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【天皇機関説問題2】なぜ当時の知識人は口をつぐんだのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【天皇機関説問題2】なぜ当時の知識人は口をつぐんだのか」というお話です。

 

 突然ですが、知識人と一般人はどう違うのでしょうか。

 知識人は、合理的な文章を読みたがります。つまり、理屈や論理を求めているのです。

 対する一般人は、非合理的な文章を読みたがります。つまり、感情や共感を求めているのです。

 この違いを覚えておいてください。

天皇機関説問題によって、一般人は天皇主権説のような非合理的な思想を支持するようになりました。一方の知識人は天皇機関説のような合理的な思想を支持し続けました。しかし、国家レベルでの思想弾圧が起きたことで、当時の知識人はなぜ口をつぐんでしまいました。

  知識人と一般人との断絶が如実に現れたのが、1935(昭和10)年勃発した天皇機関説問題です。これは「天皇機関説」と「天皇主権説」が対立し、貴族院や軍部、政友会が、美濃部達吉天皇機関説が国体に反すると批判するようになった事件です。

 この背景にあったのは、昭和初期の世界恐慌などの影響で日本経済は大不況に陥り、それに対して政党政治は具体的な政策を行わず、汚職などの政治腐敗が横行し、日本国民の社会への不安は高まっていました。

 「天皇機関説」とは簡単に言えば、国家を法人と捉えて、国会や裁判所、内閣、そして天皇はその法人を構成する機関に過ぎないのだとする考えです。

 つまり、天皇とは神のような絶対的な存在ではなく、あくまで憲法上の地位のひとつであり、天皇は独断で政治を行うことは出来ず、その憲法に拘束されるとしました。

 しかし、先行き不透明な社会情勢から一般人(多くの国民)は、政党政治の理論的支柱であった天皇機関説に対し、不信感を持ち始ました。

 対する「天皇主権説」では、天皇は神の子孫であり、現人神(あらひとがみ)である天皇は、憲法のような「人工的な枠組み」に囚われることなく、超越的に統治を持つのだという考えです。

 つまり、かつての明治維新のように天皇を頂点とした改革運動を推進するもので、昭和維新を達成しようというのです。

 感情や共感、非合理的な文章をよみたがる一般人は、天皇主権説を信じるようになりました。景気とは、「気」のことですが、大衆(一般人)とは景気や感情、雰囲気に流されるのです。

 しかし、理屈や論理、合理的な文章を読みたがる知識人は、天皇機関説こそが近代日本の進むべく道であると説いていました。

 彼らは欧米の科学的学問を身につけており、冷静で客観的なものの見方もできるので、天皇主権のような神がかりの論はなじみませんでした。

 ここでいう知識人とは、大学教授や新聞記者、作家、評論家のような知的職業に就いている人達の他に、大学教育を受けた都市の給与生活者(農家などの自給自足でない)のことを言い、当時の日本の知識人は20万前後いました。

 

 しかし、そんな知識人はなぜ口をつぐんでしまったのでしょうか。

 政友会や軍部、右翼諸団体による天皇機関説への批判が強まる中、岡田啓介内閣はこの批判に負け、天皇機関説は誤りで、天皇主権説が正しいという声明を出しました(国体明徴声明

 美濃部の主要著書はすべて発禁され、美濃部自身も貴族院を辞職しました。

天皇を批判するような言い方をした組織は許さない。」

 国家レベルでの本格的な思想弾圧が進みました。

 それまで、思想弾圧の対象となっていた典型例として共産主義が挙げられます。

共産主義者は、私有財産を否定する危ない思想だ。」

 1933(昭和8)年~1934(昭和9)年、治安維持法によって共産主義を逮捕して痛めつけたことで、共産主義者はやがてその口をつぐむようになりました。

 1925(大正14)年に制定された治安維持法が本来の役割を超えて拡大解釈され、そこにあてはまる思想や言論だけが受け入れられ、それ以外のものは全て排除されるという方向になってしまったのです。

