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【蒙古襲来2】日本の国難を救ったのは神風ではなかった!?【北条時宗】

こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【蒙古襲来2】日本の国難を救ったのは神風ではなかった!?【北条時宗】」というお話です。

12世紀後半、モンゴル高原に現れたチンギス=ハンは、瞬く間に高原を平定すると、騎馬を使って殺戮のかぎりを尽くしながら西へ西へと版図を拡張し、未曾有のモンゴル大帝国が誕生しました。モンゴル軍は非常に残虐で、集落を襲った際は、男はすべて殺し、女は手に穴をあけて紐を通し、持ち去ったといわれています。
そして1260年、チンギス=ハンの孫のフビライ=ハンがモンゴル帝国の5代皇帝に就任しました。しかし、このときのモンゴル帝国はいくつかの国々に分かれており、宗家であるフビライの領土は、中国北部や朝鮮半島を中心とした東アジアでした。
そんなフビライの次の目標は南宋の征服でした。フビライ南宋に宣戦布告をする一方で、日本を味方にして南宋を孤立させる作戦をとったのです。フビライは高麗を通して日本に国書を送りました。

1268年、鎌倉幕府フビライの国書をもった高麗からの使者が九州の大宰府に到着したとの連絡が入りました。国書のなかでフビライは日本に朝貢(みつぎ物を持たせた使節を送ること)を求めていました。しかし、それは極めて無礼で武力をチラつかせた脅迫的なものでした。
幕府は外交権を持つ朝廷に国書を伝えてその対応を待ちながら、モンゴルの襲来に備えて用心するよう西国の守護らに命じました。結局、朝廷では返書を送らないことが決定され、幕府はこの決定を受けて返書を与えないまま使者を帰国させました。
幕府では、1263年に北条時頼が亡くなった後、その子である時宗がまだ13歳と若かったため、一門の長老・北条政村が7代執権として政務にあたっていました。
しかし、この非常事態に立ち向かうため、18歳になった時宗を次の8代執権に就任させました。
モンゴルからの使者は、その後も次々と日本にやってきましたが、幕府はこれを全て無視し、朝廷も無視したため、モンゴル軍の襲来は避けられない情勢となりました。
幕府は西国に所領を持つ御家人に西国に移住するよう命じると同時に、九州の守護に対しては、国内の御家人を動員して北九州の海岸の防備にあたるように指令しました。
たびたび国書を遣わしたにも関わらず、返事がないことに怒ったフビライは、ついに日本に向けて兵を送ることを決意しました。
こうしたとき、高麗では、モンゴルに服属した国王に不満をもった武人たちの組織の三別抄が反乱を起こし、3年にわたって抵抗を続けたため、日本への遠征軍は大幅に遅れます。
この間の1271年、フビライは都をカラコルムから大都(現在の北京)に移し、国号を「元」と改めました。
そして、三別抄の乱を鎮圧した翌1274年、いよいよ日本征服に乗り出しました。

1274年10月、高麗を出発した元軍は約3万で、そのうち8千は高麗軍で構成される連合軍(以下、元軍)は、対馬壱岐を襲撃し、島民を惨殺した後、10月20日には博多湾に上陸しました。
これを迎え撃つのは、少弐景能(しょうにかげよし)を指揮官とする鎮西(九州)の日本軍およそ5千騎で、元軍との激烈な戦いがはじまりました。
宋や朝鮮では向かうところ敵なしで、日本もすぐに屈服するものと考えていた元軍は、日本軍の強い抵抗に驚きました。
対する日本軍も、数万の兵が集団で攻めてくる元軍に強い恐怖心を抱いた。
元軍の戦法は、法螺貝や太鼓を合図に一心乱れぬ動きで引いたり攻めたりする集団戦法や、毒を塗った矢や火薬をこめた「てつはう」とよばれる武器を使われました。これに対して日本側は「やあやあ我こそは~」と名乗りをあげて、一騎打ちを挑むという戦い方だったため、苦戦を強いられて大宰府にまで退けられました。このとき、少弐景能の弟の景資(かげすけ)が放った矢が追撃する敵将の劉復享(りゅうふくこう)に命中していました。大将が負傷したことで、元軍は追撃をあきらめて船に引き揚げました。
こうして戦況は明らかに日本軍が不利でしたが、翌日になってみると、元軍はすでに博多湾から撤退していました。
優勢だったはずの元軍はなぜ引き上げたのでしょうか。日本軍はわからなかった。敵将を射ていたことに気づかなかったのです。
元軍としても、日本軍の抵抗が予想以上に激しかったことで矢が尽き、兵士たちの疲労もピークに達していたことから、撤退を余儀なくされました。それでも、元軍内では戦争続行派がおり、撤退派と分裂する内輪揉めが起こりましたが、結局は撤退しました。
しかも、その夜は激しい嵐が吹き荒れ、多くの船が流されたこともあって、元軍は風雨のなか撤退していきました。元軍は11月末には朝鮮に帰還するも、1万3千余りが未帰還だったといわれています。
この戦いを当時の年号をとって文永の役といいます。
当時の人々にとって、元軍が引き揚げた理由として唯一考えられたのは暴風雨、すなわち「神風」であったと実感したのは当然でしょう。
なぜ自然現象である暴風雨が「神風」になったのでしょうか。実は元軍が攻めてくる際、公家や大寺社などの宗教勢力が「敵国調伏」を祈願しており、元軍が撤退したのは、彼らが「自分たちの願いが通じ、神が風を吹かせて敵を追い払ったのだ」と大々的に主張したことによるものでした。しかし、この神風のインパクトが強すぎて、鎌倉武士たちの奮闘は影に隠れてしまいました。

