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【五・一五事件】その時、犬養毅は何を言おうとしたのか【犬養毅】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【五・一五事件】その時、犬養毅は何を言おうとしたのか【犬養毅】」というお話です。

 是非、最後まで読んでいただきますようよろしくお願いします。

 

 満州国の建国宣言がされて2ヵ月半後の1932(昭和7)年5月15日、東京・永田町の首相官邸でとんでもない事件が起きました。

 それは日曜日の夕方、午後5時半頃起きました。

 

 時の首相・犬養毅は日ごろの政争の疲れを癒すべくのんびりとすごしていました。 犬養が夕食のテーブルにつこうとしたとき、警官がもの凄い形相で走り込んできました。

「暴漢が侵入しました。総理、早急にお逃げください!!!」

 なんとテロリストの一団が警護の警官を数人銃殺し、首相官邸になだれこんできたのです。

 

 ピストルを持った海軍の士官候補生(青年将校)は集団で犬養のいる食堂に入ってきました。

 彼らは血走っており、犬養にピストルを向けました。

 78歳になっていた犬養には、まだ20代の候補生達は孫のように見えたのでしょう。全く動じませんでした。そしてこう言いました。

 「まぁ待て。あちらで話を聞こうじゃないか。話せばわかる。」

 犬養はテロリスト一団を連れて客間に移りました。

 テロリスト一団も抵抗することなく、犬養の後をついていきました。

 客間に移った犬養は、ソファに腰をかけて言いました。

「まぁ、ゆっくり話そうではないか。」

 しかし、それまでの沈黙を破ったかのように海軍士官の一人が叫びました。

「えぇぇい。問答無用!撃て、撃て!!!」 

 それと同時にピストルが乱射され、犬養は右手で制するようにしていたが、腹部や顔に弾丸を受けて倒れました。

 それを見てテロリスト達は、官邸から飛び出しました。

 

 家人や警官が駆けつけてきました。

「そ、総理!しっかりしてください。今、医者を呼びます。」

 しかし、犬養は血を流しながら言い続けました。

「あの乱暴者たちをもう一度連れてこい。よく話を聞かせてやる。」

 

 重傷を負った犬養は、その日の6時間後に亡くなりました。

 

 この事件は官邸だけではありませんでした。

 東京都内の牧野伸顕内大臣邸、警視庁、政友会本部などに手榴弾が投げ込まれるという同時多発的なクーデターが起きました。

 しかし、大きな被害はなく、犯人グループも順次憲兵隊などに自首しました。

 以上が「五・一五事件」の内容です。

 

 この事件の背景としてあったのは、政党内閣への不満がありました。

 海軍は政党内閣がロンドン海軍軍縮条約に締結したことに不満を持っていました。この軍縮条約で、対米7割の総トン数を飲まされたことで、これでは日本の国防は果たせないといわれていました。

 海軍は条約派艦隊派に分かれていましたが、条約派軍縮条約による国際協調に賛成でしたが、海軍の要職から遠ざけられており、軍縮条約に反対する艦隊派が海軍軍令部を牛耳っていました。

 そんな艦隊派軍縮条約が結ばれたことによる予算の削減に不満を持っていました。
また、満州事変に対する政府の対応を「弱腰外交」として批判もしていました。テロリスト一団はこうした現状を打開するべく、事件を起こしたのです。

 そんな海軍の青年将校達に犬養が、「話せばわかる」といった意味はどこにあるのでしょうか。

 

 犬養は彼らを諭そうとしたのでしょう。

 要求や問題解決には、暴力よりも、言論をつかった方がはるかに実現しやすいということを。

 しかし、彼らは、理性を失った20歳代の世間知らずの若い士官達です。

 彼らを説得するのは、至難の業でしょう。犬養はそれもわかったうえで、何とか理解を得ようとしたのだと思います。

 おそらく、犬養はこう言おうとしたのでしょう。

「君達は、一部の連中の考えだけを真に受けすぎている。それは、君たちが若いからに他ならない。しかし、政治や外交の世界とはどういうものかを知っているか。もっと本を読め、もっと勉強をしろ。もっと世の情勢を見よ。」

 若い士官が怒りくるってピストルを振りかざすのは、そういった社会情勢を何ひとつ理解せず、自分達だけが正しいと思っているという偏ったモノの見方を改めさせようとしたのだと思います。

