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【明暦の大火】死者10万人!多くの被災者を救った名君 【保科正之】

こんにちは。本宮貴大です。

江戸時代でやり残したテーマを投稿します。

ということで、今回は「【明暦の大火】死者10万人!多くの被災者を救った名君 【保科正之】」というお話です。

江戸の大部分を焼きつくし、多くの犠牲を出した明暦の大火。被災者に対し、幕府の財産を切り崩し、救済金や炊き出し、インフラの整備など民を守る「経世済民」の精神を持った名君が、4代将軍・家綱に仕えていた保科正之だったのです。

 1651年、病いに倒れた江戸幕府3代将軍・徳川家光が死去しました。(享年48歳)

 家光の死後、将軍に就任したのは、家光の子供で4代将軍・徳川家綱です。しかし、彼はまだ11歳の少年。こんな幼い子が将軍となるのは、幕府も初めてのこと。

 当然ですが、この家綱少年が政権運営をすることは出来ません。しかし、幸いにも、家光の側近だった松平信綱や伊井直孝など有能な幕臣が多数いたため、幕政はその老中達の合議制による集団指揮体制が取られました。

 

 その中に家光とは腹違いの兄弟である保科正之(ほしな まさゆき)もいました。正之は会津藩の藩主で、家光はその人柄に惚れ、幕臣へと昇任されます。

 腹違いの兄弟であることは隠されていたようですが、どこかの時点で知ったとされており、そんな複雑な関係をわかったうえで2人は親しい関係を続けた。そして家光が亡くなるとき、「幼い家綱を頼む」と遺言された正之。甥の補佐として政治運営を行うことを決意したのでした。

 

 とはいっても、将軍が幼いということで、全国的には政治的な空白が出来ていることが認知されています。これに漬けこんで全国規模のクーデターを企てたのが、由井正雪という人物です。これを由井正雪の乱(慶安の変と言います。この企みは事前に発覚し、正雪は自害に追い込まれますが、この事件がきっかけで、幕府の政治は武断政治から文治政治へと転換していきます。

 

 それから数年後の1657年、日本史上最悪の火災被害である明暦の大火が起るのでした・・・・。

 被災地は政権のおかれた江戸。「火事と喧嘩は江戸の花」とよばれるくらい江戸の街は

火事が非常に多かったのです。当時の江戸は人口100万人、住居は記録されているだけで1500件。当時の江戸の面積を60k㎡とすると超住宅密集地。さらに家屋は全て木や紙で出来ているため、一度、火災が発生すると火は一気に燃え広がってしまう状態。

 

 当時の江戸は急激な人口増加に水道整備は追いついておらず、江戸の街は慢性的な水不足に悩まされていました。したがって、消そうにも水がない。ポンプもなければホースもありません。せいぜい桶に入った水を火にかける程度。しかし、こんなものは大火にとっては焼け石に水。

 

 当時も「火消し」とよばれる消防組織も存在していましたが、彼らの仕事は火を消すことではなく、延焼を最小限に食い止めること。つまり、草刈り鎌を大きくしたような破壊道具で周囲の家を取り壊し、火事の広がりを抑えたのです。

 

このように当時の江戸には現代のようなまともな消化活動はほとんど出来ない状態にありました。よって基本的に住民は火から逃げることが第一。火事から出来るだけ遠くへ避難するのです。

このような火災に対して全く不利な条件が重なりあった条件の下、その日はやってきます。

1657年、1月18日、その日は朝から強い北西風が吹き荒れ、既に2カ月間全く雨が降っていないという乾燥した湿度の中、明歴の大火は発生しました。

 火元は本郷にある本妙寺と呼ばれる寺院。死者の遺品である振袖を焼却しようとしたところ、強風で火のついた振袖が舞い上がり、本堂に燃え移ったのです。

 

 火は勢いを増しながら、湯島、駿河台、鎌倉河岸へと拡大していき、茅場町、八丁堀、子伝馬町方面にも広がります。火の玉が雨のごとく民衆に降り注ぎました。

 群衆はパニックになり、灼熱の炎から逃れようと近くの海に飛び込みます。しかし、季節は真冬。1万人が凍死するという大惨事になりました。

 

