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【織田信長1】なぜ信長は天下統一を目指せたのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【織田信長1】なぜ信長は天下統一を目指せたのか」というお話です。


信長は他のどんな戦国大名よりも‘情熱‘に満ちた戦国大名でした。その情熱はどのようなものだったのか。その情熱は信長の原動力となり、着実に粘り強く、勢力を広げ尾張の小大名から全国を飲み込むほどの大大名に膨張していくのでした・・・。


 室町時代後期、下剋上の風潮が激しくなり、各地に戦国大名が登場し、国の奪い合いが始まりました。世はまさに「戦国時代」です。

 

 東北の国人から成り上がった伊達氏。

 越後(新潟)の守護代から戦国大名に成り上がった上杉氏。

 堀越公方を追放し、関東一円を支配するようになった北条氏。

 摂津(大阪)の守護代から戦国大名に成り上がった三好氏。

 安芸(広島)の国人から中国地方で勢力を強めた毛利氏。

 甲斐(山梨)・信濃(長野)の守護大名から戦国大名に転身した武田氏。

 

 そして、尾張(愛知)の守護代から戦国大名に成り上がった織田信長がいました。

 

 この頃、戦国大名達の目標は領土拡大という私欲のための争いでした。しかし、この中で、天下に最も近かったのは尾張の信長でした。信長の野望は他の大名とは異なり、天下を統一することでした。

 なぜ、尾張の一大名にすぎず、身分も低い、成り上がりの織田信長が天下統一を目指せたのでしょうか。

「信長にはケタ外れの行動力があったからだ。」

「迅速な決断力と、明確な指示が部下に出来たからだ。」

「生まれながらに天才的な才能を持っていたからだ。」

 いろいろあると思います。そしてこれらの仮説はすべて正しいでしょう。

 しかし、これら全ての原動力となっているものが信長にはありました。

 それは情熱です。

 信長には他のどんな戦国大名よりも強い情熱があったのです。

 ここでいう情熱とは、やる気に満ちた人のことを言います。もっというと、結果に対してやる気を出す人ではなく、行動に対してやる気を出す人のことを言います。

 例えば、将来の夢を決めるときに、上手くいきそうかどうか、もしくは儲かりそうかどうかで決める人がいます。これは結果に対してやる気を出す人の考え方です。

 本心では、「将来は小説家になりたい!!」と思ったとします。

 結果に対してやる気を出す人だと、すぐに頭の理屈で考えてしまいます。

「いや~。いまどき小説家なんて、食えない職業の典型だよな。」

 と言って、せっかく沸き上がった情熱を自ら冷ましてしまいます。

 一方、行動に対してやる気を出す人は、こう考えます。

「小説を書いているときが最も熱中できる。上手くいくまで続けよう。」と。

 将来の夢を叶えるには、結果が出るまで情熱あふれる行動を続けていかなくてはなりません。

 つまり、結果に対してやる気を出す人だと、何も夢を叶えることが出来ません。

 なので、信長以外の他の大名はこう考えたのです。

「いや~。全国(天下)を平定するなんて、絶対無理だよな。」と。

 しかし、信長は、行動に対してやる気を出す人だったので、こう考えました。

「天下平定を目指して頑張っているときが最も熱中できる。天下統一を達成するまで続けよう。」

 そんな信長の情熱は行動のガソリンとなって、その情熱から信長の伝説として語られている天才的な戦略や独創的なアイディアを生み出したのです。信長の夢や理想に対する「情熱」は他のどんな戦国大名よりも強いものでした。

 そんな信長の‘情熱‘はどのようにして形成されたのでしょうか。


「3つ子の魂100」までという言葉がありますが、信長が3歳までに受けた英才教育は、信長が生涯にわたって尽きることのない情熱を生み出し、その情熱が信長の天才的な戦略や画期的なアイディア、そして領民からの圧倒的な支持を得ることが出来たのです。

 1534年、戦国時代のさなか、織田信長尾張守護代織田信秀の三男として名古耶(なごや)城で生まれました。

 信長は生後、0歳から3歳までのあいだに英才教育を施されました。

 教育といっても、特別な知識やスキルのようなものではなく、信長が欲しいと思うものがすべて与えられただけです。

 泣きたい時に泣き、おっぱいを飲みたい時に飲ませてもらい、寝たいときに寝かせてもらい、抱っこしてほしい時に抱っこさせてもらい、走り回りたい時に走り回らせてもらったりと、信長が望むものはすべて満たされました。

 「3つ子の魂100まで」という諺を聞いたことがあると思います。これは0歳から3歳頃までの間に受けた教育によって形成された性格や適性は100歳になっても根底は変わらないという意味です。

 欲望のままに生きてきた3歳の信長の心にはあることが刻まれました。それは・・・

「欲しいものは望めば何でも手に入る。余は特別な存在じゃ。」

 信長は生涯にわたって、ケタ外れの行動力や決断力を発揮していきます。それは信長が3歳までに形成した「自分の欲望は満たされることが当たり前なのだ。」とする考えがその原動力になっています。そういう意味では彼が3歳までに受けた教育は‘最高の英才教育‘といえるでしょう。

