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【どう違う?】織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【どう違う?】織田信長豊臣秀吉、そして徳川家康」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

織田がつき
羽柴がこねし
天下餅
すわりしままに
食うは家康

 この歌は江戸時代に作られたもので3人の天下統一への関わり方を、皮肉を織り込んで現しているものです。
 織田信長が下準備をし、羽柴(豊臣)秀吉がなしとげた天下統一。それを座ってじっと待っていた徳川家康が最後に手に入れたという喩えです。
 ということで、今回は、そんな日本史上屈指の人気を誇る戦国3英傑はそれぞれどのような違いがあるのかを見ていきたいと思います。

人物 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康
時代のイメージ 破壊 創造 維持
あだ名 革命児 実力者 眠れる巨人
精神 「剛」の精神 「柔」の精神 「忍」の精神
デビュー戦 桶狭間の戦い 山崎の戦い 関ケ原の戦い
本拠地 安土城 大阪城 江戸城
役職 関白 征夷大将軍
内容 室町幕府を滅亡    旧勢力との戦い 天下統一達成   巨大組織誕生 江戸幕府の成立     長期政権の誕生
政策 兵農分離       楽市・楽座令 太閤検地      刀狩令 武家諸法度      禁中並公家諸法度
キリスト教 容認 はじめ容認    後に禁止 完全禁止

 歴史はストーリーで覚えるというのが、当ブログの基本方針です。ストーリーといっても、難しく考える必要はありません。基本的に歴史は「破壊→創造→維持→衰退」のサイクルの繰り返しですので、この一連の流れに沿って、事実を関連付けて物語を創っていくのです。それに則り、信長は「破壊の時代」の中心人物、秀吉は「創造の時代」の中心人物、そして家康は「維持の時代」の中心人物とすることが出来ます。

鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

「天下の支配者は信長である!これに逆らう者は圧倒的な武力でねじ伏せる。」
 これが織田信長の基本スタンスです。短気で残虐なイメージがある信長ですが、しかし彼こそは、新たな国家や社会のビジョンを示し、人々の共感を集め、自らをトップとした理想国家の実現にむけて万難を排して邁進するカリスマ的リーダーだったのです。

 下剋上の時代、室町幕府の統治力は最低ランクにまで落ち込み、各地に戦国大名が登場し、天下統一トーナメントが始まりました。
 有名な戦国大名陸奥(東北)の伊達氏、関東の北条氏、越後(新潟)の上杉氏、甲斐(山梨)の武田などですが、それぞれの政権が群雄割拠するまさに戦国の世にふさわしい破壊の時代です。

 
 この中でも、天下にもっとも近かったのは尾張(愛知)の織田信長でした。この頃の戦国大名達の目標は自国を守り、拡大することです。しかし、信長の野望は他の大名とは異なり、天下を統一することでした。

 そんな信長が日本史の表舞台に出るきっかけとなったのが、1560年に今川義元を討ち取った桶狭間の戦いです。これによって尾張の一領主だった信長はその名を全国に轟かせ、有力大名として名を連ねるようになりました。戦国の革命児・織田信長の華々しいデビュー戦です。
 今川義元を破った信長は、三河徳川家康と同盟を結び、1567年には美濃の斎藤氏を滅ぼした後、岐阜に城を構えます。そして「天下布武」の印判を使用して天下統一の意志を示しました。

 翌1568年、将軍になりたいと頼ってきた足利義昭を信長は保護して入京、義昭を室町幕府15代将軍に就任させることで恩を売り、将軍からあらゆる権力を奪い始めました。これまで武力と財力を高めてきた信長は最後、権力を手に入れることで天下統一を急いだのです。
 しかし、そんな強引なやり方は当然ですが、あらゆる勢力からの猛反発を招き、信長に対する包囲網が築かれ、窮地に陥りました。以降、信長はあらゆる勢力と激しい戦闘に明け暮れるようになります。

 1570年、信長は姉川の戦いで近江の浅井氏と越前の朝倉氏を破ります。さらに、当時最大の宗教勢力だった一向宗石山本願寺との戦いも始まりました。翌1570年には抵抗する比叡山延暦寺の焼き打ちを行って、強大な宗教的権威を屈服させました。