 さらに避難経路にも問題点がありました。城には軍事的に外濠(そとぼり)があり、外敵の侵入を防いでいました。なので外濠には幕府が許可した橋しか架けることが許されていませんでした。そうなると、パニックになった群衆は限られた門からでしか江戸城から非難することが出来ません。つまり、非常口の少ない大きなビルに住んでいるようなもの。これも多くの犠牲を出した大きな原因です。

 

 中でも最も多くの犠牲を出したのは、浅草橋門です。小伝馬町の牢獄の囚人達を焼死させぬよう牢屋奉行は牢獄の解放を指示。まもなく牢獄は解放され、囚人達は全速力で浅草橋門に向かいます。しかし、門番がこれを囚人の脱獄だと勘違いし、浅草橋門を閉鎖してしまいます。罪人は死んで当たり前が当時の常識。牢獄奉行の英断も空しく、

 

 しかし、事態はこれだけでは済まなかった。

 火から逃れてきた一般群衆までもこの浅草橋門で足止めを食らいます。うしろからは火の手が。門は開かない。人々は死に物狂いで他人を踏み越えて門をよじ登り、30メートル先の江戸城外濠へと次々に飛びおります。

門前で踏みつけられて下敷きになって圧死する人。飛び降りた時、身体を石垣に強く打ち付け即死する人、運よく濠に入った者もあとから降ってきた人間に激突され即死する人など多くの命が失われた。

 濠はやがて死体で埋まり最後方の群衆は遺骸で埋まって平地になった濠を難なく渡って逃げることが出来たという。結局、この浅草橋門で命を落とした者は2万3000人にものぼった。

 

 その頃、江戸城では老中・松平信綱が将軍・家綱の非難を早急に行うよう命令。しかし、正之はこの提案を却下。代わりにこう進言します。

「将軍は安易に城から出てはいけない。そんなことをすれば、民の動揺を招く。本丸に火が燃えれば、西の丸に移れば良い。西の丸も燃えれば、本丸の燃え跡に陣を構えれば良い。我々は最後まで城に残り、災害対策本部としてその使命を全うしなければならない。」

 

  こうして江戸の過半を焼き尽くした炎はその日の夜、鎮火します。死者は10万人を超えるという大惨事となってしまいました。

 

  明暦の大火をはじめ、江戸時代は火災が頻発していたことは先述の通りです。実は出火原因は放火だったと言われている。町が消失するとその復旧作業で需要が生まれます。そこで建築や土木事業をはじめ職人や商人が儲かるからです。また、火事場泥棒による盗み目的の火付けも多かったようだ。

 

 

 明暦の大火が鎮火した翌日、幕府は真っ先に「家綱将軍は無事である」という知らせを江戸の町中に流します。町人達はホッと胸をなでおろしたのも束の間、直ちに復旧作業へととりかかりました。

 正之は幕府の財産を切り崩し、被災者に救済金を支給。さらに幕府の米蔵も解放し、炊き出しを行いました。こんな正之の大盤振る舞いに、他の老中達は意見しました。

「保科殿、これでは幕府のご金蔵のお金が底をついてしまう。これはただのバラマキではないか。」

正之は言います。「ご金蔵のお金は、こういう時に使ってこそ効果が発揮されるのだ。今は被災して傷ついた民衆を助け、復旧への動機付けを高めるのだ」と。

 

 

正之は不燃都市を目指して復旧作業を行いました。

 

ところで、江戸城には城の象徴である天守閣がありません。実は今回の火事で焼失してしまったのです。しかし、正之は天守閣の再建を断念。その資金を民衆のために使ったのえす。

こうして生まれたのが、隅田川に架かる両国橋です。災害時、橋が少なかったがために多くの犠牲を出してしまったことを教訓にしたのです。今後、この両国橋周辺は江戸きっての盛り場となり、橋のたもとには見世物小屋などが軒を連ね、夏には川遊びや花火見物で大いに賑わいます。

 

 さらに正之は上水道の拡充を急ぎました。正之は亀有上水を開削。さらに玉川上水を分流させ、青山上水をつくり、青山、赤坂、六本木方面に給水。さらに三田上水をつくり、渋谷、目黒方面にも給水。1696年には千川上水もつくられ、江戸の上水システムは完成します。こうして家康がつくった神田上水を加えて、江戸の6水道と呼びます。

 

「民を守るから城が守られる」という政治哲学があります。これは現在では常識ですが、正之もこれを知っていたのでしょう。だからこそ、正之は江戸の天守閣の再建を断念し、代わりに民政を優先的におこなったのです。

以上。最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。