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【満州国建国】なぜ日本は国際連盟を脱退したのか【松岡洋右】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【満州国建国】なぜ日本は国際連盟を脱退したのか【松岡洋右】」というお話です。

 歴史に「もし○○だったら・・・・」というのは禁句ですが、もし、大日本帝国満州事変で留まっていれば、日本の歴史は180度変わっていたことでしょう。

 日本は、中国大陸に満州国を建国し、「王道楽土・五族協和」をスローガンとした新たなフロンティアとしました。

 この時点で関東軍がとどまっていれば、現代においても中国大陸に満州国というもうひとつの日本国が存在し、漢民族やモンゴル人と共存し、自由な経済活動が行われていたことでしょう。

 しかし、関東軍(陸軍)が暴走したことで、満州国は承認されず、日本は国際的な孤立をしていまいました。

リットン調査団は、意外にも満州国建国には寛容でした。しかし、日本が中国での軍事行動を続けたため、国際連盟が大激怒。その結果、せっかくリットンらが容認した満州国の建国が承認されず、日本は国際連盟を脱退することを決意したのでした。
戦争とは究極の経済対策です。

 なので、昭和恐慌に苦しむ当時の日本国民は、戦争を歓迎していました。

 昭和初期の戦争は、軍部の暴走によって引き起こされたことは周知の事実ですが、こうした軍部の暴走を国民は熱狂的に支持していました。

 昭和の泥沼の戦争は、一体誰が招いたのでしょうか。

 そんな戦争責任を追及する際、どうしても忘れてはならないことは、当時の国民は戦争を熱烈に支持していたことです。

 私達が小中学校の歴史で学んできた印象から見れば、昭和初期は軍部が暴走したことで、日本は泥沼の戦争に引きづられていった、国民は言論統制により、言いたいことも言えず、軍部の暴走に振りまれた結果、大量の国民が犠牲になったとされています。

 これは、大きな間違いです。

 むしろ、戦争とは、国民が引き起こしたものであると見なす方が正しいと思われます。

「戦争が起きれば、景気が回復する。」

「肥沃な満州という地に移り住めば、豊かな生活ができる。」

 国民は皆、戦争や満州国に希望を抱いていたのです。

 こうした経緯から日本は満州事変を起こしました。

 

 1931年9月の満州事変は列強を中心に世界各国に衝撃を与えました。しかし、国際社会においては、イギリスやアメリカ、そして満州隣国のソ連でさえも、日本を批判こそしたものの、経済制裁や軍隊の派遣といった対抗措置がとれずにいました。

 確かに九か国条約の中で、中国への侵略をしないと取り決めてはいたが、列強各国はアジア・アフリカを侵略し、その資源や市場に頼っている事情から、日本を表立って批判出来なかったのです。

 さらに、関東軍に対抗する中国軍も大きな抵抗を見せなかったことも相まって、関東軍は意外なほどあっけなく満州を制圧してしまいました。

 これによって、当初、不拡大方針を決めていた日本政府も陸軍(関東軍)の暴走を追認してしました。

 勢いにのった陸軍は、ますます独断で動くようになってしまいました。

 これがまずかった。

 この陸軍の暴走こそが、日本の国際社会における立場を危ぶませ、国際連盟の脱退へと導く大きなきっかけとなりました。

 一方、海軍も中国沿岸部で新たな戦闘を開始しました。

 1931(昭和7)年1月18日、上海で日本人僧侶が中国人と思しき人物を襲撃したことをきっかけに、海軍は水兵による陸戦隊を上陸させ、日中の衝突が起こりました。

 こうした日本陸海軍の動きに対し、中国側は九か国条約違反であるとして国際連盟に提訴しました。

 国際連盟とは、スイスのジュネーブに本拠地を設ける平和機構

 国際連盟満州事変を、国際ルールを破った軍事行動であるとし、武力によって支配構造を作った日本を激しく非難しました。

 しかし、日本政府はこれに対し、「満州および上海での一連の軍事行動は、自国の権益を守る自衛の行為である。」と反論しました。

 こうした日中両国の主張を受けて、国際連盟は1931(昭和6)年末、満州事変の事情調査のためにイギリスのリットン伯爵を団長としたリットン調査団を極東へと派遣しました。

 公平で中立な立場で調査するため、調査団は欧米各国の代表で組織されました。

 調査団は、満州のみならず日中両国を訪問し、要人との会見や諸都市の視察を実施しました。公平や立場を要する詳細な調査は、半年以上に及びました。

 リットンの調査が続いている間、日本は満州国建国の準備を進め、1932(昭和7)年3月1日には清王朝最後の皇帝だった青年・愛新覚羅溥儀(あいしんかくぐらふぎ)が執政として就任し、満州国の建国宣言が発せられました。そして9日には満州国の首都として長春改め新京で、溥儀の就任式が挙行されました。

