済に介入する処置は改めるべきと考えていました。原は言います。

「経済とは、あくまで自然の流れに任せ、自由競争により発展していくものだ。」

 原は政府の役目とは、大学や高等などの高等教育の充実や、この後のべる鉄道などの交通機関の敷設などの経済発展の基盤(インフラ)を整えることであり、経済活動そのものは民間活力にゆだねるべきものだとしました。西洋のアダム=スミスの主張とほぼ同じです。

 

 そして、原内閣は成立後、陸海軍(軍部)から軍備拡張計画のために軍事予算を割いて欲しいという要求を受けました。それは予想以上に膨大で、原は驚愕しました。

 ここで4つ目の国防の充実です。

 陸軍は新たに4個師団を増設し、25師団を完成させる、平時には25万人、戦時には100万人の兵力となることを理想としていました。海軍は戦艦8隻と巡洋艦8隻を基幹とする八八艦隊の完成を理想としていました。

 ここでもまた原敬の優れた政治手腕を見ることが出来ます。

「ヨーロッパの大戦争が終わった昨今、間もなく、世界規模の軍縮と国際協調路線が行われるであろう。そんな時代にここまで軍備拡大を要求するとは・・・。軍人とはなぜこんなにまで頭が固いのだろう。」

 第一次世界大戦終結し、今後は国際平和の時代が訪れることを原は見抜いていたのです。そんなタイミングで軍事力を増強しても、金と時間と労力の無駄になります。

 原はそんな時代錯誤の軍部に愛想を尽かしながらも、軍部と何とか協調して政治を行う方法を考えていました。だからこそ、原は軍備拡張も積極政策の中に盛り込んだのです。

 原にとって幸いだったのは、原内閣の陸軍大臣田中義一であったこと、また海軍大臣加藤友三郎だったことです。この2人は以前から原敬に大変協力的な大臣で、原内閣成立直後のシベリア撤兵に協力していました。

 原は田中と加藤の2人にこう言いました。

「田中殿、師団増設に関しては向こう8カ年の計画で充実させていこうと考えています。」

「加藤殿、八八艦隊の実現は陸軍に先行して行います。しかし、予算全体とのバランスが必要です。どうか今年度は見送り、来年度以降、予算案を考えていくようにしたい。」

 この提案に陸軍と海軍は合意しました。

 こうして陸海軍の軍備拡張計画を1919年度は見送り、1920年から随時拡張していく計画で妥結しました。

 原の予想通り、第一次世界大戦終結した1919(大正8)年は、パリで戦後処理の講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約が調印され、国際連盟も発足しました。また、2年後の1921(大正10)年からはワシントンDCでワシントン会議が開かれ、世界規模で軍縮と国際協調路線の取り決めがなされました。

 このタイミングに合わせるように原は、その優れた交渉力によって見事、軍備拡張を先送りにすることが出来たのです。

 

 今回は、原敬内閣の積極政策と呼ばれる4つの内政改革について見てきましたが、原敬が歴史的な偉人として評価されているのは、初の本格的な政党内閣を組織したことだけでなく、国際情勢や時代の流れを読み取る先見性にあります。原は軍事力増強には極めて慎重で、坂本龍馬陸奥宗光のような外国と手を取り合い経済活動をしていく貿易立国としての日本の将来を思い描いていたのです。

 

 さぁ、原内閣成立最初の議会となる第41回帝国議会(1918年末~1919年3月)に提出する4つの内政改革が準備出来ました。次回は第41議会で新たに取り決めがされた内容について触れてみたいと思います。

 

 ということで、次回は「なぜ原敬普通選挙に反対したのか」というテーマのお話になります。どうぞ、お楽しみに。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

原敬 外交と政治の理想 下           伊藤之雄=著  講談社選書メチエ

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著  旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著   山川出版社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著  産経新聞

【明治から大正へ】大正政変をわかりやすく (後篇) 【桂太郎】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は、記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【明治から大正へ】大正政変をわかりやすく(後篇)【桂太郎】」というお話です。

 