さて、文永の役のあと、幕府は元の再襲来に備えるため、九州に所領をもつ御家人たちに、北九州の警護に当たらせる異国警固番役に交替で就くよう命じました。
そうしたなか、日本に降伏を求める元の使者が何度かやってきましたが、幕府はこの使者を斬り捨て、断固として戦う姿勢を示しました。
そして、文永の役の戦訓をふまえて、全国の御家人の持っている土地一反につき石一つという割り当てで、石築地とよばれる長大な石塁(石垣)を博多湾一帯に築かせて、さらに守りを固めました。
この間、フビライ南宋を攻めるために全力をあげていましたが、1279年に南宋を滅ぼすと、再び日本に遠征軍を派遣することにしました。
今度は遠征軍を二手に分け、元と高麗の連合軍からなる4万の東路軍と、南宋の兵士からなる10万の江南軍の合計14万の兵を日本に向かわせました。このとき、元軍は調度品や農耕具も携えていたことから、日本占領後、屯田兵を駐留させる計画だったと思われました。

1281年5月、東路軍はいち早く高麗を出発し、対馬壱岐を襲って6月には博多湾に進みました。しかし、石塁と日本軍の攻撃に阻まれて上陸出来ず、いったん退きました。そして7月になって、ようやく遅れてきた江南軍と平戸(長崎県平戸市)のあたりで合流しました。
そして主力部隊が鷹島長崎県松浦市)に着くと、九州本土に全面攻撃を仕掛けました。2カ月にわたって沿岸各地で激しい戦いが展開されましたが、堅固な海岸防備と、敵船に斬り込むなどの日本軍の果敢な攻撃によって、元軍は優勢を保ちながらも海上に長期間の停泊を余儀なくされました。しかし、これがいけなかった。ある夜、九州一帯を暴風雨が襲い、嘘のような話ですが、一夜にして10万以上の兵士が海のもくずに消えたのでした。
多くの兵士を失った元軍はすっかり戦う意欲をなくし、日本軍の追い打ちにも遭ったことで、撤退していきました。
この戦いを弘安の役といいます。以上、文永と弘安の2度にわたる元の襲来を元寇といいます。
以下は、元軍の戦力差です。合計2回の襲来時における元軍の戦力です。この戦力差から考察できることとして、文永の役は日本への偵察や威嚇が目的でしたが、後の弘安の役では、フビライは本気で日本を侵略しようとしたのでしょう。

文永の役 弘安の役
兵士 約3万人 約14万人
戦艦 約900隻 約4400隻

その後も、フビライは日本への遠征を計画しましたが、実行にはいたりませんでした。元軍の侵入を食い止めた時頼は、戦死者を供養するために、中国から招いた無学祖元を開山とし、鎌倉に円覚寺を建てました。
そして、時宗自身も、力を使い果たしたかのように1284年に34歳の若さで亡くなりました。
その後、人々のあいだには、元軍を襲った暴風雨を神が吹かせた「神風」とみる見方が広がり、日本は神が守ってくれる「神国」だとする考えが広まるようになりました。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社
早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社
よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC

【蒙古襲来1】なぜ元軍は日本に攻めてきたのか【フビライ=ハン】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【蒙古襲来1】なぜ元軍は日本に攻めてきたのか【フビライ=ハン】」というお話です。

 

モンゴルといえば、現在は中国の北側にある人口320万人程度の弱小国です。

しかし、13世紀の頃のモンゴル帝国は、世界史上最も広い領地を持つ国として君臨していました。その記録は、現在も塗り替わっていません。

そんなモンゴル帝国(蒙古ともいう)は、鎌倉時代の日本にも侵攻してきており、集団戦法や火器や毒矢などの新兵器によって、鎌倉武士を圧倒しました。

今回は、蒙古襲来の1回目ということで、そんなモンゴルの歴史について見ていきましょう。

 

12世紀後半、モンゴル高原に現れたチンギス=ハンは、高原を平定すると、瞬く間に騎馬を使って殺戮を繰り返しながら、ユーラシア大陸を西へ西へと遠征し、1202年には、中央アジアから北西インドにまで支配領域を一代で築いてしまいました。

 

なぜ、短期間のうちに勢力拡大が出来たのでしょうか。

 

モンゴルにはもともと遊牧民族が住んでいました。遊牧民族とは、農耕民族とは違い、一箇所に定住することなく、羊や馬を飼い、そのエサである草原を求めて移動し、移動先で狩りをしたり、家畜を殺して食べたりしながら生活している民族のことです。

当時の最強戦法は、騎馬による機動力を生かした戦法でしたので、普段から馬に乗って狩りをしていた彼らため、戦には強かった。つまり、自分達の生活習慣と戦法が結びついたことで、最強の戦闘部隊を作ることに成功したのです。

1234年、チンギス=ハンの子・オゴタイ=ハンの時代には、ヨーロッパ遠征も行われ、ついには、ヨーロッパの一部をも支配領域とし、首都カラコルムモンゴル高原中央部・現在のウランバートルの付近)もつくられ、ここにアジアからヨーロッパにまたがる未曾有の大帝国・モンゴル帝国が誕生したのでした。

モンゴル帝国が建設されたことで、それまで国境によって妨げられていた東西の交流がさかんになりました。旅行者や商人は危険をおかすことなく西から東へ、東から西へと行き来でするようになり、経済活動や文化の行き来が活発になりました。貿易都市として栄えたイタリアのベネツィアの商人の息子であるマルコ・ポーロが、中国への旅行を成し遂げられたのも、こうした時代に生まれたからです。

 

しかし、モンゴル民族は均分相続が行われており、親が亡くなると、その領土は子供達が分け合います。したがって、チンギス=ハンの子供、さらにその子供と世代が進むにしたがって、領地は細切れになっていくのです。

1260年に、チンギス=ハンの孫・フビライ=ハンが即位する頃には、モンゴル帝国内部で帝位と均分相続をめぐる対立が表面化し、その結果、モンゴル帝国ユーラシア大陸の各地を4つのハン国に分割される結果となりました。

