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【戦前の徴兵制度】意外に厳しかった!?その徴兵基準とは

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【戦前の徴兵制度】意外に厳しかった!?その徴兵基準とは」というお話です。

 日本の青年男性には必ずやってくる恐怖の赤紙のイメージが強いですが、意外にも、徴兵基準は厳しいものだったようです。

「ボクは農村出身です。陸軍の幼年学校を目指しています。」

「ボクは下町出身です。海軍の幼年学校を目指しています。」

 

 まず、知っておいて欲しいのは、当時の日本において軍人とは、かなりポピュラーな職業であったということです。

 

 現代ならば、「仕事がないから自衛隊に入ろう」という人はそう多くはないと思います。しかし、戦前は軍人を就職先として選ぶ人は少なくありませんでした。

 逆に言うと、それだけ働き口がなかったともいえます。

 軍隊に入れば、とりあえず衣食住は保障されます。

 恐慌や飢饉に苦しめられ、貧困にあえぐ農村や下町出身の若者たちにとって、それは大変魅力的なものでした。

 なので、幼い頃から軍人を目指す人も少なくありませんでした。

 先ほどの子達のように、秀才でも経済的な理由で上級学校に進めない貧しい子供は、軍の幼年学校を目指しました。軍の学校に入れば、学費は無料なうえに、給料までくれる。至れり尽くせりです。

 

 また、軍隊に入れば、過酷ともいえる猛烈な訓練と集団生活が待っていますが、努力次第では出世の道が開けており、一般兵士から幹部の士官や参謀に上り詰めた者もいました。

 

 このように職業軍人とは徴兵以前に志願者が多く、この時点で、大日本帝国は軍事国家としては「一等国」だったといえるでしょう。

 

 これが、日中戦争や太平洋戦争に突入すると、兵力不足を補うため、民間人から徴兵をするようになりました。

 

 意外なことに大日本帝国は、国民皆兵制度ではなかったので、青年期の男性でも兵隊経験さえすることなく終わる人はたくさんいました。

 

 徴兵はまず、全国の青年男子(20歳~40歳)の名簿からランダムに選ばれた者に召集令状が送られます。だいたい2人に1人の割合です。

 この時点で、落選し続ければ、徴兵そのものを免れることが出来ます。

  以上に該当しなければ、徴兵されることなく、生涯を終えることが出来ました。

 

 では、実際に召集令状が届いた場合、どうなるのでしょうか。

 その場合、徴兵検査を受けにいくわけですが、学力検査はなく、身体検査のみです。

 しかし、その検査は意外に厳しいもので、基準値を満たしていなければ、簡単に不合格とされてしまいます。

 

 まず、当然ですが健康な身体であることが絶対条件になります。

 病中、病後、持病はもちろん、精神に何らかの障害を持つ人も不合格です。

 

 次に、身長ですが155センチ以上であれば、「良好」で、合格最低ラインが145.5センチでした。当時の成人男性(30歳代)の平均身長は160センチ程度でしたが、身長は高いほど良く、体格もがっしりしている人が好まれたため、かなり厳しい基準で検査されていました。

 

 また、体重も一定の範囲内に収まっている必要がありました。そのため、ガリガリや肥満体の人は不合格となります。(もっとも、この時代に肥満体の人は少数でしたが。)

 

 視力もおおむね良好である必要があります。戦場において、眼鏡のような視界の狭まるようなものをかけるのは、自殺行為となります。

 

 また、口が自由に聞けることも条件で、吃音症のような言語障害を患っている者も不合格となります。

 

 当時の日本の人口は7138万人。陸海軍の総動員数は840万人程度という推計データがあります。

 男女比1:1と仮定すると、青年男性の4人に1人が徴兵の対象となっていたことがわかります。

 

 ヨーロッパ諸国のイギリスやドイツは徴兵制度もいくぶん緩く、3人に1人が徴兵の対象となっていました。

 

 もちろん、日本も戦況の悪化に伴い、その基準が緩くなったことも忘れてはいけません。

 特に緩和が激しかったのは、年齢です。

 徴兵制度は当初、40歳が年齢上限とされていましたが、太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年以降、上限が45歳まで引き上げられました。

 1943(昭和18)年には満19歳以上、翌1944(昭和19)年には満17歳以上にまで対象年齢が引き下げられました。

 さらに、17歳未満であっても志願する者は徴兵の対象となりました。

 

 また、大学生は徴兵を26歳まで猶予されていました。しかし、戦況の悪化とともに文系を中心に大学生も戦地に赴くようになり、1943(昭和18)年には医学部を除くほぼ全ての大学生が徴兵の対象となりました。これらを学徒出陣と言います。

 

 では、実際に戦場に赴いた兵士は無事に還ってこれたのでしょうか。

 太平洋戦争に限れば、犠牲になった日本兵は陸軍の死者で150万人、海軍の死者で50万人、そして陸海軍合計の総編成数は840万人程度という推計データと合わせると、太平洋戦争での兵士の死亡率は2割強となります。

 

 日本の徴兵制度は意外に厳しく、戦場に赴いても、生還出来る可能性も比較的高いものだったようです。

 

 しかし、大東亜戦争が悲惨なものであったことは間違いありません。やはり当時も、出来ることなら戦地になど行きたくないのが本音だったでしょう。

 その証拠に徴兵を拒否する若者もいたようです。徴兵検査に不合格となるように自傷行為をする者、海外留学と称して国外に逃亡する者、行方をくらます者などその方法は様々でした。

 しかし、そんなことをすれば、「非国民」とされ、家族やその親戚は、憲兵隊の圧力や近所民から後ろ指をさされることとなります。

 彼らが出征したのは、「国のため」ではなく、「生きるため」、「家族を守るのために」出征したのです。


参考文献
朝日おとなの学びなおし! 昭和時代   保阪正康=著 朝日新聞出版
昭和史を読む50のポイント       保阪正康=著   PHP
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
教科書よりやさしい日本史        石川晶康=著   旺文社