1912(明治45)年7月、明治天皇崩御し、大正天皇が新天皇として即位しました。年号も大正とになり、大正時代が始まりました。しかし、時の内閣であった第二次西園寺公望内閣は陸軍2個師団増設問題で陸軍と衝突。陸軍大臣の上原勇作は抗議の辞任をし、後任の陸軍大臣も陸軍のボスで元老の山県有朋が推薦しませんでした。

こうした陸軍のストライキによって西園寺内閣は行き詰まり、総辞職しました。

日露戦争後の10年間、桂太郎西園寺公望が連携し、交代で首相を務める桂園時代でした。しかし、明治の終わりと大正のはじまりとともにその時代も終わりを告げるのでした・・・。

 

1912年12月、総理大臣になった桂は、政友会総裁の西園寺のもとへ挨拶にむかいました。

「これからもよろしく頼みます。西園寺殿。」

西園寺は桂を見事なまでに突っぱねました。

「今後はそのような面倒をかけるつもりはない。」

日露戦争後の10年間、西園寺は桂と連携し、交代で首相を務め、日本の政治運営をしてきました(桂園時代)。しかし、その連携はとうとう出来ないと決断したのです。

西園寺が怒ったのは、まず、桂の内閣組織にありました。

桂は内務大臣に大浦兼武という者を選びました。巡査を長くやり、警察関係でずっと偉くなってきた人物です。しかし、この人事は、選挙で思い切って取り締まりをきつくするぞということを暗に意味していることは人目で分かりました。山県有朋の政権下で治安警察法が制定されましたが、これに則り、政友会や国民党などの民党の動きを封じようとしたのです。つまり、桂内閣は政友会に対して宣戦布告したことになります。外務大臣は、後に総理大臣にもなる加藤高明など、大体が外務官僚や大蔵官僚、内務省の官僚などの全て薩長藩閥による内閣がつくられました。

そうなったとき、西園寺とすれば、自分の内閣が、陸軍大臣が辞めて後任を推薦しないという事情で辞めざるを得なくなったのは、山県と桂、つまり陸軍閥長州閥が手を組んで自分達の内閣を倒したと思わざるを得ません。

その桂が新党をつくって、なおかつ選挙の取り締まりもびしびしやるぞ、という姿勢をとったのですから、政友会が怒るのは当たり前です。

 

西園寺率いる政友会は桂内閣に強く反発します。

「陸軍は陸軍増師を強行するつもりだ。」

こうした反桂勢力には、海軍も同調しました。海軍は陸軍のライバルであり、長州閥(陸軍)と薩摩閥(海軍)で派閥も違います。

桂に反発した斉藤実海軍大臣は留任を拒否しました。

桂は「これはまずい。」と感じます。

海軍大臣が辞任し、海軍がクーデターを起こし、後任が見つからなければ、第三次桂内閣も総辞職をせざるをえなくなります。

桂は、天皇詔勅を出してもらうよう頼みます。つまり、天皇の権限を用いて留任させ、組閣を乗り切ろうということです。

天皇はすぐに斉藤殿を呼び出します。

「斉藤殿、海軍大臣として今後も頑張って頂きたい。どうかここは留任を願う。」

海軍大臣が辞任してしまうと斉藤も天皇詔勅ということで聞かないわけにいきません。

桂は天皇の権限を利用して組閣を乗り切ったのです。こうした桂の強権政治は、野党である立憲政友会立憲国民党そして海軍からの猛攻撃を受けることになります・・・。

 

1912(大正1)年も12月19日になると、東京市歌舞伎座で2000人を超える聴衆を集めて、憲政擁護大会を憲政擁護運動(第一次護憲運動)とよばれる運動がおこりました。これは陸軍・海軍の軍閥薩長藩閥を打破しようとする閥族打破と、政府に世論尊重の憲法政治を守らせる運動のことですが、内閣を組織した長州閥で事実上、陸軍のボスである桂の内閣に対し、が展開されました。こうした「憲政擁護」、「閥族打破」をスローガンとした運動を第一次護憲運動と言います。

12月から始まった護憲運動は年末にかけて至るところで政府反対の演説会が開かれるようになりました。歌舞伎座はその時分、木造でしたが、広い劇場で、そこで参加者が弁当を食べ、2合瓶を呑み、勢いがよくなったところで政治家が壇上に上がって政府弾劾の演説をやります。すると、聴衆はワーっと盛り上がりました。それは東京だけでなく、全国の各都市でみんなやっていました。日本中を回って演説するような政治家もたくさんいました。

