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【鎌倉幕府滅亡1】なぜ鎌倉幕府は倒されたのか【楠木正成】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【鎌倉幕府滅亡1】なぜ鎌倉幕府は倒されたのか【楠木正成】」というお話です。

 

鎌倉幕府の滅亡する直接的なきっかけをつくった天皇が1318年に即位しました。後醍醐天皇(第96代)です。

後醍醐天皇は、皇太子の頃から気性の激しい性格で、何より学問に熱心でした。その姿は、周囲からも一目置かれており、「稽古の君」と言われるほどでした。

そんな後醍醐天皇が勤しんでいた学問が宋学でした。宋学鎌倉時代に禅僧によって宋から日本に持ち込まれた学問で、大義名分と正統論を展開する朱子学です。

宋という国は13世紀にモンゴル族の元に押され、南に逃れた王朝だったため、異民族の支配に対して自分達こそ正統であるという意識と大義名分に大変敏感でした。

そんな「稽古の君」で気性の激しい後醍醐天皇が幕府に不満を覚える出来事が起こります。

 

それは皇位継承問題でした。1272年以来、皇室は、持明院統後深草天皇系)と大覚寺統亀山天皇系)に分裂して皇位を争ってきました。それを見かねた鎌倉幕府は1317年、両統から交互に天皇を出すように調停を下していました。(文保の和談)

後醍醐天皇大覚寺統)は、皇太子となっていた邦良親王持明院統)が若死にすると、自分の子である護良親王を皇太子にしたいと考えました。

しかし、鎌倉幕府執権・北条高時はこれを禁止し、持明院統量仁親王(後の第97代後伏見天皇)を皇太子に立てました。

これは持明院統大覚寺統から交互に皇位につく原則にしたがっただけなので、幕府は悪くありません。

しかし、これに後醍醐天皇は非常に腹を立てました。

「皇室の皇位継承に幕府が干渉するのは許すことのできない不遜な行いだ。」

後醍醐天皇は、天皇親政こそが国政の正しい姿だと考え、日本の正統たる天皇の地位を幕府から守るという名分論によって、ついには倒幕計画まで企てるようになりました。

後醍醐天皇は近臣の日野資朝日野俊基らとはかり、倒幕の計画を進め、1324(正中元)年、後醍醐は幕府に不満を持つ御家人畿内の武士、寺社などを味方にして、幕府の出先機関である京都の六波羅探題を攻めようと計画しました。

しかし、その企てが密告によって幕府の耳に入ってしまい、天皇方の側近数名が流罪に処されました(正中の変)。一方で、後醍醐自身は鎌倉に使者を送り、「自分は一切かかわりなかった」と言い張ったので、罪を免れました。

しかし、以後も後醍醐は諦めず、1331(元弘元)年、再度倒幕を目論みました。当時の御家人は、元寇への負担や貨幣経済の浸透によって貧窮化し、それが得宗専制政治に対する不満となって幕府内にうずまいていることを、後醍醐天皇は知っていたので、倒幕をあきらめなかったのです。

 

しかし、その計画も天皇側近で働いていた吉田定房の密告により幕府に漏れ、倒幕計画は再び挫折しました(元弘の変)。後醍醐天皇三種の神器を持って京都御所を脱して山城国京都府笠置山に籠って近国の武士たちに倒幕を呼びかると、続々と武士たちが集まってきました。

 

この知らせに驚いた鎌倉幕府は、鎌倉から大軍を送り、笠置山を包囲しました。後醍醐天皇の軍は笠置で籠城し、50万の北条幕府軍とよく戦いましたが、やがて陥落しました。

 

このとき、後醍醐天皇のよびかけにこたえて兵をあげた武士の中に、河内国赤坂(大阪府千早赤阪村)を本拠とする悪党(幕府に属さない新興武士)の楠木正成でした。

城を脱出した後醍醐天皇は、正成の立てこもる赤坂城に向かう途中で幕府軍に捕まりました。幕府は後醍醐天皇を退位させる代わりに持明院統光厳天皇を立て、翌1332(元弘2)年3月、後醍醐を謀反人として隠岐(島根)に流しました。文観も流罪となり、日野俊基佐渡国に流されていた日野資朝は処刑されました。これを元弘の変といいます。

 

 

楠木正成は、後醍醐天皇が逮捕された後も、怯むことなく、幕府に反旗をかかげ孤軍奮闘していたのです。

正成は赤坂城に立て籠り、幕府軍と奮闘していましたが、長期戦となって状況が不利になったため、城に火を放って抜け出し、一時姿をくらましました。

しかし、正成は再び挙兵し、金剛山の中腹に千早城を築いて立てこもりました。

幕府軍は、六波羅探題から動員令を出して80万の大軍を千早城に送り込みました。

また、楠木正成には莫大な懸賞金がかけられ、驚くことに100万の大兵が正成の首を求めて千早城に群がったという。対して楠木勢はわずか1000人。ところが千早城は最後まで落城しませんでした。

鎧を着せたワラ人形を城外に並べてオトリにして敵を寄せ集め、上から巨石を落としたり、煮え湯や大便をかけたり、たいまつを投げ落とした油を注いだりと、当時としては奇想天外な戦い方をし、敵につけ入るすきを与えませんでした。

正成がゲリラ戦を展開している間、後醍醐は虚を突いて隠岐を脱出。諸国に倒幕の綸旨(命令書)を散布して挙兵を呼びかけた。

それに応えた後醍醐の皇子の護良親王吉野山奈良県吉野町)で兵を挙げ、播磨国兵庫県南部)の武将・赤松則村も挙兵しました。

 

その結果、各地で有力武士が反旗をひるがえして形勢は逆転、幕府は崩壊へといたるのでした。つまり、後醍醐天皇の強靭な意志と、楠木正成という名もなき1人の悪党の踏ん張りが、時代を大きく動かしたのです。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC