日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【どう違う?】ヒロシマとナガサキ

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【どう違う?】ヒロシマナガサキ」というお話です。
 今回は太平洋戦争終盤に広島と長崎に投下された原爆について、その違いを見ていきたいと思います。
 まず、原爆とは、核兵器のひとつであり、核兵器とは、核分裂の連鎖反応によって放出される膨大なエネルギーを利用して、爆風や熱放射などの作用を破壊に用いるもので、非人道的な兵器とされています。

 広島・長崎への原爆投下は、人類史上、唯一の核兵器による‘大虐殺‘ですが、広島と長崎にはそれぞれ異なった原爆が落ちました。以下の表はその違いをまとめたものです。

ヒロシマ ナガサキ
コードネーム リトルボーイ ファットマン
全長 約3m 約3.25m
重さ 約4トン 約4.5トン
直径 約0.7m 約1.25m
主体 ウラン235 プルトニウム239
爆発威力(TNT 換算) 1万5千トン 2万1千トン
爆撃機 エノラ・ゲイ ボックス・カー
投下日時 1945年8月6日 1945年8月9日
同市の人口 約35万人 約24万人
死者数 約14万人 約7万4000人

 御覧のとおり、広島には「ウラン235型」、長崎には「プルトニウム型」と異なる原爆が落とされました。
 アメリカは原爆の人体に対する影響を実験したいために2つの異なる原爆をそれぞれ落としたのです。
 原爆を投下しなくても日本が降伏すると知りながら、アメリカは実験にために無辜の市民を狙って大量残虐を実行したのです。
 広島・長崎が狙われた理由は、軍事施設の有無ではなく、地形と当日の天気が実験に適していただけに過ぎません。

 広島に投下された原子爆弾リトルボーイと呼ばれ、ウラン235を使った小型なもので火薬爆弾1万5千トンに相当するものでした。ウラン235を二つに分け、爆薬を爆発させた勢いで両方を衝突させ、臨界を生み出す、この臨界から、強力な核分裂が発生する仕組みです。
 一方、長崎に投下された原子爆弾はその容姿からファットマンと呼ばれ、プルトニウム239を使ったもので火薬爆弾2万1千トンに相当するものでした。プルトニウムを球状に構築し、爆発で圧縮させて臨界を生む仕組みになっていました。長崎のファットマンは広島のリトルボーイよりも1.5倍の威力がありました。しかし、長崎の方が被害が少ないのは、長崎市は山に囲まれた地形で、山によって熱線や爆風が遮られたためとされています。
当初、アメリカは陸軍造兵廠や工場が立ち並ぶ福岡県の小倉に投下する予定でした。しかし、当日の小倉市内の上空が厚い雲で覆われており、目視による投下が不可能と判断した「ボックスカー」は急遽、長崎に投下したのです。

 1945(昭和20)年8月6日、広島市は晴れ渡り、夏の暑い1日が始まっていました。中国地方最大の都市である広島市は、意外にも、まだ空襲を受けていませんでした。
 この日の広島は午前7時9分に出た警戒警報が解除されて、防空壕から出てき人々が、通勤や通学にとりかかり、町は再び動き出しつつありました。
そこへ飛来する1機のB-29爆撃機
 これを単なる偵察機だと考えた広島市は特に警報を出すこともありませんでした。
 しかし、同機は広島市内へ侵入し、産業奨励館(現・原爆ドーム)のほぼ真上に来た時、大型爆弾を1個投下した。次の瞬間、空中に強烈な閃光がほとばしり、凄まじい衝撃と高熱が市街を覆いました。
 午前8時15分、人類初となる核兵器が使用されたのです。
 広島市に投下された原爆はリトルボーイと呼ばれるもので、当日午前6時8分にマリアナ諸島テニアンから発進したB-29爆撃機エノラ・ゲイ」号から投下されたものでした。
エノラ・ゲイの名前の由来は、搭乗員のポール・ティベッツ大佐の母親の名前からきています。)
リトルボーイは火薬爆弾(TNT換算)にして1万5千トンに相当し、その破壊力が広島市の上空で炸裂。凄まじい爆発と発生した大火災で、多くの人々の命が瞬時に奪われました。
 爆心地から半径2キロ以内が焼失し、人々は影を壁などに焼き込んで形跡もなくなった人もいました。市内中心部は重傷を負って助けを求める人々で溢れかえり、あたりには黒焦げの死体が散乱。生き延びた人々も、苦しみながら息絶えていきました。
「イタイ・・・・アツイ・・・・」
「ミズ・・・・ミズヲクダサイ・・・・」
「シニタクナイ、シニタクナイ・・・」