 

さらに、多くの新聞や雑誌も非常に厳しい言葉で桂の強権政治を批判します。政友会に味方したのは、1つは新聞です。新聞がみんな桂内閣を攻撃します。桂内閣もこれはやばいと思うようになります。

 

この当時も現在と同じような議会のスケジュールで、12月末に議会が招集され、正月を挟み、翌1913(大正2)年1月20日ごろに審議が始まりました。

しかし、こんな情勢で桂太郎内閣もさすがに危険だと思ったのでしょう。1月20日にいきなり、予算書の印刷が間に合わないからという理由で、15日間議会を停会にする、そして2月5日ごろに議会を開く、ということになりました。延命措置であり、その間になんとか内閣不信任案を取り下げさようとする狙いがありました。

 

その日のうちに桂は新政党を組織する計画を発表しました。桂首相は記者会見を開き、こう宣言しました。

「世論がそんなに政党内閣が良いというなら、私が過半数を超える新党を組織してみせる。」

桂は衆議院を牛耳る第一党の立憲政友会と、第二党の立憲国民党に対し、入党者を求めてその切り崩しにかかったのです。

政友会の党首は西園寺ですから、桂は立憲国民党に呼びかけます。立憲国民党は、かつて大隈重信によって組織された立憲改進党の系譜を引く政党です。桂の策略によって、反桂の犬養毅のグループ以外の多くが、桂になびいてしまいました。実は立憲国民党にも、犬養を良く思っていない連中が多く、彼らはライバルである立憲政友会に対抗するために桂の新政党に入ることを決めてしまったのです。その数は立憲国民党の約半数にも及び、国民党は大きな打撃を受けました。犬養は一時、混乱と国民党の前途を悲観するようになりました。

「このままでは、我が党は本当に桂に切り崩されてしまう。場合によっては、政友会と国民党の合同も考えてほしい」

この犬養の提案に政友会の原敬は「それは出来ない。いや、それで問題が解決されるわけではない。」と断りました。

しかし、桂が呼びかけた新政党への参加者は最終的に4分の1にも達しませんでした。これにより桂は窮地に追い込まれました。

 

そして迎えた1913(大正2)年2月5日、議会が開かれると、いきなり野党は内閣不信任案を提出しました。野党とは、立憲政友会と、立憲国民党のことです。国民党は当時90人くらいの代義士のいる政党でしたが、先述の通り、その中が2つの勢力にわれていました。一方は反桂の犬養毅を中心としたグループであり、もう一方は、桂に引き抜きがかかって、桂になびいた連中でした。桂の方に行かなかったのは国民党では犬養グループ、それから原敬や松田を中心とした政友会でした。

この内閣を信任しない理由は以下の4つでした。

  1. 桂太郎が宮中と府中を混同して、両方の別をわきまえないので、けしからんということ。
  2. 帝国議会に基礎を置かない超然内閣を組閣したこと
  3. みだりに詔勅を泰請したこと。
  4. 官僚権力を濫用して政党の組織化に着手したことで

 

桂がまず指摘を受けた「宮中と府中の別」を無視したとは、具体的にどういうことなのでしょうか。いうことです。「宮中」とは、「宮城の中」という意味ですが、宮内省内大臣府のことで、これは天皇の側近として皇室関係を取り仕切る機構です。内大臣という役職がありますが、これは天皇の側にいる常時輔弼(じょうじほひつ)の役で、天皇に仕える最高の相談役です。

一方、府中とは、政府のことで、行政府の内閣のことです。当時、宮中と府中は別ものとされおり、それが口やかまかましく言われていました。

桂が首相になったということは、内閣に戻ってきたということです。しかし、桂は内大臣侍従長なので、政府とは関係ない。桂が外国から帰ってきて内大臣侍従長として宮中に入ったので、政府とは関係ない。ところが、また首相になって戻ってくる。そんな宮中と府中を行ったり来たりする自由は許されないと批判されたのです。

