【満州事変】関東軍はなぜ満州事変を起こしたのか(後編)
こんにちは。本宮 貴大です。
この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【満州事変】関東軍はなぜ満州事変を起こしたのか(後編)」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。
戦争は究極の景気対策です。
これは大変皮肉なことですが、事実です。
戦争すれば、多くの軍隊を動かすことになります。多くの軍隊が動けば、それだけ多額のお金が動きます。軍事物資の需要も急激に伸びるため、関係業種は上がり、雇用も一気に拡大します。
戦争には、巨大な公共事業と同じような経済効果があるのです。
当時の大日本帝国は、ある意味、こういう戦争という公共事業で成長した国でした。
1894(明治27)年の日清戦争では、武器の製造や紡績業といった軍需関連の特需が起こり、戦後で得た多額の賠償金もあって経済が大きく成長しました。
1904(明治37)年の日露戦争では、賠償金を得ることが出来ず、戦費が回収できなかったことや新たに得た領土の管理費などがかさんだため、戦後は一時的に不況に陥りました。しかし、重化学や重工業はその下地を整え、大きく成長する準備が出来ていきました。
1914(大正3)年の第一次世界大戦では、欧米各国が不在の中、アジア経済を独占。かつてないほどの対戦景気に沸きました。その結果、日本は世界有数の工業国へと発展することになりました。また、連合国側に加わったことで、大日本帝国の国際的な地位を向上させ、戦後に発足した国際連盟では常任理事国5ヵ国のひとつに加わった。
このように大日本帝国の成長は戦争によって成し遂げられたといっても過言ではないのです。は切っても切れない関係にあったのです。
日本は大戦景気を経験してからおよそ10年以上にわたって長期的な不況に陥りました。
1920(大正9)年の戦後恐慌から3年後、関東大震災により膨大な不良手形(震災手形)が発生(震災恐慌)しました。
さらに、1927(昭和2)年、議会の片岡直温(かたおかなおはる)大蔵大臣の失言により、銀行の取り付け騒ぎが起きるという金融恐慌が発生しました。
これによって、民衆の生活は慢性的に苦しいものになりました。
それに輪をかけるように1929(昭和4年)、アメリカで株価が大暴落し、それが全世界に波及、世界恐慌へと発展してしまいます。
それは日本にも波及し、輸出不振に陥り、企業の倒産が相次ぎました。
さらに世界的な不況ゆえ、欧米のすぐれた商品が安価で国内に怒涛のように流れ込んできたて、国内向けの産業も大打撃を受けてします。
昭和恐慌です。
こうして大量の失業者があふれ、「大学は出たけれど・・・」という言葉も流行るくらい大学生の就職口もほとんどありませんでした。農村でも生糸の値段が暴落し、凶作がこれに重なり、娘の身売りや欠食児童が急増していきました。
欠食児童とは、弁当を持参できない児童のことですが、当時の小学校には給食はなく、この欠食児童が問題になりました。
家庭が貧しいがためにお弁当が用意できない。
弁当を持っている友達はいるのに、自分は持っていない。こうした格差には、年頃の子供達には辛いものだったでしょう。
また、「娘売ります」という看板を持った15歳~17歳の女性が映っている写真は日本史の教科書にも出ていますが、農村の女性がいわゆる売春業に売られるという状態が蔓延していました。
娘を売った家は、吉原や玉ノ井にある売春を営む店からまとまったお金が支払われます。
売られた女性は、売春宿で働くわけですが、稼いだお金は自分の楽しみのためではありません。家族が生活するためのお金です。
このように民衆は苦しい生活をしているのに、政党内閣は有効な手段がとれず、むしろ党員が汚職を繰り返すという醜態をさらしていました。
政治が悪いというのは、本当に悲惨なことです。
そうした中、国民の期待を集めたのが軍部です。そんな国民の支持を背景に、軍部は政治への影響力を強めていくのです。
このため、1931(昭和6)年に満州事変が勃発すると、不況にあえぐ国民の多くは熱狂的に歓迎しました。
これまで同様、国力が増強し、経済も大きく回復すると思っていたからです。
満州事変とは、民衆が望んだ戦争だったのです。
満州とは、中国東北部のことですが、日清・日露戦争によって日本が権益を獲得した南満州鉄道が通るこの土地には、肥沃な農地と大量の鉱物資源がありました。
満州が開発され、国力が上がれば、国が豊かになれば、失業の心配もなくなり、農村での娘の身売りもなくなる。
貧窮にあえいでいた当時の人々はそう考えていました。
貧困(民衆の窮乏)が戦争を肯定していくというのは、本当に皮肉なことですが、世界がまた戦争を求める時代がやって来たのです。
しかし、当然ですが、戦争には大きなリスクがあります。
多くの兵士が戦場に駆り出されることで、国内の労働力が減少するため、経済も一時停滞します。
それでも最終的には勝てばよい。
最悪なのは、負けた場合です。
戦争はたいがいの場合、公債という国の借金でまかなわれます。
戦争に勝てば、この借金は、敗戦国からの賠償金によって返済されます。しかし、負けた場合、国民が買った公債は紙くず同然となっていまいます。そうなれば、国の経済は壊滅的なダメージを負うことになります。
満州事変当時の日本の国民も、そうしたことは十分承知していたはずです。
しかし、戦争反対を主張する者は決して少なくありませんでした。
なぜならば、当時の大日本帝国には、参戦した戦争にはことごとく勝利に収めたという「不敗神話」がありました。日本が戦争に負けるとは思えなかったのです。
以上、2回にわたって関東軍はなぜ満州事変を起こしたのかについてみてきましたが、いかなる理由があっても、日本人が自分達の土地でないところに国をつくろうとしたのですから、「侵略」という側面があったことは否めません。
しかし、世界恐慌が起き、欧米のブロック経済から閉め出された日本が、自国の経済を守るために満州を「フロンティア」としてつくろうとしたのです。
関東軍高級参謀の石原莞爾は、アメリカとの最終戦争に備えて満州の開発は必須としていましたが、彼は東アジアにアメリカと同じような多民族国家を創り、各民族が自由に経済活動をできるような空間を作ろうとしたのです。
これは日本人、朝鮮人、中国人(満州人)、モンゴル人、ロシア人が平等の権利を持ち、エスニシティ(民族)に縛られず、共存共栄する経済圏です。
そういう目的によって満州事変は行われたのです。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
魂の昭和史 福田和也=著 小学館文庫