【長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?
こんにちは。本宮 貴大です。
この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【長篠の戦い】武田軍が信長に敗北した最大の原因とは?」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。
甲斐の名将・武田信玄が死んだことで、信長は一気に2つの勢力を滅ぼしました。室町幕府と浅井・朝倉連合軍です。
今回もストーリーを展開しながら、長篠の戦いにいたるまでの経緯をご紹介していこうと思います。
1573年4月12日、信玄は死んだ。
そして、信玄は遺言として以下のようなことを家臣達に残しました。
「3年間はワシが死んだことを隠せ。喪を秘し、そして必ず京に上がれ。信長に天下を取られてはならん。」
昨年の10月に甲斐国(山梨県)の甲府を出発した信玄率いる武田軍は、12月下旬に三方ヶ原の戦いで信長の盟友である徳川家康を破りました。大惨敗を喫した家康は慌てて浜松城に逃げ帰りました。
家康をボコボコに叩きのめした武田軍はそのまま京に向かうかに思われました。
しかし、浜名湖付近で突如行軍を停止します。本来なら西に進むはずのルートを北へ方向変換し、三河の長篠城に入ると、そのままその動きを止めてしまいました。信玄の病状が悪化したのです。
その頃、京では室町幕府15代将軍・足利義昭が信玄の上洛を今か今かと待ちわびていました。
この頃になると、信長と義昭は犬猿の仲になっており、義昭は打倒信長を掲げて甲斐の武田、越後の上杉、中国の毛利などに呼びかけ、信長包囲網を形成していました。
そんな義昭の耳に三方原の戦いで信長の同盟軍である家康軍がコテンパンに敗れたという情報が入りました。
「よし。信長もこれでおしまいだ。そのうちに信玄が来る。」
義昭は歓喜をあげて喜びました。
信玄が来るものと信じた義昭は、1573年3月、二条城に籠って「信長を討つ」と宣言したのでした。
ところが、信玄が来ません。どうしたのでしょう。
そう、信玄はこのときすでに病に倒れ、死の床に伏していたからです。
当時は電話もファックスもメールもありませんから、信玄の死が義昭に伝わるまでに時間がかかります。それに武田軍は信玄の死を隠そうとしていたため、むやみに情報を漏らすことをしません。
結局、義昭は信玄が来るものと信じ、ずっと待っていました。
そのうちに信長軍の方が先に「これはちょっとおかしいぞ。」ということに気づきます。
兵農分離がされていない武田軍は、たとえ京に来たとしても、翌年の春までには田植えのために甲斐に帰らなくてはいけません。であれば、三方ヶ原の戦いで徳川軍を破ったのだからどんどん攻め上がってくるはずです。それが来ない。
この時期なら少なくとも浜松城を攻めて遠江の国を占領するくらいでなければならない。
こうした異変に信長は薄々考えていたことが確信に変わりました。
「おそらく、信玄公が死んだのであろう。」
一方、義昭は焦りを募らせていました。
「信玄殿はなぜ来ない。余は信玄殿が来てくれると信じていたから、信長に宣戦布告したのだぞ。このままでは、余は信長から総攻撃を食らってしまうではないか。」
信玄は来ないと確信した信長は、義昭を攻撃します。その後、一度は信長を和議を受け入れた義昭でしたが、やがてその和議を棄却、あくまでも反意を見せたので、遂に信長も義昭追放を決意しました。
「世話になったな、義昭殿。京はワシに任せ、そなたはご隠居されよ。」
あたかも室町幕府を受け継いだような言い方をした信長は義昭を追放した後、新たな将軍をたてることはしませんでした。こうして室町幕府は事実上、滅亡しました。
信玄の死が確定しても、信長はすぐには動きませんでした。
信長には、武田よりも先に、片を付けなければならない宿敵がいました。
浅井・朝倉連合軍です。同年8月、信長は浅井・朝倉攻めを開始。わずか半月で朝倉義景を切腹に追いやり、浅井長政の居城である小谷城を落としていまいました。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。