 そんな信長は、1573年に武田信玄が没すると当面の危機を脱し、さらにその勢いを増します。

 信長は、反信長勢力を育てようとしていた将軍義昭を京から追放し、室町幕府を滅ぼしました。

 翌1574年には伊勢長島の一向一揆を討滅したのに続いて、翌1575年には越前の一向一揆も平定し、長篠の戦いでは、信玄の後を継いだ武田勝頼も鉄砲の導入などで撃破しました。

 そして1576年、信長は安土城の築城に取り掛かり、そこを居城としました。1580年にはようやく石山戦争が終結します。その後も中国の毛利攻めなど、全国統一に向けての戦いが進めました。

 このように信長の統一事業は達成されるかに思われました。しかし、信長はせっかちな性格であるがゆえ、目的達成に焦り、そのために手段を選ばないやり方は家臣からの不満も買い、1582年、家臣の明智光秀の謀反にあい、信長は京都で死んでしまします(本能寺の変)。皮肉にも天下統一は彼の家臣である豊臣秀吉が引き継ぐことになってしまいました。

 信長は天下統一の途上にあったので、本格的な政策を展開したわけではありません。しかし、兵農分離楽市楽座が信長の代表的な政策になります。
 
 まず、兵農分離とは革新的な軍事政策でした。信長は家臣団を城下町への集住を徹底させるなどして、全国どこでも派兵の指示が出来る機動力ある軍事力をつくりあげました。信長の兵農分離は、それまでの農業と軍事を両立する従来の常識を覆し、軍事のみに特化した専門集団をつくりだしたのです。

 続いて、楽市楽座も革新的な商業政策でした。室町時代に組織された「座」とよばれる同業組合であり、新規参入を拒む極めて閉鎖的なものでした。しかし信長はこの「座」を廃止し、新規参入を許可。各地の関所も撤廃され、誰でも自由に商売を出来る制度を始めました。これが楽市楽座です。信長はこのような経済活性化政策を行うことで、自らの財力も盤石なものにしていったのです。

 さらに、信長はキリスト教を容認していましたが、これは貿易を盛んに行いたかったことや、海外の動向を知るためにキリスト教宣教師を優遇する必要があったからなどと推測されていますが、一説には、延暦寺本願寺などの強大な宗教勢力に対抗するためだったのではないかとも考えられています。

 こうして織田信長による「破壊の時代」が終わり、豊臣秀吉がその後を継ぐことになります。時代は「創造の時代」へと移っていくのでした・・・。


鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス

 豊臣秀吉は戦闘において、信長のような武力でねじ伏せる強引なやり方だけでなく、様々なアイディアや工夫を凝らし、降伏させたり、配下として吸収するという柔軟な戦闘方法を生み出しました。農民の子として生まれながら、誰もが不可能だと思っていた天下統一を可能にした秀吉、そんな彼には‘実力者‘というあだ名がピッタリでしょう。

 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、1582年、山崎の戦いで反逆者の明智光秀を討ち、信長没後の主導権を握りました。尾張の農民の子として生まれた秀吉が武士として出世したデビュー戦です。

 翌1583年には信長の重臣であった柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破り、信長の孫を後継者として擁立しつつ、実際には自らが主導権を握り、信長の後継者としてその地位を固めました。同年、秀吉は水陸交通にめぐまれた石山の本願寺の跡に壮大な大阪城を築き、そこを拠点として天下統一を目指していきました。

 1584年には、尾張小牧・長久手の戦いで、信長の二男である織田信雄徳川家康の軍と戦うも、決着がつかず、和睦に終わりました。これを機に秀吉は武力だけでは天下統一を達成出来ないことを悟り、以後、朝廷や公家、将軍などあらゆる権威に懐柔しながら自らの地位を高め、その圧倒的な権威に相手の戦意を喪失させるという作戦に出ます。


 そんな秀吉は1585年、朝廷から関白に任じられた後、四国の長宗我部元親を下し、四国を平定しました。

 翌年には太政大臣にも任命され、豊臣の姓を与えられました。
 関白になった秀吉は天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと称して、全国の戦国大名に停戦協定を命じる惣無事令を出し、全国の政治運営は全て秀吉に任せることを強制しました。そして、これに違反したとして秀吉は1587年、九州の島津義久を征討して降伏させました。

