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16世紀から17世紀へ。スペインから`あの国`が覇権国家へ。【絶対王政時代】

こんにちは。本宮 貴大(もとみや たかひろ)です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「16世紀から17世紀へ。スペインから「あの国」が覇権国家へ。【絶対王政時代】」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

16世紀、大航海時代を経て、スペインは「太陽の沈まぬ帝国」として覇権国家に君臨しました。しかし、その栄華も長くは続かず・・・。16世紀後半に「あの国」がスペインから独立。17世紀はスペインに代わって「あの国」が覇権国家として君臨します。

 

 過去記事「歴史はストーリーで覚える」の中でストーリーの一連の流れを紹介しています。そのでは、歴史は基本的に「破壊」→「創造」→「維持」→「衰退」のサイクルが繰り返されていると述べました。今回からそのような形式で説明してまいります。

破壊の時代

 

 1479年、スペイン王国が誕生します。1492年にレコンキスタ(国土回復運動)により国家の力が回復。16世紀に入ると大航海時代を迎え、ポルトガルと共に海の覇者となりました。スペインはイサベルの支援によって新大陸を発見します。

 現代で喩えると、コロンブスが社長(経営者)でイサベルは株主(出資者)になります。これによって世界最初の株式会社である東インド会社が創られたのです。スペインは南米大陸にあったインカ帝国やメキシコのアステカ文明マヤ文明を次々に征服していきます。破壊や虐殺など酷いことがたくさん行われたため、大航海時代の負の部分と言えるでしょう。

 大航海時代、スペインは新大陸などヨーロッパから見て西側に。ポルトガルはインドや東南アジアなどヨーロッパから見て東側に進出していきました。

 

創造の時代

 

 

 1516年、カルロス1世がスペイン国王に即位します。この時、スペインの絶対王政が確立されました。このカルロス1世、母親は先述のイサベルの娘で、父親はドイツの名門・ハプスブルク家の出身です。まさに「華麗なる一族」といった感じ。

 

ハプスブルク家とは代々、神聖ローマ皇帝を輩出しているドイツの名門で、ヨーロッパを代表する貴族の家系)

 

 実はこのカルロス1世、1519年に、名前をカール5世として神聖ローマ皇帝にも即位しています。カール5世と言えば、宗教改革マルティン=ルターと闘った人です。つまり、スペイン国王とローマ皇帝の兼任をしていたということです。

 こうしてスペインは絶対王政という中央集権国を創り上げます。

 

 その後、1556年、カルロス1世の息子であるフィリッペ2世が即位し、ローマ皇帝は解任し、スペイン国王のみを引き継ぎます。このフィリッペ2世の時、スペインは全盛期を迎えるのです。

 まず、1571年にレバントの海戦で宿敵であるオスマン帝国(トルコ)を破り、地中海の経済を手中に収めます。そしてポルトガルの王家が断絶したことをチャンスとまでにフィリッペ2世はポルトガルの王位も引き継ぎます。(ポルトガルとの併合)こうして地球の東側にも西側にも植民地を持つ「太陽の沈まぬ帝国」として君臨しました。

維持・衰退の時代

 

そ んな空前の栄華を誇ったスペインですが、その没落は意外と早く訪れます。

大きな原因はフィリッペ2世の時のスペインの宗教政策です。スペインは、カトリック(旧教)を支持し、プロテスタント(新教)を弾圧するカタチをとりました。したがって、優秀な人材の多いプロテスタントは国外に逃亡。これによって、スペインの国内産業は大きく弱まります。

 

 そして1581年、ヨーロッパの先進地域として栄えていたスペイン領ネーデルランドが独立宣言をします。

 極めつけは、1588年の無敵艦隊と呼ばれたスペインのアルマダ艦隊がイングランドの艦隊に打ち破られます。

 こうしてスペインは経済面でネーデルランドという先進地域を失ったことと、軍事面でイギリスに敗北したことが重なり、スペインの権威は急落します。

  16世紀の覇権国家であったスペインは衰退し、17世紀はオランダ覇権国家として頭角を現すようになるのです。

 

17世紀はオランダの時代。スペインから独立し、覇権国家の座を奪い、世界に植民地を広げていきます。当時のネーデルランドには勤勉で優秀な商人がたくさんいました。オランダが新大陸に開拓したニューアムステルダムは現在のニューヨークになっています。

