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「蘇我氏VS物部氏】この対立は宗教戦争ではなく、権力闘争だった!?

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「蘇我氏VS物部氏】この対立は宗教戦争ではなく、権力闘争だった!?」というお話です。

 今回の前半記事では、「蘇我氏物部氏の対立構造」を、後半記事では「両氏の対立は実は権力闘争だったこと」についてみていこうと思います。

インドから中国に伝わった仏教は最先端の思想として日本列島にも歓迎されました。しかし、そんな仏教の受容をめぐって蘇我氏物部氏が対立。戦いは蘇我氏の勝利に終わり、日本は本格的な仏教の受容に乗り出します。日本はなぜ、仏教を取り入れたのでしょうか。

 インドで起こった仏教は、西暦67年に中国(後漢)に伝来し、その後、384年に朝鮮半島百済へ伝わり、6世紀半ばに百済聖明王(せいめいおう)によって、日本列島にもたらされました。当時は29代の欽明(きんめい)天皇の御代でした。仏教が公伝したのは、538年ですが、これは公伝であり、朝鮮からの渡来人のあいだでは、すでに私的に仏教が崇拝されていたのです。

 公伝してしばらくのあいだ、朝廷は仏教を容認しませんでした。仏教の受容をめぐって、当時の日本の代表政権であるヤマト政権内の有力者間の対立が起こり、政権内が不安定な状態になったのです。

 その有力者の対立こそ、蘇我氏物部氏の対立でした。
 
 ここで蘇我氏物部氏の対立構造を表で確認してみましょう。

蘇我氏 物部氏
崇仏派 廃仏派
新興勢力 旧勢力
渡来人を配下に勢力拡大 元・日本最大の豪族
大臣(経済関係の最高責任者) 大連(軍事・宗教の最高責任者)
積極的改革 現状維持
日本海勢力 瀬戸内海勢力

 蘇我氏は言いました。
「西の諸国は仏法に奉じている。仏法はもはや最先端な思想。我が国だけがそうしないわけにはいかない。物部氏は、国神の名を借りて、国を乱そうとする者だ!」

 これに対し、物部氏も言いました。
「我が国にはすでに天地に180の神がいる。蘇我氏は国神に背き、外国の神(仏教)を礼拝している。それが祖先神の怒りを招き、疫病を流行らせたのだ。」
 物部氏は仏像を捨てるなど、仏教を弾圧しました。対する蘇我氏は、神道など日本古来の思想の弾圧をしませんでした(後述)。

 仏教の受容推進派の旗頭である蘇我氏は、渡来人と結びつきを積極的に強めることで仏教勢力の拡大を図りました。仏教とは、当時、最新の知識教養であり、蘇我氏とは、いわば開明派の新興勢力なのでした。

 時の主で、大臣(おおきみ)というヤマト政権内の経済関連の最高責任者であった蘇我稲目(そがのいなめ)は、仏教の導入が大陸の先進文化や知識人の獲得につながり、ひいては、ヤマト政権の経済力とマンパワーを強化すると確信していました(崇仏派)。

 一方、仏教受容に反対する物部氏は、527年に勃発した磐井の乱を鎮圧した忠臣・物部麁鹿火(もののべのあらかい)を祖先に有する一族で、いわば日本最大の豪族です。以来、物部氏は、ヤマト政権内の軍事・宗教を司る要職に就いており、新興勢力である蘇我氏に対し、旧勢力として対立していました。

 時の主で、大連(おおむらじ)というヤマト政権内の軍事と宗教の実権を握る最高責任者であった物部御輿(もののべのおこし)は、日本古来の神道を重んじる立場から仏教受容に反対する立場を取りました(廃仏派)。

 つまり、蘇我氏積極的な改革をとなえるのに対し、物部氏は、国家体制の現状維持を主張したのです。

 このおり、天皇は現段階での公的な仏教崇拝は認めぬが、蘇我氏の私的な仏教崇拝は許可するという中立的な裁定を下しました。

 しかし、政権内の両氏の対立は、稲目、尾輿の一代に留まらず、その子の代までに及んでいきます。

 これが稲目の子である蘇我馬子(そがのうまこ)と、尾輿の子である物部守屋(もののべもりや)の対立です。

 585年、敏達天皇崩御すると、蘇我馬子用明天皇を推し、正式に天皇として即位させました。天皇家蘇我氏の言う通り、仏教の受容に賛成するようになったのです。

 すると、皇位継承を欲する穴穂部皇子用明天皇の異母弟)は、もう一つの勢力である物部守也を頼るようになりました。

 こうして政権内の両氏の対立は、天皇家の後継問題を巻き込み、一大政争にまで発展しました。

 この二氏の諍(いさか)いは、いよいよ戦乱となります。

 587年、用明天皇崩御した際、馬子は先手を打って速やかに軍を派遣し、遂に物部氏との決戦となりました(丁未の乱)。
31代用明天皇の子である聖徳太子(しょうとくたいし)は、この戦いの勝利の祈願として霊木として白膠木(ぬりで)を切り、四天王像を彫り、髪をたぐり上げたと言われています。

