【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく(後編)
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく(後編)」というお話です。
1935年以降、中国では関東軍によって、華北を国民政府の統治から切り離して支配するようとする華北分離工作が工作と進められました。
(華北・・・チャハル、綏遠(すいえん)、河北(かほく)、山西(さんせい)、山東(さんとう)の5省を日本では華北と呼びました。)
関東軍は華北に傀儡政権として冀東防共(きとうぼうきょう)自治委員会を樹立し、分離工作を強め、翌1936(昭和11)年には日本政府も華北分離を国策として決定しました。
これに対し、中国国民のあいだでは抗日救国運動が高まり、同年12月の西安事件をきっかけに、国民政府は共産党攻撃を中止し、内戦を中止し、日本への本格的な抗戦を決意しました・
日本国内では、政党内閣が途絶えた後、斎藤、岡田、広田、そして林銑十郎(はやしせんじゅうろう)と、弱い内閣が続きました。最後の元老・西園寺公望が希望を託したのは、藤原氏から分かれた摂関家の1つ、近衛家の当主・近衛文麿でした。
こうして1937(昭和12)年6月、第一次近衛文麿内閣が成立しました。
その1か月後の7月7日、盧溝橋事件が勃発しました。これは小規模な衝突でしたが、これが解決しないうちに、8月、第二次上海事変が勃発し、大きな戦争に発展しました(日中戦争)。
内閣は国民精神総動員運動などで国民の協力を促します。
一方で、中国での戦争は拡大します。9月には、中国で第二次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が結成されて、徹底抗戦が始まります。
年末には日本軍は上海を占領し、さらに首都の南京を占領します。このとき、いわゆる南京大虐殺が起こりました。
戦争は泥沼化し、終結の手がかりを失った近衛は、1938年1月、第一次近衛声明で、「国民政府を相手とせず」と共産主義者と合体した国民政府とは交渉しないと宣言します。
国民政府は、重慶(じゅうけい)に拠点を移し、ここを首都とする、重慶政府として、抗日戦争を続ける姿勢を示します。
近衛は、11月にこの戦争の目的は、「東亜新秩序」を作ることだと第二次近衛声明(東亜新秩序声明)を出し、12月に第3次近衛声明で近衛三原則(善隣友好・共同防共・経済提携)を示しました。
一方、近衛は秘密裏に、重慶政府の中でも反共的な汪兆銘(おうちょうめい)を重慶に脱出させ、翌年早々に総辞職しました。
次の平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣のもとで、日独防共協定を結んだドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んでしまい、お互いに攻撃しないと約束します。
これで広田内閣以来の親独政策が根拠を失い、平沼は「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職してしまいました。
平沼内閣の次に阿部信行内閣が登場してすぐ、緊張状態にあったヨーロッパ情勢が遂に爆発しました。
1939(昭和14)年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻を開始すると、同年9月3日、イギリス、フランスはただちにドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまりました。
しかし、日中戦争で経済的に苦しい平沼内閣は、ヨーロッパでの戦争には不介入を声明します。次の米内光政内閣もアメリカとの戦争を避けるため、大戦への関与を回避します。
ところが、ドイツ軍がフランスを攻略し、パリが陥落します。この情報が伝わると、日本もドイツと同じファシズム体制をとるべきだと、軍部や右翼を中心に新体制運動が過熱しました。
陸軍は、軍部大臣現役武官制度を使って、米内内閣を総辞職に追い込み、新体制運動に参加した近衛文麿を担ぎます。1940年7月、第二次近衛文麿内閣が発足すると、陸軍は仏領インドシナ半島北部に軍を進め、9月には日独伊三国同盟を締結します。
一方で近衛は満州帝国をめぐる日米対立を解消すべく、アメリカの国務長官ハルと日米交渉を開始しました。しかし、陸軍は1941年7月、仏領インドシナ半島南部に軍を進め、対してアメリカは、日本への石油輸出を全面禁止を通告しました。
