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【縄文時代】縄文時代の大まかな流れをわかりやすく

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今から1万2000年前、旧石器時代から縄文時代新石器時代)になると、地球の気候が温暖になり、海水面が上昇し、日本列島が大陸から分離し、列島内の自然環境も現在に近いものとなりました。
 特に植物の繁栄は著しく、寒い地域に生える針葉樹に代わって、広葉樹が多くなりました。東日本にはブナやナラなどの落葉広葉樹林(秋に葉を落とす)が、西日本にはシイなどの常緑広葉樹林(冬も緑の葉をつける)が広がりました。
動物に関しては、マンモスやオオツノジカのような大型動物の多くは絶滅し、動きの速いニホンシカやイノシシが多くなりました。

 そんな縄文時代は、土器の形状の変化によって、下の表のように草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と、6つの時期に区分され、それぞれの特徴をもっています。

草創期 1万3000年前
早期  1万年前~
前期  6000年前~
中期  5000年前~
後期  4000年前~
晩期  3000年前~

 1つずつ見ていきましょう。
 はじめて土器が現れるのは草創期で、今から約1万3000年前のことです。まだ気候は寒冷で、人々は寒さをしのぐために洞窟や岩陰を住居とし、その多くは狩猟中心の移動生活を営んでいました。なので、この時期を縄文時代ではなく、旧石器時代だとする人もいます。

 縄文早期になると、気候が温暖になり、人々は東日本を中心に竪穴住居を作って住むようになりました。集落は、日あたりがよく、飲料水の確保に便利な水辺に近い台地上に営まれました。そこは一軒あたり5~6人の家族単位が4~6戸ほどの集団で生活をしていました。また、漁労もさかんになり、集落のまわりにはゴミ捨て場である貝塚が作られました。

 前期になると、マメ類やエゴマ、ひょうたんなどの植物の栽培がはじまり、いよいよ本格的な定住生活が始まりました。列島内の人口も10万人を数えるようになりました。
 住居には炉が設置され、土器は地べたにおいて煮炊きがしやすいように底が平たくなりました。また、丸木船を使って沖合漁業も始まり、土偶が製作されるのもこの時期です。

 中期になると、気候はさらに温暖化し、列島内の人口も25万人を超えました。集落も中心に広場をもつ円形の環状集落が多くなり、規模も100戸を超えるところが多くなりました。そこには住居だけでなく、食料を貯蔵する貯蔵穴郡や、配石遺構とよばれる墓地施設、さらには大型掘立柱建物などもあり、長いあいだ人々が定住していた形跡が見受けられます。
 土器は火炎土器のような芸術的なものや、女性は麻で編んだファッショナブルな服装をしており、非常に平和で余裕のある生活を営んでいた時期であったことがうかがえます。
また、成人への通過儀礼としての抜歯もこの時期に始まったようです。この時期は縄文の代表的な遺跡として青森県三内丸山遺跡が挙げられます。

 後期に入ると、気候が寒冷化に向かい、食料の生産や捕獲も難しくなり、人口も7~8万人に減少したといわれています。
一方で、西日本に住む縄文人を中心に、住居を台地上から低い土地に構えるようになります。つまり、この頃から湿地を使った水稲耕作が徐々に始まっていたのです。

 晩期になると、農耕具が多く出土することから、西日本を中心にかなり広範囲にわたって共同で農耕作業が行われていたことがわかります。
これは、さながら弥生時代の様相で、次の時代への変化は、この頃からすでに始まっていたと考えられます。

 さて、今回の記事のまとめに入ります。
地球の温暖化とともに、自然環境も大きく変わると、列島内に住む人々の生活も大きく変わりました。それが縄文時代の始まりです。
縄文時代の人々は、豊富な食料が採れる東日本を中心に住み、それまでの狩猟・漁労・採取に加え、食物の栽培をはじめました。こうした原初的な農耕のはじまりは、人々に集落を形成させ、定住生活を促進したのです。
以上。

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