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【満州事変】なぜ石原莞爾は満州国を植民地ではなく、独立国としたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【満州事変】なぜ石原莞爾満州国を植民地ではなく、独立国としたのか」というお話です。

 当初、関東軍満州を日本の植民地とする予定でした。しかし、それは国際世論から非難されることは必至でした。政府も必死に説得したため、関東軍高級参謀の石原莞爾満州国を植民地ではなく、独立国としました。

「番組の途中ですが、ここで臨時ニュースです。」

 1931(昭和6)年9月19日午前6時半、ラジオ放送が始まって数年しか経っていないラジオが、ラジオ体操の番組を中断し、臨時ニュースを伝えました。

 それは、満州中国東北部)の奉天瀋陽)郊外の柳条湖と呼ばれる場所で、日本と中国の軍隊が衝突したという一報でした(柳条湖事件)。

 事件が起きたのは、前日の9月18日午後10時20分頃です。

 柳条湖とは、奉天駅から東北に8キロほど離れた場所にあり、南満州鉄道(以下、満鉄)の路線が何者かに爆破されたのでした。

 満鉄の被害そのものは小さいものでしたが、この付近で満鉄の警備にあたっていた日本の関東軍独立守備隊が張学良軍の仕業だとして攻撃を開始したのです。

 両者の衝突の事実は直ちに、旅順にあった関東軍の司令部に打電されました。

 関東軍司令官の本庄繁(ほんじょうしげる)は、深夜にも関わらず参謀ら幹部に非常呼集をかけます。

「諸君、夜分にすまんな。しかし、詳しい状況が全くわからん。これは一体、どういうことだ?」

 これに対し、高級参謀の石原莞爾は言いました。

「本庄殿、もはや一刻の猶予も残されておりません。満州の地を我が国の植民地とするのです。」

 石原に説得された本庄は、中国への宣戦布告の許可を出しました。

「そうか。良いだろう。本職の責任にてやろうではないか。」

 石原は本庄の許可を得た後、メモひとつ見ず、電報や電話で満鉄沿線に控える連隊や独立守備隊に出撃命令を出しました。

 その手際の良さは、まるでこの状況をあらかじめ想定していたかのようでした。

 そんな石原を見て、本庄は尋ねました。

「石原、この事件、まさかお前が仕組んだものなのか?」

「いいえ。日々の訓練の成果ですよ。私は、司令官の部下です。」

 

 石原率いる関東軍は、電光石火のごとく出撃を開始、満州の主要都市を次々に陥落していくのでした。

 柳条湖での事件は、早急に日本本土にも打電されました。

 浜口雄幸に代わって、再び首相の座についた第二次若槻礼次郎内閣は、19日午前の閣議で、これまた電光石火に「不拡大」の方針を決めました。

 しかし、この政府の意向を石原は突っぱねました。

「ここで足を止めれば、日本が国際的に非難を浴びるだけだ。」

 一方の若槻内閣も必死で説得します。

「このまま戦線を拡大すれば、アメリカをはじめ国際社会から非難を浴びるぞ。」

 このように関東軍と政府は互いに正反対の主張を展開しました。

 しかし、関東軍が戦線を拡大することは、国際社会からの非難を浴びることは明確でした。

 というのも、1928(昭和3)年、日本は田中義一内閣のもと、世界15か国とパリ不戦条約を締結しており、戦争放棄を誓っているからです。
 したがって、日本は、この一連の軍事衝突を「満州戦争」ではなく、満州事変と呼ぶようになりました。

 

 さて、政府はこんなこともあろうかと、関東軍の暴走を阻止するために陸軍参謀本部の作戦部長である建川美次(たてかわよしつぐ)を満州に派遣していました。

 建川は、石原に関東軍の撤兵を強く要請し、満州の植民地化には強く反対しました。

「石原殿、どうか満州の領有は断念していただきたいと存じます。」

 政府の意向を押し切れると踏んでいた石原らにとって、これは計算外でした。

 政府や軍中央の意向を無視すれば、満州全土の制圧は強行できても、予算を割いてもらえず、軍費や兵員、兵器の補充が不可能となります。

 そうなれば、予想される中国国民軍や張学良軍の反撃には耐えられません。

 

 こうした政府の強い反対を受け、石原は方針転換を迫られました。

 つまり、石原は、当初の目的だった満州の植民地化を断念せざるを得なくなったのです。

 

 しかし、石原にとって満州の植民地は日本の権益維持だけでなく、持論である「日本とアメリカの最終戦争」を戦うためにも必要なものでした。

 そこで、石原は満州を植民地ではなく、独立国とすることにました。

 建川は、そんな石原に尋ねました。

「石原殿、何をお考えですか。」

 石原は答えました。

「この満州の地に、多彩な民族が共栄する民主共和制の国を建国したいと思っています。」

 石原は建国におけるスローガンを掲げました。

 それは、「王道楽土(おうどうらくど)・五族協和(ごぞくらくど)」でした。
「王道楽土」とは、王による徳に基づき、統治される安楽な土地という意味です。

 また、「五族協和」の五族とは、日本人・朝鮮人・中国人(満州人)・モンゴル人・ロシア人を指し、彼らが平等に権利を持ち、エスニシティ(民族)に縛られず、共存共栄するアメリカのような経済圏のことを意味します。

 かつてアメリカはイギリスの植民地でした。それが、18世紀末のアメリカ独立戦争によって、アメリカはイギリスから独立を果たしました。

 そして20世紀初頭には、当時最先端の政治体制である民主主義の政体を布き、多民族国家で、自由な経済活動が行われている国へと成長しました。
つまり、石原は東アジアにアメリカと同じような独立国を作ることを計画したのです。
関東軍は、「王道楽土」と「五族協和」を理念として掲げたことで、昭和恐慌の不況から抜け出せない日本国民からの絶大な支持を受け、建国宣言に踏み切りました。
満州に移住すれば、豊かな生活ができる。」
満州国は当時の日本国民の「希望の地」として映りました。
満州での戦線は、日本側が優勢でした。それは日本の方がより近代的な兵器を持っていることも原因でしたが、中国側があまり大きな抵抗をしなかったことも大きな原因でした。
中国側は、関東軍の一連の軍師行動を国際連盟に提訴するつもりだったのです。
それを予想していた若槻内閣も再三の「不拡大」方針を発表。にも関わらず、関東軍はそれを黙殺し、戦線を拡大させ、次々に諸都市を占領していきました。
そして、同1931(昭和6)年11月、チチハルを占拠しました。

関東軍の暴走は政府にも責任があるのではないですか。」
野党である立憲政友会民政党の若槻内閣を批判しました。
若槻内閣は、もはや事態の収拾はつかないと判断し、同1931年12月、総辞職しました。
そして新国家の柱とすべく清朝の最後の皇帝で、天津に幽閉されている愛新覚羅溥儀(あいしんかぐらふぎ)を脱出させ、満州に迎えいれました。

翌1932(昭和7)年3月1日、満州国の建国が宣言されました。

これと同様に、石原は日本と満州の関係とは、20世紀初頭のイギリスとアメリカの関係と同じであることを国際社会にアピールしようとしたのです。
「これなら国際社会も建国を認めてくれるでしょう。」
石原はそう読んでいました。
しかし、こうした日本の強引ともいえる建国に、中国をはじめ国際社会の反発は強いものでした。

参考文献
子供たちに伝えたい 日本の戦争  皿木喜久=著 産経新聞出版
マンガでわかる  日本史    河合敦=著   池田書店