 築城から350年以上を経た歴史溢れる広島城も倒壊しました。
 さらには家族の消息を尋ねて捜し歩いた人々が市内を彷徨ううちに放射能を取り込み、入市被爆者となってしまいました。

 広島市は市政も軍も機能が麻痺し、完全に潰滅し、文字とおり焦土と化しました。
 広島の原爆による被害は、現在でも正確な数字はつかめていません。当時の広島市の人口が35万人であったのに対し、1945年暮れまでに14万人がなくなったとされています。

 その3日後の8月9日午前2時50分、やはりマリアナ諸島テニアン島を1機のB-29爆撃が離陸しました。その名はB-29爆撃機「ボックス・カー」号であり、ファットマンと名付けられたプルトニウム爆弾を抱えていました。
(ボックス・カーの名前の由来は、本来操縦するはずだったパイロットのフレデリック・ボックからきています。)
 当初、攻撃予定日は8月11日でしたが、10日以降、天候が崩れるとの予報が出たため、2日繰り上げられました。
 そして午前11時2分、人類史上2発目の核兵器長崎市松山町上空に投下され、炸裂した。アメリカ軍は広島の原爆から間髪入れずに2発目の原爆を長崎に投下したのです。
 爆心地付近は秒速360mの爆風が吹き荒れ、半径1キロ以内にいた人や動物はほぼ即死。当時の長崎市の人口約24万人のうち、7万4000人が死亡。その後も犠牲者は増え続け、現在は12万人超とされています。

 両市の潰滅は政府や軍上層部に衝撃をもたらしました。
 大都市がたった1機のB-29からの1発の爆弾で潰滅的打撃を受けたのですから当然です。これはそれまでの空襲の常識を根底から覆されたもので、全く防ぎようもなく、政府も軍上層部もただ困惑するだけでした。

 非戦闘員である女性や子供までも無差別に虐殺した非人道兵器・原爆。しかし、当時のアメリカ大統領のハリー・トルーマンは、「原爆投下は戦争終結を早め、米兵のみならず、多くの日本人の命も救うことが出来た歴史的最高の出来事であった」と主張しました。
 一国の大統領の発言とは思えません。
 また、8月9日の長崎への原爆投下に際しては「ゲダモノと接するときは、ケダモノとして扱わなければならない」と日本人に対する蔑視と嫌悪をうかがわせる発言もしています。
 そこには原爆投下に対する謝罪はおろか、後悔すらも感じられない。
 この頃の日本には、もはや戦う力も気力も失っており、講和路線に傾きかけていました。
 それに「ダメ押し」の無差別大量虐殺かつ非人道兵器による爆撃がされたのです。
 戦争を終結させることが目的ならば、2度目の長崎投下は必要なかったのではないか。これなら世界に先駆けて開発された原爆の威力を試す実験だったと取られても、仕方がないでしょう。
 原爆投下とは、理性と失ったアメリカの暴走行為なのです。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著       アルファポリス
太平洋戦争「必敗」の法則     太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
知識ゼロからの入門 太平洋戦争  半藤一利=著       幻冬社
日本の戦争解剖図艦        拳骨拓史=著       X-Knowledge
日米の教科書 当時の新聞で比べる 太平洋戦争        辰巳出版
太平洋戦争 通説のウソ      大日本帝国の謎検証委員会=編著  彩図社
子供たちに伝えたい 日本の戦争  皿木喜久=著      産経新聞出版