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【長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?(後編)

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?(中編)」というお話です。

 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 今回もストーリーを展開しながら、長篠の戦いにいたるまでの経緯をご紹介していこうと思います。

 

 酒井隊が武田の後方を占拠。背後から武田軍をにらみつけました。

 武田軍は完全に逃げ場を失ったのです。

 3万人の織田軍と1万5000人の武田軍、ただでさえ兵力に差があるのに、さらに後方にも軍を割かねばならない状況に武田軍は追い込まれてしまったのです。

「しまった・・・。」

 勝頼も思わず口にしました。

 武田軍は進撃することも、立ち退くことも出来ず、織田・徳川連合軍に完全に包囲されてしまったのです。

 

 そのまま、両者のにらみ合いが続いたのち、しびれをきらした勝頼はとうとう全軍に攻撃開始を命じました。

「こうなったら正面から決戦だ!柵を超えろ!突破口をつくるのだ。」

 勝頼の法螺貝によって、武田軍は信長方へ突進していきました。

 その時です。

 馬防柵の中から顔を出した信長軍鉄砲第1陣による発砲が行われました。

 それでも怯まない武田軍は突進を続けます。

 続いて信長軍鉄砲第2陣による発砲が始まりました。

 戦国最強の武威を誇る武田軍はそれでも怯みません。

「十分引き付けろ。狙いを定めるんだ。今だ!!!。」

 そして信長軍鉄砲第3陣による発砲が武田軍を襲いました。

 度重なる銃声に武田軍自慢の馬達も遂に取り乱しました。

 総重量100キロの甲冑をまとった騎兵達は地面に叩きつけられ、致命傷を負う者が続出しました。

 1000丁だと思われていた信長軍の鉄砲は、なんと3000丁もあり、三段に分けての発砲作戦だったのです。

 騎馬隊は馬防柵に体当たりしました。

 すると、柵の中から一斉に信長軍が飛び出し、両軍は正面衝突しました。接近戦が始まりました。

 1万5千人の武田軍と3万の信長軍では、圧倒的に信長軍が有利で、武田軍は総崩れとなり、退却を余儀なくされました。

 しかし、敗走する武田軍を信長軍の弓矢隊が襲います。

 この戦いによって、「武田四名臣」とよばれた高坂弾正山県昌景馬場信春、内藤昌秀のうち、高坂弾正を除く3名が討死しました。

 

 壊滅的なダメージを食らった武田氏はこの後、一気に衰退していきます。

 信長は勝頼を放っておくことにしたのです。

 その理由は、石山本願寺との決戦に集中していたいということもありますが、実はあることを待っていたのです。

 それは武田氏の自滅です。

 今回の大敗北は老臣達の忠告を無視した勝頼の頑固さが招いたものです。さらに信長は勝頼が領国の経営下手であることもしっていました。

 このまま家来はおろか、領民からも見限られ、勝頼は放っておいても自滅すると読んだのです。

 長篠の戦いの後も、勝頼はたびたび軍勢を催した。軍事行動を起こさなければ武田軍は再起できないほどの損害を受けたと天下に知られてしまう。農村は戻らぬ者、傷ついた者が多く、田植えや畑の世話が出来ず、手の足りないところでは収穫高は落ちた。

 それでも勝頼は軍勢を集めました。

 兄が死んだ家は弟が、父が死んだ家はまだ幼い子が集められた。そんなことをすれば農村はますます疲弊し、国力の回復は遅れるが、かえりみる余裕はありません。

 武田氏の健在ぶりを示さなければ、信長、家康がすぐにでも国境を越えて攻めてくると恐れていました。

 勝頼はたびたび家康と衝突するようになりました。武田軍の疲弊を知った家康は強気な姿勢で二俣城の奪還を急ぎました。二俣城は三方ヶ原の戦いで武田氏に攻め落とされた城です。

 勝頼率いる武田軍は度重なる軍事行動で武田氏の力を衰弱させていきました。

 1576年4月、信玄の葬儀が甲斐の恵林寺で行われました。信玄からの3年間は死を隠せという遺言に従ったのです。

 葬儀に参列するはずの老臣や重臣達の多くも長篠の戦いで討たれてしまい、もうこの世にはいません。

「勝頼殿がもっと老臣達の忠告を間違えなければ、こんなことににはならなかったろうに。」

「我が武田軍もこれまで・・・・か。」

 武田軍では脱走兵が相次ぎ、信長方に寝返る者も続出しました。

 信長はまだ武田に手を出さなかったが、家康は1579年から遠江からどんどん攻め入った。

 信長は武田の力が最弱になるまで待つことにしたのです。

 そして、1582年、信長は勝頼討伐のために甲斐に侵攻。勝頼は大善寺の近くの山の中で信長軍にびっしりと囲まれた中、切腹しました。このときには、もうほとんど家来は残っていませんでした。

 皆さんご存知の通り、この年の6月は本能寺の変が起こり、信長が横死する年です。
つまり、信長は京の東に位置する最大の敵・武田氏を一掃し、天下統一が現実味を帯びてきた、まさにその時に無念の死を遂げたのです。

 

 今回は長篠の戦いを見ていきましたが、武田軍が信長に敗北した最大の原因は、やはり武田軍が十分に鉄砲を入手できなかったことにあると思います。

 さらに、兵農分離がされていない武田軍には、土着兵を専門の鉄砲兵へと育成する期間もなく、信長の専門兵のように補充も効かなかったことも大きな原因とひとつと思われます。

 そして何より信長の決してあなどることのない綿密な戦略と戦術が武田軍を苦しめたのでしょう。

以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
学校では教えてくれない戦国史の授業 井沢元彦=著 PHP
信長は本当に天才だったのか 工藤健策=著 草思社