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【本能寺の変】なぜ信長は天下統一を達成できなかったのか

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【本能寺の変】なぜ信長は天下統一を達成できなかったのか」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

織田信長には並はずれた才能がありました。その才能の正体は並はずれた願望にありました。しかし、そんな信長は目的達成ばかり優先し、他人から愛されるという努力を怠ってきた。社会的成功とは、並はずれた才能や努力だけでは達成出来ず、同時に「強運」である必要もあるのです。というのも、「運」とは他人が運んでくるものだからです。

信長の類まれな才能とは何でしょうか。

「リスクを恐れない勇気」

「即、行動する力」

「迅速な決断力」

 

 様々な意見が出ると思います。

 例えば行動力ですが、信長が天下に王手をかけることが出来たのはその並はずれた行動力にあったことは確かです。物事を決断するのも早く、決断したら即、行動に移すようなエネルギーのある人物でした。

 しかし、そんな信長の持つエネルギーの原動力は何でしょうか。

 そう、「願望」や「欲」です。

 信長には絶対に成功してやるという並はずれた願望があったのです。

 しかし、並はずれた願望や欲を持つ信長は最終的に天下統一という社会的成功を成しえませんでした。

 

 なぜ、信長は天下統一を達成できなかったのでしょうか。

 その理由は実は非常に簡単です。

 信長は多くの人達から嫌われていたからです。

 言い換えると、信長には「運」がなかったのです。「運」を引き寄せるには人から好かれる必要があります。

「運」とか「引き寄せる」という言葉を使うと「宗教っぽい」とか「オカルトっぽい」とか言う人がいると思うので、もう少し分かりやすい言葉を使いたいと思います。

 例えば、「運」という言葉を、「信用」とか「仁徳」という言葉に置き換えてみると良いと思います。
 人から好かれる人は信用のある人です。逆に言うと、信用がなければ人から好かれません。

 人から好かれる人は仁徳のある人です。逆に言うと、仁徳がなければ人から好かれません。

 つまり、信長には信用も仁徳もなかったのです。

 

信長は勢力拡大とともに相当なストレスを受けていました。天下統一に焦る気持ちと、責任とともに増えるストレスに信長は限界を感じていました。やがて、そのストレスは家臣達にぶちまけられていくのでした・・・。

 1582年5月、信長は焦っていた。

 人生50年といわれた当時において、信長は49歳。

 信長は能力と時間の面で限界を感じていました。

 今後の天下統一事業をどのように進めるか、そして天下平定後の統治方法をどうするか。天下布武を標榜して15年あまり、戦いに明け暮れてきた信長は、今度は政治や経済のプロとして方策と成案を示さなくてはならない。

 

 統一事業に関しては、3月に甲斐・信濃の武田氏を滅ぼし、中国の毛利氏とは交戦中だが、サルの活躍によって情勢は有利。毛利を降ろせば、九州の大半もなびいてきます。あと数年で敵対する勢力はなくなると思われる。天下統一の目途はついた。

 朝廷は自分を征夷大将軍に叙任しようとしている。

 時の天皇である正親町(おおぎまち)天皇は、信長を次の天下人として認めたのです。

 任官を受ければ天下の支配はしやすい。自分は武家社会の棟梁となり、各分国に領主を任命して領内の統治を任せればいいからだ。しかし、それでは室町幕府の制度を踏襲するだけだ。何事にも旧習に従わなかったのに、天下統一の最後になってそうするのもいさぎよくない。

 しかし、九州平定を終えて「天下布武」がなるまでは、朝廷の権威を利用したほうが良いのは確かです。征夷大将軍になれば、敵対するものはすべて、賊軍となるから戦がしやすい。

 一方、天下統治の方法となると未だに方針が定まらない。
 自分を頂点として一元的に全国を支配する体制をつくりたいが、具体的にどうするかの策が思いつかなかった。


 キリスト教宣教師からも知識を得ている。

 どうやらポルトガルという国は、海外との交易で大きな利益を上げているようだ。

 また、イングランドという国ではエリザベスという女王が独裁的な政治運営し、急速な近代化を果たしているようだ。

 政治体制はイングランドのような絶対王政とでもいうのだろう、国王が政治の全権を握り、官吏を使って政治を行う。交易の利益を独占するから、国王に利益が集中する。

 ポルトガルは交易のためにインドや中国に拠点をつくっているが、宣教師がその先兵の役割を果たしているのもわかっている。

 いずれにしても、引き続き宣教師から詳しく聞かなければいらない。

 日本もポルトガルのように海外に進出し、朝鮮や明だけでなく、インドや東南アジア、さらにはイスラム教圏にまで交易の手を伸ばす国際貿易国家としてスタートしていく必要がある。