中央アジアチャガタイ=ハン国、南ロシアのキプチャク=ハン国、西アジアイル=ハン国、そして東アジアのフビライ=ハン国です。

一方で、これらの国々は互いに道路を整えて東西の交通整備に力を入れ、国境を超えた経済活動の活発化を図りました。

なかでも、宗家であるフビライ=ハンは都をカラコルムから大都(現在の北京)に移して、1271年に国名を「元」と改め、火薬や羅針盤・印刷技術などを西方に伝え、西方からはイスラム文化キリスト教宣教師を受け入れました。

そんな中、17歳になったマルコ=ポーロがローマ教皇の新書を携えて、元を訪れ、フビライに17年間仕えました。マルコは帰国後、この経験を『世界の記述(東方見聞録)』としてまとめ、日本を「黄金の国ジパング」として紹介しました。これによって、ヨーロッパの人々のアジアに対する思いをかきたてることになり、後の帝国主義の時代でアジアは植民地の対象となるのです。

 

さて、均分相続によって、本来手に入るはずだった広大な領土を縮小化してしまったことに不満を感じていたフビライは、中国大陸を含めた東アジア全域の支配に強い意欲を持っていました。

そんなフビライは、宋(南宋)への侵略を進めるとともに、朝鮮半島の高麗にも服属を要求し、やがて、その触手を日本にも伸ばすようになりました。

この頃の日本は鎌倉時代で、12世紀末に成立した鎌倉幕府は1221年の承久の乱に勝利後、北条氏による執権政治が展開されていました。

1268(文永5)年、フビライは朝鮮を通じて日本に国書を送りました。フビライはすぐに返事が来るものと思っていたようですが、中々返事が返ってきませんでした。

幕府では1263年に北条時頼がなくなった後、その子である時宗がまだ13歳と若かったため、一門の長老・北条政村が執権についていました。しかし、この非常事態に立ち向かうため、18歳になった時宗が次の執権につくことになりました。

フビライは、その後も使者を次々に日本に遣わしたにも関わらず、時宗は元からの度重なる服属要求を拒み続けたため、怒ったフビライは、ついに日本に攻め込むことを決意しました。

これが日本でいう「文永の役」ですが、当初は日本を屈服させるというよりも、偵察や威嚇が目的だったとされています。

 

当初、フビライは日本に友好的な国書を送り、平和的な国交の樹立を目指していたとされています。フビライの目的は南宋の屈服であって、南宋に宣戦布告する一方で、日本を味方にして南宋を孤立させようとしたのだとされています。

そんな友好的な国書を日本が侵略目的であると過剰反応したために、元は軍隊を派遣し、力ずくで屈服させるしかなかったといいます。

しかし、結局は一方的に武力を持って攻めてきている以上、フビライは最初から友好的・平和的だったとは考えにくい。しかも、本来の目的であった南宋を滅ぼした後に、日本へ2度目の派兵をしています。

国書を送ったのも、海という自然の要塞に囲まれた日本を、軍隊を派遣することなく、屈服を完了させたかったからなのではないでしょうか。国書の内容も無礼かつ脅迫的なものだったようです。

元の日本侵攻は、フビライの果て無き領土欲求によってもたらされたとみるのが妥当なのではないでしょうか。

皆さんは、どう思われます?

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

早わかり  日本史   河合敦=著   日本実業出版

教科書よりやさしい世界史     旺文社=編

【御成敗式目】北条泰時の3つの政策をわかりやすく【北条泰時】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【御成敗式目北条泰時の3つの政策をわかりやすく【北条泰時】」というお話です。

 

3代執権に就いた北条泰時は、3つの政策によって執権政治の基盤を強化しました。3つとは、連署の設置、評定衆の設置、御成敗式目51か条の制定です。

承久の乱から3年後の1224年、2代執権の北条義時が急死しました。したがって、北条氏はその後継者をめぐって揉め事が起こりそうになりましたが、これを収束させたのは、またしても北条政子でした。

政子は、六波羅探題のとして京都に赴任していた義時の子である泰時を鎌倉に呼び戻すと、泰時は、義時の長男であり、承久の乱のときには幕府軍を率いて京都に入り、朝廷軍を破ったあとに六波羅探題を置き、戦後処理にあたるという相当な功労者でした。

泰時を呼びもした政子は、三浦義村などの反対勢力を説き伏せ、泰時を3代執権として就任させました。その政子も翌1225年に亡くなり、さらに大江広元も亡くなったことで、幕府開設以来の中心人物はこの時期には、ほとんど姿を消してしまいました。

 

政子の死によって、後ろ盾を失った泰時でしたが、執権を中心に御家人を統率する体制を作り、執権政治の基盤を強化しました。

まず、1224年に連署を設置しました。連署とは、執権を補佐して政務にあたる役職で、幕府の公文書に執権と並んで署名することから、この名がつきました。連署には承久の乱後、泰時とともに六波羅探題をつとめた泰時の叔父の北条時房が就任し、以後、北条氏一族の有力者が任命されました。

翌1225年には評定衆が設置されました。評定衆は政子・広元の死をきっかけとしてつくられた組織で、幕府の政務処理や裁判を行う役職で、執権・連署が主導する合議制の評定(会議)によって決定・判断が行われました。

評定衆には北条氏一門のほかに、二階堂氏、大江氏、三善氏などの文筆家、それに三浦義村などの有力御家人によって構成され、執権政治に御家人の利害がしっかりと反映されるようにしました。

かつての源頼朝の頃は将軍独裁によって決定・判断が下されていましたが、頼家のときに親裁が停止され、13人の合議体制による政治がおこわれました。この時すでに北条氏は頼朝一族に匹敵するほどの扱いを受けていましたが、他の有力御家人にくらべ、経済的には必ずしも優位に立てているわけではありませんでした。そのために、北条氏は頼朝よりもはるかに積極的に御家人の利益を守ろうとし、合議制により有力御家人を政治に参加させたのでした。