 やがて、美濃部のような学説もその対象となりました。

 知識人は猛反発しました。知識人のあいだでは「学問の自由」が当たり前であり、その自由を奪おうとする国家や民衆のレベルの低さに呆れました。

 新聞も、美濃部の天皇機関説を好意的にとらえる記事を載せていました。

 新聞記者も学問の自由への介入に対し、怒りを感じていたのでしょう。

 しかし、日本はこうした思想の徹底した弾圧を始めました。

 国体明徴声明が発表されてすぐ、文部大臣は教育面での思想統制を始めました。

大日本帝国万世一系天皇が永遠に統治するものであり、美濃部学説のような思想は排除するのだ。」

 それまで美濃部の学説は学会でも公認のものであり、大学教育でも講義されていた内容でした。それが1936(昭和11)年の新学期から、美濃部の教科書は採用されなくなり、天皇機関説の立場を採る学者は教壇に立てなくなりました。つまり、天皇機関説を教える大学教授は職を失うことになるのです。

 翌1927(昭和12)年には文部省が国体の本義という小冊子を発行し、「大日本帝国万世一系天皇が永遠に統治するもの」として定義つけました。

 その代表的なものが、「教育勅語」である。
教育勅語とは、1990(明治23)年に下賜された政府の教育方針に関する天皇勅語です。

「親孝行をしましょう。」

「友達を大切にしましょう。」

 このような日本の伝統的な道徳観をまもとめたもので、天皇みずからも国民の規範となるように努力をする、といった内容になっていました。

 しかし、この教育勅語が、昭和の現在になって、国民を統制するための道具として利用されるようになったのです。

 治安維持法が施行された1930年代に入ると、各学校では教育勅語御真影とともに泰安殿で厳重に保管することになりました。教育勅語は学校の授業でも大きく扱われ、生徒は暗唱できるようになるまで覚えさせられました。本来、教育の規範だったはずの教育勅語が、軍国主義の経典のようになったのである。

 こうして情報統制、弾圧立法の徹底、そして教育の国家統制などが行われる中、当時の知識人達は、学問はおろか、それを発言することさえも許されない状況になっていったのです。

 それでも抵抗しようとする知識人はいました。

 しかし、そんな人のところには、特高特別高等警察)や憲兵隊がやってきて勤め先に圧力をかけて辞めさせたり、日常生活や家庭を監視するようになりました。

 そうなると、まともな生活が出来ない。社会共同体から放逐されてしまいます。

 言論の自由や学問の自由を奪われた知識人は、狭く息苦しい思想の中で生活することを余儀なくされました。

 亡命するという手段もあったでしょう。しかし、島国であり言葉の壁もあり、亡命者は非常に少数でした。自殺する人もいましたが、それは死を賭しての抗議になってしまいます。

 日本人は次々に口をつぐんでしまいました。

 清沢冽(きよさわきよし)の『暗黒日記』や永井荷風(ながいかふう)の『断腸亭日乗』のような当時の知識人達の日記には、日々のつらい現実がリアルに書かれています。

 この後、日本は中国と全面戦争を始めます(日中戦争)。
「戦争はやってはいけない。いかなる理由があっても、人が人を殺すなんて最悪なことだ。」
こんなことは3歳の幼児でも分かることで、時代や国を問わず、変わらないことです。冷静な頭で考えることが出来るなら。

 しかし、当時のような極度の社会不安に陥った一般大衆は、感情的になり、「景気回復のためなら、戦争やむなし」という言説を信じるようになってしまったのです。人は感情的になると、正常な判断が出来なくなるのです。

 この後、すぐ日本は泥沼の戦争に突き進んでいきます。その結果、終戦までの間に日本は約300万人の犠牲者を出してしまいました。

 不安や恐怖を感じた時こそ、冷静な判断が出来るようになりたいものですね。

 

参考文献

朝日おとなの学びなおし! 昭和時代   保阪正康=著 朝日新聞出版
昭和史を読む50のポイント       保阪正康=著   PHP
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
教科書よりやさしい日本史        石川晶康=著   旺文社