2つ目の超然内閣です。「超然」とは、「細かいことにはこだわらない」という意見ですが、選挙によって国民の声がどう議会に反映されても、超然として政治を行うという意味です、政党とすればこうした内閣は当然反対です。

3つ目は、山県や桂は、天皇の名前で何かを命ずるということになると、誰も反対出来ません。この当時の大日本帝国憲法下では、天皇は神ですから、山県や桂のような軍閥藩閥勢力は天皇勅語詔勅を出してもらうことが得意で、それをしょっちゅうやりました。天皇を道具のようにするのはけしからんということでした。

4つ目は、新政党をつくるときに政府の官吏権力でもって誘いをかけた点です。内務大臣の大浦兼武という人物はそれをやるのが非常に上手でした。

 

野党は以上4つの理由でこの内閣を不信任としました。すると、これは危ないということで、桂内閣は、またしても天皇から詔勅をもらい、5日間の議会の停会としました。

 

不信任を突きつけられ、どうにもならなくなった桂はその悩みを天皇に打ち明けました。

すると、大正天皇は政友会総裁である西園寺を呼び出しました。

「西園寺殿、貴殿の党が出している不信任案を取り下げるようしていただきたい。」

西園寺はひざまずいて答えました。

「大変恐れ入りました。お引き受けいたします。」

桂は、またしても天皇詔勅で西園寺を取り押さえようとしたのです。

 

約束の議会が始まる前日、西園寺は政友会に帰り、原敬や松田に不信任案を取り下げるよう言いました。

天皇のご命令だ。申し訳ないが・・・。」

しかし、原と松田は言います。

「不信任案が明日にも採決されるというところでそういうことを言われても・・・。天皇の総裁はお言葉を守らなければなりますまいが、我々とすればそこまでは聞けません。」として、不信任案を通す方向に行ってしまった。

西園寺は天皇のご命令に背いてしまいました。西園寺は淡々としていて、政権にあまり執着していません。なので、

一方、桂の方は、西園寺を取って抑えたとばかり思い込み、もう不信任案は通らないだろうと思っていました。

 

すると、今度は国民が怒った。

現在では国会というと、国会議事堂と言いますが、当時は帝国議会議事堂と呼んでいました。その帝国議会議事堂の周りは群衆に取り囲まれて、今にも国会に群衆がなだれ込むような勢いを示しました。馬に乗った騎馬巡査がそれを抑えに回っているという状態です。

 

この日は国民の怒りが最高潮に達した日でもありました。反桂を掲げ、日比谷公園に集まった数千人の群衆は、銀座方面に向かい、政府を支持する新聞社に火をつけてまわったのです。国民新聞、やまと新聞、ニ六新聞というような新聞社はみんな被害にあったようです。国民新聞とは、ジャーナリストの徳富蘇峰が経営していた新聞社です。

政府は鎮圧のために軍隊を出動させるも、死傷者は数十人に上りました。この暴動は関西にまで飛び火します。

 

そして2月10日になり、いよいよ議会が開かれますと、野党の方が一番先に不信任案を提出した。それに対して首相、あるいは外務大臣加藤高明が演説をぶったところで、野党の闘士が立ちあがって演説をぶつ。その中で一番有名になったのは、立憲政友会尾崎行雄立憲国民党の中心人物である犬養毅という人物です。

特に尾崎行雄は演説が上手いということで、大変有名で、非常に派手な言葉を使い大演説をぶちました。

「彼は常に言葉を開けば忠君愛国を唱え、忠君愛国は己の専売特許のごとく言っているが、そのなすところ、玉座を以て胸壁となし詔勅をもって弾丸となした。そしてその政敵を倒さんとするものである。」

玉座を以て胸壁となし詔勅を以て弾丸となし」というのは非常に有名な言葉になりました。

つまり、桂内閣は、天皇の権威を利用した強権政治であると非難しているのです。

犬養も演説が上手いといわれていますが、犬養の方は、どちらかというと低くおさえて、しぶい声で説くのですが、尾崎はかなり派手でした。尾崎と犬養は後に「憲政の二神」と呼ばれるようになります。