資源のない日本は、石油の備蓄が尽きる前に、戦争で決着をつけざるを得ないと考える立場に置かれます。
同1941年9月6日、天皇出席のもとにおける御前会議で、日米交渉を継続するが、対米戦争を決意することが決定されます。
結局、日米交渉は進展せず、近衛は内閣を投げ出し、対米開戦を主張する陸軍大臣、東条英機に政権を渡します。
東条は反米的な内閣とみなしたアメリカは「日本は中国・仏印から撤退せよ」と、事実上の最後通牒(ハル=ノート)を示します。
御前会議は、この間の経緯から、日本の非を認めるような条件を受け入れるわけにはいかず、開戦を決定します。
1940年の人々の生活は、「ぜいたくは敵だ。」とか「欲しがりません、勝までは。」をスローガンに様々な規制が発布されました。
ぜいたく品の製造・販売を禁止する七・七禁令。
砂糖、マッチなどの消費を制限する切符制。
翌1941年には、米などの穀物が配給制になり、衣類にも切符制が敷かれるなど生活必需品への統制も極端に強まりました。
人々の生活はどんどん貧しくなっていきます。
子供達は、空襲を受ける都市を離れ、田舎に移住する学童疎開も始まります。
青年男子は次々に戦場に出払い、労働力が不足したため、中学生以上の学生や未婚女性を中心に、工場などで無償労働を強制されました(勤労動員、女子挺身隊)。
従来は徴兵を猶予される大学生も、戦争の泥沼化とともに、文系は猶予を停止され、徴兵されるようになります(学徒出陣)。
1941(昭和16)年12月8日、海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、陸軍もマレー半島への上陸を決行、対米宣戦布告に至りました。
こうして日本は第二次世界大戦に加わり、太平洋戦争が勃発しました。政府はこの戦争を大東亜戦争と名付け、大東亜戦争の建設が目標がとしました。
当初は日本軍のほぼ連勝でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦の敗北で戦局が逆転し、日本は次々に敗北を喫します。
1944年7月、サイパン島が陥落します。サイパン島が陥落したことで、米軍は日本本土への空襲が可能になりました。これに対し、東条英機内閣は責任を取って、総辞職します。
次の内閣は陸軍系統の小磯国昭(こいそくにあき)内閣ですが、戦争終結の道筋を見つけることは出来ませんでした。
1944年10月のレイテ沖海戦が敗北に終わると、陸軍はもはや本土で戦うしかないと、本土決戦を決意します。
アメリカは、大型の長距離爆撃機B29を次々に戦場や本土に送り込み、爆撃を開始。
翌1945年3月9日から10日にかけて東京大空襲が起こり、一晩で10万人の犠牲者を出す甚大な被害を東京にもたらしました。
さらに、同1945年4月、沖縄本島に米軍が上陸し、沖縄戦が始まりした。この戦いは、一般県民、鉄血勤皇隊、ゆめゆり隊などの多くの被害を出した悲惨な戦争でした。
こうした日本領土が戦場になったことで、小磯内閣は政権運営の自信をなくし、総辞職します。
後を継いだのは鈴木貫太郎でした。
5月、ドイツが降伏し、6月には沖縄戦も終わります。連合国側は7月にポツダム宣言を発し、日本に無条件降伏を要求しました。
日本側は、万世一系の天皇が支配する体制を守ること(国体護持)にこだわり、これを受け入れませんでした。
しかし、これが新たな悲劇を招く結果となりました。
8月9日、広島に原子爆弾を投下され、8日にはソ連が抗対日参戦します。そして9日には、2つ目の原子爆弾が長崎に投下されました。
「もはや、降伏するしかない・・・・。」
遂に天皇が判断を下され、ポツダム宣言の受諾が14日に決定されます。15日には天皇の肉声の録音が玉音放送としてラジオから流されました。驚くべきことに人々はこのとき、はじめて戦争が敗戦に終わったことを知ったのです。
「日本は神の国だから、神風が吹けば必ず勝利する。」
玉音放送が流れるそのときまで、政府や軍部は人々を欺き続けてきたのです。
以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうござました。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
アナウンサーが読む 詳説山川日本史 笹山晴夫=著 山川出版社
教科書よりやさしい日本史 石川昌康=著 旺文社