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【満州某重大事件】張作霖はなぜ殺されたのか【河本大作】

 こんにちは。本宮 貴大です。

 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【満州某重大事件】張作霖はなぜ殺されたのか【河本大作】」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 

 満州中国東北部)の中心都市のひとつ、奉天(現:瀋陽)には、戦前から何本かの鉄道が通っていました。

 中でも幹線といえば、日本が運営する南満州鉄道(満鉄)と、北京・奉天を結ぶ中国側経営の京奉線でした。満鉄は、日本が日露戦争によってロシア帝国から譲渡された鉄道でした。

 その両線がクロスしている地点が奉天市内にあり、上を南北に満鉄線、下を東西に京奉線が走っていました。

 1928(昭和3)年6月4日午前5時23分、この交差地点で事件が起こりました・・・・。

 ということで今回は、満州某重大事件の経緯についてふれながら、張作霖はなぜ殺されたのかを見てきたいと思います。

 

 蒋介石率いる国民革命軍は、中国の全国統一を目指して、広東(かんとん)から長江(ちょうこう)流域を北上し、各政権を制圧していきました(北伐)。

 一方で中華民国内では民族運動も盛り上がり、蒋介石率いるこ国民革命軍は、外国領事館を襲撃するなどの猛威を振るっていました。かつて中国が外国との間で結ばされた「不平等条約」を破棄し、植民地や租借権で失った利権を回復しようというのです。

 これに対し、田中義一内閣は、1927(昭和2)年に中国関係の外交官・軍人を集めて東方会議を開き、南満州鉄道をはじめとした満州における日本の権益を武力によって守る方針を固めました。

 翌1928(昭和3)年、田中内閣は、当時北京に拠点を置いていた「奉天派」の軍閥である張作霖を支援し、国民革命軍に対抗するため、日本人居留民の保護を名目に、3次にわたる山東出兵を実施しました。第2次出兵の際には日本軍は国民革命軍とのあいだに武力衝突を起こし、一時、済南城を占領しました(済南事件)。

 

 山東半島の済南で日本と中国が衝突している頃、蒋介石率いる国民革命軍(北伐軍)は北上を続け、張作霖と全面衝突する可能性が高まっていました。

 この時、田中首相は友好的な関係にある張作霖蒋介石の軍勢に敗れて「奉天派」の軍閥が総崩れになることを恐れていました。

 張作霖蒋介石同様、かつて中国が外国との間で結ばされた「不平等条約」の破棄を国民に訴えて人気を得ていたからです。

 したがって、もし満州全域が蒋介石の手に落ちれば、日本はもう二度と満州に手出しできなくなるかも知れないと危惧していたのです。

 こうした思惑から、田中首相は、中国公使の吉沢謙吉を通じて張作霖に以下のような提案をしました。

吉沢「北京はもはや北伐軍に押さえられたも同然です。いったん、北京を蒋介石に明け渡し、本拠地である満州奉天に帰還して態勢を整えてはどうでしょうか。」
これに対し、張作霖は答えました。

張「我が政権はこれまでなのか・・・・・。」

吉沢「いえ。満州は張元帥の領土です。田中総理は満州の権限は保証するとおっしゃてます。」

張「それは安心した。しかし、北伐軍が満州にも攻め入ってきたらどうする?」

吉沢「蒋介石はそこまでやらないでしょう。」

張「そんな保証はどこにあるのだ。」

吉沢「いや、させません。我が国がお守りします。」

 田中首相はかつて、陸軍の参謀将校として日露戦争に従軍していた時、ロシアのスパイとして日本軍に捉えられ、処刑されかけていた張作霖を助けたことがあり、個人的な交友関係を築いていました。

 強力な戦力をもつ保持する蒋介石の国民革命軍と戦っても、勝てる気がしなかった張作霖は、田中首相の勧めを受け入れ、1928年6月4日早朝、豪華な専用列車に乗り込んで北京を後にしました。

 

 こうした田中首相の中国融和政策に冷水を浴びせる事件が起きるのでした・・・。

 

 日本軍の満州での出先機関である「関東軍」司令官の村岡長太郎中将は張作霖に不信感を持っていました。

村岡「まったく田中首相は、張作霖を買いかぶりすぎている。奴が北伐軍を阻止できるものか。」

 さらに、村岡の部下で関東軍高級参謀の河本大作(こうもとだいさく)大佐も言いました。

河本「よしんば阻止しきれたとしても、張が我らの言う通りに動く保証はありません。」

村岡「そうだ。日本軍の援助を受けながら我々の言うことを無視し始めたではないか。」

河本「裏では英米と連絡を取りあって、排日運動をけしかけています。中将、これはやるしかありませんぞ。」

村岡「満州は我が関東軍が制圧する!張作霖。討つべし!」

 

 張作霖を個人的に信用していた田中首相とは異なり、関東軍の上層部は、「張作霖は日本を裏切って欧米に寝返った」とみなしており、「彼の奉天帰還を容認すれば、今後の満州利権をめぐる交渉で日本が不利になる」との独断に基づき、田中首相の許可を得ることなく、張の暗殺計画を企てていたのでした。

 

 事件は満州の首都・奉天市から4キロぐらい外れにある奉天城の手前にある満鉄線と奉天線のクロス地点ので起こりました。

「目標確認!」

「よぉぉし。今だ!」

ズドオオオオオン

 1928(昭和3)年6月4日午前5時23分、張作霖を乗せた京奉線の専用列車が鉄道の立体交差に仕掛けられた爆薬で吹き飛ばされ、京奉線の18両編成のうち、数両が大破しました。