こうした中、さらに桂は海軍からも呑まれるようになります。

この時、山本五兵衛は海軍大将で、日露戦争のときの海軍大臣をやって、また以前からずっと海軍では実力ナンバーワン、薩摩出身の政治家としてもナンバーワンです。

山本は朝、首相官邸に乗り込み、桂に会ってこう言いました。

「桂君、キミのしていることは、時代の動きを読み間違えた方法だ。これ以上の政権運営は出来ないだろう。」

「私は何を間違えていたというのだ。」

「やめたまえ。それ以上口を開くのは見苦しいというものだ。ここは黙って身を引け。」

「お前までそんなことを言うなんて・・・。ふん、そんなに言うなら辞めてやるよ。」

桂と山本は昔から仲間でした。しかし、陸軍(長州閥)と海軍(薩摩閥)の違いということで、

山本は桂に辞める意向を示したということを政友会の西園寺に直接話しに行った。桂は山本に呑まれて、辞めざるを得ない立場になったのです。

 

そして2月も半ばになると、群衆のデモはさらにヒートアップしました。議事堂のまわりには、またしても桂に反発する群衆が押し寄せるという異常事態になりました。

「桂よ、今すぐ総辞職せよ!」

衆議院議員議長の大岡育造はこうした事態を収拾するには内閣の総辞職しかないと悟ります。

「このままでは群衆が議事堂内に乱入し、もし警察隊と衝突することになれば、激昂した民衆が暴動を起こし、日本は内乱状態になるでしょう。桂殿、ここは職を引いて頂きたいと申し上げます。」

「わかった・・・。」

こうして桂は組閣からわずか50日余りで瓦解しました。

これを正政変と言います。この第三次桂太郎内閣は成立後、わずか2カ月という期間で倒れてしまいました。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版会

原敬 外交と政治の理想             伊藤之雄=著 講談社選書メチエ

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著 産経新聞出版

 

【ワシントン体制】ワシントン会議で日本が頭を抱えた内容とは?【加藤友三郎】

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【ワシントン体制】ワシントン会議で日本が頭を抱えた内容とは?」というお話です。

ワシントン会議の課題はアジア太平洋問題の平和秩序の実現です。そのために必要なのは軍縮です。第一次世界大戦の反省による国際協調路線は日本にも要求されたのです。海軍大臣加藤友三郎はその条約に締結。日本は主力艦の保有率を制限されるだけでなく、中国の権益も手放すことも認めてしまいます。これに対し、職を失う危険にさらされた職業軍人が猛反発。以後、内閣に対するテロ行為へと発展します。また陸軍も海軍の弱腰外交を非難。陸軍と海軍は犬猿の仲となっていくのでした・・・・。

 

 公務員とはいつの時代も人気の職業です。

 それは大正時代の日本でも同じです。当時の国家予算の約3分の1を軍事費にまわしている日本の公務員といえば、軍人が主体です。

 労働組合などが十分に整っておらず、今でいうブラック企業ばかりの当時で待遇がよく、何より安定している職業として人気を集めていました。

 職業軍人とは‘いたれりつくせり‘の職業です。

「自分は将来、陸軍になるのか、それとも海軍になるのか。」

 そんな志を持つ少年が多く、同時に「親が考える!息子になってほしい職業ナンバーワン!」でもありました。

 一方で、軍人に対する世間の風当たりは強いものでした。日本はかつて日露戦争によって家計や企業が疲弊し、一時的に混乱状態になった経験があるからです。

 したがって当時の軍人は電車に乗るにも軍服では気が引けて、人混みの場所にはなるべく平服で行くような状態でした。

 しかし、そんな世間の厭戦気分の高まりと同時に職業軍人は非常に人気の高かった職業です。

 

そんな中、職業軍人への道を志した少年達が、やがて将校として一人前になるころ、非常に不運な時代に突入してしまうのでした・・・・。

 