翌1226年には、幕府が鎌倉の若宮大路の近くに移り、はじめて評定が行われました。

こうして幕府開設以来の将軍の権限は、執権・連署評定衆によって分散されることになりました。

 

そして、泰時が3つ目に取り組んだのは、この評定を運営するための指針となる法令を編纂することでした。その法令が、今回のメインタイトルである御成敗式目です。御成敗式目とは、武士が作った最初の法律で、武士のための法律です。

それまでの日本には「律令・格式」はあったものの、それは朝廷が作ったもので、武士には適用されず、訴訟や裁判の際には、自分たちの判断基準によって裁判を行ってきました。

この基準を「先例・慣例」や「道理(誰もが納得できる理屈)」と言いますが、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、御家人たちは争論や紛争が起こるたびに、頼朝自身が従来の先例や慣例によって判断していました。

 

この頼朝の慣例主義をもとに1232年に泰時が成文化したのが、御成敗式目でした。そんな御成敗式目はどのような内容なのでしょうか。大まかな内容は以下の通りです。

第1・2条 神社・寺について

第3~6条 守護・地頭の職務、幕府と朝廷、本所(貴族・寺社)との関係について

第7・8条 裁判上の二大原則について

第9~17条 犯罪に対する処分について

第18~27条 土地などの相続について

第28~31条 裁判の手続きについて

第32~51条 例外・追加的項目はもりこまれている。

 

これら51か条からなる条文は「神を尊び、仏を尊べ」からはじまるもので、当時の武士たちが納得できる理をもとにしていたため、武士達には非常に効果がありました。その条文は、律令に比べて文章がやさしく、実際的なものばかりでしたので、あまり学問のない武士たちにもわかる内容になっていました。

泰時は、「京都には律令があるが、それは漢字のようなものである。それに対してこの式目は仮名文字のようなものである。」としています。

 

頼朝が尊敬された理由の一つに、裁判が公平だったことから訴訟についての慣習だけでなく、その目安となるものを与えたのです。

その方針とは、頼朝以来の「慣習」と、武家の目から見た「道理」を一つにしたものでした。

それが、1221年、承久の乱後、この時、幕府への訴訟要求が急増しており、その公平な裁判基準の設置は急務でした。

この式目は、幕府の支配地である領地の守護を通して全国の御家人に知らされ、適用範囲はその支配地と御家人に限られました。

制定にあたって、義時は六波羅探題として京都に赴任していた弟の重時に、御成敗式目を制定した理由と、その主旨を、朝廷に説明させるために、以下のように書いています。

「この式目をつくったのは、一体を根拠に作ったのかと、京都の人々は非難するだろう。そこで、こう答えなさい。ただ武家社会の道理にしたがって規定を書いただけである。しかも、この式目は武家の人々のはからいにのみ使うだけで、京都の律令には一切関わりのないもので、それを否定するものではありません。」

かつて源頼朝は、京都の宮廷に対しては非常に従順な態度で、つとめて衝突を避けていました。義経追討の名目で1185年に全国に守護・地頭を置いたのは、実質的な日本支配でありながら、古代の律令をそのままにして公家を立てていました。そんな頼朝の意志を受け継いだ義時も、公家をたてつつ、武家社会の基盤を強化したのです。

義時は、他にも鎌倉の都市整備を進めるなどして経済の発展にもつとめ、執権政治の全盛時代をつくりました。

 

今回は、北条義時の3つの政策についてご紹介しましたが、やはりメインは御成敗式目でしょう。

この御成敗式目は、それまで公家の家来に過ぎなかった武士が、正式な身分として認められるようになり、ある種の人権のようなものを獲得したことで、必要となった成文法であるといえるでしょう。

そして、これ以降の日本は明らかに公家政権と武家政権の二重法制の国になりました。鎌倉時代とは、公家社会と武家社会が互い牽制しつつも、共存していた時代であるといえるでしょう。

 

そんな新勢力である武家社会が旧勢力の公家社会に対抗するようになり、支配者階級をめぐって権力争いを始めた。

その決戦となったのが、承久の乱

武家勢力が平安時代末期に力をつけ、った。この情勢で鎌倉時代となりました。

が起きた時代でした。

 

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

【金剛力士像】なぜ鎌倉時代に彫刻文化が花開いたのか【運慶・快慶】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【鎌倉文化2】なぜ鎌倉時代に彫刻文化が花開いたのか」というお話です。

 鎌倉時代は日本彫刻史における最盛期で、その時期に活躍した中心的仏師は運慶と快慶になります。

 運慶と快慶は平安中期の大仏師・定朝(じょうちょう)の流れを受け継いでいる。定朝というのは、日本独特な優美な和様という様式を確立した人物です。

平安時代中期に寄木造を編み出した仏師(彫刻家)の定朝の一派は、やがて慶派と呼ばれるようになり、運慶と快慶という天才彫刻家の登場によって、鎌倉時代には多くの優れた彫刻作品が生まれました。それは当時、新興勢力であった武士の台頭を背景に、力強さや写実性を重視した作風が好まれたからです。

 平安時代中期、末法思想が流行り始めると、貴族たちは現世での厄災や、来世で地獄に落ちることへの不安から、寺を建立したり、仏像を造ったり、お経を埋めたりしてせっせと功徳を積み、極楽往生を願いました。

 これにより、仏像彫刻の需要が高まったため、大仏師の定朝は、木のパーツを組み立てて仏像を造る分業制の寄木造を編み出し、仏像の大量生産を可能にしました。

 以来、全国で阿弥陀仏像が作られるようになり、定朝は法成寺や平等院鳳凰堂の造仏を手掛けた功績により、法橋・法眼という地位を賜り、それまで軽視されていた仏師の地位を大幅に高めました。