 張作霖は重傷を負い、婦人宅に運ばれましたが、2時間後に死亡。

 いわゆる張作霖爆殺事件です。

 なぜ関東軍張作霖を「裏切り者」として殺害したのでしょうか。

 キーポイントは日本が利権を有する南満州鉄道です。

 張は日本側の強い反対を無視して、満鉄に並行する鉄道路線を次々に敷設したことです。

 そう、張作霖も日本から満州の権益を奪還しようと考えていたのです。

 当時、奉天総領事という地位にあった吉田茂も、張作霖を引退させる必要があると考えていました。張は日本の言うことを聞かなくなったばかりでなく、イギリスとの関係を深めながら、満州地域内の税制や貨幣政策などを独自に行いはじめており、その中には日本の利権に反するものもありました。


 陸軍も外務省も、張作霖にはもはや「利用価値」はなくなったと考え、早急に排除すべきとの認識が高まっていました。

 これらの事情から1927(昭和2)年頃から日本の新聞は「満州における日本の権益が不当に侵害されている」と書き立てて「反中国感情」を煽り、それを受けて満州

 中国人側も「排日(反日)運動」を展開するという悪循環が出来ていました。

そのため、張作霖が殺されたという城劇的な事件が報じられると、現地ではすぐに、「殺したのは日本軍に違いない」として排日運動はさらに高まり、日中関係は決定的に悪化しました。

 関東軍はこの事件を中国国民軍の便衣隊の仕業であると偽装しました。
(便衣隊・・・軍服を着ていない私服のゲリラ部隊)

 事件は日本の田中義一首相のもとにも届きました。

 しかし、一体誰が何のために爆破したのかわからない。

 真っ先に疑われたのは、関東軍の高級参謀の河本大作大佐でしたが、本人は否定。
しかし、間もなく、田中首相は現地からの極秘情報で、事件の犯人は関東軍の河本大作大佐率いる実行部隊であることを知ります。

「なんじゃと!関東軍張作霖を殺しただと!?誰がそこまでやれといったのだ・・・・・・。」

 

 中国との関係悪化を恐れた日本政府は適切な対応に迫られます。

 元老の西園寺は実行部隊である河本らに対し、断固たる処分を求めて、田中首相を進言、田中自身も同1928(昭和3)年12月24日に昭和天皇に上奏しました。

「事件に関与したのは、どうも帝国陸軍の仕業だとされています。事実を確認し、そうであるならば、厳罰に処分いたします。」

 田中首相は河本らを軍法会議にかけることを昭和天皇に約束しました。

 しかし、こうした田中首相の行動は突出であるとして陸軍の現役組織は軍法会議の開催に強く反対し、次第に首相と陸軍との関係悪化が懸念されるようになりました。

 一方、野党民政党もこの事件を「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」として田中内閣に責任を追及しました。

 野党議員は言います。

満州某重大事件は内閣が関東軍を制御できなかったことにあります。田中首相、ここは責任を取って、辞任されてはいかがですか?」

 

 一方、指導者の張作霖が暗殺された満州では、彼の後継者争いに勝った息子の張学良(ちょうがくりょう)が後を継ぎます。張学良は日本に失望し、中国国民党支配下に入り、同1928(昭和3)年12月29日、国民政府の旗を掲げ満州全土を翻させるという易幟(えきし)を行いました。

 こうして満州における日本人と中国人の対立はさらに深まりました。

 

 翌1929(昭和4)年、陸軍からの反発を受けた田中内閣は 張作霖爆殺事件については真相を明らかにせず、行政処分で済ませることにした。田中首相は陸軍出身の政治家でしたが、現役を退いていたため陸軍内を抑えることが出来ず、閣内にも田中の考えに反発する声が強かったのです。

 

 しかし、田中が事件をうやむやにしたことで、昭和天皇は怒りを露わにしました。

「田中殿、これでは話が違うではないか。」

 翌1929(昭和4)年7月2日、田中は昭和天皇から激しく叱責されました。

そんな田中首相は、昭和天皇からの不信を買い、辞表の提出を求められました。

直後、田中内閣は総辞職しました。

狭心症の既往があった田中に天皇の叱責はこたえた。総辞職から3か月後、田中は急死。巷では自殺ではないかとささやかれています。

 

 一方、関東軍の河本大作大佐は、同1929(昭和4)年6月に退役処分とされましたが、陸軍省や外務省には責任の追及がされず、事件は「河本大佐の個人的な過失」として秘密裏に幕引きがされました。

 この事件によって、陸軍出身の田中首相ですら陸軍をコントロールできないことを知らしめることとなりました。

 西園寺が希望をたくしたのは、野党民政党浜口雄幸でした。浜口内閣は政友会の田中内閣との差異を強調するために対中協調政策をとるのでした・・・。

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

大日本帝国の興亡4 満州と昭和陸海軍 Gakken
教科書よりやさしい日本史  石川晶康=著   旺文社
もういちど読む山川日本史  鳴海靖=著  山川出版社
子供達に伝えたい 日本の戦争  皿木喜久=著  産経新聞出版
さかのぼり日本史③昭和~明治 御厨貴=著  NHK出版
5つの戦争から読み解く日本近現代史 山崎雅弘=著 ダイヤモンド社