そんな国内情勢の中、陸軍の上層部ではある密約が交わされていました。

それは第一次世界大戦が終わってしばらく、平民宰相と呼ばれた原敬が暗殺された直後の1921年10月のことです。陸軍は今後の軍の近代化について話合いをしていました。

「今回の未曾有の大戦争でヨーロッパはかなりの戦死者を出したようだ。」

「まさに国家総動員といえる戦いでしたな。いや~見事なものでした。」

「関心している場合ではない。同時にヨーロッパ各国は戦闘機や戦車、毒ガス、潜水艦など兵器は飛躍的に近代化された。」

「我が国は戦争にほとんど参加しておらず、兵器も近代化されていない。もとより国家総動員などしていない。」

陸軍のボスであった山県有朋が寝たきり状態となった今、陸軍上層部は軍の大幅な改革が必要であるとして密約を交わします。

「我が国が今後、世界で生き残っていくためには軍の大幅な改革が必要だ。もっと予算を軍に割いてもらうのだ。」

さらに陸軍の改革を妨げている「長州閥」の排除や、職業軍人だけでなく、国民軍も動員する国家総動員体制の確立を図ることも取り決めが行われました。

しかし、この密約は今後の国際社会において、時代の逆をいくものでした・・・・。

 

では、一体どんな時代になったのでしょうか。

そう、軍縮の時代です。

陸軍の密約から半月後の1921(大正10)年11月12日、ウィルソンに代わってアメリカ第29代大統領に就任したハーディングが日本政府に手紙を寄越しました。その内容は今後のアジア太平洋の国際秩序の構築を目的としたものでした。1つはイギリス、アメリカ、フランス、日本、イタリアなどの大国を集め、海軍の軍事縮小について話し合いたいこと。もう1つは中国や太平洋に浮かぶ島々に関わりのある国を集めて、それらの利権についての話合いをしたいとのこと。

これらの問題についてアメリカの首都ワシントンで会議を開きたいとのことです。

第一次世界大戦は大変悲惨な戦争でした。その原因は植民地争奪争いが大きな原因であり、ニ度とこんな悲惨な出来事が起きないように会議を開き、条約を締結し、領土問題や民族問題などあらゆる問題を解消し、平和な世界秩序をつくることが望まれました。ヴェルサイユ条約が締結されたパリ講和会議ではヨーロッパの諸問題が解消されました。(一時的ですが・・・。)今回のワシントン会議ではアジアや太平洋の諸問題を解決しましょうということです。

 

国際協調路線を推進した原敬を引き継ぎ、総理大臣となった高橋是清はこの会議に参加することを決めます。日本から全権大使として送られるのは、長いこと海軍大臣をやっていた加藤友三郎です。高橋は言いました。

「日本は海軍の軍備にかなりの予算を割いている。現在の国家予算を考えれば、これは大いに賛成だ。それに近年、中国との関係も悪化してきている。これらの問題を解消し、中国やアメリカと手を取り合って経済活動をしていくような時代が出来れば良いなぁ。」

 

1920年代の国際情勢はどのようなものだったのでしょうか。

実は、日本とアメリカの関係は敵対関係になりつつありました。その亀裂は日露戦争後から顕著になっていきましたが、アメリカの日本敵視は日本が東アジアで勢力を拡大するごとに大きくなっていきます。

それまで、アメリカから見た日本は、第一次世界大戦ロシア革命までの間、ドイツやロシアを東アジアで牽制してくれる新興国でした。しかし、ドイツが第一次世界大戦で列強の座から降ろされ、ロシアも非戦論を唱える「ソ連」に体制変更すると、アメリカは日本を東アジアの権益を争うライバルという存在に変わっていったのです。

「日本人とは我々と違い、休暇も忘れて働くような奴らだ。このままでは世界の海を牛耳る覇権国家となってしまう。」

それはイギリスやフランスにとっても脅威でした。特にイギリスは日露戦争直前、日本と日英同盟を結んでいましたが、このまま日本が東アジアで勢力を拡大すれば、自分達の東アジアにおける利権を奪われるかもしれないと危惧します。そしてイギリスは日本との戦争も仕方がないと思うようになります。その際、日英同盟は大きな障害になると考えていたのです。

つまり、欧米列強にとって日本は「大国クラブのニューカマー(新参者)」から「警戒すべきライバル」と見なし始めたのです。これが1920年代の列強と日本の関係です。

 