 さらに1588年には、京都に新築した聚楽亭に後陽成(ごようぜい)天皇を迎えたうえで、全国の諸大名を招集し、彼ら諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせました。秀吉は天下統一への王手をかけたのです。

 そして1590年、最後まで抵抗していた関東の北条氏政を滅ぼし(小田原攻め)、同時に陸奥の伊達正宗ら東北地方の諸大名も服従させることに成功し、秀吉はとうとう信長の達成出来なかった天下統一を完成させたのでした。秀吉は山崎の戦いからわずか8年間で天下人にまで駆け上がるというとんでもない快進撃をやってのけたのです。

 山崎の戦いの後、秀吉はさっそくその年、1582年に、山城の国から検地を開始し、その後、新しく獲得した領地も次々に検地をおこなっていきました。この太閤検地は、1つの土地に1人の耕作者を決める、一地一作人の原則で行われました。村単位に検地帳を作り、その土地の価値を米の量で表示する石高制をとることで、抜本的な土地税制の改革が実現しました。農民達に確実な年貢を納めさせる義務を課すことで、豊臣政権の財政基盤は盤石なものになっていきました。

 秀吉は九州の島津氏を屈服させ、その帰途、博多でバテレン追放令を出してキリスト教宣教師を国外追放しました。秀吉は当初、信長にならいキリスト教の布教を認めていました。しかし、次第にキリスト教の教義が一向宗のような非常に危険な思想であると判断し、許可制にするなど統制・禁圧方針に変更したのでした。しかし、ポルトガル船の来航と貿易は容認されるなどその法令は不徹底なものでした。

 天下統一を達成した豊臣政権は、織田政権と同様に、圧倒的な財政基盤を背景に秀吉のワンマン経営によって維持されており、組織としての体裁が整っていませんでした。そこで、石田光成や増田長盛などの秀吉の腹心の家臣達を五奉行として政務担当を、徳川家康毛利輝元など有力大名を五大老として重要政務を合議させる制度をつくりあげました。ここに全国を傘下に置く豊臣政権という超巨大組織が誕生したのでした。

 秀吉の野望は全国平定だけにとどまらず、1592年、15万人余りの軍をもって朝鮮侵略に乗り出します(文禄の役)。朝鮮・明の侵略を企てた秀吉の軍隊は、初めは連戦連勝でしたが、やがて戦線が行き詰まり、休戦協定が結ばれ、講和交渉が成立しました。しかし、秀吉の意思と現場の妥協が上手く合致せず、秀吉は再び朝鮮への出兵を命じました(慶長の役)。

 それに対し、朝鮮や明から激しい抵抗にあい、日本軍は兵の無駄死にだけが目立つようになります。そんな最中、秀吉は病によりこの世を去ったことで朝鮮出兵は頓挫しました。これによって豊臣政権は内部対立が激化、完全に分裂してしまいました。秀吉の超巨大組織は意外にも脆いものでした。

 短命に終わった豊臣政権から実権を奪い取った徳川家康は、その後260年に及ぶ江戸時代という長期政権を創り出しました。時代は「維持の時代」へと移っていくのです。


鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス 

 徳川家康といえば、我慢の人というイメージでしょう。上記の歌からは一見、家康が良いとこ取りをしているように見えますが、とんでもない。
 家康は忍耐強く待ち続けたといっても、ただ指をくわえて待っていたわけではありません。家康は時間という財産をエサにして、自分の実力を極限にまで高めていたのです。
 その証拠に秀吉亡き後に、家康に逆らえる者などいなかったし、関ヶ原の合戦も東軍の圧勝でした。ゆっくりと、でも着々と実力を蓄えていたからこそ、絶妙のタイミングでチャンスをつかむことが出来たのです。そんな彼には‘眠れる巨人‘というあだ名がピッタリでしょう。

 織田信長と同盟を結び、東海地方に勢力をふるった徳川家康ですが、豊臣政権下の1590年、北条氏滅亡後の江戸に移され、約250万石の領地を持つ大名になりました。
 しかし、当時の江戸は江戸寒村ばかりが点在する荒れ果てた沼地であり、家康は屈辱を強いられましたが、一方で豊臣政権下では五大老の筆頭として高い地位を持っていました。
 秀吉が大軍勢を率いて朝鮮出兵に乗り出す中、それを終始懐疑的な目で見ていた家康は国内に残り、江戸の開発に取り組み、天下人への野望を抱くようになりました。