 

 それには、従来の日本のような保守的な国家体制ではとても通用しない。

 

 自らが先陣をきって日本の国家体制を根本から変えなくてはならない。

 しかし、征夷大将軍という伝統的地位に組み込まれてしまうと、それがやりにくくなることは明白だ。

 そのためには、天皇や朝廷、公家勢力をいつかは潰さなければならない。

 そうすれば、さらなる反発も起こるだろう。

 そして、また長い戦いが続く・・・・・。

 焦れば焦るほど、天下統一が遠のいていくような気がする・・・・。

 

 一体、誰が自分の天下統一の道を阻んでいるのか。

「夢を描き、それに向かって行動しているのに、叶わない。」

 こんなつらいことはありません。

 信長のストレスは最高頂にまで達しました。

 

 

「殿、明智殿がお見えです。」

「構わん。通せ。」

ガラッ

「殿、四国の長宗我部の件でお話に参りました。」

「またその話か。その件はもう済んだ。下がれ。」

 信長を訪れたのは、重臣である明智光秀でした。

 天下統一に焦る信長は四国を配下にするべく、大量の兵隊を派遣する計画をしていました。中国と四国を同時に制圧する勢いを見せれば、九州もなびいてくると考えたのです。

 信長には一刻の猶予も残されていません。

当時、四国を治めていたのは長曾我部元親という人物です。
 実はこの長曾我部と信長は大変仲が良く、その頃の長曾我部氏はまだ四国の中の土佐の領主であり、そんな元親に信長は自分の家臣である斎藤利三の妹を嫁がせました。
 しかし、信長も元親もそれぞれ力をつけていき、信長が天下統一に王手をかける頃になると、元親は四国全土を配下に置くほどの勢力を増していました。
 天下統一を目指す信長は、ここにきて四国を統治下に置くため、元親に四国の半分をよこせと迫ったのです。
 しかし、もともと対等な関係にあった信長と元親です。
「なぜ苦労して手に入れた領土を信長に渡さなければいけないのか。」
 元親は信長と対立するようになりました。
 この時、斎藤利三はどこにいたかというと、明智光秀の筆頭家老になっていました。その縁もあって長曾我部との交渉は光秀が担当していたのです。

そんな長曾我部を一方的に攻め入ろうというのですから明智としては納得がいきません。

 

 当初は相思相愛の関係だった信長と明智ですが、信長は次第に明智を良く思わなくなっていきました。

 しかし、人間関係は双方向です。あなたが相手を嫌っていれば、相手もあなたを嫌いになります。明智も信長を良く思っていませんでした。

 

 そんなとき、備中高松城岡山市)を囲む羽柴秀吉から、毛利の本隊が遂に姿を現したとの報せがあった。
 信長の武将としての血が騒ぎました。
 戦はすべてを忘れさせてくれる。毛利勢を破り、当主・毛利輝元や先代の元就の2人の息子、小早川景隆や吉川元春の首が目の前に並べられるさまが目に浮かびました。

 5月、武田攻め祝勝会が安土で開かれ、徳川家康も招かれました。信長は明智に接待役を命じたが、料理が腐っていると信長が光秀を叱りつた上に足蹴りにしました。日頃の鬱憤をぶちまけてしまいました。

 これにはさすがの明智も怒り、料理を掘に投げ捨てたほどでした。

 

 人間は自分に対する態度を他人に対してもする傾向があります。

 例えば、自分に厳しい人は、他人対しても厳しく、自分に甘い人は、他人に対しても甘いのです。

 これと同様に、ストレスを受けている人は、他人に対してもそのストレスをぶちまける傾向があります。

 明智に接待役など頼んだ自分が間違いだった。やはり明智には戦を頼んだほうが良い。

 天下統一に焦る信長は、畿内方面軍である明智軍を中国方面に増援軍として向かうよう命じました。秀吉・光秀の2枚看板で中国を制圧し、そのまま九州まで攻め入ってしまおうという作戦です。

 明智は数秒経ってから返答しました。

「ハハッ。承知致しました。」

 明智は何の抗力もなく、四国の長宗我部攻略の任を解かれ、秀吉の指揮下として中国の毛利征討に加わされました。

 明智の中で、プツリと糸の切れるような思いが起こりました。

 