馬子「皇子、御仏(みほとけ)のご加護は我にあり。」

太子「馬子よ、我らは必ず勝ちます。行きましょう。」

 この丁未の乱で、若干14歳の聖徳太子は、敵勢の矢が全く当たらないほどに俊敏な騎馬をこなし、神秘的な活躍をしたとされています。

 この戦いに勝利した馬子は、穴穂部皇子とその派閥、そして守屋を殺害してまいました。馬子は新たに崇峻天皇を擁立し、朝廷内で力を持つようになりました。これにより、日本は本格的な仏教の受容を開始していきます。

 なぜ、天皇家は仏教受容に賛成するようになったのでしょうか。なぜ、日本は仏教の受容に積極的になったのでしょうか。

 実は、この頃、東アジアに超大国が出現したことで、情勢が緊張状態に陥っていたのです。

日本にとって、仏教による中央集権化は早急な課題でした。というのも、中国に隋という強大な統一国家が誕生したのです。蘇我氏物部氏の対立は宗教戦争ではなく、次の政権運営者を決める権力闘争だったのです。

 592年、崇峻天皇が何者かに暗殺されました。

 聖徳太子蘇我馬子に問い詰めました。

太子「馬子、崇峻天皇が殺されたとは、真(まこと)か。」
馬子「ええ。なんでも暗殺だそうだ。・・・恐ろしい。」
太子「・・・・馬子、何か隠しているのか?」
馬子「いいえ。とんでもございません。」

 物部守屋を倒した蘇我馬子は軍事・経済・宗教の権限を一手に掌握し、ヤマト政権の最高権力者となりました。
 しかし、馬子が即位させた崇峻天皇が馬子に敵意を示し始めると、592年、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたえのこま)に崇峻天皇を暗殺させてしまいました。

 皇位崇峻天皇の妹である推古天皇が継ぎました。日本初の女帝です。
 用明天皇の皇子であった聖徳太子は、叔母の推古天皇を補佐する地位に就きました。ここに、蘇我馬子推古天皇聖徳太子による仏教を思想的格とした天皇を中心とした国家体制の構築が始まったのです。

 こうした中央集権体制を整えようとした背景には、東アジア情勢の大変動があったのです。

 588年、隋の文帝(楊堅)は50万を超える大軍勢で中国大陸を南下。翌年には陳王朝を滅ぼして中国大陸を統一しました。

 これにより、西晋滅亡以来、五胡十六国南北朝など273年間も続いた王朝乱立時代が終結しました。

 これにより日本や朝鮮半島を含む周辺諸国は、東アジアに出現した超大国・隋との外交関係を模索する必要に迫られました。

 臣下の礼をとり、超大国の庇護下に入るか?

 それとも、庇護下には入らず、自主独立の道を歩むか?

 朝鮮半島の国々は、次々に柵封されていきました。

 隋の皇帝から詔や称号をもらい、国王に任命してもらうことを柵封といいますが、つまり、超大国・隋の庇護下として朝鮮半島の国々は、君臣関係を結んだのです。

 これに対し、ヤマト政権(日本)は、超大国・隋と対等に交流できる国家の建設するという自主独立路線を選びました。

 このように蘇我氏の仏教導入は、世界情勢の変化に対応することを狙った見事な作戦だったのです。そのためには物部氏を倒し、自らが政権を握り、日本を中央集権国家へと導いていかなければならなかったのです。

 忘れてはならないのは、物部氏は仏像を捨てるなど、仏教を弾圧したのに対し、蘇我氏物部氏を滅ぼした後、神道の潰しにかかっていないことです。つまり、両氏の対決は、宗教戦争ではなく、物部氏から政権を奪うための権力闘争だったのです。

 実は蘇我氏物部氏の対立は、3世紀に勃発した日本海と瀬戸内海の主導権争いにさかのぼります。

 物部氏は大阪や吉備(岡山県)を地盤とする瀬戸内海の覇権を握る勢力でした。これに対し、蘇我氏は出雲で盛行していた方墳を造営するなど日本海の覇権を握る勢力だったのです。

 日本海勢力の蘇我氏と、瀬戸内海勢力の物部氏の主導権争いは、いったんは物部氏の勝利に終わりました。それが6世紀になって、日本海勢力の蘇我氏が巻き返したということです。

以上。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
本宮貴大でした。

参考文献
ビジュアル図説 日本史 歴史文化探訪の会=編著 日本文芸社
早わかり日本史   河合敦=著  日本実業出版
マンガで一気に読める! 日本史 金谷俊一郎=監修 西東社
雑学3分間 古代史  関裕二=著 PHP
図解 オールカラー 古代史    成美堂出版