 

 

 先程、ネーデルランドがスペインから独立宣言をすると述べましたが、ネーデルランドとは現在のオランダとベルギーの地域になります。北部がオランダ、南部がベルギーとなっています。

 日本ではオランダと呼んでいますが、英語ではネーデルランドと呼ばれています。他にもホーランドという呼称もあり、これのポルトガル語読みがオランダになるのです。オランダとベルギーのあたりはフランドル地方とも呼ばれており、フランダースの犬はこの地域の物語になります。

 日本人にとってオランダと言えば、風車とチューリップと『アンネの日記』でお馴染みの‘平和な国‘というイメージしかありませんが、実際はかなり力強い帝国主義の国です。18~19世紀に入ってもインドネシアで植民地栽培をし、現地民から搾取していたし、第二次世界大戦ではアメリカ・イギリス・フランスと結託した連合国側であり日本にとっては「敵」だったのです。

 本題に入ります。

破壊の時代

 

 スペインのフィリッペ2世が即位したと同時にネーデルランドはスペイン領として支配下に入ります。

 ところが、やはり宗教の違いによって対立が起こってしまいます。

 

 フィリッペ2世は、スペイン本土がカトリックを支持しているため、ネーデルランドカトリック支持を政策とします。

 しかし、このネーデルランドにはプロテスタントカルヴァン派が多く、住民の不満は高まります。これが原因で1568年から反乱が勃発。この反乱はやがて、オランダ独立戦争に発展します。

 キリスト教の中でも、カトリック派(旧教)に対して、カルヴァン派ルター派と同じくプロテスタント(新教)に分類されます。カルヴァン派は各国や地域で呼び名が異なり、オランダではゴイセンと呼ばれていました。

(因みに、フランスではユグノースコットランドではプレスビテリアンイングランドでは、ピューリタンと呼ばれています。)

 

 オランダ独立戦争にいてネーデルランドは、オランウェイ公ウィレムを首領としてスペインに対抗します。1571年には対スペイン対策として、北部7州が結託してユトレヒト同盟を結びます。しかし、南部に関してはスペイン領としてとどまるようになります。これがユトレヒト同盟に対してアラス同盟と呼ばれます。

カルヴァン派の教えでは、仕事は神から与えられた使命なので誠心誠意、仕事に励みなさいという「職業召命観」があります。この教えは西ヨーロッパの先進地域で広がり、このネーデルランドカルヴァン派キリスト教徒が多数でした。このような背景からネーデルランドには大変勤勉な商人達がおり、北部は海運や商業を中心に。南部は毛織物工業を中心としてヨーロッパの先進地域として栄えていました。

 特にアムステルダムは当時の西ヨーロッパで最も繁栄を誇る都市として発展を遂げます。このアムステルダムは現在のオランダの首都でもあります。

創造の時代

 

 1609年にスペインと停戦を結びます。それとほぼ同時期、オランダはヨーロッパから見て東側に植民地を開拓していきます。国の出先機関として東インド会社を設立し、1619年、インドネシアに東方の貿易拠点としてのバタヴィアを設立します。このバタヴィア市は現在のインドネシアの首都ジャカルタになっており、ジャカルタの名称はオランダのバタヴィア市から取った名前です。ちょうどこの頃、日本は徳川将軍による江戸時代になりますが、オランダは西洋で唯一の貿易国でした。その時はこのバタヴィアを拠点として貿易を行っていました。

1651年にはアフリカの南端部にあるケープを植民地とします。ここは現在、南アフリカ共和国ケープタウンというところになります。

さらにオランダの勢力は西に向かいます。1621年に西インド会社を設立します。1626年にはニューアムステルダムを建設します。しかし、この都市は後の1661年の英蘭戦争によってイギリスに奪われ、ニューヨークと改名されていまいます。

 

17世紀のオランダは商業国として成りあがり、覇権国家として世界の中心となるのです。

 

しかし、オランダが国際的に正式に独立国家として認められるのは、1648年のウェストファリア条約までまたなければいけません。

 

維持・衰退の時。

 

オランダはやがて、イギリスと衝突し、覇権国家の座をイギリスに奪われることになるのです。18世紀はイギリスの時代となるのでした。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮 貴大でした。それでは。