そんなライバルをどうすれば簡単に抑え込むことが出来るでしょうか。

そうですね。条約を結んで互いにルールとして決めてしまえばいいのです。

そこで開かれたのがワシントン会議だったのです。

そう、つまり「国際平和」とはアメリカの建前でしかないのです。

アメリカの本音とは、新たな覇権国家として君臨したアメリカが仕切る「パクス・アメリカーナ」の構築だったのです。アメリカはイギリスから世界の覇者を奪いとるために「平和のために・・・」という大義名分のもと、イギリスから世界の覇者の座を奪いとろうとしたのです。

 

ワシントン会議は1921年1月12日から1922年2月6日にかけてアメリカの首都ワシントンDCで開かれました。

開会式では、アメリカの国務長官であるヒューズが海軍の大軍縮を行うべきであるという演説からスタートしました。

ワシントン会議では3つの条約が締結されます。それぞれ目的、内容、参加した国々をしっかりと押さえておきましょう。

  1. 四カ国条約
  2. ワシントン海軍軍縮条約
  3. 九カ国条約ひとつづつみていきます。まずは、四カ国条約です。これは太平洋における利権争いの解消を目的としたもので、その内容は太平洋における島々の領有権を現状で固定し、互いに争わないようにするというものです。参加したのは、日本、アメリカ、イギリス、フランスの4カ国でした。太平洋の平和のために政治と軍事の両面で重要な取り決めが行われました。日本にはこの条約と引き換えにイギリスとの日英同盟も破棄されました。次にワシントン海軍軍縮条約です。この条約はその名通り、各国の海軍を縮小しましょうという取り決めで、目的は、太平洋やその他の海域で際限なく行われる軍拡競争を避けるために、各国の保有する海軍力や海軍の拠点である要塞化などに一定の枠をはめるというものです。参加したのは、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの5カ国です。アメリカが各国に軍縮を要請したのには理由がありました。実はアメリカは膨大な軍事費の投下によって、国内の経済や産業が疲弊していました。この条約の内容は、主力艦(戦艦と巡洋戦艦)の保有戦力の比率が定めるものでした。アメリカ、イギリスの保有率を5とした場合、日本は3、フランスとイタリアは1.67とされました。つまり日本はアメリカに対し、6割程度の主力艦保有に制限されるのです。最後に九カ国条約です。これは中国における権益競争のルールを再確認し、門戸解放と機会均等の尊重、領土の保全などを各国間で締結するというものです。参加したのは、日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、中国、オランダ、ベルギー、ポルトガルの9カ国です。中国の主権回復もされるということでパリ講和会議を脱退した中国も参加しています。その内容は第一次世界大戦で日本が獲得した山東半島の利権を中国に返還するというものです。これら内容に加藤をはじめ日本大使一同は頭を抱えました。現在のアメリカとイギリスは3万トンを超える軍艦を15隻持っていました。日本は建造中も含めて10何隻を持とうとしていましたが、完成していたのは9隻でした。ですから条約に従えば、15対9の割合になるので、現在建造中の艦隊は全て中止しなくてはなりません。しかし、今現在、各地の海軍工場や造船所で造りかけている軍艦をどうするかという問題が出てしまいました。それらの軍艦を生かすか殺すのか・・・。「いいんですか?加藤殿。」当時、アメリカは日本にとって最大の貿易国であり、1920年代半ばでは日本の輸出総額の約40%がアメリカ向けで、輸入総額の約30%がアメリカからの貿易品でした。したがって日本にとって、特にアメリカとの友好関係の維持はもっとも重視されました。今回のワシントン会議によって、東アジアと太平洋での政治的・軍事的な安定がもたらされるかに思われました。しかし、それは長続きしませんでした。ワシントン会議が終わり、帰国した加藤らは、予想通りの反発を受けることになります。「え?山東省は俺達陸軍が苦労して獲得した領土だぞ。それをなんで海軍が勝手に手放すんだよ?おかしくないか?そんな条約勝手に結ばれては困る。」既得権益を手放したくないという感情は役人の特徴です。ワシントン海軍軍縮条約に基づき、海軍の予算は1921年(大正10)年には国家予算の3分の1にあたる5億円近くが、1922(大正12)年には2億8千万円に削減されました。日本の造船所もかなり反発しました。海軍の軍縮政策も、陸軍には不評でした。海軍が軍縮に成功すると、世論は陸軍にも軍縮をもとめました。山県陸軍の上層部は師団を減らしつつも、浮いた予算で航空部隊や戦車部隊を新設・増設するなど軍の近代化を図りました。