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【山東出兵】田中義一内閣の外交政策をわかりやすく【田中義一】(完成版)

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【山東出兵】田中義一内閣の外交政策をわかりやすく」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。
 
 中国に済南(さいなん)という都市があります。

 ここは青島(ちんたお)と並ぶ山東省の中心都市です。

 北京と南京のほぼ中間に位置し、古来、南北交通の要衝となっていました。

 1904(明治37)年、自主的に外国に「開市」したため、外国人居留者が増え、世界有数の商業都市、国際都市となりました。昭和初期には日本人居留者も約2千人に達しています。

 そんな国際都市の済南が1928(昭和3)年、殺伐とした戦場となる危険にさらされました。「済南事件」です。一体、何が起きたのでしょうか。

 

 ということで、今回は田中義一外交政策を見ていきながら、済南事件はどのようにして起きたのかを見ていきたいと思います。

 外務大臣も兼ねる田中義一首相は外交において軍事的な威嚇、または軍事力を持ってでも、中国における日本の国益を守ろうという対中強硬外交を展開し、3度にわたって山東出兵に踏み切ります。それは北伐という当時の中国の不安定な情勢が原因で起きたのでした・・・。


 1927(昭和2)年、大量の預金者が銀行に預金の払い戻しを求めて行列を成すという取り付け騒ぎが起きました。金融恐慌です。が勃発したことを受けて、若槻礼次郎内閣の後を継ぎ、1927(昭和2)年4月20日、立憲政友会田中義一内閣が誕生しました。田中は外務大臣を兼任しており、対中国政策において強硬姿勢で臨むようになります。


 田中は組閣早々の同年5月28日、中国の山東省に陸海軍を派遣することを決定しました。第一次山東出兵です。

 田中義一内閣は、一方で、欧米諸国に対しては若槻内閣の幣原喜重郎外相の協調外交方針を引き継ぎ、アメリカ・イギリスと海軍の補助艦制限を話し合うジュネーブ軍縮会議に参加し、翌1928年にはパリ不戦条約に調印しています。

 

 なぜ、田中は対中国政策において強硬姿勢で臨むようになったのでしょうか。

 それは、当時の中国情勢が大変不安定で、それを受けた日本にも出兵せざるを得ない事情がありました。

 この時の中国情勢はどのようなものだったのでしょうか。それまでの中国情勢を詳しくご説明します。

 

 中国には孫文(そんぶん)が起こした1911(明治44)年の辛亥革命によって清朝が倒れました。

 そして翌1912年1月、中華民国が発足し、三民主義を掲げて中国の近代化を目指して孫文中華民国南京政府として臨時大総統に就任しました。

 しかし、旧勢力である袁世凱は列強と手を組んで孫文を追い出そうし、同年3月、孫文を亡命させることに成功します。

 その後、袁世凱中華民国の北京政府として臨時大総統に就任しました。しかし、袁世凱の政府には中国全体を統括する力はなく、1916(大正5)年の袁世凱の死後、中国は事実上、分裂状態に陥ってしまいました。

 つまり、中国には強力な中央政府が確立せず、特に中国北部には、軍閥とよばれる、日本の戦国時代のような地方政権が割拠していました。彼らは北京政府の支配権をめぐって抗争、政権の入れ替わりがありました。

 それぞれの軍閥は日本を含む列強諸国の支援を受けていました。その中で日本が支援していた軍閥政権は張作霖奉天派です。

 1919(大正8)年、中国国内では同年に開かれたパリ講和会議で列強諸国が山東半島における日本の権益を擁護する側にまわったことに憤慨し、5月4日、北京大学の学生デモを皮切りに反日運動が巻き起こりました(五・四運動)。

 反日運動はしだいに盛り上がり、それに呼応するかのように国民党を率いていた孫文中国国民党を結成、北方軍閥を倒して中国全土を配下に置く統一国家の実現を目指すようになりました。

「我が中華民国は今後、一致団結し、日本や列強と戦わなければならない。奴らに負けない近代国家を造るのだ。」

 一方、中国には国民党の他に、中国共産党が誕生していました。共産党も同様に、中国を近代化するべく統一国家の実現を目指していました。孫文率いる国民党は資本主義を支持する政府なので、私有財産制度は認めます。しかし、中国共産党社会主義を支持する政府なので、私有財産制度を否定します。

 国民党と共産党、この2つの政党は相容れないものでした。
 

 しかし、国民党と共産党が争っても、古い軍閥はそのままで、統一国家の実現は不可能です。そこで、孫文軍閥を共通の敵として共産党に協力を要請。共産党はそれに応え、国民党と共産党の協力関係が樹立しました(第一次国共合作)。

 孫文は結局、北方軍閥を打倒する軍事行動(北伐)を実施する前の1925(大正14)年に亡くなり、孫文の意思を継いだ蒋介石が先頭に立つようになりました。中国南部で勢力を強めた蒋介石率いる国民党は1927(昭和1)年7月、国民革命軍を組織し、北部の軍閥たちを制圧するべくいよいよ北伐を開始しました。