 膨大な戦費と兵力を無駄した秀吉の朝鮮出兵は大失敗に終わり、秀吉の病死とともに全軍撤退しました。秀吉の死後、幼い息子・秀頼が当主となったので、豊臣政権の事実上ナンバー2だった家康は一気にその地位を高め、実権を独占するようになりました。

 すると、五奉行の一人で豊臣政権を維持しようとする石田三成と家康の対立が深まり、1600年、三成は五大老の一人である毛利輝元を総大将として兵をあげました(西軍)。対するは、家康と彼に従う福島正則加藤清正らの諸大名(東軍)で両者は関ヶ原で激突しました。(関ヶ原の戦い)。家康が頭角を見せるきっかけとなったデビュー戦です。
 
 天下分け目の合戦といわれた関ヶ原の戦いはわずか半日の戦いでした。毛利軍の精鋭部隊であった小早川秀秋が東軍に寝返ったことが決めてとなり、家康率いる東軍の勝利に終わりました。

 関ヶ原の戦いに勝利した家康は、西軍についた諸大名に極めて厳しい処分を下しました。石田三成小西行長は京都で処刑され、毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封(領地削減)され、旧主であった豊臣秀頼も60万石程度の一大名にまで転落させました。その他多くの西軍諸大名が改易(領地没収)されました。

 1603年、家康は全国の諸大名に対し、自らの政権の正統性を示すために朝廷から征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開きました。

 こうして家康の天下となったが、それからわずか2年後、家康は将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、今後の政権は代々徳川家が世襲することを全国にアピールしました。ただし、政治の実権はその後も大御所(前将軍)となった家康が握り続けました。

 こうして家康は、徳川政権という以後260年に及ぶ長期政権を完成させ、余生を楽しむためご隠居されたのでした。

 めでたし。めでたし。

 ・・・というわけにはいきません。家康には生涯最後の大仕事が残っています。

 それは豊臣家の存在です。1611年、家康は京都の二条城において豊臣秀頼と対面しました。秀頼は立派な青年に成長しており、家康はその末恐ろしさに豊臣家を滅ぼそうと決意しました。

 1614年、家康は豊臣家が再建した京都方広寺(きょうとほうこうじ)の梵鐘(ぼんしょう)に徳川家を罵る文言があるといういちゃもんをつけ、大軍で大阪城を包囲して攻め立てました(大阪冬の陣)。一旦、講和をむすんだものの、翌1615年、再び戦いを仕掛け、ついに秀頼を自殺させ、豊臣氏を滅ぼしました(大阪夏の陣)。

 大阪夏の陣の直後、家康は今後、徳川将軍家を長く存続させるために徹底した大名統制を行いました。その代表的な政策は1615年の武家諸法度の制定です。家康の死後、2代将軍の徳川秀忠はこれに違反した大名を次々に改易処分にするなど厳しい統制を行いました。

 こうした徳川政権の統制政治は武士だけでなく、朝廷や公家にも及びました。同年、家康は禁中並公家諸法度を制定し、西軍大名の多い西国地方の監視のために設置した京都所司代らに朝廷の監視をさせました。そして、3代将軍徳川家光が没する1651年ごろまでに幕府の支配体制はほぼそろい、江戸時代(徳川政権)という260年に及ぶ長期政権が誕生しました。

 また、家康はキリスト教に関しては徳川の国家体制において都合の悪い思想であると考えていました。1612年に天領(幕府の直轄地)に禁教令を出し、イエズス会の布教を禁じました。同令は翌1613年以降全国に広がっていきました。1616年の家康が死んだ直後、幕府はヨーロッパ船の来航地を平戸と長崎に限定するなど江戸時代を象徴する鎖国政策の準備がされていくのでした。

以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうござます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
アナウンサーが読む 詳説山川日本史    笹山晴生 他=著 山川出版社
教科書よりやさしい日本史         石川晶康=著   旺文社
戦国時代の組織戦略            堺屋太一=著   集英社
マンガでわかる日本史           河合敦=著    池田書店
20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう。 千田琢哉=著   Gakken