「将校以上になれば、金、地位、権力ともに文句なしの待遇を受けることが出来ると思っていたのに・・・・。」それまでの青年軍人達の夢や希望はことごこく裏切られました。特にポストが減ったことで、念願だった将校になる夢は一瞬にして狭き門と化し、多くの若手軍人は反発しました。世間の目が厳しい、出世も難しく、リストラにも遭いやすい・・・・。結婚が決まっていた若い将校達の中には、軍縮が始まったために婚約者の女性側からの申し出で結婚が破談になった例もあるそうです。軍人達は政府の弱腰外交を非難、そして世間の風潮に対して反発しました。政府の国際協調や軍縮政策に不満を抱いた軍人達は、テロやクーデタでそれを打破しようとする急進派軍人へと姿を変えてしまいました。日本は今後、軍が総理大臣を暗殺するような恐ろしい時代に突入していきます。
  4. 以上
  5. 今回の主人公であった加藤友三郎は1923年に総理大臣になります。しかし、加藤が病死すると、海軍の中でもワシントン条約に対する反対意見が強くなります。これが1930(昭和5)年のロンドン軍縮会議が締結されると同時に爆発。統帥権干犯問題が起こり、やがて五・一五事件やニ・ニ六事件などのテロが相次いで起こるようにもなります。
  6. 「なにが協調外交だ、なにが軍縮だ、俺達は失業者になってしまったよ。」
  7. 軍縮により、将校達は動揺し、師団内の士気も大きく低下。
  8. 職業軍人の社会的地位は大きく低下しました。
  9.  
  10. 国家財政を考えれば、軍縮は否定できない。しかし、軍人たちにとっては死活問題です。
  11. 「それまで生涯安泰と言われていた俺達軍人がリストラでビクビクするようになった・・・。」
  12. しかし、一番納得がいかないのは将校以下、一般の軍人達でした。
  13. その空気に押されるように同年8月、陸軍は5個師団分を削減する軍縮が行われました。さらに、将校2千人余りを含む大幅な定員削減も行われました。
  14.  
  15. 厭戦反戦 が強まっていました。
  16. 海軍は現在、造船所で建造中の軍艦を処分することにしました。造りかけの軍艦は沖合に出され、大砲の射撃の的にして沈めてしまいました。海軍は大変悔しがりました。その中で生き残ったのは、「赤城」と「加賀」という航空母艦です。これらはミッドウェー海戦であっけなく撃沈されてしまいます・・・。
  17. これがきっかけで陸軍と海軍は犬猿の仲になっていきます。
  18. 「海軍は全くもって情けない。救いようのない弱腰外交だな。」
  19. 「おい。聞いたか?海軍が軍縮山東半島を中国に返還したらしいぞ。」
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  22. 「仕方ない。不景気が続く我が国は今後、英米との建艦競争に勝てる気はしない。ここは受け入れなくてはいけない。」
  23. 悩んだ末、結局加藤は条約を調印します。
  24. 日本はそれまで海軍の軍備には、かなりの予算を割いていましたから、国家財政を考えれば、大いに賛成です。
  25. 「アメリカに対し、日本は6割だと!?、山東半島の利権を中国に返還するだと!?当初の話とは随分違うじゃないか。」
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  27.  
  28. 覇権国家を目指すアメリカにとって、自分達を超える軍事力をもった国が現れては困ります。したがって、このような条約を結び、自分達の世界最強の国としての地位を不動のものにしたかったのです。
  29. 「大戦後、世界の主要国はどの国も、戦後の困窮によって、軍事費を削減しないと経済や産業などの内政が充実出来ない状態にあることと存じます。今後の太平洋における平和維持のためにも、各国は主力艦の保有率を制限するべきだと考えます。」
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最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

5つの戦争から読み解く日本近現代史       山崎雅弘=著  ダイヤモンド社

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著  旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著   山川出版社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著  産経新聞