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【経済史2】鎌倉時代の商業をわかりやすく

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【経済史2】鎌倉時代の商業をわかりやすく」というお話です。

 

政治と経済は密接に関係しています。

基本的に戦争や内紛が起こると、経済は右肩上がりに成長し、好景気となります。一方で豊かで平和な世の中であれば、経済は停滞し、不景気となります。それは現代の日本の情勢をみれば、納得できると思います。

人間は命の危険に晒されると、思考をめぐらせ、積極的に行動するようになるのです。

 

では、鎌倉時代はどうだったのでしょうか。

鎌倉時代とは、武士の時代と呼ばれています。それまでの時代と大きな違いは、各地で戦乱が相次ぐようになったことです。そのため、人々は積極的に行動し、産業が成長し、経済は右肩上がりとなっていきました。

国の経済は、生産・流通・消費の活動を繰り返しながら循環し、成長していきます。今回は、鎌倉時代の流通(商業)について見ていきたいと思います。

農業や手工業に加え、鎌倉時代は流通(商業)も発達した時代でした。荘園や公領の中心地、交通の要地、寺社の門前では、生産された物資を売買する定期市が開かれた。月に3度開かれる三斎市も一般化していきました。

農民たちが荘園領主におさめた年貢は京都・奈良(中央)に運ばれました。しかし、中央に納めた年貢のうち、残った年貢は地元の市で生活に必要な物資と交換されました。

年貢として決められた品をつくっていない人たちは、自分たちが生産した品を市で売って、年貢の品を買い整える必要もありました。

そこで、重要なポイントは貨幣経済の浸透です。鎌倉時代貨幣経済が浸透した時代でもありました。

平安時代末期、日宋貿易によって宋から輸入された宋銭(銭)が貨幣経済を急速に発展させたのです。銭(銅銭)が出回るようになると、荘園領主におさめる年貢も市で売られ、銭にかえて送られるようになりました。ものの値段は上がったり下がったりするので、銭にかえておさめるほうが得をすることもありました。

このようにして、市での取引がさかんになると、開かれる市の回数も増えていきました。

市が設けられたのは、荘園の中心地や寺社の門前、年貢を運び出したり、中継ぎしたり、陸揚げしたりするのに便利な川岸や港などでした。市は月に数回、定期的に開かれました。鎌倉時代の中頃になると、月に3回開かれる三斎市が多くなりました。市には簡易な小屋が設けられ、市のたつ日に商人たちがやってきて店を開きました。

三斎市には種類があり、例えば4日、14日、24日に開かれれば、これを四日市といいました。全国各地に一日市、二日市、三日市、四日市、五日市、六日市・・・といった地名がありますが、これらの多くは三斎市が開かれていたことからついたと考えられています。

当時の市のようすは、『一遍上人絵伝』に描かれており、米・布・魚・鳥の肉・備前焼の甕(かめ)や壺、履き物などを売る商人、それを買う男女や子供でにぎわっていたようです。

また、中央から地方へ工芸品や織物を運ぶ行商人も登場し、高級品を扱う手工業者や商人が集まる京都、奈良、鎌倉などの中心都市には常設の小売店である見世棚も現れました。

 

貨幣経済が浸透したことによって、今でいう銀行のような仕事をする借上(金融業者)が現れました。さらに東回り航路と西回り航路が開通したことによって、船を使って海から物資を運ぶ問丸が現れました。遠隔地取引も実現したことにより為替も発達しとことも鎌倉時代の特徴です。

船が出入りする川岸や港には年貢を保管する倉庫が設けられ、問丸とよばれる商人がその管理や輸送にあたりました。瀬戸内海や日本海の沿岸地域、琵琶湖や淀川のほとりには、年貢を船で運ぶルートにそって、町が生まれました。水運が利用できない京都近郊では、馬の背に物資を乗せて運ぶ馬借や、牛に荷車を引かせて運ぶ車借とよばれる専門の運送業者が活躍しました。

地方から年貢や産物が集中する鎌倉や京都は、東と西の中心地としてさかえました。この頃の京都は、天皇や貴族、寺院の僧、大番役のためにやってきた武家の人々がくらす場所であると同時に、様々な商工業者が集まる都市になっていました。荘園領主のもとにおさめられた年貢は、彼らの日常生活に充てられ、残りは市で売られました。

絹・布・漆・紙・鉄などの原料品は、手工業者の手によって高級織物や漆器・蒔絵・扇・刀などの工芸品につくりかえられました。それらの商品を諸国に運んで販売し、地方特産の原料や製品を仕入れてくる商人も増えました。各地をまわる行商人や職人、芸能民など、人の動きも活発になってきました。鎌倉は武士の都にふさわしい都市として整備され、鎌倉と京都をむすぶ東海道にそって宿(のちの宿場町)ができ始めました。

 

宋(中国)との交易もさかんに行われました。宋からは莫大な量の宋銭が輸入され、商品取引の発展にともない地方にまで銭が流通しました。宋銭は円形で中央に小さな四角い穴が開いています。種類は約70種におよびますが、額面はすべて1文として使われました。穴にひもを通してまとめた銭を「さし銭」といい、普通は97枚にまとめた「さし銭」を、100文として通用させました。

 

高利貸しを営む借上とよばれる金融業者も生まれ、遠隔地取引には為替が使われました。

こうして鎌倉時代の中頃には人やものの動きが活発になり、めざましい経済の発展がありました。