 そして父・信秀からもこういわれ続けていました。

「お前は賢くて良い子じゃ。お前は領民達の希望となれ。すべてを照らす日の光のように人々に活力を与えるのじゃ。」

 そんな信長はどんどん成長していき、吉法師とよばれた少年時代、「尾張のうつけ者(バカ者)」と言われるようになりました。

 ボウボウと伸ばしたものを藁で結び、腰帯には瓢箪(ひょうたん)だの燧(ひうち)石の袋だの、いくつもぶら下げている。

 そして馬上で、餅だの柿だの、人目も構わず喰い散らかし、それを恥とも思わない異様なふるまいを見せました。

 欲望のままに生きる少年・信長は、はみだし者として織田家から軽んじられてきました。

 

 そんな少年・信長がいつも口癖のように言っていたことがあります。

「我こそは神仏なり。いずれこの世の主となり、莫大な富と名声を手に入れようぞ。」

 これを聞いた織田家の老臣達は嘲笑しました。

「またいつものがはじまったよ・・・・・・。」

「あんな傲慢な子が我が織田家を継ぐのか・・・・。」

「大丈夫。あの子はまだ若い。世間知らずなのですよ。いずれ現実というものがわかってきますよ。」

 戦国時代とは守護大名の統治から、戦国大名の統治へと移り代わった時代です。室町幕府の体制下では、尾張守護大名三管領家の一つの斯波家であり、その守護代織田家でした。

 その織田家には2つの流れがあり、上四群(かみよんぐん)は織田伊勢守家(おだいせのもりけ)が、下四群(しもよんぐん)には織田大和守家(おだやまともりけ)とそれぞれ尾張の南北半国ずつを支配していました。

 大和守家のその下には、同じ織田姓の家老が三家あり、信長の家系である織田弾正家(おだだんじゅうけ)はその三家のひとつでした。

 どれもこれも織田姓なので、ややこしいですが、要するに信長の家系はごく限られた地域を支配する豪族程度の家柄であり、決して高い身分ではありませんでした。

 身分や家柄が重視される当時において、尾張の小大名に過ぎない信長が全国のトップに君臨するなど、全く荒唐無稽な夢であり、老臣達を呆れさせました。

 しかし、信長はこの当時から、つまり、天下人になるずっと前からすでに天下人になったつもりで振る舞っていたのです。

 大きなことを成し遂げる人物によく見られる傾向として、「未来完了形」の発想や生き方があげられます。未来完了形とは、未来のことをまるでもう達成しているかのように考え、そして振る舞うことです。成功者のように考え、成功者のように行動する者が、本当に成功する。成功者は若い頃から「成功している未来」をリアルに想像しているのです。

 

 信長の家系が本拠としていた津島は、伊勢湾に通じる良港を支配していおり、商品流通が盛んになるにつれ、経済力を増していきました。それを基盤に信長の父・信秀は勢力を広げ、主君の織田大和守家だけでなく、守護大名の斯波家も圧倒する尾張の一大勢力となりました。

 そして1547年、14歳になった信長は、初めて戦いに出るようになります。しかし、この年は父・信秀にとって大変は年であり、美濃の斎藤に攻め入るも斎藤道三に惨敗、岡崎を攻めても松平宏忠(徳川家康の父)に敗れています。

 信秀は窮地に立たされました。

 そして、このタイミングで‘あの大名‘も攻め入ってくるようになりました。

 駿河今川義元です。信秀が強大なライバルになる前に、一泡吹かせておきたかったのです。

 1549年3月、信秀はこの窮地を打破するべく、斎藤道三の娘・濃姫を信長に嫁がせ、いわゆる政略結婚によって斎藤氏と同盟を結びました。

 しかし、その2年後の1551年、信秀は流行病により急死してしまいました。45歳でした。

 信秀の死後、19歳になった信長は家督を継ぎますが、1554年、斎藤道三が息子の龍興と争って敗死。織田家はその後ろ盾を失ってしまいました。

 こうして東は駿河の今川、西は美濃の斎藤の2大勢力に挟まれるという非常に苦しい状況に立たされました。

「あんな‘うつけ者‘に従えるわけにはいかない」

 そんな中、織田家の家臣達は若き主君・信長に見切りをつけ、次々に離反していきました。

 信長の呼びかけに応じる尾張地侍は少なくなっていきました。

 この状況を打破するため、信長は各地の流れ者を雇い入れ、自分の手足のように使える精鋭部隊を編成していきました。

 その中には、後に織田家重臣となる滝川一益前田利家、そして木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がいました。このとき、信長は有能な武将達の獲得に成功したのでした。

 以降、信長は国内の敵対勢力の一掃に乗り出しました。

 1557年には、反逆を企てた、弟の信行を清州城内で謀殺、1559年には信行と通じていた上四群(かみよんぐん)の支配者である織田信賢を降伏させ、2分されていた尾張守護代織田を統一。

 ここに、尾張の大半を支配する戦国大名織田信長が誕生しました。

 この時、信長は26歳でした。

 信長の統一事業は続きます。