 翌日以降、明智は中国出陣のための準備を始めました。

 そんな中、老臣である斎藤利三は信長征討を訴えました。間もなく信長の四国征伐が始まってしまう。利三はもう元親に合わせる顔がありません。

 しかし、明智には思いとどまるものがありました。

 落ちぶれていた自分がここまで立身出来たのは、紛れもない信長様のおかげです。信長には感謝してもしきれない。本来なら自分が積極的に四国討伐するべきところなのです。

 

 しかし、そんな明智のブレーキが外れる出来ごとはすぐに起こりました。

 5月26日、明智の居城・丹波亀山城に信長の使者がやって来ました。信長の書状にはこう記されていました。

明智の治める丹波・近江の国は信長に召し上げよ。代わりに出雲・石見の国を与える。」

 これは「国替え」と呼ばれるもので、現在でいう転勤のようなものです。

 明智はこれを左遷として恨み、信長征伐を決断しました。

 

 一方、信長としてはそんなつもりはありません。

 当時の岩見は全国的に銀の産地でした。経済を重視する信長にとって、明智が岩見を支配するということは彼を織田家の経済管理者として任命したということです。

 なんだかんだ信長は明智の実力を認めていたのです。

 しかし、問題なのは、出雲と石見が未だ敵領地であることです。領地を失えば、領主は家来を養うことが出来ません。つまり、今回の毛利攻めを成功させなければ、明智とその家来達は路頭に迷うことになるのです。

 信長は本当に人の気持ちを考えるのが苦手なようです。

 浅井長政のときもそうですが、合理的思考ばかり重視する信長にとって人の気持ちという非合理的なことにまで考えが及ばなかったのです。

 結局、そんな信長の悪い癖は、最後まで改まることはありませんでした。

 

 事件は突然やってきました。

 それは1582年6月2日の夜が明ける前の早朝のことでした。

 1万を超える明智軍がぞくぞくと京の都に入り、信長の宿泊する本能寺を包囲しました。

 信長は物音で目を覚まします。

「如何なる者の企てぞ。」

明智が者と見え申し候う。」

 信長は一瞬のうちに頭の中で様々な思考を巡らせました。

 それまでの明智とのやりとりを思い返すと、自分は明智を嫌い、冷や飯を食わせるようなことをしてしまった。

「ワシは自ら死を招いたな・・・・。是非に及ばず。」

 そう言い残し、信長は燃え盛る炎の中、自害しました。享年49歳。

 

 その頃、中国地方で毛利氏と対峙していた秀吉は、主君信長が殺されたことを聞くや直 ちに毛利氏と和睦を結び、凄まじいスピードで軍を京都方面に返し、山崎の地で、明智の軍を倒しました。

明智軍を倒した秀吉はこう言いました。

明智殿、なぜこのようなことを。まぁ明智殿の気持ちもわからんでもない。信長公は、勇将ではあっても良将とは程遠いものだった。目的達成ばかり優先し、人から好かれるということを生涯に渡り怠ってきたのだ。」

 

 秀吉は、主君信長の「失敗の本質」をしっかり見抜いていました。社会的成功には、信長のような「剛の精神」だけでは達成できず、「柔の精神」も必要だったのです。
だからこそ、秀吉は天皇や有力大名に懐柔しながら天下統一事業を進めました。秀吉は他人の力を借りて天下統一を達成したのです。

 社会的成功とは、信長のような類まれな才能や努力、気合などではコップの半分までしか満たすことが出来ませんでした。残り半分は他人が注いでくれるものなのです。

つまり、「自力のあとに、他力あり」。

または、「人事を尽くして天命を待つ」。

 他人から慕われる信用や人徳のある人こそ、運を引き寄せ、社会的成功を成し遂げることが出来るのです。

 勘違いしないで欲しいのは、自分の努力が不要なわけではありません。圧倒的な努力が出来る人だからこそ、他人の力を利用することが出来るのです。

 自分が積み上げてきた努力や才能は、他人の力によってレバレッジがかかるのです。

以上。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献  
信長は本当に天才だったのか     工藤健策=著  草思社
誤解だらけの英雄像         内藤博文=著  夢文庫
「秀吉」をたっぷり楽しむ法     高野冬彦=著  五月書房
戦国時代の組織戦略         堺屋太一=著  集英社
マンガで一気に読める!日本史    金谷俊一郎=著 西東社
学校では教えてくれない戦国史の授業 井沢元彦=著  PHP文庫