 そんな定朝の子・覚助(かくすけ)は父の技術を受け継ぎ、奈良に拠点を置いて活動するようになりました。やがて、この一派が康慶のときに「慶派」と呼ばれるようになりました。

 この康慶の実子が運慶であり、康慶の弟子が快慶です。今でこそ有名な慶派ですが、実は同じく定朝から分かれ、京都に拠点を置いていた「院派」と「円派」に主流を奪われ、慶派は、ずっと日陰の存在となってしました。

 

 そして時代は、保元の乱平治の乱源平合戦のような厳しい歴史の激動にさらされることになり、新興勢力である武士が時代を動かすほどの存在になっていきました。

 そんな中、源平合戦の勃発とともに、平氏の南都焼き討ちによって奈良の興福寺東大寺が灰に帰しました。興福寺の復興造仏には院派、円派、そして慶派が担当することになりました。しかし、金堂や講堂などの主要仏塔の造仏を担当したのは、院派と円派であり、地元であるはずの慶派は、南円堂や食堂(じきどう 現・国宝館)などの支院の造仏を担当することになりました。

 

 そんな慶派を引き上げたのが、源頼朝と重源でした。頼朝は、新寺院の造仏に慶派を採用しました。彼らの写実的で力強い作風が武家の棟梁・頼朝の気質に合致したのです。これは、激動の時代を迎えるなか、その結果として生じた現実を直視しようとする態度(リアリズム)への関心の現れといえるでしょう。

 

慶派はにわかに脚光をあびるようになりました。 

 これに拍車をかけたのが重源でした。重源は運慶や快慶と親しい間柄にあったことから、東大寺再建にあたり慶派に造仏を依頼したのです。そこで慶派の作品で最も有名は東大寺金剛力士像が誕生しました。

 力士像の憤激の表情と筋肉の躍動感は、慶派の作風を現した典型的な作品であり、運慶と快慶は、この高さ8メートルを超える2つの巨像を18人の部下とともにわずか69日で仕上げたと言われています。

 現在でも、この力士像は東大寺南大門をくぐる人の目を釘づけにする。

 

 ところで、運慶と快慶は同じ慶派でありながら、その手法は対象的でそれぞれ傑作を彫り上げています。

 運慶は、天平彫刻の写実性を導入して仏像を人間くさく、男性的に仕立てるのに対し、快慶は平安時代の和様に宋(中国)の手法を取り入れ、女性的で理知的な作品を多く手掛けています。

 運慶の代表作には興福寺の無著・世親像があり、快慶の代表作には東大寺僧形八幡神像や東大寺地蔵菩薩像が挙げられます。

 慶派の技術はその後、運慶の子供たちに受け継がれていきました。以下、それぞれの人物名と作品名を挙げていく。

 運慶の長男・湛慶(たんけい)の蓮華王院千手観音像、次男・康運(こううん)の興福寺金剛力士像、三男・康弁(こうべん)の興福寺天灯鬼像、四男・康勝(こうしょう)の六波羅蜜寺空也上人像である。

 

 運慶と快慶の登場によって、日本の彫刻界は活気づき、鎌倉時代に傑作が次々に生まれ、その黄金期を迎えました。

 しかし、室町時代に入ると造仏は定型化されて沈滞するようになり、これ以後明治時代まで、彫刻は見るべき作品が現れなくなってしまいました。

そういう意味でも、鎌倉時代は彫刻の黄金時代だったといえるでしょう。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり 日本史       河合敦=著 日本実業出版社

テーマ別だから理解が深まる 日本史  山岸良二=監修 朝日新聞出版

【承久の乱】幕府軍を勝利に導いた名演説とは?【北条政子】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【承久の乱幕府軍を勝利に導いた名演説とは?【北条政子】」というお話です。

 源頼朝の死後、政治的な混乱が続いていた鎌倉幕府に対し、京都の朝廷を動かしていたのが後白河上皇でした。鎌倉幕府は東国(東日本)を中心に支配体制を確立しましたが、この時点では、西国(西日本)中心においてはまだまだ朝廷の勢力が強かったのが現状でした。

 後鳥羽上皇は1202年から院政を行っており、前々から幕府の存在を苦々しく思っていました。そこで、上皇は朝廷の復権を目指して政治に力を入れ、倒幕のための軍事力の強化につとめました。

 一方、幕府に対しては、上皇は義理の兄弟の関係にあった3代将軍実朝と親しくなり、実朝を通して朝廷よりの方向に幕府を動かそうとしました。

実朝が朝廷と結びつきを強めていく中で、1212年1月、実朝の暗殺事件が起きたのでした。

 実朝の死により、源氏将軍家の血統が絶えてしまったため、北条政子とその子・義時は、後鳥羽上皇に願い出て皇子を将軍に迎えたいと申し出ました。しかし、上皇がこれを断ったため、幕府は頼朝の遠縁にあたる九条道兼の子である頼経を4代将軍として迎え入れることにしました。頼経はわずか2歳だったため、政子が後見人として代わりに政務を執りました。ここに鎌倉幕府の実権は北条氏に移ったのでした。政子は頼朝の死後、出家していたため、尼将軍と呼ばれました。

 こうして実朝の死後、幕府と朝廷の関係は悪化し、対立が目立つようになりました。

 

 ところで、幕府の実権は北条氏が握るようになったとはいえ、東国の武士たちの全てが北条氏に心服しているわけではなかったので、鎌倉幕府の権力基盤はにわかに動揺しました。

「いま突けば幕府は崩壊する」

 そう考えた後鳥羽上皇は1221年、北条泰時追討の院宣を全国に下しました。後鳥羽上皇がこれほど強きな姿勢をとれたのには理由がありました。後鳥羽上皇はその莫大な経済力を背景に、西国の武士や幕府に不満を持つ御家人たちを雇い、「北面の武士」や新設した「西面の武士」に組み入れることが出来たのです。