 北伐軍は、軍閥を倒しながら北上し、遂に上海に到達しました。

 しかし、もともと共産党を疎ましく思っていた蒋介石は同年、北伐中に上海クーデターによって、共産党を追放し、国共合作の関係は崩れ去ってしまいました。

 

 その後も、蒋介石は北伐を続け、日本では大正から昭和になって3カ月の1927(昭和2)年3月28日、蒋介石率いる国民革命軍が上海を超え、南京に入城しました。しかし、蒋介石の軍隊は規律がとれておらず、日本や英国などの外国の領事館を襲い、略奪や暴行、放火を繰り返しました。

 日本は大きな被害を免れましたが、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの4ヵ国の6人が死亡するという事態になった。

 これに対し、アメリカやイギリスは艦砲射撃で南京を攻撃しました。

 こうした欧米列強の動きに対し、日本政府も以降の北伐に備え、山東省の済南にいる日本人を守るという名目で、軍を送り込むことを決定。

 そして、1927(昭和2)年4月20日、立憲民政党の若槻内閣に代わって、立憲政友会田中義一内閣が誕生し、外務大臣も兼任する田中は同年4月19日、5千人規模の陸海軍を山東半島に送り込んだのです。これを第一次山東出兵といいます。

中国に出兵した田中首相はその後、東方会議を開き、対中国強硬政策をまとめました。日本の強硬姿勢に対し、蒋介石張作霖奉天軍閥の打倒に向けて北伐を再開。日本と中国の関係は決定的に悪化していくのでした・・・・・。

 この出兵直後の1927(昭和2)年6月27日から11日にかけて田中首相は自らが主催して、東京で外交当局者や軍部首脳部などを集め、東方会議を開きました。

 会議では中国問題を協議し、満蒙における日本の権益をあくまで守るという方針が取り決められました。しかし、これらの方針は日本側の従来の方針であり、懸案だった鉄道建設交渉の促進、満鉄沿線の商業地の拡大などの方針の再確認が大部分を占めていました。

「我が国は必要に応じて満蒙に対し、断固として自衛の措置をとる。」

 これによって田中内閣の中国に対する強硬姿勢が示され、中国国内の動乱による満蒙に波及して日本の地位と権益が冒されるのであれば、機を逸せず適当の措置に出ると宣言したのです。

 山東省に上陸した1個師団は、済南に至り、関東軍も出動し、北伐軍との間で戦闘が始まるかに思われました。

 しかし、このときは革命軍が済南に至る以前に北伐を断念したため、たいした戦闘にはいたらず、同年7月に関東軍は撤兵しました。

 日本の出兵のために、北伐をいったん挫折した蒋介石は総司令官を辞め(下野)、同年9月に「私人」として日本を訪れました。

 そして11月には田中首相と非公式の会談を始めました。

「田中殿、中華民国における日本権益の一部は認めます。その代わり、我が国民党への支援をお願いしたいと存じます。」

 この蒋介石の交渉を田中は拒否しました。

「我が国が関心を持っているのは、北伐そのものではありません。あくまで満州という既得権益の治安維持にあります。なので、その交換条件は成立しないのではないでしょうか。」

 そして田中首相は中国北部(満州)で実権を持つ奉天軍閥張作霖を支援することを明確に伝えました。

 これに激怒した蒋介石は帰国後、北伐の再開を決起しました。

「日本は我が国民党の中国統一を阻止するつもりだ。北伐を再開する!!!」

 田中義一に国民党を支援する意思がないとみた蒋介石は、張作霖奉天軍閥が支配する北京に向けて北上を開始しました。

 この蒋介石の北伐再開に対抗するように、田中内閣は第二次山東出兵として5千人あまりの兵を1928(昭和3)年4月19日に派遣すると決定しました。済南の日本人を保護するという名目です。

 4月25日には第6師団が済南に入り、済南の在留邦人を青島(ちんたお)まで引き揚げさせました。

 その6日後の5月1日、今度は北伐軍が済南に到着しました。

 はじめは双方とも自重したため平穏だったが、3日から4日にかけて、済南に居残っていた10人余りの邦人が北伐軍に殺される事件が発生しました。

 このことが日本国内に伝えられるや反中世論が高まり、それに応えるように8日から日本軍は北伐軍に攻撃を仕掛けたことで、北伐軍と日本軍は済南で軍事衝突、本格的な戦闘となりました。

 結局、北伐軍は退却し、迂回路を通って、北上することになり、済南は事実上日本軍が支配することになりました。

 これが、済南事件です。

「日本め、北伐を妨害しおったな。」

 蒋介石反日姿勢を強めました。

蒋介石め、よくも我が国の威信に傷をつけたな。第三師団を済南に送り込むのじゃ。」

 一方の田中義一内閣も第三次山東出兵を表明しました。

 こうして日本と中国の関係は決定的に悪化していくのでした・・・・。
 

つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
教科書よりやさしい日本史 石川昌康=著 旺文社
仕組まれた昭和史   副島隆彦=著 日本文芸社
子供たちに伝えたい日本の戦争 皿木喜久=著 産経新聞出版