 日本は上海での日中両軍の軍事衝突がおさまる前に、満州国建国に踏み切ったのです。その背景にあったのは、やはり日本国民の熱烈な支持でした。

 また新聞メディアも、そんな国民感情を煽りました。当時の新聞各社は満州における権益は、日露戦争での大勢の戦死者と引き換えに得たものであり、満州が中国と縁を切って日本と良好な関係を持つ独立国になるのは、当然の成り行きであるとしました。

 リットン調査団は視察完了から約2か月後に、作成した報告書を国際連盟に提出しました。
 報告書には、満州事変や上海事変などの日本軍の行動は、国際ルールに合致する「自衛の行動」だとは認めませんでした。しかし、日本が満州に持つ権益は尊重し、満州国は独立国とは異なる形で「自治政府」を創設し、日本人を含む外国人顧問をその自治政府に付随させることを提言していました。
つまり、リットンらは満州国国際連盟の管理下に置くとしながらも、実質的には日本人の居住や行政・商業などにおける日本の権利を認めたのでした。
当時、国際連盟の日本政府代表だった松岡洋右(まつおかようすけ)は、1932年12月14日、リットン調査団の妥協案を受け入れて、中国に多少譲歩することで、問題の幕引きを図るべきだと東京の政府に進言しました。
松岡自身は、満州事変勃発から8カ月前の1931年1月23日、帝国議会(国会)で「満蒙(満州内蒙古)は我が国民の生命線である」と演説したことがありましたが、満州国の独立という問題の解決法に固執していたわけではありません。むしろ国際社会に従い、平和的な方法で満州国の建国を目指していました。

もっとも、近現代の外交ルールでは、単に当事者が「独立」を宣言するだけではダメで、他の国が正式にその国の政府を「承認」して外交関係を築かないと、独立国とは見なされませんでした。

松岡代表が国際連盟との妥協案を受け入れ、平和的な解決がされようとしていたまさにその時、事件がおきました。
1933(昭和8)年3月、関東軍が新たな軍事行動として「熱河作戦」を開始し、同地から国民革命軍を追い出す行動に出たのです。熱河省とは、満州国西部に位置しますが、熱河は(日本側が考える)満州国の一部だから、占領するのは問題ないだろうと思っていました。
また、関東軍の暴走かと思いきや、これは同1933(昭和8)年1月13日の閣議において、日本政府は関東軍に「長城(満州国の国境とされる線)を超えないならば」という条件で、作戦を許可していたのです。
しかし、こんなことを松岡代表は一言も聞かされていませんでした。

日本側は「熱河は(日本側が考える)満州国の一部だから、国際問題にならないだろう」と、状況を甘く見ていました。しかし、国際連盟の加盟国は、まだ満州事変や満州国の問題をどう処理するかの話もついていないのに、関東軍が「占領地」で新たな軍事行動をはじめたことは、国際連盟に対する侮辱と挑戦であると理解しました。
同1933(昭和8)年2月初頭、国際連盟は日本に対する新たな勧告案を作成し始めましたが、その内容を察知した日本は慌てました。
もし、勧告案が満州国の正当性を否定し、日本がそれを受け入れない場合、連盟規約に従って日本に対する諸外国からの「経済制裁」が課される可能性が出てきたからです。
そして実際、同1933(昭和8)年2月24日、ジュネーブで開かれた国際連盟総会で勧告案が採決にかけられることになりました。
日本は全権大使として、松岡洋右ジュネーブに派遣しました。
勧告案の内容は、満州国の成立を認めず、満州事変以降の日本の責任を問うという、日本にとって大変厳しいものでした。
採決の結果は、賛成が42ヵ国、反対が1か国(日本)、棄権が1ヵ国(シャム、後のタイ)で、日本の完敗と呼べる結果となしました。
「くそ・・・これで満州国の存在は絶望的なものになってしまった。この原因はあきらかに熱河省での一件だ・・・・。」
松岡代表は即座に「日本は、このような勧告案は受け入れられない。」と演説して、会場を後にしました。松岡代表らは、国際連盟の脱退を表明しました。
しかし、松岡には懸念がありました。このまま国際連盟を脱退してしまえば、列強各国からの経済制裁は免れない。そうなったら、日本の生命線ともいえる石油の供給が絶たれ、軍事面において大変不利な状況に立たされる。
松岡は国民は起こっているだろうと思い込み、直接帰国せず、アメリカに立ち寄っていました。しかし、当時の日本国民は松岡の行動を絶賛しており、それは報道を通じて松岡の耳にも聞こえてきました。

松岡がようやく決心して帰国すると、凱旋将軍のように迎えられました。
国民の多くは、松岡の態度を、日本の名誉を貫いた堂々たる行動と歓迎しました。しかし、国際連盟の脱退で日本は、国際協調から外れ、また自国の権利や立場を主張できる場所を失うことになりました。


参考文献
仕組まれた昭和史    副島隆彦=著 日本文芸社
大日本帝国の真実   武田知弘=著  彩図社
5つの戦争から読みとく日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史   中村達彦=著  アルファポリス