 さて、上皇が義時追討の院宣を下したということで、御家人たちが次々と鎌倉に集まってきました。しかし、幕府追討の院宣が下されている以上、義時が朝廷の敵とされているため、御家人たちは動揺を隠せずにいました。このままでは、義時は朝廷に謀反を働いた罪人となってしまいますし、鎌倉の御家人たちも朝廷に逆らった賊軍ということで、処罰されてしまいます。実際に、鎌倉の御家人や東国の武士の中には、上皇軍に寝返ろうとする者が続出していました。鎌倉は一時大混乱に陥りました。

 

 そんな鎌倉幕府の絶体絶命のピンチの時に起死回生を引き起こした人物がいました。尼将軍・北条政子です。頼朝の死後、政子は、御家人の尊敬を集めていました。そんな政子は、御家人や東国の武士たちに涙ながらの訴えをしました。

「みなの者、心を1つにして聞きなさい。これが最後の言葉です。今は亡き頼朝殿が朝廷の敵を倒して鎌倉幕府を開いて以来、官職にしても、土地にしても、みなの者が受けた恩は山より高く、海よりも深いものです。みながそれに報いたいという気持ちは、決して浅いはずがありません。名誉を重んじる者は朝廷方の逆臣を討ち取り、幕府を守りなさい。ただし、上皇方に味方したい者は、今はっきり申し出なさい。ただし、京都におもむく際には、私を斬り捨ててから向かいなさい」

それは自らの死をも覚悟した政子の魂の演説です。

 確かに、頼朝が鎌倉に幕府を開く以前は、武士というのは身分の保証もなく、公家の命令で散々タダ働きをさせられてきました。命懸けで守った土地の所有も認められず、それはもうひどい扱いを受けてきました。これが鎌倉幕府という武士のための政治組織が出来たことで、自分たちの土地の所有や身分の保証をしてもらうことができました。それは、紛れもなく頼朝のおかげでした。

 このかくのごとき政子の訴えに、東国の御家人たちは感じ入り、その結束を強めました。出陣の命令を受けて、ぞくぞくと鎌倉に集まってきた幕府の軍勢は、上皇方の軍が下ってくるのを待たずに、京都に攻め上りました。東海道東山道北陸道の3方向に分かれた幕府軍は19万騎にのぼったと伝えられています。

 

 一方、後鳥羽上皇院宣の効力で、すぐに幕府は崩壊するとたかをくくっていたため、幕府が大軍を率いて攻め寄せてくることを知った時は、慌てて軍を組織しました。しかし、時間的な余裕がなく、京都周辺の武士を寄せ集めただけで迎撃することになりました。

片や、結束を強めた幕府軍

片や、寄せ集めの京都周辺の上皇軍。

その勝敗は明白であり、幕府は鎌倉を発してから1か月足らずのうちに上皇軍を打ち破り、京都を占拠しました。

 

 捕らえられた上皇軍には厳しい処罰が下されました。

 まず、後鳥羽上皇隠岐国島根県隠岐諸島)に流され、その皇子の順徳天皇佐渡国新潟県佐渡島)へ、倒幕には直接関わらなかった土御門上皇土佐国高知県)に流されました。後鳥羽上皇の孫で4歳だった仲哀天皇は即位してからわずか70日間で退位させられ、後鳥羽上皇の兄の系統である後堀河天皇が位につきました。

 これ以降、皇室の皇位継承は幕府が管理するようになりました。かつて公家のボディガードでしかたなかった武家が、皇位継承を決めるようになったのです。これは太政大臣など位の高い公家が選ぶというそれまで常識が覆された瞬間でした。そういう意味でこの承久の乱は、歴史的に非常に大きな意味を持っていると言えます。

 

 続いて、幕府は朝廷側についた貴族や武士たちの所領を取り上げ、彼らを死罪とし、代わりに手柄のあった東国の御家人たちに与えました。そして、彼らをその土地の地頭として送り込みました。

 さらに、鎌倉幕府は朝廷のいる京都の見張り、かつ西国の御家人支配にあたらせる役所として六波羅探題を設置しました。六波羅とは、京都市東山区にある地名のことで、探題とは探偵を意味します。つまり、幕府は京都にスパイ組織を設置したのです。六波羅探題の長官には義時の子である泰時と、義時の弟である時房が任命されました。

なお、後鳥羽上皇は1239年に、同地(隠岐国)で死去しました。

 

 この承久の乱によって、それまで東日本を幕府が、西日本を朝廷が政治を動かすという二元政治のパワーバランスが崩れ、幕府の支配体制が全国規模に及ぶようになりました。鎌倉幕府の実権を握った北条氏は執権政治の基盤を固め、朝廷は幕府の意向にもとづきながら政治を行うようになりました。

 

 今回は、承久の乱とそれに伴って熱弁を展開した北条政子についてご紹介しました。幕府軍を勝利に導いたのが北条政子による魂の演説であったこと。しかも、それが女性からの涙の訴えであったということで、男性集団である武士達は本能的に感化されたのでしょう。

 それにしても、この承久の乱とは、幕府の力が朝廷に勝っていることを知らしめたことや、これ以降の皇位継承を幕府が管理するようになったという意味で、歴史的に非常に大きな意味を持っていると言えると思います。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著 宝島社文庫

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

【鎌倉文化】鎌倉時代の東大寺復興プロジェクト【重源】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【鎌倉文化鎌倉時代東大寺復興プロジェクト【重源】」というお話です。

鎌倉時代東大寺の再建を主導した重源は、老体に鞭を打って全国から資金を集め、宋から移入した大仏様としいう技術を使い、用材の規格を統一して経費削減と工期短縮を実現し、東大寺をみごと再建させました。その姿は、素朴で豪壮な美しさが表現されていました。