「今回の満州国の建国によって、日本は国際社会からの非難を浴びている。これが何を意味するか。君たちにはわかるか。」

 犬養は、満州事変には批判的で、満州建国を承認する気は全くありませんでした。

 もし、承認すれば、日本は国際社会に宣戦布告したと見なされ、非常に不利な状況に立たされてしまいます。

 犬養は旧知のジャーナリストをつかって中国の要人たちと交渉し、事態の収拾を図っていました。

 犬養は、関東軍が後先を考えずに実行した満州事変の後始末に手を焼いていたのです。

 しかし、今回の事件で、犬養の交渉も潰えました。日本は今後、国際的社会からの非難をモロに受けることになります。

 犬養の胸中には「話したいことは山のようにあった」ことでしょう。

 あなたはどう思いますか。

五一五事件の首謀者は裁判で「疲弊した農村を救うため・・・・」と陳述しました。それが多くの民衆の支持を得、彼らの刑は軽いものとなりました。「テロ行為」が「正統な行為」とされてしまったのです。しかし、それが原因で4年後の二・二六事件を引き越すのでした。

 五・一五事件後、元老の西園寺は、引き続き政友会から首相を推薦しようとしました。しかし、海軍軍令部の強い反発によってそれを断念。西園寺は最終的に海軍穏健派の長老である斎藤実(さいとうまこと)を後継首相に推薦し、同1932(昭和7)6月21日、斎藤実内閣が誕生しました。

 斎藤は、海軍の条約派に属し、国際協調に理解を示す人物であり、慎重で粘り強い性格とされていました。

 さて、五・一五事件の全容が、報道解禁によって新聞に詳しく報道されたのは、事件から1年経った1933(昭和8)5月17日でした。

 当然ですが、五・一五事件は世に大きな衝撃を与えました。政党政治が始まってから現職の首相が襲われたのは、原敬浜口雄幸以来、3人目ですが、原と浜口の場合は、民間人による単独犯行として処理されました。しかし、今回の事件は現役軍人が首相を暗殺するという政治テロでした。

 報道直後、世論は「軍の横暴」として強い批判を示しました。

 それもそのはず、正式な軍人たる者が、時の首相を暗殺するなどとんでもない話です。

 当然、逮捕された犯人達は、裁判にかけられました。彼らは厳重に処罰する必要があります。つまり、極刑(死刑)に処せられるのです。

 しかし、事態は思わぬ方向へ向かってしまいました。

 それは裁判にかけられた青年将校の一人が陳述した内容がきっかけでした。

「疲弊の極みにあった農村を救うために・・・・・」

 事件を起こした理由として、政党政治満州事変への政府の対応に対する批判のほかに、「農村の疲弊」が挙げられたからです。

 現にこの事件とほぼ同時期に、事件に農民7人による「農民決起隊」が加わり、変電所襲撃を行っていたことです。

 彼らは五一五事件を計画している海軍青年将校達に触発されて、事件を計画したのでした。

 彼らは昭和恐慌によって疲弊した農村に対し、政党内閣が具体的な対策を行わないことに対し、強い不満を持っていました。

「都市や資本主義の発展が農業を破壊している」

 これが彼らの主張であり、変電所を襲撃したのは、電力を奪うことで「都市を破壊」しようとしたのです。

 確かに昭和初期は恐慌や浜口政権の緊縮財政によって農村は貧困に苦しんでいました。
「農村の学校では4人に1人は弁当を持ってこられない」

 そんな報告は全国的に挙がっていました。

 このため、今回の五・一五事件は単なる「暴挙」ではなく、「農村のための義挙」とみられるようになり、全国から減刑嘆願書が寄せられました。

 それによって、同1933(昭和8)年11月に開かれた裁判では被告らに、禁固15年という刑が申し渡されました。

 当初の予想よりも、かなり軽い罪になりました。

 この裁判の影響は大きいものでした。

「農業や民衆を救うため・・・・」という大義を掲げれば、民衆の支持を得ることが出来、どんなテロ行為も、「義挙」に昇格され、許され認められるのだと信じる輩(やから)が出てきてしまったのです。

 その結果、1400人におよぶ陸軍の青年将校が引き起こした‘健軍以来最大の不祥事‘と言われる二・二六事件を招いてしまうのでした・・・・。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

本宮貴大でした。

それでは。 

参考文献
マンガでわかる 日本史     河合敦=著  池田書店
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著 産経新聞出版
昭和史を読む50のポイント   保阪正康=著 PHP