日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【石山合戦】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【石山合戦】なぜ石山合戦は10年にも及んだのか」というお話です。

 織田信長の居城といえば、「安土城」です。

 豊臣秀吉の居城といえば、「大阪城」です。

 

 ですが、実は、大阪城は信長が構想した城だったのです。信長は生涯にわたって、自らの居城を転々としています。その回数は清州、小牧山、岐阜、そして安土と4度にも及びます。

 そんな信長が最終的に大阪に居城を築き、天下を牛耳る。これが信長の最終的な夢だったのです。だからこそ、秀吉は信長の後継者となった翌年に大阪城の築城に取り掛かっています。

この大阪城は紛れもない石山本願寺のあった跡なのです。

 こうした信長の夢が一向宗浄土真宗)の石山本願寺との10年戦争のきっかけとなるのです。

 

 ということで、今回から織田信長石山合戦をみていきたいと思います。

 

 中世までの日本では、商人達が「座」と呼ばれる組合を作り、商売の免許料を本願寺のような有力寺社や公家に支払うことで、その存在を認められ、税の免除や各種特権を得ていました。

 しかし、この「座」は、中世末期になると権限が巨大化し、商品の過剰生産による値下がりや、同業他社の参入を厳しく制限する閉鎖的な商業形態へと発展していきました。

 

 当時の最大宗門だった一向宗浄土真宗)の大阪本願寺もその典型例で、その信徒を増やすとともに、蓄財した財力を増やし、守護大名や在地領主の介入を受けない治外法権の宗門世界をつくりあげていった。

 

 大阪本願寺の始まりは、本願寺の祖といわれる蓮如が1457年に本願寺第8代法主に就任、その後、蓮如は15世紀中頃から末にかけて摂津、河内、和泉に進出して末寺や道場を開いて宗勢を広めた。大阪は大河に囲まれたデルタ地帯に南から上町台地が張り出した地相で、台地の先端地帯は石山と呼ばれ、そこに「石山本願寺」と呼ばれる坊舎が出来上がったのが始まりです。

 沖積が進むにつれて河川地帯に農民が流れ住み、人口が増えると都市が形成され、手工業も発達。商人達も行き来するようになり、日本有数の商業都市となりました。
大阪に移り住んだ農民、職人、商人は本願寺門徒になり、本願寺も彼らを取り込み、寺内町をつくり、ともに繁栄していきました。

 15世紀から100年ほどの間です。

 石山本願寺は信徒を増やすと、蓄財した財力を背景に、守護大名や在地領主と交渉して治外法権の宗門世界をつくりあげていきました。

 寺が武家の支配から独立しているだけでなく、寺内町も領主の介入を受けない守護不入権や諸役免除の特権を獲得していきました。

 石山に御影堂や阿弥陀堂などの坊舎が建ち並ぶようになると、寺内町も含めた寺の外縁を土塁や堀で囲み、武家勢力や法華勢の攻撃に備えました。総構えと呼ばれる一大城郭になりました。

 

 当時は日本人の半分以上が一向宗と言われ、本願寺を含めた「石山城」には武家に対抗できるだけの人と資金が集まりました。

 

つづく

 

参考文献
学校では教えてくれない戦国の授業 井沢元彦=著 PHP
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著     草思社
オールカラーでわかりやすい 日本史          西東社