 京都で大きな勢力を持った寺社が比叡山延暦寺なら、奈良で大きな勢力を持った寺院は東大寺興福寺でした。反平氏の拠点であったこの2つの寺院は、1180年12月、治承・寿永の乱源平合戦がはじまったばかりの頃、平重衡の南都焼き討ちによって炎上、灰に帰した。

 東大寺奈良時代聖武天皇が国富を注いで創建した官寺で、国を護るための寺でした。一方の興福寺藤原氏が建立した氏寺でした。

 朝廷にしろ、藤原氏にしろ、威信を保つために寺の復興は急務でした。興福寺は豊富な財力を持つ藤原氏によって順調に再建していきましたが、東大寺のほうは中々進みませんでした。源平争乱のさなか、朝廷の権威を地に落ち、財政難もあって、復興計画が思うように進まなかったのです。

 そのため、復興には広く多くの一般信者から寄付を集める勧進とよばれる方法がとられることになり、東大寺復興の指揮にあたる大勧進職には、当初、法然に依頼されました。

 しかし、法然は「自分は大勧進の器でない」としてこの依頼を辞退。代わりに、かつて自分の教え子であった重源を推薦しました。

 このとき法然は49歳、重源は61歳でした。当時としてはすでに老年だった重源でしたが、この依頼を引き受け、余生のすべてを東大寺の再建事業に捧げることにしました。

 重源も念仏の普及につとめた浄土宗の僧で、決して高い地位の僧ではありませんでしたが、かつて3度宋(中国)に渡っており、寺院建築の知識や最新技術を学んだ経験豊富な僧でした。

 

 重源はまず、資金の調達からはじめ、老体に鞭を打って全国を行脚して勧進(寄付)を募りました。勧進には奥州の藤原氏鎌倉の源頼朝などのときの権力者の協力も得ることが出来、それと同時に技術者たちを組織して再建の計画を進めていきました。

 翌1181年から、さっそく再建にかかりましたが、巨大な仏像と建築の修理・造営は困難を極めました。

 大仏の鋳造には宋から来た技術者の陳和卿に協力をあおぎ、重源は大仏殿や南大門といった伽藍の建立に取り掛かりました。

 重源は巨材を求めて周防国山口県南部)の山奥まで分け入り、40メートルもの巨木を切り出して、奈良へと輸送する大事業を行いました。その運搬をスムーズにするために佐波川三田尻港、兵庫などの修築が行われたと伝えられています。

 1185年、陳和卿らの大仏の修復が完了し、後白河法皇をむかえて開眼供養式が盛大に営まれました。一方、伽藍の造営は、木材の調達と輸送に手間取り、なかなか着手できずにいました。

 重源は、短期間で大規模な伽藍を再建するために、宋の建築様式に工夫を加え、大仏様(天竺様)といわれる全く新しい建築法を用いました。

 それは部材の規格を数種類のみに統一し、それを組み合わせることで簡単に建築出来るようにしたのです。これによって経費削減と工期短縮を実現しました。たとえば、東大寺南大門は、わずか5種類の部材が全体の80%を占めているという。

 

 こうして1195年、東大寺は見事に再建され、供養の儀式が行われることとなりました。

 供養式には、後鳥羽天皇や再建を積極的に支援した源頼朝北条政子夫妻などの権力者のほかに、公家勢や武家勢など多くの人が参列し、盛大な落成供養が執行されました。

 ちなみに、このとき頼朝夫妻は子の大姫と頼家もつれていきており、頼家を自分の後継者として後鳥羽天皇に紹介し、大姫は朝廷に働きかけて後鳥羽天皇の后とし、朝廷のつながりを深めようとしたと伝えられています。

 重源によって再建された大仏殿は、その後焼失したため、現在は南大門だけが当時の姿を残しています。その姿には、大仏様とよばれる建築技術を用いて、素朴で豪壮な美しさが表現されています。内部には天井がなく、屋根裏まで吹き抜けになっており、柱の直径は1メートル、長さは20mにも及んでいます。

鎌倉時代は、大仏様、禅宗様、折衷様といった新しい建築様式が生まれ、それらは古来の和様と融合していきました。

 鎌倉時代の建築分野には、宋から伝わった新しい建築様式が生まれた時代でした。ひとつは今回ご紹介した重源が東大寺の再建に採用した大仏様(天竺様)で主に宋の南方の様式です。もうひとつは禅宗の寺院建築に用いられた禅宗様(唐様)で、鎌倉の円覚寺舎利殿がその代表例です。

 大仏様が堂々と力に溢れた姿を見せているのに対し、禅宗様は整然として細かい部材を使って緻密な意匠がこらされています。

 一方、平安時代からの和様建築もいっそう洗練され、三十三間堂(蓮華王院本堂)はその代表例として柔和で優美な姿をしている。

 やがて、和様建築のなかには、観心寺金堂のように大仏様や禅宗様の長所を取り入れる建築物も登場し、折衷様と呼ばれました。

 このように鎌倉時代は、宋から新しい建築様式が導入された時代であり、それら様式は、和様と競合したり、融合したりして、その姿を現在に残しているのです。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

早わかり 日本史       河合敦=著 日本実業出版社

テーマ別だから理解が深まる 日本史  山岸良二=監修 朝日新聞出版

【時宗】なぜ一遍は踊り念仏を始めたのか【一遍】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【時宗】なぜ一遍は踊り念仏を始めたのか【一遍】」というテーマのお話です。

 平安時代中期頃までの仏教は、朝廷・貴族・仏僧などの一部の階級のひとたちが学び、信仰するものでした。

 しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期になると、庶民階級にも仏教が広く浸透するようになります。天変地異や飢饉が頻発し、保元の乱平治の乱、源平の争乱、承久の乱などの戦乱が相次いだため、庶民は現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとした。

 そんな時勢にあって、積極的に庶民の要求に応じ、彼らを救おうと6人の僧侶とその宗派がそれぞれ誕生しました。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗、そして一遍の時宗です。

 これらの新しい宗派を鎌倉新仏教といいます。しかし、難しい教えや、厳しい戒律を守ったりすることは、庶民には困難です。このため、鎌倉新仏教の共通点は、1つの教えを選び(選択)、誰でも実践できる簡単な行を行い(易行)、それに専念せよ(専修)、という点にあります。

 一遍を開祖とする時宗は、法然により広められた専修念仏の流れを汲む宗派ですが、踊り念仏をすることに特徴があります。この踊り念仏は、現在の盆踊りの起源でもありますが、一遍は最初から踊り念仏をしていたわけではありません。なぜ一遍は踊り念仏を始めたのでしょうか。今回はそれを探っていこうと思います。

一遍は、家や土地、妻子などあらゆる地位や財産を捨てました。自分の中の執着やこだわりを捨て去った一遍は悟りの境地に至り、その嬉しさのあまり踊り始めてしまいました。一遍は踊念仏をしながら全国を遊行して歩き、布教対象を下層階級にまで広げました。

 一遍は1239年、伊予国愛媛県)の武士の子として生まれました。10歳のときに母親を亡くし、父親の命で出家し、浄土宗の寺院で修行を始めました。しかし、一遍が25歳のときに父親が亡くなったことで故郷に戻りました。

 故郷で妻子をもった一遍は、半僧半俗の生活をしました。つまり、日常生活を送りながら、仏教の信仰をする在家仏教の道を歩んだのです。

 しかし、一遍が33歳のときに善行寺を詣でたのをきっかけに再び浄土宗の修行者に戻りました。当初は庵(いおり)で念仏を唱える在家仏教の生活をしていたが、36歳からは全国を股にかけた遊行の旅に出かけます。このとき、出家した妻子も連れていたようです。当初、一遍が行く先々で行っていたのは、「南無阿弥陀仏」と記した念仏札を人々に配ることでした。一遍の札を受け取った者は往生の証を得るとされました。

 

 その旅の途中、一遍は自分の布教方法に疑問を抱く出来事に遭遇しました。

 一遍は、ある僧に札を渡そうとすると、その僧は「信心がないから受け取れない」と言いました。一遍は何とかしてこの僧に札を渡さないと、その場にいた全ての人に札を配れないと思い、半ば強引に札を渡してしまったのです。

 そんなとき、一遍は訪れた熊野本宮で「信心の有無や、身分の上下に関わらず、全ての人は念仏を唱えさえすれば往生できるのだから、堂々と札を配りなさい」との宣託を受けたことで立ち直り、浄土宗の他力本願の深意を知りました。時宗ではこの時をもって開宗年としています。1274年、一遍が36歳のときでした。

 翌1273年、自身の信仰に確信を持った一遍は、妻子とも別れ、土地も家も捨てて、旅を続けました。旅の途中で同行者も現れ、彼らは時衆と呼ばれました。

 そして、1279年の秋、信州国(長野県)の小田切の里の武家の館で、一遍のその同行者が念仏往生への嬉しさのあまり踊りはじめました。これが踊り念仏の始まりです。

 一遍によると、踊り念仏とは喜びと感謝の気持ちを体現したものだとしました。浄土宗では念仏を唱えた者は誰でも極楽浄土に迎えられます。それは阿弥陀仏様が誓願してくれたからであり、そのおかげで我々は念仏を唱えるだけで往生ができるようになりました。その報恩行為として最高なのが踊りだとしました。

一遍はその気持ちを歌に詠んでいます。

ともはねよ かくても踊れ 心ごま

弥陀の御法を 聞くぞうれしき

(共に跳ねよう、そのままで踊れ、心のままに阿弥陀仏の教え知ったことがこんなに嬉しいのだから)

 

 一遍の踊念仏は、旅の行く先々で熱く迎えられました。一遍とその同行者たちは踊屋という舞台の上にたち、鉦(楽器)や太鼓を叩き、リズムに合わせて踊りました。舞台を見上げる人々のなかには、手を合わせて拝む人もいました。一遍は、踊りを見物した人々に「南無阿弥陀仏」の札を配り往生の証を与えました。札は老若男女・信心の有無を問わず、多くの人々に配られ、その布教対象は、下層階級にまで広がりました。

以来、踊り念仏は全国各地で行われるようになりました。

 

 1282年、一遍は踊念仏を広めるために鎌倉にやってきました。しかし、鎌倉幕府は一遍が鎌倉に入るのを許しませんでした。そこで、一遍は鎌倉の西の片瀬の浜で踊り念仏を行ったところ、多くの人々が押し寄せ、大盛況となりました。

 こうして一遍の名は広く知られるようになり、一遍は死ぬまで旅を続け、踊り念仏を広げました。その功績は、南は大隅国(鹿児島県)、北は江差国(岩手県)にまで及び、配られた札は、250万に達したといわれています。

 そして、1289年、一遍は臨終の際に、「煩悩があっては極楽に往生は出来ないので、常にこの一瞬一瞬を臨終のときと心得て、煩悩が生じないように念仏を唱えよ」と説きました。享年51歳でした。

 さて、今回のまとめですが、一遍は、地位も財産も妻子も捨てたことで、自らの執着心から解き放たれ、悟りの境地に至ることが出来ました。一遍は、ここに阿弥陀仏の救いを感じとり、その嬉しさのあまり踊り始めました。踊念仏とは、その報恩行為だったのです。

 背負うことも、失うもこともなくなった一遍が全国遊行をしたことで、布教対象を下層階級にまで広げることができました。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

聞くだけ  倫理   三平えり子=著     Gakken

もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社